【文登の眠っていた感情】
木曜日の夜、春里の携帯電話に文登から電話があった。
『土曜日にまた御見舞いに行きたいと思っているんだ』
嬉しい申し出だった。だから、春里はそれを歓迎して、待ち合わせ場所と時間を打ち合わせた。
『御見舞いが終わったら、また食事でもしよう』
そんな言葉も嬉しくて、二つ返事で了承。文登との時間は当たり前に春里の幸せだったあの幼かった頃を感じさせてくれる。無邪気で自分を愛してくれる人たちが大好きだった頃。祖父母に見守られ、母は春里のために懸命に働いてくれた。そんな春里を心配そうに見守ってくれていた文登の母。そして、そんな事関係なく仲良くしてくれた文登。近くに仲良くしてくれる友人がいるだけで安心できた。彼は年上だったから余計かもしれない。
土曜日、貴之の誘いを断るのはいささか気が引けた。だが、春里に先約がある以上、そちらが優先だ。貴之のがっかりしたその表情がずっと焼き付いて離れない。
貴之は九月いっぱいでモデルの仕事を辞めた。受験勉強に取り組むため、というのが第一の理由だ。だが、こうやって春里を心配して、休日は病院に付き合おうとする。学校から帰って来てからも、夕飯の支度を一緒にする。いつ勉強をしているのだろうと思えるくらい、余裕ある生活だ。
「ごめんなさい、先約があるの」
春里は正直にそう言った。貴之は驚いた様子で、眼を少し開いた後、俯いた。
「そうか、分かった。今度はもう少し早めに予約をしよう。春里は人気者だもんな」
なんて言って、最後はからかうような笑みを見せた。だけれど、なんとなく口調や声がいつもと違って沈んでいるように思えて、気分転換をしたかったのかもしれないと春里は思った。御見舞いが貴之の気分転換になるとも思えないが、何かから解放されたかったのかもしれない。
「来週は?」
なんとなく申し訳なく思った春里は貴之に尋ねた。
「うん、そうだね。来週の土曜日に予約を入れよう」
そう貴之は言った後、そっと春里の頬を指先で撫でた。それが思いの外気持ち良くて、春里がそっと眼を閉じると、その指先は遠慮がちにそっと唇を撫でた。驚いて、眼を開けると、急いで眼を逸らす貴之の顔があった。そして、逃げるように去っていく貴之を春里はじっと見つめた。
春里が待ち合わせ場所に行くと、そこにはすでに文登の姿があった。いつものような柔らかな雰囲気が彼を包んでいる。さらさらしている栗色の髪の毛はこの前会った時よりも短くなっていた。
「おまたせ」
春里が言うと、嬉しそうに文登は微笑む。
「今日も手間を取らせてごめんね。春里ちゃんにも渡したい物があってね」
そう言って文登は右手に持っていた紙袋を上げて見せた。
「なに?」
「後でのお楽しみだよ。その前に、御見舞いに行こう」
文登に当然のように手を掴まれ、春里は戸惑った。以前は当たり前のように手をつないでいた。迷子にならないように、転ばないように、車にひかれないように。色々な理由がそこにあって、それが総て当たり前だったあの頃。でも、今はそんな理由など当てはまらないのに、それが当たり前になっていることに戸惑うのは当然だが、戸惑っている自分がおかしいのではないだろうかと春里は恥じる。何とも複雑な心境だった。
昔と言ってもいつの頃だろう。中学生の頃は手をつないでいたかもしれない。だが、文登が高校生になった頃にはそんな事はなくなった。生活ががらりと変わったこともあるだろう。それと同時に文登はきっと意識していたはずだ。性別の違う者同士が手をつなぐと言う意味を。だが、ある程度大人になると、そんな事はどうでもよくなるのかもしれない。春里にとってはまだ『どうでもいい』という話ではないのだけれど。
「春里ちゃんの手って小さいね」
楽しそうに話しかけてくる文登を呆然と見ていた。途端に眼が合い、視線を逸らすと、文登に笑われた。
「やっぱり女のこの手だよ。華奢でさ、指が長い」
そう言いながら文登の手は春里の手を探るように撫でてきた。そんな事に慣れていない春里は身体が飛び跳ねそうな程驚き、同時に心臓が早鐘を打つ。それを楽しんでいるように、文登の指の動きは大胆になって行く。
「この前は驚いたんだ。夏休みの事だよ。春里ちゃんくらいの年齢の女の子は見る見る女性になっていくよね。見ないうちに違う姿になっていくでしょう。そして、その間、少ししかまだ経っていないのに、また女らしくなっていて驚いたよ」
文登の言葉とは思えずに、春里は呆然とその言葉を聞いていた。
