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006

 流石に二度目となると絶叫を上げることはなかった雄吾だが、それでも目覚めた瞬間には冷や汗が背中に浮かび、心臓は爆ぜるように激しく鼓動していた。

 その様子を、友人である伊織はかなり不審な目で眺めていたが、特に何かを心配する風でもなく、「起こそうと思った所だ」とだけ言って自分の席へと戻って行った。まあ、二人の友情と言うのはそんな物だ。髪の毛を切っただとか、体調が悪そうだとか、そう言った細かい話しは一々しない。彼等なりの友情と慣れ合いの境界を、雄吾と伊織は確りと引いている。

 その後、女子に人気のお爺ちゃん先生による数学と、如何にもエリートそうな眼鏡教師の政治経済のオリエンテーションを終え、簡単なHRを済ませれば放課後だ。真面目な雄吾は教科書や参考資料の類を全て学校指定のバッグに詰め込み、伊織に声をかける。


「悪い。今日は一人で帰る」

「ああそう。百合ちゃんでも迎えに行くの?」


 雄吾とは対照的に、全ての教科書を引き出しに突っ込んだままの伊織は大して興味なさそうに相槌を打ってはくれた。一秒でも早く、一年生女子を再び観賞に行きたいのだろう。

 友人として止めるべきかと逡巡する雄吾だったが、


「まさか。ちょっと、一年に用事があるんだ」


 よくよく考えれば、『相生葵』を探しに一年生のフロアをうろつこうとしているのだから、あまり大差はないだろう。あれが夢なのか、現実なのか未だに曖昧だが、自分の知識にない少女が実在しているとしたら、いよいよ現実なのだと認めても良いかもしれない、そう雄吾は考えていた。

 もし本当に存在するのであれば、何かしらの接触を持って事情を少しでも知りたい。夢? の中の彼女は、少なくとも雄吾よりはあの世界に対しての理解を持っていたのだから。


「お? 覗き見? 一緒に行く?」

「…………まあ、一緒に行っても問題ないか」


 決して覗き見ではないのだが、やはりそれを突っ込む資格は自分にはなさそうだ。それに、雄吾のような規格外の人間が一人でいるよりも、まだ優男風の伊織がいた方が無駄な威圧行為にならないかもしれない。

 顔に刀傷のある巨漢と、その横をあるくニヤニヤ笑いの病的な長身痩躯の男。

 B級映画のような組み合わせで、余計に不審だった。


「見た目で危なそうと判断できる分、見た目で判断できない連中よりはマシさ」

「底辺同士の醜い争いだな」

「…………ふと思ったんだけど、『頂点は一つ』とは言うけど、三角形なら頂点は三つじゃない? 底辺だって見ようによっては三本だ」

「慣用句に一々突っ込みを入れるな。って言うか、底辺が線なのに対して、頂点が点であるって言うことだろ? 才能ある人間は限られているって言う話しだ。そもそも、その話し、今、必要か? さっさと行くぞ」

「うい」


 話しがズレ始めた所で、男二人は目的を思い出して教室を後にする。

 と。


「あ!」


 暫くも歩かない内に、女子の驚きの声が廊下に響くのを聞いた。自然と視線は声の方に集まる。廊下にはまだ結構な数の生徒がいたが、多くの視線が集まる少女を見つけるのは簡単なことだった。

