【貴之の隠れた感情】
単純なのだと思う。夕飯の準備をする春里を見て、一人に総てを押し付けるのは申し訳ないと思い、手伝いをするようになった。朝に弱い春里が慣れない階段で毎朝転がり落ちそうなのを見るのが嫌だと思って、転ばないように手を差し出した。総ての行動にはそれなりの理由があり、そう思って貴之はやってきた。だが、今気持ちを認めてしまって、総ての行動が下心からきているような錯覚に陥る。
出逢った時から好きだった。それはきちんと分かっていた。だが、それをしっかり認めてしまったら、この先抑えが利かないような気がして怖くて、それをずっと封印してきた。もしかしたら一連の行動の意味は言い訳に過ぎないのかもしれない。認めてしまってからと言うもの、自分の親切には裏があるような気がして貴之は戸惑った。
朝、当たり前のように春里の身体を支えた。その時、春里の柔らかい身体をその手は感じる。目覚めたての温もりを手の平に感じる。いつもよりも目覚めが悪いのか、当然の様に頼り、寄りかかる無防備な春里。歩きづらくて、抱え直すと、思いのほかやわらかい胸に貴之の指先が当たった。ドキッとした。焦って自ら足を滑らせて階段から落ちそうになった。
今、貴之は春里を支えるために、背中に腕をまわし、春里の脇の下あたりに手の平を当て、彼女の全体重を支えて階段を下りている。そうのせいか、貴之の手の平には時折春里の胸が触れる。だからと言って、運び方を変えるとしよう。米俵のように肩に担げば、顔の近くにお尻が来るだろう。手が触れるのは春里の太腿だ。想像するだけで階段を踏み外しそうだ。
ならば、俗にいうお姫様だっこはどうだろう。想像するまでもない。無防備な春里をそんなふうに抱えた時点でアウトだ。
ならばおんぶはどうだろう。それだってアウトなのは眼に見えている。背中に春里の体温を感じるとともに、あの柔らかな身体を感じることになる。
十代の男の理性なんて脆いものだと貴之は知っている。何度も脆くて崩れ落ちた理性。貴之はそれで何度も自己嫌悪に陥っていた過去がある。今は春里がいるから、それなりの生活をしているが、春里と出逢う前は、興味本位で何でもしていた過去があるのだ。
それはまあ措いておいて、貴之としては試練としか思えない日々がそこにはあった。口に出したのが失敗だった。思わず奏太の挑発に乗って自分の気持ちを認めてしまったことで、抑えが利かない。今もそうだ。春里を抱え、階段を慎重に下りている今も、もう少し触れたいと邪な感情が顔を見せ、貴之の指先は遠慮なく春里の胸に触れている。そして、何でもないように感触を確かめている。
朝の春里はいつもの春里よりも無防備で、貴之を信用しきっている。だから、こんな感情でこういう事をしているなどと露も思っていない。それを分かっているからこそ、やってしまうずるい自分が貴之は嫌になっていた。なのに、どうしてもこういった衝動は抑えられず、頭の中とは別に、逆らうように指先は春里の柔らかさを堪能する。
ふと、春里が足を踏み外した瞬間、貴之は瞬時にその身体を支える。その手は自然に春里を抱き抱え、気がつけば春里の胸をしっかり掴んでいた。こればかりはどうにもならない。やろうと思ってやったわけではない。これはアクシデントなのだ。だけれど、貴之はその手を離す事ができなかった。不可抗力を利用して、しっかりとそれを堪能している自分を恥じながらも、許される限り触れていたいと思うのだ。
階段を総て下り切り、春里を解放するまで、貴之は兄ではなく男として春里に触れていた。そうなるとそれからは春里に申し訳なくて顔を見ることさえできなくなる。後ろめたさはその日ずっと続くのに、きっと次の日の朝も同じようにしてしまうのだろうと容易に想像ができて、貴之は自分が怖くなった。いつか本当にプチンと切れてしまって、襲いかかってしまうのではないか、と心配で仕方なかった。
