マリアナ防衛戦1944 兆候
忘れてはいません
ウェーク島が陥落して以来、日本近海で潜水艦目撃情報が増えている。既に数隻の被害も出た。これからは更に増えるだろう。
小笠原を起点とした特設哨戒艇による哨戒網はウェーク島からの空襲を懸念して一段下げられた。特設哨戒艇は漁船を漁師ごと徴用したもので自衛用と言うよりも見捨てたわけではないと言う証拠に二十五ミリ機銃が一丁から二丁と操作要員として海軍兵を2名から4名を乗せてあるだけだ。名目上はサメ撃ち用であった。普段は漁を手伝っている。無線機も海軍用の物が搭載された。機銃員は無線員を兼任する。
普段は哨戒線で獲れるのかも分からない漁をしているが、完全な民間船という日本海軍の主張は国際法上はほぼクロだろう。
無線機だけは良い物を乗せたが、はっきり言って敵視認=沈没である。潜水艦にも撃ち負ける。士気は最低だった。その士気を更に落とさないように気を遣ったのか哨戒線の後退があった。
これは航空機搭載電探の性能向上もあり、下げても問題は少ないと思われたからだ。
父島航空隊の五五六空所属早期警戒隊の一機である九十六陸攻556-226はもう攻撃任務からは外されていた。その低速と防弾装置の皆無から艦隊攻撃には使えないとされている。搭乗員も行けば逝くになることは分かっている。それでも必殺の魚雷をだいて出撃したかったのであるが。
今日も今日とて対潜哨戒を兼ねた哨戒飛行をしていた。飛行時間増加のために主翼下に増槽タンクを取り付け、対潜装備として腹には六番対潜弾を四発抱えている。六番対潜弾は新型であり沈降速度の向上と無駄玉になるの防ぐために投下後に安全装置が解除されるようになっていた。これまでは離陸前に安全装置を解除していた。そのため帰還時は基地周辺で投下させていたのであるが、日本全国だと毎日数百発の対潜弾が戦果無きまま投棄されていたのを無駄であるとしてこのような構造になった。
これは基地周辺の漁民からの抗議も問題にされていたためである。
その556-226号機が電探に反応を拾ったのは正和十九年十月のことだった。
「機長、電探に反応。十一時方向三十海里、移動速度おそらく航空機」
「識別は?」
「反応無し、敵と思われます」
「航法、現在地と真方位を通信に渡せ。通信、打電だ。「敵航空機と見られる反応あり。我これより避退す」以上だ」
「「了解」」
「本機は針路を父島に向け避退する。電探見失うなよ」
「「了解」」
九十六陸攻のような低速の哨戒機は電探に敵を捕らえた場合は状況を打電後直ちに避退することが認められていた。
この報告は海軍を慌てさせた。サイパン島ばかりに注目していたのであった。サイパンを孤立化させるには硫黄島と父島の飛行場を叩いてしまえば後は船舶による補給しかなかった。サイパン島の航空戦力が補充されなくなることになる。
硫黄島と父島からは高速の一式陸攻と百式司令部偵察機が出たが敵影は見つからなかった。
おそらくこちらの哨戒能力と反応を見ているのでは無いか。そいう憶測が立てられた。
「日本近海に敵機動部隊有り」この情報は日本全体を緊張させるには充分だった。そして困ったのが空母部隊の配置である。
サイパン島を防衛するならパラオ付近で遊弋していればタンカーの割り当ても苦労しなくていいのだが、小笠原諸島防衛となるとタンカーもそうだが空母の数がまず不足していた。拠点もパラオ周辺ではなく、横須賀になるだろう。複数の部隊の連携をどう取るのか。問題は多い。
海軍は天山の魁発動機を誉発動機の生産拡充のため生産中止とし、代わりに三菱風星発動機に変更した。