 少し恥ずかしそうにタレ目を伏せている彼女の髪型はベリーショート。クリーム色の制服に良く映える健康的に焼けた小麦色の肌。

 彼女は廊下の人間の中で最も巨大な男の姿を見つけると、


「本当に先輩だったんすね」


 白い歯を見せて快活に笑う。鋭い犬歯が特徴的な、愛嬌のある笑みだった。




「いやー。面白い先輩でしたね、えっと水瀬伊織先輩でしたっけ? ツンデレアイドルみたいな名前ですね」

「伊織は男の名前だぞ? 宮本武蔵の甥っ子の名前だ。知らないのか」

「それって、常識のように言うことっすか?」


 昼休みぶり二回目の出会いから五分後、学園一巨大な男高木雄吾と、下級生相生葵は校舎の敷居を出た直ぐの道を横並びに歩いていた。先程まで水瀬伊織も一緒に肩を並べていたのだが、校門を出るなり再び校舎へと戻って行った。初心を貫くつもりなのだろう。その姿勢には若干以上に引くものがあるが、一対一で話すには丁度良い。これからの会話の話題は、関係ない人間には理解できない物なのだから。

 もっとも、二人の間に在るそんな空気を読みとって、伊織は気を利かせたのかもしれない。余計なことしか喋らない男ではあるが、決して空気や越えてはいけない一線を見誤ることはないのだ。


「それで、えっと、雄吾先輩と呼べば良いっすかね? 高木ってクラスにも二人いるんスよ。ややこしいっすからね」

「高木さん、この辺は多いからな。俺は、葵で良いのか?」

「おや? さっきも思いましたけど、女の子を呼び慣れるっすよね。照れがないっす」

「俺はモテるからな。本題に入ろう」

「モテるんすか」

「モテモテだ」


 呼び慣れているのは、まさしく慣れているからだ。と言っても、姪の百合とその友人達に対してである。特別に自慢したい様な経験があるわけでもない。それに後輩に対して『ちゃん』づけで呼ぶ方が難易度は高いのではないだろうか? なんとなく、気取っている風に聴こえる。


「えっと、本題って言うと。つまり先輩が本当に高校二年生かどうかって話しっすね」

「あの夢は何なんだ? いや、本当に夢なのか? お前は、知っているんだろう?」


 自分の冗談が無視されたので、葵の面白くない冗談も無視して、雄吾は今日の深夜から始まった謎の夢の正体を訊ねる。


「私も、全部は知らないっす」


 そう前置きして、葵は奇妙な夢の世界について口を開いた。


「私達【ニクスの旅人】は、【夢界オネイロス】と呼んでいるっす」

「…………確かギリシャ神話の夢の神の名前だな」


 昼休みに夢見た時、葵の口から飛び出したオネイロスと言う単語に、雄吾は真っ先に神話の神を想像した。もっとも、神話に精通しているわけでもないし、特別に活躍する様な有名な神様でもない。ただ名前を知っているだけの神だ。


「へ? ギリシャ神話? 私は知らないっすね」


 が、葵の反応は期待外れなものであった。知らないと言うよりも、興味がないと言った方が正確かもしれない。

 しかしならば、そのネーミングは葵が行ったわけではないと言うことだ。あの世界に名前を付け、彼女に教えた存在がいると考えた方が良さそうだ。まさか歴史書が売っているわけではあるまい。あったとしても、葵は読まないだろうし。


「あそこは人の集合無意識が創り上げた世界らしいっす。わかるっすか?」

「ユングの分析心理学の肝。個人の経験を超えた先天的な知識の集合体、だっけか?」

「誰っすか? それ? 集合無意識って言うのは、私達の意識は全て根底で共有されているって考えらしいっす。私も良くわからないっすけど、私達は人類、或いは地球生命体と言う一個の巨大生物だって思ってくれれば問題ないっす」


 この娘は、どうして『オネイロス』だの『集合無意識』だの、聴き慣れない単語を耳にして調べようと思わないのだろうか? 今一噛み合っていない会話に若干の歯痒さを覚えるが、雄吾は「なるほど」と相槌を打つに留める。

 今は教えて貰う側だ。大人しくしておこう。


「その集合無意識によって造られた、実態無き世界の一つが夢界オネイロスってわけっす。他にも純粋なる眠りの世界【眠界ヒュプノス】と、絶対なる静寂と闇の世界【死界タナトス】が確認されているっすよ」

