118話 島の子と秘密 2
大空が広がっていた。
見上げているのではない。眼下に、だ。鳥が飛び、雲が浮いている。その下に広がる大地には山や平原があり、木や川や湖が見える。
町や村があり、集落では確かに人々のささやかな営みがある。見慣れた普通の暮らしのある世界。
海は凪いでいる。この島は湾は無く直ぐに外海だと言うのに高い波は皆無に等しい。
しかし飽きることなく海面はさざ波を立て、陽光を浴び、キラキラと輝く水面は全てを隠していた。
透明なゴンドラが箱メガネの役割をし、やっと覗く事が出来た海の中。
ここはまさしく、毎日見上げていた島。これこそが“かの地”であるという証拠。
────虹の国……!
長年あこがれ続けた聖地。そして願いを携え目指した地。
そんなところへ、知らず知らず自分は足を踏み入れていたのだ。
言葉が無かった。
焦りだけが心を支配する。
それを知ったところで、今は夢の中。どうする事も出来ない。自分の身体は、ここでは無い場所にあるのだ。
(ここでは無い場所……?)
一瞬そう思ったものの、そこがどこか曖昧で分からない。ぼんやりとして、どうして自分はここにいるのかも思い出せない。何かがおかしいと思うが、何も成すすべがないのだ。
焦りと悔しさが湧き上がって来る。
(ユイ加那志は?海の底に気付いているの?)
シュテフィがどうしているか気になり見てみると、透明な船が怖いのか、出来るだけ下を見ないように遠くを眺めていた。
『ユイ加那志、気が付いて!ここは虹の国なんだよ?!どうにかしてロード様に会って元の世界に戻してもらおう?』
メイシアがシュテフィのそばに近づいて、叫んだが聞こえるわけがない。
聞えるわけがないと分かっていても、諦めきれない。
夢なのか、誰かの記憶なのか、それとも作られたお話なのか。分からないけれど、見せられているこの“現状”はシュテフィ中心に回っている。鍵を握っているのは彼女であるのは明らかなのだ。
この事態をどうにかして好転できないかと思案する。
(あー……ダメだ、こんな時に、ストローがいてくれたらなぁ……)
そう思った瞬間、ストローが漁協で一人海を覗いていた姿が浮かんだ。
あの時は山育ちの自分と同じく、ストローも海が珍しくて観察をしているのだと思っていたけれど、もしかしたら、あの時点でこの海に気が付いていたのかもしれない。
「ねぇねぇシュテフィ、船の底を見てっ」
楽しくて仕方がない感じの笑顔爛漫でサブリナがはしゃぐ。
けれども、やはり透明な船が怖いのか、シュテフィは目を瞑って首を横に振った。
「えー。ここからが冒険の本番なんだよ?シュテフィに色々教えてほしいのっ」
「サブリナ、怖がっている人を無理に誘わないの。可哀想だよ」
ベリルのもっともな意見。
「でも海に潜って、出来るだけ近くで観察するのが楽しいんじゃないっ」
「潜るんだったら、いつもみたいにオレが付き合ってやるから……」
「ラズは浅い所しか行かせてくれないから、つまんない」
「はぁ?落ちたらどうすんだよ!」
「そうよ、サブリナ。ちょっと潜るだけでも空を飛んでいるみたいで気持ちいいんでしょ?」
「……それはそうだけどさぁ、」
────落ちる?空を飛ぶ……?
言葉に引っかかったのか、シュテフィが薄目を開け眼下を覗いた。
そして、その景色を見てしまったのだ。
────!!
息が出来なかった。
落ちてしまいそうで全身がしびれた。気を失わなかったのが不思議なくらいだ。
がくがくと足が震え出し、涙が止まらない。
ただ単に空に浮かんでいるという事も恐怖だったが、シュテフィにとって、ここはやはり「そういう場所」だという証明でもあった。
もうどこにも逃げ場が無いという「現実」だった。
「帰りたい!!……帰りたい!帰りたいっ、帰りたい、帰りたい……」
狂ったように泣き叫ぶと、顔を両手でふさいだ。
「シュテフィ、大丈夫?」
いきなり泣き叫び、歯音がするほど震え始めたシュテフィに、サブリナが驚き詰め寄った。
その勢いで、船が左右に揺れる。
「きゃーーーーーっ!」
「ちょっと、サブリナいい加減にしなさいよっ!そんな激しく動いたら船が揺れるでしょっ!」
「ご、ごめん!でも、シュテフィが泣いて……。下を見るのがそんなに怖かった?」
シュテフィが小さく蹲った。
「ご、ごめんね、シュテフィ。喜んでくれると思って……。あたしは昨日からずっと逆の事ばっかりしているね、」
小さくなって震えているシュテフィの背中を、抱きしめる。
ベリルもラズロックの何も言えないまま、海の上を漂っていた。
「そのままでいいから聞いて。あたしは、なんとなくだけどシュテフィが下の世界から来たんじゃないかなって思ってるの」
突拍子もない話を始めたサブリナに、ベリルとラズロックは目線を合わせた。
島の人間の誰にも話してはいけないと思っている この秘密。自分たちの親にだって、海の底の話はしたことが無い。それは誰に教えられたことでもない。ただ言ってはいけない、知ってはいけない事だと本能的に感じていたからだ。
海の底について、誰も触れないし、知ろうともしない。もしかしたら目の前にあっても見えないかもしれない。まるで何かに操作でもされているように、「そちら」と交わってはいけないのだと。
それはきっと、この海底の国を知ったから生まれてきた感情。海底の国を知らない人々はこんな事を思いもしないだろう。
それなのに、その下の世界からシュテフィがやって来たという。
これはただ事ではないのだ。
交わってはいけない世界が、交わってしまっている。
「サブリナ……それ、本当なの?」
「それが本当なら、ヤバくねぇ?」
「……二人とも黙っててごめんね。あたしもまだ半信半疑だけど、多分……そうだよね?」
「…………、」
もちろんシュテフィは、答えない。震えたままで黙っている。
「あたしは、この世界の事が知りたいの。一体あたしは何者なのか。……だから冒険してる。シュテフィだって、きっとそのはずだよ?」
「おいおい、ちょっと勘弁してくれよ。オレらは普通の子供だぞ。そんな大それたこと……。そうだよな、ベリル?」
「……そ、そうよ。下は交わらない不思議な世界で……ただ偶然、私たちだけが存在に気が付いた、ってそれだけの事でしょ?それに、これは見えているだけで幻かもしれないし……」
「幻なんかじゃないよ」
「なんでそんな事言えんだよ」
「サブリナは、何か知っているの?」
サブリナが今まで見せたことのない表情でうつむく。悔しい様な、悲しい様な。いつも笑っているサブリナとは違う表情。
こんな状況であったとしても、まだ二人に秘密にしている自分の事を打ち明ける勇気が無いのだ。
「……なんか、誤ってばっかりでごめん。でも、あたしは謝る事しか出来ないから……。わかった。今日はもう帰ろう?シュテフィも帰りたいって言っているし、」
シュテフィは蹲ったまま無反応だった。
ベリルとラズロックは、やるせない気持ちをお互いに確認すように視線を合わせた。
「わかった、今日は帰ろう……」
「そうね。今日はちょっと、おかしい日だっただけよ、」
そういうと、ラズロックは入江に向けて舵を切った。
船はそのまま、誰も言葉を発することなく元の洞窟へと帰還した。
船から下り、来た道を戻る。
足場の悪い磯浜の悪路。魂の抜けたようなシュテフィを引っ張って、どうにか町まで帰って来た。