モデルの仕事を始めたきっかけは、スカウトだった。貴之は奏太と一緒に買い物に出ていた。そして、二人でスカウトされた。貴之は迷い、奏太にどうするか聞いた。
「俺はやりたい事があるから、それのために全力投球。モデルなんて仕事は興味ないからお断り」
やけにさっぱりと言われ、迷っている自分が惨めに感じた。だが、貴之の中には奏太とは違う感情が存在する。やりたい事がまだ見つからない。だから、色々経験できるのであれば試しに経験をしてみたい。モデルの仕事に興味を抱くと言うよりも、新しい世界を見てみたいと言う興味そのものが存在していた。
その時貴之は奏太と一緒にバスケットボール部に入って、それを青春だと楽しんでいた。だが、そのほかにまだ青春があるのであれば、それを経験してみるのも悪くはない。バスケットボールに対しても中途半端な感情しか持っていなく、試合に勝ちたいなどの強い思いがあったわけでもない。絶対にレギュラーになって、などと考えられるくらい情熱を抱いていたわけでもない。だからこそ、何かもっと情熱を傾けられるものがあるのではないだろうか、と期待したことも事実だった。
仕事をするにあたって、土日祝日限定ならば、と契約をし、モデルを始めた。すぐに分かった。貴之には向いていない。笑えと言われて、笑えるほど器用でもなかったし、そうできる程情熱もなかった。気持ちも冷めていて、恥ずかしくて仕方なかった。だが、始めたことにより、無責任に辞めることはできなかった。
初めて雑誌に載った時はそれなりに嬉しかった。奏太も喜んでくれた。そして、それがきっかけで今の立場が生まれた。そうなるなんて想像もしていなかったら戸惑った。戸惑っているうちに担がれた感じだった。貴之は今でも、なぜこんな事になっているのか分からない。
そんな中、一緒に仕事をした年上の女性モデルに誘われ、クラブに行った。そこで、年を誤魔化し、お酒を飲む。狂ったように踊る薄着の彼女の身体のラインが気になり、眼を奪われた。それを楽しんでいるように彼女は貴之を挑発する。そして、その罠にかかった。経験がなかったから、簡単に落ちてしまった。
気づいた時は女の狭い部屋で、誘われるままにベッドで女に覆いかぶさっていた。胸の柔らかさも、女の表情も、自分の快感さえも覚えていない。それが、貴之の初めての経験だった。愛など存在しない、まるでサル同士の戯れだった。それからその女と何度か関係を持った。冷静になればどうって事のない行為だが、若い貴之にはとても刺激的だった。
それと同時に、他の誘いもあり、他の女とも関係を持った。こういう遊びを知ると歯止めが利かない。興味だけが貴之を煽り、誘われれば断らずにその遊びを楽しんだ。そして、経験だけは大人になった。
学校ではアイドルのように扱われ、煩い女たちが遠巻きに騒ぎ立てる。誰かに話しかけても話しかけられても、それの相手が女と言うだけで、その相手が痛い目に遭った。それを知ってからと言うもの、貴之は学校ではクールで硬派と言うわけのわからない肩書が登場した。学校の外では軟派で軽い男なのに。貴之はその二つに戸惑いながらも、長い間、その生活を満喫していた。
一年もすればそんな生活は飽きた。だから、誘われても乗らないようになった。そうやって断っていけばいずれは誘われなくなる。陰で色々言われているようだが、関係なかった。女は怖い。それが貴之の結論だった。
ところがどうだろう。あんな軽い遊びをずっとしてきた貴之が、春里と出逢い、全く違う自分を知った。