「ヒュプノスにタナトスね」


 マニアックな話になってしまうが、その二つもギリシャ神話の神々の名前だ。オネイロスとは兄弟関係にあったはずである。


「この二つは私も詳しくないんで、説明は省かせて頂くっす。兎に角、覚えるべきは、あの世界は夢界オネイロスと呼ばれていて、集合無意識が作り上げた世界であって、私達はその夢を体験できるってことっす。夢であって、夢じゃあない。奇怪な世界っすよ」

「人類は全員同じ夢を見ているって理解で良いのか? それを個人の意識として体験できるのが、お前の言うニクスの旅人か」


 葵の説明は短く十分な物ではなかったが、そこまで難しいことを言っているわけでもない。雄吾は手早く意見をまとめ、訊ねる。自分で言っておいてなんだが、現実感のない話である。今までの常識と言う奴が音を立てて崩れていくのが聞こえてきそうだ。

 だからこそ、夢界なのだろうか?


「理解が早くて助かるっす。人類最古にして最大の夢。集合無意識が創り上げた理想郷にして悪意の巣窟。それがオネイロスと言う特殊な空間っす」


 人類最大にして最古。

 つまり、あの異空間オネイロスは、昨日今日出来たばかりの存在ではないと言うことか。「しかし集合無意識が産み出した夢の世界、か。どうしてそんな物が存在するんだ?」

 となると、次なる疑問は『何故そんな物が存在するのか』だろう。


「さあ?」


 が、葵の答えは頼りになり過ぎた。雄吾は「おい」と低く呟く。


「そう言うのを専門に研究している人もいるっすけど、私は興味ないっすね。今の説明も全部受け売りっすよ。私個人は、眠るとオンラインゲームに参加できる程度の理解しかしてないっす」


 葵は肩を竦めて、なんとも豪快な理解の仕方を示す。これが、ゲーム脳なのだろうか?

 だが、同時に重要な情報も手に入った。

『専門に研究する人』。

 やはり、あのオネイロスにいるのは葵だけではないらしい。


「それで、オネイロスにログインすることを、【昏倒】と呼ぶっす」

「覚醒ならぬ、昏倒か」


 目覚めるのではなく、オネイロスへと眠り落ちる。わかりやすいネーミングである。ただ、ギリシャ神話で統一しろと思わなくもない。


「そして昏倒が出来る人間をニクスの旅人と呼ぶっすよ」


 ニクス。夜を神格化したギリシャ神話の女神の名前である。夜が転じて闇、闇から恐怖、恐怖から苦痛等、ネガティブな感情を象徴する無数の息子や娘を単独で出産したとされる。その中には、オネイロスやヒュプノス、タナトスの名前も存在する。

 もっとも、この場合は単純に夜と言う意味だろう。人々の集合無意識が産んだ夜の世界を彷徨う人間。故にニクスの旅人、と言った所か。


「俺も、いつの間にか旅人になっていたってことか? 何で?」

「さあ? 一〇〇万に一人と言う人も、血や魂に依存するだとか、全ての人類が旅人になる可能性があるだとか、色々言われてるっすけど、絶対数が少ないっすからね。どれも正確とは言い難いっす。私だって、急にでしたからね」


 分からないことが多すぎだろう。

 と、言う愚痴を飲み込んで雄吾は黙考する。渡ろうと思っていた横断歩道が赤信号になったのでタイミング的にも丁度良い。あまり他人に聞かれたい会話ではない。仮に盗み聞きされたとしてもゲームの話題と思われるだけかもしれないが。

 実際、葵もゲームだと思っていると言っていた。

 が、真実は微妙に違う。

 遊びで片付けるには、あの存在感や痛みは現実的過ぎる。現実であって現実でない世界だと解釈した方が正しそうだ。異世界。と、表現した方がぴったりとくる。

 それこそ神話で語られるような、神々の世界に近い印象を雄吾は受けとっていた。

 人々の無意識によって造られた、常人ではない存在が暮らす世界。

 それが、夢界オネイロス。

 しかしこの理解も正確ではないだろう。情報があまりにも少ない。あと二三人はニクスの旅人を捕まえて話しは聴いておきたい。図体の割には細かい所を非常に気にする男であった。良く言えば慎重であるし、穿った見方をすればそれは憶病さの現れだろう。