「帰りに会った人は血のつながらないお兄さんでしょう?なんか焦っちゃったよ」
春里の手はまだ遠慮なく撫でられていた。
「うん。僕の妹だったのにねえ。ずっとそう思っていたのにねえ」
文登の足がピタリと止まった。春里は不思議に思い、足を止め、文登の顔を見上げた。文登は少し困った風な表情で春里を見ていた。
「本当はね、最後に言うつもりだったんだ。今日一日楽しんだ後に、言うつもりでとっておいた。だけれどね、何か歯止めが利かない。どうしたんだろうね」
なんか泣き出しそうな笑みを浮かべられ、春里はどう返していいのか分からなかった。
「僕ね、気づいちゃったんだ。以前恋人ができて、一緒に色々休日を楽しんでさ、それなりの付き合いをしてきて、彼女に求められたときに気づいちゃって唖然としたよ。遅すぎるくらいで、僕って鈍感だったんだなってさ」
文登はまた歩き出した。話の先がまだ見えずに春里はどう反応していいのか考えあぐねていた。それなのに、この話の先は春里が望んでいない展開を指していることが感覚でも分かる。逃げ出したいのに逃げられないのが辛い。
「彼女の事は本当に好きだったよ。でもね、虚しくなって、その時に失礼な話、春里ちゃんを思い浮かべちゃって唖然としたんだ。そうなったら最後だね。この間ここで会って、やっぱり好きだなって思って、お兄さんに会って、焦ったんだ」
文登は何が可笑しいのかクスクスと笑った。
「僕、春里ちゃんが好きだよ。女の子として、女性として。許してくれるのならここでキスをしたいくらいに」
見上げると、とても切なげな笑みを浮かべた文登の顔があった。手は知らないうちにしっかりと握られている。
「春里ちゃんにとって僕はどんな存在?幼馴染の男の子?お兄ちゃん?それとも、恋愛対象の男?」
文登が息を長く吐きだした。それをきっかけに沈黙が続く。沈黙を破るのは多分春里の役目だ。だが、今はそれができずに黙っていた。急過ぎた。だから、何が何だか分からなかった。
そうしている間に、目的地である病院に着いてしまった。無言のまま二人は階段を上る。文登は一度来ているから、何も言わなくても自然に病室まで辿り着ける。春里の足取りは重く、文登の背中を見つめながら、その距離をどんどん広げるばかりだった。
病室に入ると、一段と痩せた春香の姿がそこにあった。今日はいつもより顔色が悪い。こういう時に春里がしけた顔をしていては春香に心配をかける。だから、春里は深呼吸の後、笑顔を貼り付けた。
「お母さん、体調はどう?」
春香はゆっくりと春里の方を見た。そして、力無い笑み。
「今日もね、文登君が来てくれたよ」
「こんにちは、おばさん」
「いらっしゃい、わざわざありがとうね、文登君」
声も弱弱しく、小さい。春里は心配になり、春香の頬をそっと撫でた。がさがさの肌、皺だらけの顔。病気になる前は健康的な肌をしていた。すべすべとは言わないが、年相応の肌。それが、痩せすぎたせいだろうか。皺が増え、そして、潤いを総て失っているように見える。春里は込み上げてくる涙を抑えるように唇を噛んだ。
「本当は両親も来たがったのですが、どうしても来られなくて、すみません。僕よりも母と話をしたいのではないですか?」
春香はクスリと笑った。
「確かにね、幸恵ちゃんとお話しすると話題が尽きなくて楽しいけれど、文登くんとお話しするのも好きよ。とても素敵な男の子だもの。その姿を見ているだけで幸せ」
春香は口角をくいっと上げると、春里の方を見て「ね」と言った。
「お母さん、それって微妙におばさん発言」
「立派なおばさんだもの、いいの、いいの」
相変わらず春香の手の甲には点滴の針が刺さっていた。春里はそっと青くなってしまっている部分を撫でる。
「すごいことになっているでしょう」
春香の声は淋しそうな色が混じっていた。春里はハッとして春香を見ると、いつもの笑みがそこにはあった。
「春里、学校はどう?」
「うん。いつも通り。テストだってトップだったし、問題ないよ」
「へえ、さすがね」
「当然だね」
春香の前ではなるべく子供らしく接している。甘えることが母親孝行だと春里は思っている。幼馴染の文登の前で、こういう甘える姿は恥ずかしくて見せたくないが、母親との限られた時間を考えると、文登の眼を気にしてはいられなかった。
「春里ちゃんって頭良かったんだね」
「そうなのよ。勉強が趣味みたいで」
春香は点滴の針が刺さっていない方の手で、春里の頬に触れた。春里はそれに押し付けるようにし、そっと眼を閉じた。
