一話
アレス王国のレイン・クロウスは元は伯爵家の令嬢であった。その美しい金髪を靡かせ社交の場に出れば男も女もレインの美しさに息を呑み、あれがレイン・クロウスかと黄金の妖精かと噂した。
レインの父親であるクロウス伯爵はアレス王国の財務大臣であり謂わば金庫番であった。であるからしてその権勢は凄まじく。諸侯は王都に上れば一にも二にもまずはクロウス伯爵に慇懃に挨拶をするし、季節季節には必ず付け届けを送った。
それほどの権勢を誇るが故に敵もまた多かったがクロウス伯爵はその智慧の冴えを持ってして海千山千の政治家たちの間を巧みに泳いでいた。
しかしその権勢にひびが入り始めた。まずクロウスをおそった不幸はその嫡男の死であった。流行り病であった。あっという間に肺を侵され苦しみ抜いて死んだ。
クロウスに負けず劣らず頭脳明晰であり、クロウスにはない武の才能にも恵まれた文武両道の士であったのでめったにおだてに乗らぬクロウスも息子を誉められれば「我輩に似ず、多少は人並みにできるようで」などと頬を緩ませた。
そんな嫡男が流行り病に倒れてしまい、クロウスの嘆きは大きく自らも体調を崩すほどであったし、レインにとってもただ一人の兄妹の死は目の前が真っ暗になるほどの衝撃を受けた。
クロウスの子煩悩ぶりは王都のみならず、地方にまで知れ渡っていたので弔問客が溢れんばかりに押しかけ、公務中の者ですら仕事を放り出しクロウスの元に駆けつけた。
「いささか、やりすぎておるな」
あまりの大袈裟な悼みっぷリにアレス王が不快げに呟いたのを側の者が耳にして、自分たちの飼い主であるクロウスの政敵に報告した。
クロウスは嫡男の死後度々出仕するのを休んだ。事実体調がどうしても優れずやむを得ない仕儀であった。
会議の席などで「またクロウスは休んでおるのか」とアレス王が言うと側の者が「なにぶん嫡子を失いご心痛でありましょう。この頃は御奉公にも怠りがあるようで」とはっきりクロウスの態度を非難した。むろんクロウスの政敵の指示であった。
元々クロウスの権勢の増長に不快感を持ち始めていたアレス王からするとそれは仮病に見え、懈怠に見えた。一つ目に付き始めるとすべてのことが自らの権勢を鼻にかけた驕慢な態度に思えてきてクロウスの印象は非常に悪いものとなっていく、そこでトドメとばかりにクロウスの不正蓄財の報告書がクロウスの政敵から出された。内容は揚げ足取りに等しい難癖に近いものであったがアレス王はこれを潮にクロウスを政界から葬るべしと心に決めてしまった。
そしてクロウスはとある地方都市の視察を命じられた。視察自体は珍しくない話であったがその内容はどう考えてもクロウス自身が出張るようなことではない。
その時、特に体調を崩していたクロウスだが半ば無理矢理のように連れ出され、そのやり方に聡い男であるが故にこの身に起こる避けられない悲劇を予測したがもうすべてが遅かった。
クロウスはもはやこうなっては逃れることはできぬと覚悟した。だがそう酷いことにはなるまいとたかをくくっていた、そもそも罰しようにも大した罪はないのだから。
案の定地方都市に着いたと同時に拘束され供をして来た騎士と隔離され、上意を申し渡された。
職務懈怠及び不正蓄財により領地、家財の召し上げ、クロウスは押し込め、家族は王都追放という重い罰であった。
クロウス自身、ここまでの罰とは思いもよらず自らに向けられた憎悪の深さに身震いした。そして残された家族のことを思うと胸が痛んだ。我が家臣や心ある者たちに任せるしかないと祈った。
クロウスが拘束されたと同時に王都のクロウス邸は王兵たちに接収され、なにがなんだか分からないままにクロウスの妻とレインは王都を追放された。まったくの着の身着のままであり、これから先どうすれば良いのかまったく分からなかった。そのときまだレインは十五歳の幼さの残る少女であった。
あれほど押しかけた弔問客たちの誰一人もクロウスはおろか、その妻と娘であるレインに手を差し伸べる者は居なかった。薄情な、というよりもそれが世の理というものだろう。