 実力が高いからこそ、考え過ぎる。行動よりも思索に重きを置き、そして思索が行動の上位だと思い込んでしまう。

 信号は青に切り替わったのを見て、雄吾は一端考えるのを止めて、横断歩道を進む。半ばまで進んだ所で、「そう言えば」雄吾が会話を再開させた。


「葵の家は何処だ?」

「はい?」

「いや。平然と同じ道を歩いているから気になったんだ。枕原の人間じゃないだろ?」

「ああ、はい。私は一反田の端の方に住んでます」


 一反田市は、枕原から二駅離れた市だ。まさか歩いて帰るわけでもあるまい。駅へ向かうならこの横断歩道を渡る必要がない。


「何なら喫茶店とか落ち着ける場所で話すか? 奢るぜ?」

「ああ。問題ないっす。私、先輩のお家まで行くっすから」

「は?」


 出会って間もない女子が、そんな簡単に男子の家を訪れて良いものだろうか? あまり、宜しくはないだろう。倫理的な意味もあるし、百合に見られたら色々と訊ねられて鬱陶しそうだ。

 それでなくとも、他人に自分の家を知られると言うのは抵抗がある。父親の仕事柄、住所を知られると面倒な輩がやって来ることも多いのだ。


「別に変な意味じゃあないっすよ? 旅人がオネイロスへと昏倒する時、眠った場所と同じ場所に現れるのが基本っす。だから、私が先輩のお家まで今晩迎えに行くっすよ。こうやって喋るよりも、実際に体験した方が【フォビア】や【ポテンシャル】に付いて説明が簡単っすから。それに私がいなきゃ、あの白い女のフォビアが出た場合、雄吾先輩、また殺されるっすよ?」


 が、オネイロスのことを盾に取られれば弱い。

 特に、あの白い少女の存在が重くのしかかる。あの少女と出会った場合、雄吾の致死率は一〇〇パーセントなのだ。痛みが残るわけでもないが、自分が殺された感覚と言うのは心臓に悪い。あと三回も繰り返されれば、流石の雄吾も精神に異常を来すかもしれない。

 横断歩道を渡り切る頃には、「わかった」と雄吾は頷かざるを得なかった。


「…………三十分くらい歩くけど、良いか?」

「はい。歩くのは嫌いじゃあないっす。ただ、もう少しペースを落として貰ってもいいっすか?」

「悪い。気を使っているつもりではあったんだが」


 ただ歩くだけでも、雄吾の一歩は女子の二歩は先へと進んでしまう。雄吾は歩幅に一層の気を付けると約束して、改めて横並びになって二人は雄吾の家へと向かう。 


「しかし本当に大きいっすね。脚も滅茶苦茶長いし。私の腰よりも股が高いじゃないっすか。やっぱり、両親も大きいんっすか?」

「一族全員背は高い方だな。ただ、俺は例外だと思った方が良い。それに身体の方は鍛えているからな」

「格闘技とかやってるんスか? 柔道とか、空手とか、ジークンドーとか」

「そう言う形式的なスポーツはないが、まあ、何と言うか、師匠ならいる」


 雄吾の答えに、葵が噴き出す。


「し、師匠って、二十一世紀の高校生の口から出る台詞じゃあないっすね。マジすか?」

「恥ずかしながらな…………」


 ハッキリ言って、それは雄吾の人生で汚点とでも言うべき出来事であり、詳しく説明する気は一切ない。まだ、顔の傷のことを説明する方が気楽であるし、現実味のある話しだ。師匠と呼ぶ男の存在は、オネイロスよりもよっぽど奇妙奇天烈摩訶不思議であり、口にして説明するのも憚られる。


