51 レディ・アンナリーナ
「早速バルツァー少尉を連絡係として活用したく思います。出立の際は、彼女に報告させますので」
マルヴァレフト家が取り寄せた上等なコーヒーを味わいもせず、冷めてしまったのを良い事に、ゴクリゴクリと喉を鳴らして飲み干しながら席を立つ。
「無事を祈るよ中佐。これは軍事行動を起こしても国民の理解は得られる事案だ。無理はするなよ、我々がついてる」
ランペルドは立ち上がってオレルと固い握手を交わす。いよいよ別れの時間なのだが、ここで思いがけない声が二人の間に割って入る。
オレルが食堂を退出しようとすると、ダールベック中佐様、ダールベック中佐様と、緊張感漂うか弱い声が背中に投げかけられたのだ。
気が付いて振り返ると、慌てて席を降りたアンナリーナがテケテケテケと血相を変えてオレルの元に掛けて来るではないか。
「ダールベック中佐様!」
「アンナリーナ様、どうされました?」
「中佐様は、中佐様はパルナバッシュへ戦いに赴かれるのですね?」
胸の前で手を組み、オレルを見上げるその表情は不安そのもの。
出会ったばかりでまともに会話した事など無いものの、老いた執事や同性のメイドたちには絶対に見せないような恋慕の情が、幼いながら彼女にも湧き上がっているように見える。
オレルは膝を折り、片膝を床につけて彼女と視線の高さを同じくする。そして右手の手のひらを自分の胸に当ててこう言ったのだ。
「アンナリーナ嬢 (レディ・アンナリーナ)、私めをかような配慮でお呼びいただかなくても構いません。私の事はオレルとお呼び下さい」
「お、お、オレル……」
「あなた様は五大貴族の一つ、マルヴァレフト家の御令嬢にございます。私をオレルと呼び捨てにする資格がございます」
微笑みかけるオレルを至近距離で見詰めるアンナリーナは、頬を紅潮させでドギマギしている。そして彼の名を呼び捨てで呼ぼうとするのだが、そこにアンナリーナの優しさが込められていた。
「オレル様……オレル様。このアンナリーナ、オレル様の戦勝を祈念しております」
名門貴族の一員だからと、身分の差があるからとオレルに言われても、彼女は呼び捨てにはせず名前に敬称を付けて呼んだのである。
「アンナリーナ様、過分なご配慮ありがとうございます。このオレル・ダールベック、アンナリーナ様の祈念があった事をゆめゆめ忘れぬよう、心に命じそして、勝って帰って来ます」
もちろん、微笑みかけるオレルにはもう一つの感情が渦巻いている。絶対に口には出せない秘密を抱えている。
アンナリーナの首元に浮かぶ流れ星のアザ、それがオレルをザワザワさせる全ての元凶だ。
──それは、いくつもの前世の記憶を呼び覚ます忌まわしき印。決して忘れる事を許してくれぬ負の象徴。生まれ変わっても自分にまとわりつく、自責と他責の塊──
このアンナリーナと言う名の少女には、オレルをそうだとは知らずに慕って来る事から、そんな前世の記憶など持ち合わせていないように見える。
だが、アンナリーナがその流れ星のアザを持って産まれて来ると言う事は、彼女自身もまた大きな意志により歯車に組み込まれて動く、異世界転生人以外の何者でもないのだ。
「オレル様、必ず帰って来てくれますか?」
「ご安心ください。アンナリーナ様にたくさんのお土産をもって帰ってまいります」
遥か昔に付き合っていた異性とばったり出会い、あの時のお前はダメだった、あれがダメこれがダメ、だから別れただのと徹底的に責められているような、マイナスのノスタルジーに包まれながらも、彼女に罪は無いとばかりに笑みを浮かべて接しているオレル。
その二人の姿を見て、近くにいたランペルドが「むう?」と反応した。
