【貴之の本心】
貴之は自分の部屋でうろちょろしている。端から端へ歩く。それを何往復もやっていた。
今朝、おしゃれをしている春里を見た。と言ってもシンプルなものだ。黒の柔らかな素材のワンピースにダイヤ柄のタイツ。薄手の黒のジャケットを着ていた。珍しく髪は一つに結わいてあった。右に寄っている結わき方は、春里を大人っぽく見せていた。
「どこか行くのか?」
貴之が聞くととても楽しそうに微笑み、頷いだ。
「増永さんと映画に行ってくるから」
そう言いながら洗面台の鏡で最終チェックをする春里を貴之は複雑な思いで見つめていた。
――奏太と出かけるためにこんな格好をするのか?
思ったことは口にはできず、じっと鏡の中の春里を見つめるだけだった。
先程、声を弾ませて「行ってきます」と言って出て行ってしまった。引き止めることなどできるはずもなく、貴之は曖昧な笑みを浮かべて見送るしかなかった。
そして、今、心配で仕方ない。別に奏太を信用していないわけでもないのだが、なんとなく心配でじっとしていられなかった。
勉強をしなければならないことは重々承知だが、全く身に入らない。手につかない。貴之の頭には奏太と春里のことしかなくて、勉強どころではない。それどころかじっとできないで、この狭い部屋の中をうろちょろするだけだった。
「くそっ」
苛立ちはピークに来ているようだった。貴之自身、自分がどうしてこんなに苛立っているのか分からない。すでにボサボサになっている髪を両手で掻き雑ぜる。この動作を今日この部屋に入ってから何度しているだろう。
時計を見る。溜め息を吐く。また端から端へと歩く。両手で髪を掻き雑ぜる。時計を見る。溜め息を吐く――と繰り返していることをやっと貴之は気づき呆然とする。
春里が出て行ってから二時間が経っていた。
春里が帰って来たのは空の色が変化し、紫色とピンク色のグラデーションができた頃だった。玄関のドアが開く音を聞き、貴之は何も考えずに部屋から出て、階段を駆け下りた。そこには春里と奏太が立っていた。
奏太の姿を認めた途端、貴之は我に返り、なんともバツの悪い思いに襲われた。
「おかえり」
一度深呼吸をしてから貴之は言った。
「ただいま」
春里はそう言って、ブーツを脱ぐ。なぜか奏太も靴を脱ぎ出したので、貴之は奏太を睨んだ。奏太はそれをどこ吹く風といった風情で笑って受けた。
「リビングで待っていてください。すぐにお茶淹れますから」
すでに靴を先に脱いでしまった奏太に春里は言い、春里はまだ履いている片方のブーツを脱ぎ出した。
貴之は奏太の後を追ってリビングに入った。我が物顔でソファに座る奏太の隣に当然のように座る。
ソファは二つある。三人掛けのソファとそのソファの九十度の位置にある二人掛けのソファ。貴之と奏太は三人掛けに座った。
「何でお前がここにいるんだよ」
「何で、って『寄ってお茶でもどうですか?』って言われたからだよ」
二人の会話はなぜか小声だ。
「何で春里は――」
貴之は溜め息を吐き、ソファに凭れた。
「気になるのか?俺たちがどんなデートをしてきたかさ」
「気にならない」
「たとえ手をつないでいても?抱きしめ合っていても?キスをしても?ホテルに行っても?」
奏太は楽しそうに挑発をする。総て嘘で、挑発だと分かっていても苛立ちは抑えられなかった。貴之は奏太の胸倉を掴んだ。
「どこまでなら許せる?まあ、おまえのものじゃないし、許すも何もないよな。春里ちゃんがいいって言えばそれが答えだ」
掴んだシャツは離せなかった。だからと言って振り上げたこぶしは奏太を殴ることはなかった。
「さあ、同じ土俵に上がって来るか?」
貴之と対照的に奏太はとても楽しげだ。貴之は唇を噛みながら、胸倉を掴んでいた手の力を抜いた。
「上がる」
貴之の言葉に奏太は盛大に笑った。
「やっと認めたな」
こんな男がライバルなど認めたくはなかった。それより、妹をそういう対象に見たくなかった。そんな事最初から無理だったのに、もがいていた。
しばらくして春里は部屋着姿でリビングに入ってきた。そして、貴之と奏太に淹れたのは紅茶だった。アイスではなくホットだ。
認めてしまえば加速する。人間の感情なんてそういうものだ。キッチンに並んで夕飯の支度をしている時、春里に触れたいと思う。どこでも構わない。だから、偶然を装って触れる。腕や肩や頭。時折、無意識に頬に手が伸び、貴之本人でさえ驚く。
「今日は楽しかったか?」
聞きたいような聞きたくないような複雑な感情を抱きながら、沈黙が自分を狂わしそうな気がして、貴之は聞いた。
「はい。楽しかったですよ。映画も久しぶりだったんです。だからびっくりしましたよ。今の映画館ってあんななんですね。でも、増永さんには申し訳ない事をしてしまいました。映画のチケット代、お昼代、飲み物代、パンフレット代、総て出してもらったんです。『こういう時は男が出すものだから』なんて言って」
奏太も格好つけたかったのだろう。貴之もそういう気持ちが分かるから、少しだけ援護する。
「奏太はそうしたかったんだよ。そうすることが楽しかったんだから素直に受け取ればいい。それも含めて奏太のお願いだと思うよ」
春里は料理をする手を止めて、貴之を見た。そして、ゆっくりと微笑み、頷いた。
「今度は俺と行こう。病院の帰りにでも」
「はい」
断られなくてよかったと胸をなでおろした。これで奏太と同じ土俵に上がれる。本当にこの気持ちを認めていいのか分からないが、もうここまで来てしまったのだから進むしかない。そう吹っ切ってしまった貴之は、一番身近にいると言う武器をこれからどう利用しようかと考えていた。
とうとう認めてしまいました。認めてしまったら変化する。貴之もまたそうですね。ところで、こういう時『同じ土俵に上がる』は正しい使い方なのでしょうか?
次回は春里の回想。
次回もお付き合いください。