「でもまあ、例え武術を齧っていたとしても、雄吾先輩がフォビアとまともに戦っていたって言うのは信じられないことっすけど。四捨五入出前迅速落書無用って感じっす」

「フォビア。これも古代ギリシャ語だな」

「…………あの、言語学者かなんかっすか? さっきから」

「恐怖症ってあるだろ? その英単語の語源なんだよ」

「だから、普通は一々英単語の語源なんて知らないっすよ。もしかして何でも知ってるんスか?」


 呆れたように、と言うよりは非難するような葵の声。もし三年間過ごす学び舎が、そのレベルの教育を施そうとしているのならば、それは最悪だ。今からでも転校を考える必要が出て来る。


「何でもは知らない。余計なことだけだ」


 勿論、その必要はない。雄吾自身が言うように、彼の知識は非常に偏っている。かなりの読書家であり、雑学マニアであり、暇さえあれば筋トレをしながらウィキペディアを巡る暇人なのだ。


「背が高くて、脚が長くて、マッチョで、頭が良い。どうしてイケメンに産まれることが出来なかったんスかね? そうすればモテモテだったっすよ」

「お前、顔に傷がある人間に良くそんなこと言えるな。吃驚したぞ」

「それはアレっすよ、自分はそんなことを気にしないよアピールっす」

「お前の距離感の取り方は間違ってる。それよりも、話しを進めてくれ」


 何故、出会って間もない下級生に面の駄目だしを喰らっているのだろう。ここは切れても良い場所かも知れなかったが、心で泣いて話しの続きを促す。仮に怒鳴ったとしたら、その体躯の差から雄吾が悪者になるのはわかりきっている。強いと言うことが、弱者に取ってこれ以上なく卑怯な行為であるというを、彼はそれなりの勉強代を払って学んでいた。


「と言っても、こっからはちょっと情報量が増えるっす。大丈夫っすか?」

「好きにしてくれ」

「はい。好きにするっす」


 もう十分に好きにしている。今更の宣言だった。


「まず、オネイロスにはルールがあるっす。いや、法則って言うべきっすかね? 放っておけば、お湯が自然に冷めちゃう、そんな当たり前って奴っすね」


 まず、と葵は指一本を突き立てる。


「前提条件として、オネイロスは集合無意識っす。だから、基本的にはこの現界ガイアと大差ないっす。雄吾先輩も体験したっすよね? 夢とは思えないリアリティを」


 腕を組んで頷く雄吾。オネイロスの出来事を夢だと思えなかった一番の要因が、その現実感だった。感じる風も光も痛みも、何もかもが現実と寸分違わなかった。


「ってことは、物理的な法則がオネイロスにも存在するってことか?」

「うーん? どうっすかね。あくまで無意識に『世界とはこう言う物』って思っているからであって、個人的にはそんな物はないと思うっすよ。そもそも、例外が多過ぎるっす」


 首を傾げながらも、葵の言葉には確信があった。

 雄吾は直ぐに例外を思い付き、自分の質問の間抜けさに気がつく。


「あの白い女は浮いていたし、俺の拳がまともに入っても顔色一つ変えなかったな」


 そう。あの白い少女だ。彼女は学校の校舎から飛び降りる際に、明らかに重力を無視していた。また明らかに体重で負けているにも関わらず、平然と雄吾と殴り合い、勝利していた。

 そんなことは、漫画の中でしか許されない現象だろう。


「後、お前も炎の槍を作っていたな」

「フォビアにポテンシャルっす。これがルールその二。オネイロスは集合無意識が産み出した世界であるが故に、現実とは全然違う世界っす。だから、常識は通用しないし、ある程度の法則は主観的に捻じ曲げることが出来るす」


