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空母 双龍 東へ  作者: 銀河乞食分隊
燃えるミッドウェー
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双龍の世界 日本 軍事 日清戦争からWW1まで

日清戦争で勝った日本ですが様子がおかしいですよ。


 日本

 日清戦争で勝利し我は強いと豪語する日本海軍であったが、終戦後の調査で清国艦隊に十分な武器弾薬や食料が供給されていないことがわかり、武器弾薬が十分供給されていたとする前提で机上演習を行った所、良くて引き分けという結果が出て愕然とした。

 新戦法の単縦陣は非常に有効であったが、日本海軍の軍艦が非力すぎた。


 予算の割に装備が悪いことに気が付いた一部の士官達が調査すると、清国の事を馬鹿に出来なかった。

 海軍の上層部が着服していたのだ。建艦計画を握っていたことを良い事に、一部グレードダウンや艦の格自体下げるという素人目にはわかりにくいやり方で着服していた。


 これには政府が激怒。徹底的な調査や時には拷問まがいの取り調べで判ってきたことは、主砲の口径を減らす、旧型にする、装甲板を薄くする等、そうやって浮いた差額を着服していた。


 当然受注側も関与しており、厳しい処罰がなされた。数年間にわたる海軍艦艇の建造・整備の発注停止、重課徴金など厳しいものであった。更に向こう数年間は、常に国の監査が入ると言う、企業にとっては屈辱ものの処分だった。

国が負ける原因になったかも知れないのだ、厳しいのは当然だった。

世間からも非難され、会社や経営者の自宅などに投石が相次いだ。海外企業にも同じような処分が下され、母国でも信用を下げた。


 着服した海軍軍人の処罰は厳しく(当然である。織田政権下の武士の時代であれば、家門断絶の上に切腹では無く斬首の上さらし首になる事件であった)軍法会議の上、関係者全員軍籍剥奪、半数くらいが死刑判決を受けた。残りの人間の中には、娑婆に出た途端天誅を受ける者もいた。また、全員の財産没収であった。

 日本軍事史に残る恥ずかしい事件である。しかし、またやるのであった。


 陸軍でも海軍の事件を受けて徹底的な調査がなされた。すると海軍ほどでは無いが出てきた。しかも、とても大事な部分で出てきたのである。


 大砲の砲弾の定数をごまかすというもので、大阪造兵廠と砲兵部隊のグルであった。


 情けないのは、糧食の質を落とすと言うものであった。銀シャリ食べ放題の筈が週に2食は麦飯、週2食は雑穀で嵩増し(注)と言う情けないやり方での差額着服であった。


 しかし、これにより陸軍では脚気の患者が少ないと言う現象が出て、脚気予防につながっていくのである。


 砲弾の定数をごまかした者達には、海軍同様の厳しい処分がなされた。当然である。


 糧食の質をごまかした者には、階級降等の上、退役まで内勤にならない歩兵部隊勤務とされた。10年間退役不可であった。


 大照の徴兵制廃止に、海軍は何も言えず陸軍も抵抗は無力だった。指揮体系の見直しには抵抗できるはずも無かった。


 それでも、外国の軍備の進化に対応していかなければならなかった。救いは、東の大国が内戦で国内が荒廃し様々な内政問題が出来、それに伴う国内優先政策で対外軍備が後回しにされたことであった。


 清は再起する力があるかどうかも怪しかった。日本周辺は、軍事的脅威は無かった。


 大照の徴兵制廃止で陸軍12個師団だったものが、8個師団に自然減をした。残りの8個師団は、志願者で陸軍に残ることを選択した者達だった。歩兵7個師団、砲兵1個師団である。輜重や衛生などの小部隊も志願者で固められ士気は高かった。