しばらくは従者やメイドや下男は付き従ってきたが日に日に離れていき、中でも酷いもの達になるとふたりを襲おうとし、それから逃れるために必死に親娘二人手を握り合い闇の中を駆けることもあった。
王都から離れ、ある都市に着いたときには二人とも着るものは破れほつれ、食べるものにも事欠くという次第であり、まさに乞食同然の身の上であった。
ある時母がここで待ってなさいとレインを置いて、街の雑踏の中に消えていった。いつまで待っても母は帰って来ない。捨てられたかと涙を堪えていると母が戻ってきてパンや肉の串焼きを買ってきた。
その瞬間、レインはどうやって母がこれらの物を手に入れてきたか察した。察したが決して面には出さなかった。母を傷つけたくなかった。しかし二人で食べていくうちにどちらかともなく涙を流し始め結局は声を出し泣き始めた。
親娘二人での生活は厳しかった。そもそも貴族出身の女二人まともに働けるはずもなく、生活がどうにもならなくなると母は街の雑踏の中に消えていった。
王都からこちらに流れて一年が経つ頃、母が病んだ。胃を患い、血を吐くようになった。薬など買う余裕はなく、母はレインに自分を捨てろと言った。
もはやこの世の寄る辺は母だけとなっていたレインに母を捨てられずはずもなく、薬を買うために初めて自分を売った。
なんだこんなものかと思った。屋敷を着の身着のまま追い出されたことや信頼していた従者や下男に血走った目で追い回されることや母と泣きながら食べた食事の辛さと比べれば大したことはないと思った。
これで母が生きながらえてくれるならどうってことないと薬を持ち、頭を下げて頼み込みようやく借りられたオンボロ小屋とも言うべき家へと戻った。
母は死んでいた。床には大量の吐いた血が残っていた。血はそこら中に飛んでおり、母がもがき苦しんだことを示していた。
レインは呆然と立ち尽くし、もし自分が今日まっすぐ家に帰っていたら母を助けられたかもしれないんじゃないか? もしもっとはやく自分を売る覚悟をして薬を手に入れたら母を助けられたんじゃないか? いろんなもしが頭の中でぐるぐると回りレインは発狂しそうであった。事実そのとき発狂したのかもしれない、気が付くと母は供養塔の中に入っていた。
死のうと思った。死ぬしかないと思った。
身を投げるために街に流れる大川の畔を歩いて、ここで飛び込めば死ねそうだなというところを見つけ、いざ飛び込もうとしたところ後ろから「アンタ死ぬのかい? 」と声をかけられた。
緩慢に振り向くと一人の濃い化粧をした太った女が串焼き肉を食いながらこちらをニヤニヤと見ていた。女が付けている香水が離れていても強く匂ってきてレインは嫌な女だと思った。
「死ぬのかい? 」と同じことを女は聞いてきた。
「はい」とレインが言うとその女は「よし! 」と手を叩き喜んだ。
なんだこの女はと思っているとその太った体からは想像できないような敏捷性でレインに近付き、肩を抱いた。
「拾った! 」そう言うと食いかけの串焼き肉をレインの口に突っ込む、空腹など感じていなかったくせに口に肉が入ってくると自然に咀嚼し、飲み込んだ。美味い、と思った。
「あんたは今ここで死んだ。そして死んだアンタをあたしが拾って生き返らせた。さぁ行こうか! 」
わけのわからぬことを言うなとレインは激昂しそうになったが久しく感じて居なかった人の肌のぬくもりについ引き込まれる。
「ど、どこに行くんですか? 」
もはや死ぬことなど考えてなかった。声をかけられ肉を食わされ、すっかり死ぬ気は萎えてしまっている。
「あそこさ」と指し示す方を見ると夜というのに灯りが煌々と輝く一軒の建物があった。
「あそこは妖精亭、娼館さね。そしてあたしゃそこの主でオタカ。よろしくな、死にたがり」
それが黄金の妖精と謳われたレイン・クロウスがオタカと出会った経緯であり、娼館に勤め始めたきっかけであった。