性能は上がらなかったが下がりもしなかった。プロペラブレードの形状変更など細かい改良で、馬力差を少しでも縮めていた。また、その直径の小ささが空気抵抗の軽減という形で性能低下を防いだ。
搭乗員からは前方視界が格段に良くなり好評だ。
彗星も三菱風星発動機に換装された。やはりプロペラブレードの形状変更など細かい改良を行った。
速度性能も十ノット増加という上昇をしている。
零戦も金星から風星に変更された。
こちらも速度は上がっているが航続距離は落ちてしまった。増槽の大型化でとりあえずしのぐ事になった。
しかし、発動機形式が統一されると整備員には大変好評だった。
海軍の艦戦は十五試が失敗し、十七試として再度三菱単独指名で試作させている。しかし、肝心の風星と木星の中間サイズで「戦闘機などの艦上単発機用の決定版になる」と言う触れ込みである三菱天狼発動機がまだ完成していない。機体設計は天狼発動機に合わせて設計されている。誉なら性能が低下する可能性があった。
また機体が大型化し、小型の鳳級や鷹級空母では運用困難との指摘から零戦・九九艦爆・九七艦攻にはまだ頑張って貰わなければいけなかった。
三菱航空機は発動機生産工場を損害の分散をするために秋田県に工場を作って風星発動機を専門に生産している。輸送は内航海運と鉄道だ。
陸軍が決戦機と位置する疾風は十九年夏には月産四百機体制を整え十九年暮れには六百機態勢まで拡充される事になる。
誉も十九年夏の月産八百基から十九年暮れには川崎生産分も含めて一千六百基まで生産量が伸びた。
陸海軍とも期待の中島であるが同一ヶ所での規模の膨張は危機分散という意味からマズいのでは無いかと考え、戦時という理由で誉発動機の生産委託先として川崎航空機が選ばれた。
これは鳥取地震の発生と、その後に大学教授の「更に大地震の起こる可能性がある」とされた学説にビビったわけでは無い、と思いたい。
これは仕事の薄い川崎航空機への補償措置であり、国防上重要で有ると言われては中島機関大尉も了承をするしか無かった。
川崎製誉発動機の初号機は十九年六月だった。
川崎は潰れた形のキ-61に誉を搭載する案を陸軍に提出するも、発注当時とは状況が変わっており十三ミリ四丁では既に弱武装であり、二十ミリか三十ミリを主翼に搭載すれば考えても良いと返答をした。
これに川崎は燃えた。考えても良い=完成すれば制式採用。かなり違うが川崎が突っ走ってしまった。
主翼を九十九式一号二型二丁と、四式十一型三十ミリ航空機関砲二丁を装備できるように改設計した。
胴体もついでとばかりにファストバック式を止め、涙滴型風防に変更した。
細長い主翼にも手が入れられた。二十ミリ航空機関砲と三十ミリ航空機関砲を収容すべく、平面形はあまり変わらなかったが、翼断面はかなり変わった。厚くなったために弦長を増やして気流がスムーズに流れるようにして、空気抵抗の増大を防いだ。
頑丈な主桁も機関砲を収容するために形状の変更を受けた。また後方補助桁は通常の主桁並みの強度を持たされた。前方には、やはり頑丈な補助桁を追加。二十ミリと三十ミリの強大な砲口馬力でも主翼が捩れないようにした。
これにより、後年日本一頑丈な戦闘機の名を頂くことになる。風説では音速に近い速度(一千二十キロ)でも平気だったという。
試験機が飛んだのは、一九年十月。キ-61の面影は胴体側面から下部と主翼、尾翼に残るだけだった。
性能は素晴らしく、疾風に迫る物があった。その主翼特性による高高度性能は疾風を上回るほどだった。
ただ、すでに決戦機として疾風の量産が決定されており主力機とはならず。
それでも性能は惜しい物が有り、川崎が自社で製造する分だけは認められた。
間隔は開きますが、完結まで行きたいなと。
九九艦爆と九七艦攻は金星のままです。