 元々志願者の比率が高く、食い詰め者も多かったが優良な兵が残ったと思えば良かった。

それでも食事の改善や兵営の改善をして、志願兵をつなぎ止め待遇の良さを訴えて志願者を募るのだった。


 海軍は軍艦の操船をする人数が足りなくなり、日清戦争で損傷した艦の内、損傷のひどい艦や古い艦を廃艦にした。

 特にひどかったのは機関科で、缶室要員の中でも給炭員(人力でひたすら石炭を投入する)に徴兵した人間を多く配置したためである。

廃艦にしただけでは人数が足りず、缶室要員を大量に配置しなければならない大型艦は多くが係留されたままとなった。

艦の維持をするため最低限の缶は動かしているが、機関兵達の不満は大きくこの後海軍は機関科の待遇改善に走るのである。

また石炭では無く石油ボイラーにすれば給炭要員が不要になるため、石油専焼缶の開発が進むのであった。

 海軍も様々な待遇改善をして志願者を呼び込むのであるが、不祥事の影響が陸軍より大きく志願者の確保に苦しむのだった。自衛隊の地連並の苦労がこの先待っていたのである。


 陸軍は待遇改善策として、食事の改善や兵営の改善をして居心地を良くし更に禁じ手の一つである棒給を上げるという手段に出た。

12個師団が8個師団に減ったから出来ることだった。これにより退役者の自然減を志願者によって補充することが出来た。

また、兵科師団以外の輜重や衛生といった部隊の強化も図れた。

予算を兵器にこれまで以上に充てることが出来、欧米に見劣りしていた兵器など軍装備の近代化がはかどるのだった。

 

 海軍は陸軍同様の待遇改善策を打ち出し募集すれども、志願内容で機関科は敬遠する者が多く眠っている艦が減らないのであった。

それでも人員が足りないので採用するのだった。

禁じ手中の禁じ手、機関科は他兵科の2割増しの棒給を打ち出したところ、なんとか要員の確保が出来たのであった。


 海軍内部の構造改善策として、士官の兵機同一を始めた。今までは兵科と機関科は全く違う教育課程であり、士官学校が別であった。兵科士官は機関の事を全く知らず理解も出来ず、缶炊きと呼んで馬鹿にしていた。

指揮継承順位でも兵科士官が優先され、兵科士官全滅などという事態にでもならない限り機関科士官が艦の指揮を取ることは出来ないのだった。


 日清戦争の時、兵科士官全滅の艦が有り機関科士官が指揮を執って艦の保全を図り沈没は免れた艦があった。だが航海と砲戦は出来ず、その場に漂い後で回収されるまでそのままだったという。

 後に敢闘精神不足を指摘されたが、機関科士官が悪いのでは無くほとんど兵科教育を受けておらず、戦闘や航海など出来るはずがなかった。


 この問題を重視した海軍は、機関科の待遇改善策の一環としても海軍全体の能力向上を図る意味でも、兵機同一を始めたのであった。

当然だが兵科の抵抗は大きかった。しかし危機感を感じている海軍は、抵抗する者は容赦なく配置転換という左遷をし、それでも強硬な者には予備役編入をちらつかせんるのであった。実際予備役編入をされた者もいた。

 機関科からは、覚えることが増えてめんどくさいとか機関に専念させてくれという声もあったが、継戦能力の向上を図るという理由で説得した。


 海軍陸軍ともとも国家予算比率では減らされたものの、人員減による使用可能予算の増加と大照の好景気による税収の増加で実質は日清戦争以前よりも使える金額は増えていた。これは膨大な金額が掛かる改軌費用が賠償金をもって充てられることになった為である。

 陸軍は新装備として、機関銃と新型歩兵銃の装備を始めた。機関銃は海外からの購入品だが、歩兵銃は自主開発だった。明治後期に開発されたが、日清戦争に関わる不始末のほとぼりが冷めるまで配備を待っていたものだった。口径は7mm、5連発、ボルトアクション。5連発・ボルトアクションは当時の標準である。

 全長は銃剣を付けて海外の体格の良い兵と渡り合うことを考慮されて長めとされた。

 7mmと言う口径は、日本人には6.5mmが反動が少なくて良い、いやそれでは体のデカい外国人には威力不足だ、等と議論がなされ、303ブリティッシュでは反動がきつい6.5mmでは威力不足と言うことで、間を取って7mmにした。日本らしい決め方である。

 名称は67式歩兵銃。これは皇紀2567年採用(大照元年・西暦1907年)という意味である。

年号を採用しようという意見もあったが、年号では現場が混乱するし西暦は気に入らんと言う理由で皇紀となった。

この命名基準は大照からで以降全ての軍採用品は皇紀表示となった。


この小銃は明治中期の日本の工業水準に合わせて設計されたため、製品の部品寸法に公差という概念が無かった。また正式な治具も無かったため銃身と薬室だけはしっかりしていたが後は寸法差が大きく製造には困難が伴った。