 ルール一。

 目覚めている世界である現界ガイアと、昏倒した世界である夢界オネイロスに基本的に差はない。

 ルール二。

 集合無意識が産んだ夢界オネイロスは根本的に現界ガイアとは別世界である。

 なんとも矛盾した文言ではあるが、難しいことを言っているわけではない。夢は現実の延長であり、そして現実ではない。当然と言えば当然のことだ。


「だから、二つの世界はそれぞれ独立しながら、でも微妙に互いに影響を及ぼしているみたいっす」

「それが、ルール三か?」

「適当に思い付いたまま喋ってるんで、順番は大切なことじゃあないっす。でもガイアで大きな災害があった場所は、オネイロスでも不安定な姿になっちゃうっす。逆に、ニクスの旅人同士が激しく戦った場所で事故が起きやすくなったり……ってこともあるみたいっすよ」

「そう言えば、俺は明らかに心臓を抉られて死んだと思うんだが、オネイロスで死んでも、ガイアでは死なないのか?」


 当たり前のように生きているのですっかりと忘れていたが、雄吾は自身が二度も殺されたことを思い出す。あの痛みや苦しみは間違いなく本物であった。生きている所を考えるに、恐らくは死んでも問題ないのだろう。

 しかし漫画やゲームなら、仮想世界での死はイコールで現実での死であることが多い。もしかして回数制限があったり、条件が揃わなければ死んでしまったりがあるのではないだろうか?

 雄吾だって死は怖い。死にたくない。


「まず死なないっすね。オネイロスで死んでも、夢から目覚めるだけっす。腕がもげても、頭が吹飛んでも、起きれば元通りっすし、もう一度昏倒すれば完全復活してるっす」


 所詮は夢、っすから。

 そんな風に、気負うこともなく葵は首を横に振る。


「そうっすね。そこも話しとくっす。オネイロスで人が死ぬとしたら、原因は一つっす」

「死ぬことはあるのか」

「はい。多分気がついてないと思うっすけど、旅人の胸――心臓部分には刺青が彫られているっす。真っ黒な、夜と翼をイメージしたデザインの刺青が」


 そうだっただろうか? 雄吾は二度の昏倒の記憶を思い返すが、覚えがない。が、葵が嘘を吐いているとも思えないのであるのだろう。鏡でもなければ、わざわざ自分の胸を確認することもないし、不思議はない。


「それが消えたら死ぬっす。ニクスの加護が失われるだとか、逆にニクスに魅入られたとか、そう言う風に言われてるっすね」

「死ぬって、この、現実でもか?」

「イエスっす。あ、当然っすけど、ガイアで死んだ場合も、オネイロスでは死ぬっす」


 それは言われるまでもなく、そうだと雄吾も考えていた。あくまでも基準の世界はガイアであり、オネイロスは付属品と言った所か。

 少々話しが重たくなった所で、歩道橋に行き当たる。二人並んで昇るのは難しいので、雄吾が先導する形で渡って行く。その間、会話は途絶え、空気を変えるには丁度良かった。


「えっと、何処まで話しましたっけ?」

「ガイアとオネイロスは僅かながらリンクしているって話しは聴いた」


 歩道橋を渡り終え、再び横歩きになると葵が会話を再開させる。結構な時間喋り通しているのだが、その表情はまだまだ余裕そうだ。流石は女子と言った所だろうか。


「でも、人間の死はリンクしていないって話だったっすね」


 思い出したっす。葵は次に何を話そうか逡巡するように目を閉じる。道は真っ直ぐとは言え、歩きながらなので相当危なっかしい。雄吾はハラハラとその様子を見守る。案の定、欠けたアスファルトに躓いて転びかけたので、太い腕が制服の首根っこを掴んでそれを未然に防いだ。