「知らなかった事を知る時の瞬間は素敵だもん。また、わたしの頭の中に新しい世界が入り込んで来たって思うの。そして、それに興味を抱くと、その世界はどんどん広がって行く。想像以上に輝いていると最高」
「本当に、いつもそういう表現をするけど、ピンとこないのよね」
春香の手は春里を確かめるようにゆっくりと動く。春里はその手の温もりと優しさを忘れないように神経を集中させた。
「でもね、そういうことも総て人間が発見した事でしょう。そういうのってやっぱりすごいなって思うの」
零のものを積み上げて十にして百にして。そうやって発見を増やしていく経緯って素敵だと思う。そう、小さく春里は呟いた。
「でも、それって料理にも言えるよね。おいしいものを追求するために、様々な発見をしていく感じは」
「そうね。料理の探求は無限大だものね」
春香は少し楽しくなったのか、声が先程よりは弾んでいる。それを眼を閉じながら感じ取り、春里は自然に微笑んでいた。
病院には一時間程いて、春里と文登は病院と駅の間にある喫茶店に入った。こじんまりした個人の喫茶店の店名は『ジュエリーボックス』。なんとも恥ずかしい店名だ。店内もまた乙女チックで、白を基調にした店内に色とりどりのロウで創られたマカロンやキャンディーやクッキーなどが壁に埋められている。お菓子の家をモチーフにしているようだ。
店に入ってすぐのところに、ショーケースがあり、そこには小さなケーキが並んでいた。それらも色とりどりで、ショートケーキやチョコレートケーキなどの定番のものと一緒に、ピンクや黄色などの鮮やかな色彩を持ったケーキも並んでいる。透明の四角い入れ物に入ったゼリーは、透明のゼリーの中に様々な色と形をしたゼリーがちりばめられ、それこそ本当にジュエリーボックスのようだった。
春里はそれに見惚れ、フルーツタルトとティラミスとゼリーを食べることにする。ケーキは通常売られているものよりも小さく、一口サイズに近いので、何種類か選んでプレートで飾られて提供されるようだ。文登はモンブランと抹茶のシフォンケーキとプリンをオーダーした。
紅茶はダージリンで、白いポットに入って提供された。文登はホットコーヒーを注文した。こちらはブレンド。
「結構趣味でできている店だね」
文登はずっと店内を見渡している。確かに見ていて飽きない。自分たちが童話の世界に迷い込んだような店で、店員の二十代前半の女性はメイド服だ。だからと言って、スカートが短くて、身体のラインがでやすいものではなく、スカート丈が膝を完全に隠してしまうようなものだ。カウンタの中にいて、食べ物と飲み物を提供する男性は、五十代くらいの男性だ。
「あの男性が店主と言うところかな」
「と言うことは、この趣味はあの人の趣味?」
文登と春里の会話はひそひそと小声だ。それを自然と耳に入れたのだろう、メイド服の女性が、にこにこと二人のところにやってきた。
「これは母の趣味なんですよ。あれがわたしの父なんです」
カウンタの中にいる男性はメイド服を着た女性の父親だった。親子でやっている店と言うことだろう。
女性は白い長方形の皿にきれいに飾られたケーキをテーブルに置く。白い皿の上に彩られたソースはまさにジュエリーだった。
「ケーキは母が作っているものなんです。なので、家族経営ですね」
そう言って女性は去って行った。
「納得」
妙に楽しそうな表情の文登を見つめながら、春里は手を合わせて「いただきます」を言った後、フルーツタルトから手をつけた。それは甘さ控えめで、フルーツの酸味がとても美味しいものだった。眼の前に座る文登はモンブランから食べ始める。よく見るとモンブランもタルト生地でできている。
「うん、おいしい。これなら五個くらいは軽く食べられるかな」
「わたしもそう思う。甘さ控えめだし、さっぱりしているから」
「それはフルーツタルトだから余計じゃないかな」
春里に苦笑しながら、文登は優雅にコーヒーを口にする。春里はすっかりフルーツタルトを食べ終え、ティラミスを口にする。ほろ苦さが大人っぽかった。少しアルコールも入っているようで、仄かに喉が熱かった。
「それも甘さは控えめっぽいよね」
確かに、春里は生クリームたっぷりと言うよりも甘さ控えめに見えるさっぱり目のものを好む。ティラミスも濃厚だが、甘さは少ない。
文登はモンブランを食べ終え、次はどちらを食べるか悩んでいる風だった。
「ところでさ、病院に行くときに言った話、忘れていないよね」