量産試作品で部品の寸法差が大きく組み付け出来ない事が多数発生。

対策は寸法公差を設定し治具と測定工具を陸軍造兵廠ですべて同じものを用意すると言うことで乗り切った。

この67式歩兵銃は堅牢かつ整備性が良く、また寸法公差を大きく取っていることで製造も容易であった。

この後WWⅡ中期まで製造が継続された。その後も再生産などされ、現在でも儀仗用小銃として現役である。


 翻って海軍であるが、あの事件のせいで全ての艦艇建造・整備に監視が付き実にやりにくいものであった。

請求書と領収書を常に摺り合わせて不明金を出さないようにするなど涙ぐましい努力をして信頼の回復に努めたのであった。


 国内での艦艇建造は続けられたが、あの事件の主要関連造船会社であり国内有力造船会社である三菱造船所が破綻。石川島造船に吸収合併されるのであった。

三菱重工・三菱銀行・三菱商事の三菱財閥基幹三社で救済しようとしたが、不正の温床になりかねないとして政府がそれを許さず。政府はこの三社もあの事件に関与していた可能性が高いとして信用していなかった。


 艦艇建造は、日清戦争後の混乱による遅れを一気に取り戻そうと、野心的な設計がなされた船が多かった。

しかし日本の造船業界の実力不足もあり、傑作なのか不良品なのか判らない船も多かった。

試験的に艦政本部で設計された石油専焼缶を搭載した船もあったが、まだ実用には遠かった。

 国外でも多数建造されたが、さすがに経験豊富なだけあり、堅実な設計と建造技術により実用性の高い船が多かった。


 大照の好景気で国内産業基盤が整備されてきたことに寄る、各所での品質向上にはもちろん造船も含まれていた。

イギリスに発注していた金剛級戦艦の3番艦4番艦の国内での建造に踏み切った。1番艦と2番艦はイギリス・ヴィッカースで建造された。

あの事件の結果、アームストロング系企業は日本の軍事関連から閉め出され、ヴィッカースは罰金と日本に多少の便宜を図ると言うことでイギリス政府とも合意していた。 余談であるがもしアームストロングで建造されていたら、将来美少女の群れの中にムキムキおっさんが混ざるという残念な事態になっていた可能性もある。


 ここで言う多少の便宜とは、建造に日本人を関わらせることである。これによりイギリスの進んだ技術を日本に持ち帰ることが出来、国産船舶の品質の向上に役に立った。


就役 1番艦 金剛 1913年 ヴィッカース

   2番艦 比叡 1914年 ヴィッカース

   3番艦 榛名 1915年 川崎造船

   4番艦 霧島 1915年 石川島造船


 榛名と霧島の起工・進水・就役次期は、無駄な競争をして事故や品質低下を招くことを恐れた海軍によって同日になるよう管理・監督された。


 当時世界最強の主砲である14インチ砲は日本で作ることが出来ず、全てイギリスからの輸入品であった。

副砲は15.2cmの計画であったが、14cmに変更された。弾が重く当時の日本人の体格・体力では発射速度の持続性に難があると認められたためである。

金剛と比叡の副砲も後の改装で14cmに変更されている。

当時戦艦クラスでも魚雷発射管が装備されていたが、日清戦争の戦訓として運動性の悪い大型艦による魚雷発射機会は無い物とされ装備しなかった。

また当時大型艦の魚雷発射管は水中発射管で有り、防御上の弱点であった。

 

 

 

様々な改革をした日本陸海軍、WW1ではどう動くのでしょうか。

(注)雑穀を入れたご飯はおいしいですよ。ブレンドした雑穀米は米単体より高い。古代米(紫色した)を入れたご飯はもちもちして食感・味とも良好です。現代では健康食品として人気があります。

脚気予防、ここで出ました。PN森鴎外の間違った主張もありません。その頃には解決されていたから。

でも、判っていても白米だけ食べる人は多く脚気は多かった模様。

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