「面目ないっす」

「何故に目を閉じた……」

「いや、考えてる雰囲気でて格好いいかなーと」

「お前は馬鹿だ」


 先程の恨みをぶつける様に雄吾は吐き捨てる。


「はは。良く言われるっす」


 しっかりと自分の脚で立っていることを確認して、雄吾は葵の襟首から手を話す。こんな奴に色々と教えて貰っていると思うと、命の恩人と言うことを忘れて悲しくなって来る。

 まあ、結局は殺されたので助けられてないし、そもそも死なないので恩を感じる程の事ではないかもしれないが。


「オネイロスはガイアと微妙にルールが違う。その最たるものが、フォビアの存在っす」


 ぶっちゃけ、モンスターっす。葵は乱暴にそう付け足した。


「人間の世界を否定する感情だとかなんとか理屈があるみたいっすけど、別に気にする必要はないっすね。オネイロスを壊そうとするから、私達旅人が退治するっす」

「それはつまり、現実とリンクしているかから? フォビアがオネイロスを壊すと、ガイアにも悪影響が出るから」

「その通りっす。集合無意識が破壊されるってことは、無意識にすらそのことを意識できなくなるってことっすからね。概念破壊だとか、存在の消失だとか言われてるっすよ」

「ん?」


 さも当然のように葵はそんなことを言ったが、雄吾は今までの会話の流れからは想像できない台詞に引っ掛かりを覚える。


「ちょっと待ってくれ」


 概念破壊? 存在の消失?

 なんだか話が大事になっていないだろうか?

 あくまでも夢の話しであり、死んでも死なないようなゆるい世界観だと思っていたのだが、急に方向性が変わっている。それじゃあまるで、旅人がオネイロスを守っているようではないか。無理矢理にシリアスを埋め込まなくても良いのに。


「具体的に、それはどう言う意味なんだ?」


 まさか、オネイロスで自宅が壊されたら、現実でも何らかの理由を伴って自宅が崩壊するのだろうか? 


「物理的に何かが壊れるってことはないっす。あくまで意識の存在っすからね、オネイロスは」


 取り敢えず、雄吾が懸念するような事態にはならないらしい。


「だから、壊れるのは『良心』だとか『道徳』だとかそう言った人間の考え方と言うか、精神みたいなものっす」


 が、続く葵の説明は、軽々しく考えて良い物とは思えなかった。


「夢のバランスが崩れると、心を失う人が出るっす。ほら、良くあるじゃないっすか。事件が起きた後の関係者インタビューで『あの子があんなことをするなんて』『真面目な人だった』とか。そう言う人達は、フォビアの破壊の影響を強く受けた結果、凶行に及んでいるっす。いじめとか、自殺とか、殺人とか、他には鬱とか、人の心を弱くして苦しめるのがフォビアの目的みたいっす。多分、フォビアはそういった行動に潜む意識で出来てるんっすよ」


 当初考えていたよりも、スケールは小さくなった気もする。が、話し自体の脅威は変わっていない。人の心を弄び、破滅へと追い込む存在、フォビア。葵は特に言及しなかったが、日本の自殺率の高さや、世界的に繰り返される戦争も、恐らくは無関係ではないのだろう。

 そして何よりも恐ろしいのは、そのフォビアすらも、結局は人の集合無意識が産んだ存在であると言うことだ。根源的に、人間は他者を傷つける生き物なのだと突き付けられた気分になる。


「そして、私達ニクスの旅人は、フォビアを退治することができるっす。世界とは言わないまでも、人を救う程度の力を、運命から与えられたんスよ」


 しかしそのフォビアを認識し、闘うことが出来るニクスの旅人と言う存在も又、人々の意識が産んだ物だ。無意識的な防衛本能なのか、それともなんとかしなくてはならないと言う正義にも似た感情から芽生えたのか分からないが、これは十分に救いのある話しだ。


