創作で飯が食えるなどと
思い上がってはいない、という話である。
誰もが人生で一度は、「適職診断」へ挑んだ経験があるだろう。几帳面なら公務員、理屈っぽければ研究職。手先が器用だと自己申告すれば、すぐに技術系の職が候補欄に並ぶ。まるで工場のラインのように、十数個の選択肢だけで人間を仕分けられると信じているかのようだ。
そうした結論の一つとして、「芸術家」タイプが挙げられる。
……SNSに浸る人間は、言わんとすることが分かるかもしれない。
「あなたは組織で働くのには向きません」。
「枠にはまらない発想が強みです」。
それでもあなたは、「芸術家向きです」。
果たして、あれを鵜呑みにして胸を張れる人間がどれほどいるだろう。多くの場合、「芸術家」と書かれているとき、それは褒め言葉ではない。回答者は論理型でもなければ、管理型でもない。かといって、明確な専門職に結びつくわけでもない。言ってしまえば、「その他」へ分類するための、体裁の良いラベルに過ぎない。
私がそこに当てはまると出た際も、特別な感慨はなかった。むしろ、妙に申し訳ない気持ちすら湧いた。「組織に向かない」、「発想が自由」…………そう並べられるたびに、褒められているはずなのに、なぜか脳裏には幻聴が聞こえてきた。
「要するに社会性がない、ということです」。
もちろん、そんな露骨な文言が書かれているわけではない。それでも、行間のニュアンスを勝手に読み取ってしまうのが人間である。適職診断というのは、本来は自己肯定のためのツールのはずなのに、どうしてこうも「欠陥の可視化」として受け取ってしまうのか。我ながら扱いが面倒くさい。
だが一考して、芸術家ならば社会性は要らないのか、という問いが浮かぶ。
いや、むしろ逆だ。創作で飯を食おうとする生身の人間は、あまりに俗っぽいほどの社会性を要求されるはずだ。例えば締切、依頼主との調整。読者や視聴者の動向分析、作品の宣伝、営業、協力者との関係構築……。挙げはじめればきりがない。
耳障りのよい「自由な創作」など、プロの創作にはほとんど存在しないだろう。あったとしても、それを維持するための雑務――そう呼ぶのさえためらわれるほどの泥臭い作業――を引き受けた者にだけ与えられる権利だ。芸術家である前に、まずは、地に足のついた労働者でなければならない。そんな当たり前の事実を、診断結果の美辞麗句が覆い隠しているだけなのだ。
私が「芸術家タイプ」と太鼓判を押されたとき、胸の内に申し訳なさが湧いたのは、おそらくそのせいだ。自分が芸術家であるはずがない、という卑下ではなく、「芸術家」という言葉が「その他」扱いされていることへの違和感。そのラベルに乗ってしまえば、創作で飯を食う人々への敬意さえ、薄れてしまう気がしたのである。
そんな現実を前にして思う。結局のところ、私の創作はしがない趣味に過ぎない。よくよくプロットを練らず、連載ものの更新期間もまちまちで、「読まれる」ための工夫など皆無である。これで「いつかは飯を食える」なんて、お笑いぐさの妄言だろう。
それでも書くことをやめないのは、別に「芸術家」だからではない。ただ、書かないと落ち着かないだけだ。趣味の創作とは、本来その程度のものだと思う。誰かから頼まれたわけでもなく、生活がかかっているわけでもない。それでも机の前に座ってしまうのは、暇つぶしか、欲求の発散か、いずれにせよ無駄な行為である。
もちろん、その「無駄」を愛する気質と、「創作で飯を食う」という営みは、本質的に別物である。趣味としての創作は、孤独や気まぐれを許してくれるが、職業としての創作はそうはいかない。自分の気分や都合など、誰も待ってくれない。そこには依頼主の生活があり、読者の期待があり、作品の価値を金銭に変える冷徹な仕組みがある。
だからこそ、創作が趣味でしかないという事実が、私にとっては救いなのかもしれない。誰かに媚びる必要も、数字を追いかける必要もない。失敗しても誰の迷惑にもならない。人は自由さの中で、ようやく「職業」という言葉の呪縛から解放されるものだろう。
まあ、実際には「ネトコン14感想」なんてタグを付けてしまっているから、憧れだけはあるようだ。ただ、それは宝くじを買う行為に似ている。本気で汗水垂らし、十分な対価を欲するのではない。棚からぼたもちが落ちるかもしれない、と淡い期待を抱きつつ、とりあえず棚だけ用意してみた、という程度の話だ。
……そろそろ締めよう。
半端な私にとっては、「思い上がってはいない」という感覚が、図らずも一つの指針になっている。これからも騙し騙し、そんなスタンスで居続ける所存である。