夏休みに入って間もない頃、両親に呼び止められ、決定事項を告げられた。その時、本気で言っているのだろうか?と思った。冗談ではないとも思った。この年になって血のつながらない妹を迎えるなんてできないと思っていた。母親の立場も微妙なのではないかと思っていた。貴之は俯き加減で貴美の様子を窺った。そこには戸惑いなどなくて、きれいな笑みだけがあった。吹っ切ったと言うのか、それとも楽しみと言うのか。どちらでも構わないが、貴之の存在を充分無視している決定事項に反抗をしたくなっていたのは確かだ。だが、あまりにも貴美があっさりと「妹ができるって素敵でしょう?兄妹がいた方がいろいろ楽しいと思うし」なんて呑気に口にするものだから、唖然としているうちに頷いていた。
そして、本当に妹と見られない自分に遭遇し、唖然とした。だが、今はまだ認めてはいけない。兄として、妹として、接して行かなければならない。だから、見てはいけない感情から眼を背けた。彼女は妹なのだとそう言い聞かせて、ずっと頑張ってきたのに、それは今脆くも崩れ落ちてしまったようだ。
貴美は夜勤のため、まだ家には帰ってきていない。だから、春里が顔を洗い、きっちり眼を覚ますまでに貴之が朝食の準備をする。
用意するものは簡単だ。まず、薬缶に水を入れ、火にかける。パンをオーブントースターに入れ、焼く。昨日の夜の残りであるポテトサラダを冷蔵庫から出し、テーブルに置く。マグカップの中にカップスープの粉を入れる。沸騰したお湯をマグカップに注ぎ入れ、掻き雑ぜる。焼けたパンを皿に出す。考え事をしていてもできる作業だ。このくらいなら貴之にも簡単にできる。
総てがでそろった時、すっきりした顔の春里がリビングに顔を出した。
「おはようございます」
「おはよう」
すでに一度、朝の挨拶は済ませている二人だが、春里に心当たりはないのだろう。いつものことなので、貴之はそれに応える。
「わあ、ありがとうございます」
ダイニングの椅子に座りながら、先程まで寝惚けていたとは思えない程のはっきりした声が響いた。貴之も椅子に座り、春里に笑顔を返す。二人同時に手を合わせ、「いただきます」と呟くと、各々食べ始めた。春里はカップスープから。貴之はトーストにバターを塗るところから。
すでに一緒に帰っているのだから、一緒に登校すればいいものを、律儀に守る形で、それぞればらばらに家を出る。
二人が兄妹と言うことは学校中の噂になっている。春里を呼び出した女の子たちが、三年生のファンクラブ――そんな名称でいいのか不明だが今は仕方ない――の女の子たちに報告をしたことがきっかけで広まったらしい。
二人の苗字が違うのは、春里が母方の苗字を名乗り、貴之が父方の苗字を名乗っているからだ、と言うことらしい。それはある意味当たっている。これも春里がその女の子たちに言ったようだ。春里曰く『女の子』では無くて『サル』なのだそうだが。
そのお陰で騒がれなくなったと春里は言っていたから、一緒に登校してもなんも問題はないだろう。そう思っているが、貴之はやはり自分の立場から遠慮してしまう。本当にできる限り近くにいたい。だが、同時に、一緒にいる時間だけ危険が多くなっていくということだ。この場合の危険は言わずもがな。一見硬派に見えるようだが、中身は至って普通の男。一度ぶち切れたら盛りの付いた獣そのものに堕ちてしまいかねない。今までそれなりの経験はしてきたが、その経験などあてにならないくらい、今の感情は不安定だ。春里の黒い髪が揺れ、そこからシャンプーの香りが微かに漂うだけで息を呑むあたり、貴之は切羽詰まり、追い詰められている。
――学校を卒業するまで、我慢できるだろうか。
自分でも抑えきれない激しい感情を抱きながら、貴之は深い溜め息を吐いた。
貴之の過去を語るか語らないか。悩みどころではあったのですが、あえて。
次回は久々に文登君登場です。忘れられているかも……。
次回もお付き合いください。