「なるほどな。つまり俺達旅人は、ワクチンみたいなもんか」


 太い両腕を組んで雄吾は言った。その言葉は前向きで、葵は怪訝そうに眉を動かした。


「嫌じゃあないんすか? 勝手に戦士にされて、戦いを強制されて」


 少なくとも、葵はそうだった。雄吾のように昏倒初日に指導者に出会うこともできず、眠る度に奇妙な夜を体験し、わけのわからないままに殺される。そんな生活を一ヶ月も続ける内に心は病み、自殺すら幾度も考えた。

 今でこそ、そこそこ上手く立ち回る術を覚え死ぬことも減ったが、今日のように死ぬ時はあっさりと死ぬ。死の苦悶に慣れることはなく、その苦悶故に自殺を望もうとも思えない。

 正直に言って、胸元のニクス旅人を証明する印は、呪いその物だった。


「まあ。嫌と言えば嫌だが、特別に逃げ出したくなる程じゃあない」


 が、しかし。

 雄吾は自分が旅人になれた現実を、比較的好意的に受け止めているようだ。

 その事実を、葵は『まだ経験が少ないから』と考え、納得したのだが、それは間違っている。彼女は自分がそうであったように、雄吾は昏倒初体験から指導者に会うことなく幾度と殺されており、ある程度受け入れ始めていると考えているのだが、高木雄吾は本日昏倒したばかりの、新米も新米の旅人である。

 人が一生に一度しか体験できないはずの苦痛を、短時間に二度も、何の説明も覚悟もなく体験している。そのショックは通常であれば一週間は虚脱感に襲われ、寝込んでしまうレベルだと言うのに。

 それはもう、心が強い云々の話ではない。恐ろしく鈍感か、それとも歪な精神をしているとしか、言いようがない。


「まあ、要は慣れっすからね。慣れてしまえば、ゲームみたいなもんっすよ」


 変わった先輩だな。と、葵は改めて認識を強くしながらも、それ以上踏み込むことなく話しを続ける。決して死の痛みと恐怖に慣れることがないと知りながらも、そんな風に嘯く。


「で、ゲーム要素その二がポテンシャルっす。これはまあ、魔法だと思えば良いっすよ」


 殊更明るく、好い加減な葵の台詞。説明はそれで十分だと言わんばかりだ。

 が、魔法と一口に言っても人々が思い浮かべる『魔法』にはある程度の幅がある。

 雄吾が真っ先に思い付くのは、魔法陣に怪しげな呪文、血が滴る生贄、古代の悪魔。そう言った怪しげなイメージが付きまとう闇の秘術だ。

 しかし同時に、ゲームに出て来るような魔法も思い付く。マジックポイントを支払って戦闘で使う様な、攻撃手段やシステムとしての魔法。

 他にも魔法のランプや絨毯と言ったアイテムとしての魔法もあるし、ドラゴンやユニコーンのような実在しない架空の生物も魔法と言えば魔法だろう。

 手品のことをマジックとも呼ぶし、真空を利用したポットを魔法瓶とも呼ぶ。


「だから、その全てっす」


 雄吾の疑問に、葵は平然と応える。


「人の想像力が、そのまま旅人のポテンシャルっす」


 それら全てが、魔法だと。


「魔法と言うか、能力バトル漫画って言った方が分かりやすいかもしれないっすね。読みますか? 漫画」

「まあ。人並みにはな」

「おや? 意外っすね。漫画を読むと馬鹿になるとか言うかと思ったっすよ」

「それこそ、馬鹿なって感じだ。漫画くらい読む」


 もっとも、別に漫画が好きかと問われると、雄吾は首を傾げるだろ。百合(とその母親)が漫画好きで、購読している週刊漫画雑誌を偶に読む程度だ。能力バトル物と言うジャンルを理解できるが、語り合う程の知識はない。そんな程度だ。


「じゃあ、安心っす。ポテンシャルはイメージっすからね」


 だから、そんな風に言われると少し不安にならなくもない雄吾だった。

 その後、詳しいポテンシャルに付いての説明を聴きながら二人は高木家へと歩いて行くのだった。

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