ずっと食べることに夢中だった春里は、低めの声に驚き、顔を上げた。そこにあったのは真剣な眼差し。春里を射抜くような強さがあって、春里の手は止まった。
「返事をきちんと聞きたいんだ。どんな返事でも構わないよ。きちんと今のこの状態から抜けられるのなら、覚悟はできている」
視線を逸らさずに伝えてくる文登に春里もまた視線を逸らすことはできなかった。
文登の事は好きだ。ずっとそばにいて優しくしてくれた。そばにいてくれるだけでホッとするし、温かな気持ちになる。微笑んでくれるだけで微笑む事ができるし、何も着飾らない自分を見せることもできる。だけれど、それが恋愛なのかと言われれば違う。ドキドキなどしないし、文登に触れたいとも触れられたいとも思わない。ただ、この返事次第で関係が変わってしまうことに戸惑い、春里は答えに躊躇った。
「春里ちゃん、僕のためにきちんと答えをちょうだい」
とても優しい音だった。
「そうだね。そうだよね」
春里は眼を閉じ、深呼吸をする。そして、ゆっくりと眼を開けた。眼の前にはにこやかな表情の文登。
「わたしにとって文登君はお兄ちゃんみたいな存在かな。一緒にいるだけで安らげるし、楽しい。それは確かだよ。着飾ることなく、そのままのわたしを見せることもできる。でも、やっぱりこの感情は恋愛とは無縁だと思うんだ。でもね、文登君はずっとわたしにとっては大切な人だよ。ずっと」
手が震えていた。声も震えていた。大人になり、変化していく関係が恨めしい。子供の時のように当たり前のように一緒にいて、手をつないで、料理をして、遊んで。そんな関係が続けばいいのにと願う。だけれど、そう願っているのは春里だけで、文登は関係の変化を望んでいる。
「辛い返事をさせてごめんね。これでやっと吹っ切る事ができると思うんだ」
「ごめんなさい」
「ううん。はっきり言ってもらえて嬉しいよ。さあ、おいしいケーキをまだ食べている途中だからね、気を取り直そうか。なんて、僕が全部壊したんだけれどね」
文登の手がまた動きだし、シフォンケーキを添えてある生クリームに付けて食べ始めた。
「うん、これは春里ちゃんの好みかもしれない。生クリームもあっさりしているし、シフォンケーキの苦みもちょうどいいよ」
気を遣っているのか、文登は終始笑顔で、春里はそれに応えるように微笑んだ。これで最後なのかもしれない。連絡を入れ合わなければ会えない幼馴染。相手が会いたいと思わなければ会えない距離。多分、文登は春里に会いたいとは思わないだろう。
店を出た時には空は燃えるような朱色をしていた。駅まで行くと、文登はずっと持っていた紙袋を春里に手渡した。
「涼しくなってきたからね、お弁当なんだ。夕飯のときにでも食べて」
手渡された紙袋の中には、重箱が入っていた。
「入れ物は返す必要ないよ。何かの時に遣ってくれてもいいし、捨ててくれてもいい。ただ、僕が春里ちゃんのために作った中身だけはしっかり食べてほしいな。それが僕からのお願い」
「ありがとう」
「うん。じゃあ、今日は本当にごめんね。いっぱい困らせちゃったね。もう、困らせないから」
「ねえ、もうわたしは文登君と会えなくなるの?」
会えるよ、と一言言ってほしくて、縋るような気持ちで春里は尋ねた。だけれど、文登の表情は困ったような笑みで、その口から発せられるものが春里の望んでいるものとは違うような気がして、春里は強く眼を閉じた。
「僕の気持ちに整理がついて、春里ちゃんを妹として見る事ができるようになったら連絡を入れるよ。それまで時間がほしいな」
「絶対だよ」
「うん。きっとその時は僕は料理人になっていて、春里ちゃんが自慢したくなるようなすごく素敵なお兄さんになっているよ」
文登の右手が春里の左頬に触れた。そっと寄せられる温もりを感じ、春里は唇を噛んだ。
「だから、春里ちゃんも素敵な女性になるんだよ」
「うん」
ゆっくりと撫でるようにして文登の右手は離れた。その手を追いかけるように春里の眼は動く。文登はその手をじっと見ていた。
「じゃあ、行くね」
そのままその手は振られる。
「うん。今日はありがとう」
「うん。こちらこそありがとう」
文登は春里に背を向け、そのまま振り返ることなく改札に入って行った。
ということで、文登君去ってしまいました。常に一緒にいるときは気付かなかった感情があることをきっかけに顔を出す、と言う感じでしょうか。
次回は貴之の焦燥。
次回もお付き合いください。




