第1話「雪降る森の生贄」
登場人物紹介
◆ルカ
十九歳の青年。希少なオメガとして生まれたため、村のベータたちから不吉な存在として虐げられて育つ。銀色の髪と、森の木々のような翠色の瞳を持つ。自己肯定感が低く、常に他人の顔色をうかがう癖があるが、根は優しく芯の強い性格。
◆レオン
雲海に浮かぶ島に住まう伝説の聖獣。巨大な白銀の狼の姿を持つが、人間の姿をとることもできる。人間時は銀の髪を持つ壮麗なアルファの偉丈夫。圧倒的な力を持つが、運命の番であるルカに対してはどこまでも甘く過保護に接する。
空から降る雪は、まるで鋭い針のようだった。灰色の雲が空を重く覆い尽くし、太陽の光はすっかり奪い取られている。氷のように冷たい風が吹き抜けるたび、ルカの細い体は枯れ葉のように震えた。
足元は深く積もった雪に覆われ、一歩を踏み出すのにもひどく体力がいる。履き古した薄い靴には穴が空いていて、雪の冷たさが直接肌を刺してきた。かじかんだ指先を何度もこすり合わせるが、感覚はとうに消え失せている。
ルカの周囲には、誰もいない。ただ、黒々とそびえ立つ冬の木々が、ルカを取り囲むように静かに立ち尽くしているだけだ。
『どうして、こんなことになってしまったんだろう』
白い息を吐き出しながら、ルカは独り言を言う。答えなど、最初から分かっていた。ルカが、この世界では珍しいオメガとして生まれたからだ。
ルカの住んでいた村は、大半がベータの人間で構成されていた。彼らにとって、アルファは手の届かない高貴な存在であり、オメガは不吉をもたらす穢れた存在だった。幼い頃に両親を流行り病で亡くして以来、ルカは村の誰からも愛されることなく育った。
夜明け前から日が暮れるまで、重いクワやスキを持たされて畑を耕し、カマを握って草を刈った。与えられる食事は、家畜の餌よりも貧しいものばかりだった。どんなに理不尽な命令にも、ルカは黙って従うしかなかった。抵抗すれば、冷たい納屋に閉じ込められ、何日も食事を抜かれるからだ。
それでも、生きている限りはどこかに希望があると信じていた。しかし、今年の冬は異常なほどの寒波が村を襲う。秋の収穫は半分以下に減り、村人たちは飢えと寒さに苛立った。そして、その怒りの矛先は、最も弱い存在であるルカに向けられたのだ。
「オメガがいるから、村に災いが降りかかったのだ」
村長のその一言で、ルカの運命は決まった。山の神への生贄という名目で、ルカは深い森の奥へと連行されたのだ。
逃げ出さないようにと、足首には重い鉄の鎖が巻きつけられている。鎖の先は、古い石の祭壇にしっかりと固定されていた。村人たちは、怯えるルカを冷たい目で一瞥すると、足早に村へと引き返していった。誰一人として、ルカを振り返る者はいなかった。
ルカは石の祭壇に背中を預け、膝を抱え込むようにして丸くなった。雪はますます激しくなり、ルカの銀色の髪や薄い衣服に白く降り積もっていく。あまりの寒さに、涙さえ凍りついてしまいそうだった。
『もう、誰も助けに来てはくれない』
胸の奥が、鋭い刃物でえぐられるように痛む。これまで必死に生きてきた意味は、何だったのだろうか。誰かの役に立ちたいと願い、文句も言わずに働いてきた。けれど、ルカに向けられるのは常に嫌悪の視線と、心ない罵倒だけだった。
手足の感覚が、冷たさから次第に鈍いしびれへと変わっていく。体が芯から冷え切り、不思議と眠気が襲ってきた。目を閉じれば、この苦しみから解放されるのかもしれない。ゆっくりとまぶたが重くなり、ルカは静かに息を吐いた。
***
そのときだった。風の音に混じって、雪を踏みしめる重い足音が聞こえた。
ザクッ、ザクッ、という規則正しい音が、ゆっくりとルカに近づいてくる。村人が戻ってきたのだろうか。わずかな期待を抱いて、ルカは重い目をかすかに開けた。
そして、息を呑む。
目の前にいたのは、人間ではなかった。見上げるほどの巨体を持つ、美しい白銀の狼だった。
狼の毛並みは、降り積もる雪よりも白く、月明かりを反射するように輝いている。黄金色の鋭い瞳が、ルカを真っすぐに見下ろしていた。その姿はあまりにも神々しく、恐怖よりも先に圧倒的な美しさに心を奪われた。
狼の鼻先から吐き出される白い息が、ルカの頬に触れる。同時に、信じられないほど甘く、心が落ち着く香りがルカを包み込んだ。それは、深い森の木漏れ日と、日差しを浴びた新緑のような、優しいアルファの香りだった。
『アルファ……?』
こんな森の奥に、なぜアルファの気配を持つ獣がいるのか。ルカの頭の中は混乱で真っ白になった。
狼はルカの足元に視線を落とす。石の祭壇に繋がれた太い鉄の鎖を見ると、狼は喉の奥で低くうなった。次の瞬間、狼は鋭いくちばしのように尖った牙をむき出しにして、鉄の鎖に噛みついた。
ガキンッ、という甲高い音が森に響き渡る。大人の男が何度叩いても壊れないはずの鎖が、まるで細い木の枝のようにあっさりと砕け散った。
ルカは驚きのあまり、声も出せずに目を丸くした。狼はルカの顔に顔を近づけ、その冷え切った頬を温かい鼻先でそっとこすった。まるで、幼子をなだめるような優しい仕草だった。
そして、狼は大きな口を開けると、ルカの衣服の襟首をそっとくわえ上げる。牙が肌に触れることはなく、ただ柔らかく持ち上げられた。
「あっ……」
小さな声が漏れた。
狼はルカをくわえたまま、力強い足取りで雪を蹴った。一歩、二歩と助走をつけると、巨大な体は信じられないほどの跳躍力で空へと舞い上がった。
足元から雪景色が遠ざかり、冷たい風がルカの全身を叩きつける。しかし、狼の体から発せられる熱と甘い香りが、ルカを確かな安心感で包んでいた。空を駆ける狼の腕の中で、ルカは静かに目を閉じた。




