第23章 忘れられる方が、怖いんです
部屋の隅に、誰かがいたような気がする。
ふいにそう思って、私は顔を上げた。
けれど、そこには何もなかった。
埃をかぶった書棚と、読みかけの本が一冊。
灯りの届かない場所に、それだけが静かに沈んでいた。
それだけのはずだったのに――私は、その空間に“誰かの温度”を確かに感じていた。
まるで、ほんのさっきまで誰かがそこに腰掛けていたかのように。
湯気の残ったティーカップのように。
おかしいのは、私の記憶だ。
誰かと、ここで話をしていた。
声を交わし、時には笑ったような気がする。
寒い夜に毛布をかけてくれた人がいた。
眠れぬ夜に、何も言わずそばにいてくれた人がいた。
でも、その“誰か”の名前が思い出せない。
思い出せないだけじゃない。
アルバムを開いても、連絡先を見返しても、
記録という記録が、一切、ない。
まるで最初から、そんな人間はいなかったように――
けれど、それでも私は、確かにその人を“知っている”という感覚だけを失くせずにいる。
胸の奥で、何かが疼いている。
そこに、名前のかたちをした穴がぽっかりと空いている。
最近、ひとりごとが増えた。
というよりも、つい誰かに話しかけてしまうような瞬間がある。
「ねえ、今日寒いね」
「この紅茶、あなた好みだったかしら」
返事はない。けれど、どこかで返ってくるような気がして、私は耳をすませてしまう。
そんなある日、棚の奥から古い封筒が出てきた。
中には、折りたたまれた便箋が一枚。
誰の筆跡かもわからないその文字は、こんなふうに綴られていた。
わたしを忘れてください。
覚えていると、あなたが壊れてしまうから。
それでも、忘れないでほしいとも思っています。
矛盾しているでしょう?
でも、それが人間だと思うんです。
便箋に名前はなかった。
けれど、私は読み終えたとき、なぜか涙がこぼれていた。
――忘れてしまったのではなく、忘れさせられた。
もしくは、“忘れるように”と願われたのかもしれない。
この家にはもう一つ、鍵のかかった引き出しがある。
そこには誰も触れたことがなく、私自身、開けた記憶すらなかった。
けれど今、その引き出しがずっと気になっている。
中には、あの人の写真が――
名前が――
あるいは、最初に交わした言葉が残っているかもしれない。
でも、手が伸びない。
開けてしまったら、すべてが変わる気がする。
そして、元には戻れないような気がする。
だから私は、ただ、こう願うことにした。
もし、あなたがここまで読んでいるのなら――
どうか、覚えていてほしい。
誰かがいた。
誰かがここにいて、私と話をしてくれた。
その人の存在が、たしかにあったのだと。
それだけで、充分なんです。
忘れられる方が、怖いんです。