幼い孫娘とそれに近付く若い軍人と言う俗な感情に動かされたのではなく、この二人のこの光景が、額縁で飾らせてもおかしくないほどに神々しく輝いて見えたのだ。
膝をついて首を垂れるオレル・ダールベック、彼の前に立って出征を心配するアンナリーナ・マルヴァレフト。それはまるで……謁見の間に立つ女王と忠誠を誓う騎士のようであり、その光景を目の当たりにした途端、ランペルドの胸の中にある鍵付きの引き出しが、ピン!と音を立てて開いたかの感覚に陥ったのである。
「さあアンナリーナ、中佐は帰って仕事をしなければならないんだ。いつまでも引き止めて中佐を困らせてはいけないよ」
ランペルドは二人の間に割って入り、そしてアンナリーナの頭を撫でる。
「私が中佐を見送るから、アンナリーナはちゃんと席に着いて食べ終わりなさい。食事中にそわそわするはしたない人だと、中佐に笑われるぞ」
自分だってそうじゃないかと、頬を膨らませて抗議の意志を表すも、オレルの評価を気にしてしまったのか、渋々と自分の席に戻るアンナリーナ。
ランペルドはさあ行こうと、オレルを廊下にいざなって屋敷の裏口へと向かい始めた。
「中佐、ここだけの話。君と僕だけの話だ。胸の内にしまっておいてくれ」
二人で肩を並べながら廊下を歩くも、ランペルドは前を向いたままそう呟く。
「あの子はね……アンナリーナは、私の孫娘じゃない」
「養子なのですか?」
「うむ。彼女の両親は既にこの世にはいないが、世が世なら、私も中佐と同じく膝を折って首を垂れて、彼女をアンナリーナ様と呼ぶ立場の方だ」
表情には出さないものの、オレルは軽い衝撃を受ける。
アムセルンド公国を司る最高意志決定機関の五大貴族、その内の一つであるマルヴァレフト家の当主が、膝を折って恭しく接する者など存在しないはず。
五大貴族のトップに君臨するアレクシス・ヘイデンスタム大公に対しては、儀礼的な意味も過分に含めて失礼の無いよう接するが、膝を折って首を垂れる関係ではない。
そうであるならば、あの幼女はどのような血統でこの世に産まれて来たのかが、オレルには見えてしまったのだ。
「王家の血……そう言う事でしょうか?」
「多くは語らん、今は話せん。遠縁ではあるが、彼女は間違いなく最後のアムセルンドだ」
廊下を歩き続け、そして裏口の扉へと辿り着き立ち止まるとここでランペルドは初めてオレルに顔を向ける。
「これから激動の時代が始まる、私にはそう思えて仕方がない。だから中佐に頼みたいのだが、私の身に何かあったら……」
「分かりました。アンナリーナ様を命がけで守ります」
「うむ、頼むぞ中佐。それと、もし私とあの子が同時に危機に陥ったら、躊躇なくあの子を選べ。それが正しい選択だ」
オレルは神明に誓って彼女を守ると約束し、また一切の他言無用を貫く事も約束した。
双方の意志が統一され、ランペルド公爵に見送られて屋敷を出る。
パルナバッシュでの核爆弾製造を阻止するまでは、この屋敷を訪れる機会は無い。次にこの屋敷を訪れる事が出来るのは、それこそ生きて帰って来た時だけ。
マルヴァレフト家についての思い入れを語るほど、それほど出入りはしていないものの、記憶の中には残る「濃い人たち」であったのは確か。
ただ、オレルはこの時にランぺルドの顔よりも先に、あの少女の顔を脳裏に浮かべる。
オレルを心から心配するあの少女の顔を思い出し、その首元にある流れ星のアザも思い出し、それらを受け入れながら帰りの車中でオレルはこう呟いたのだ。
──時代がそうさせようとしているなら、流れに乗ってみようか と──
見えない力が働き、流れ星のアザを持つ少女との接点が結ばれるなら、時代は二人に何を求めているのかを解き明かしても良い。そう感じていたのである。