第2話「空の上の聖域」
全身を包み込むような、不思議な温もりを感じていた。
ルカはゆっくりと重いまぶたを持ち上げる。視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど美しい天井だった。白い大理石のような滑らかな石で造られ、細やかな草花の彫刻が一面に施されている。窓からは、柔らかな陽光が部屋の隅々にまで降り注いでいた。
『ここは……どこだろう』
ルカは上半身を起こそうとして、自分の体がふかふかの寝台に横たわっていることに気がついた。肌触りの良い厚手の毛布が、肩までしっかりと掛けられている。冷え切っていたはずの手足には、じんわりと血が通い、心地よい熱を帯びていた。
身につけていたボロボロの衣服は、いつの間にか真っ白で清潔な布地に変わっている。部屋の中には、ほのかに甘い新緑の香りが漂っていた。雪の森で出会った、あの白銀の狼から感じた香りと同じだった。
ルカは毛布を握りしめ、周囲を見回す。広々とした部屋には、木彫りの丸いテーブルや、座り心地の良さそうな椅子が置かれている。飾り気はないが、どれも丁寧に手入れされていることがわかる。
立ち上がろうとベッドから足を下ろした瞬間、部屋の重厚な木の扉が音もなく開いた。ルカはビクッと肩を揺らし、思わず身構えた。
部屋に入ってきたのは、一人の男だった。背が高く、肩幅の広い堂々とした体格をしている。流れるような銀色の髪が、窓からの光を受けてきらきらと輝いていた。整った顔立ちには深い影があり、黄金色の鋭い瞳が真っすぐにルカを捉えた。
男の全身から、あの甘く包み込むようなアルファの香りが濃密に放たれている。
「目が覚めたか」
低く、腹の底に響くような声だった。ルカは緊張で喉を鳴らし、シーツをきつく握りしめる。
「あ、あなたは……」
声が震えて、うまく言葉が出てこない。男はルカの怯えた様子を見て、歩みを止めた。少しだけ顔をしかめ、困ったように視線を落とす。
「すまない、怖がらせるつもりはなかった。俺の名前はレオンだ」
レオンと名乗った男は、それ以上近づくことはせず、その場に静かに立ち尽くした。
「森で倒れていた君を、ここへ連れてきた。あのままでは、君は凍え死んでいたからな」
その言葉を聞いて、ルカの脳裏に雪降る森の記憶がよみがえった。冷たい風、足首の重い鎖、そして自分をくわえ上げた巨大な白銀の狼。
「あの狼は……もしかして」
ルカの問いに、レオンは静かに頷く。
「俺の本来の姿だ」
伝説に語られる聖獣は、人間の姿にもなれるというおとぎ話を、ルカは村の子供たちが話しているのを聞いたことがあった。まさか、それが現実の出来事だとは信じられなかった。
「ここは、どこなのですか」
ルカは恐る恐る尋ねた。
「雲海の上に浮かぶ島だ。下界の人間は誰も立ち入ることはできない」
レオンは窓の方へ視線を向けた。ルカはゆっくりとベッドから降り、窓辺へと歩み寄る。
窓の外を見て、ルカは思わず息を呑んだ。眼下には、見渡す限りの真っ白な雲海が広がっていた。雲の海の上には、緑豊かな大地が島のように浮かんでいる。色鮮やかな花々が咲き乱れ、澄み切った水が小川となって静かに流れている。空はどこまでも青く、澄み渡っていた。まるで、絵本の中でしか見たことがないような美しい世界だった。
「信じられない……」
ルカの口から、感嘆の吐息が漏れた。
「君は、オメガだな」
背後からかけられた声に、ルカはビクリと体を震わせた。その言葉が、ルカにとってどれほどの恐怖を意味するか、レオンは知らないのだろう。村で虐げられてきた記憶が、泥水のように心に広がる。オメガだからという理由で、石を投げられ、泥をかけられ、蟲のように扱われてきた。
ルカはゆっくりと振り返り、うつむいた。
「はい……。僕はオメガです。穢れた存在です……」
消え入りそうな声でつぶやく。今すぐ、この美しい部屋から追い出されるかもしれない。冷たい雪の森へ突き落とされるかもしれない。恐怖で両手が小刻みに震え出した。
しかし、レオンは怒ることも、軽蔑することもしなかった。ゆっくりとルカに近づき、その大きな手でルカの震える肩をそっと包み込んだ。
「穢れてなどいない」
静かだが、力強い声だった。ルカは驚いて、顔を上げる。レオンの黄金色の瞳には、同情でも憐れみでもなく、ただ深い優しさが宿っていた。
「君の香りは、春の陽だまりのように温かい。俺の心を、酷く惹きつける」
レオンの指先が、ルカの銀色の髪をそっと撫でた。その感触はどこまでも優しく、ルカの胸の奥にあった冷たいしこりを少しだけ溶かした。
「君は、俺の運命の番だ」
その言葉の意味を理解するのに、ルカは少し時間がかかった。アルファとオメガの間には、魂の底から惹かれ合う運命の相手が存在するという。だが、それは選ばれた人間だけの特別な物語だと思っていた。自分のような、誰からも必要とされない人間に、そんな奇跡が起こるはずがない。
「ぼ、僕が……? 嘘です、そんなこと……」
ルカは後ずさりしようとした。しかし、レオンの手はルカの肩から離れなかった。
「嘘ではない。森で君を見つけた瞬間、俺の魂が君を求めた」
レオンの言葉には、一片の迷いもなかった。
「もう、誰も君を傷つけることはできない。この島で、俺と共に生きてほしい」
真っすぐな視線を向けられ、ルカの心臓が大きく跳ねた。誰かに必要とされたことなど、これまでの人生で一度もなかった。この優しさに甘えてしまえば、いつか裏切られたときに心が完全に壊れてしまう気がした。
それでも、レオンから放たれる甘いアルファの香りと、大きな手の温もりが、ルカの心を強く惹きつけてやまなかった。窓の外では、柔らかな風が吹き抜け、木々の葉がさらさらと優しい音を立てていた。ルカは言葉を返すことができず、ただレオンの黄金色の瞳を見つめ返すことしかできなかった。




