第93話 同じ文を、違う顔で読む
審議室には、署名欄を増やされた者たち特有の澱んだ空気が残っていた。
誰も表立って不満を言わない。だが、書類へ伸びる指は鈍く、赤い枠線を避けるように紙の端ばかりが擦れている。
「では、次の文言に移ります」
進行役が、改訂案の中ほどを読み上げた。
「現場負担が過大となる場合、必要に応じて柔軟な対応を認める」
セレフィーナの指先が、赤ペンを持ったまま止まった。
審議役の一人が、にこやかに顔を上げる。
その笑みを見た瞬間、背筋が冷えた。
言葉を褒める顔ではない。
自分たちの手元へ引き寄せられると見抜いた顔だ。
「たいへん現実的な文言かと存じます」
審議役は、問題の一文を指で押さえた。
「では、高位家案件や神殿案件においても、通常手順に馴染まない場合には、この“柔軟な対応”を適用できるという理解でよろしいですね」
赤ペンの先が紙に触れた。
小さな赤い点が、じわりと滲む。
言葉を盗まれかけている。
セレフィーナは、審議役の指先を見た。上等な手袋に包まれた指が、こちらで作った文を、何食わぬ顔で別の場所へ運ぼうとしている。
ノアが隣で、低く言う。
「美しい“柔軟性”という言葉は、お上の手に渡れば、職務怠慢の免罪符になりますよ」
審議役の笑みが、ほんの少し硬くなる。
「ノア様。少々、言葉が過ぎるのでは」
「では、柔らかく言い換えましょうか」
ノアは、審議役が押さえた一文を見下ろした。
「誰も責任を持たずに手順を抜くための布です。かければ汚れが見えなくなる」
進行補佐の喉が鳴った。
審議役は、穏やかな表情を崩さない。
「高位家や神殿には、それぞれ事情がございます。通常手順にこだわれば、かえって混乱を招きましょう」
短い言葉だった。
けれど、その中に、高位家の体面も、神殿の特殊性も、王都側の都合も、まとめて押し込まれている。
ミレイアが、紹介文案を止めた時の差し込み紙を見下ろした。
「本人負担への配慮、という言葉でも同じことが起きました」
声は静かだったが、鋭い。
「本人のため、と言いながら、本人確認欄は空白でした。今回も、“必要”と書いた瞬間、誰の必要かが抜けています」
審議役がミレイアを見る。
その視線には、若い令嬢が口を挟んだことへの薄い驚きが混じっていた。
だが、ミレイアは引かない。
「本人の返事がないまま紹介文が作られたように、現場の負担が確認されないまま“柔軟”だけが先に使われるなら、同じです」
イレーネも、地方側資料の端を机に置いた。
乾いた音がする。
「地方に届く時には、“柔軟対応済み”とだけ書かれているでしょうね」
彼女の声は氷のように冷えていた。
「誰の負担が軽くなったのか。誰の仕事が増えたのか。誰が費用を持つのか。そこが空白のまま、王都では調整済みですと言われる。そうなれば、こちらは結果だけを飲まされます」
審議役の笑みが、今度ははっきり薄くなった。
「そこまで悪意に取らずとも」
「悪意がなくても、空白は埋められます」
イレーネは即座に返した。
「たいてい、弱い側の時間で」
審議役は、なおも穏やかに押してくる。
「規定に“必要に応じて”とございます。必要性の判断には、案件ごとの裁量が必要ではありませんか」
「誰にとって必要なのかが、抜けています」
セレフィーナが言った。
審議室が止まった。
進行役の羽ペンも、紙の上で止まる。
審議役は、少し間を置いて微笑む。
「では、その区分をどのように明確にされるおつもりですか」
その声には、挑発が混じっていた。
どうせ分けられないだろう。
どうせ柔軟という言葉には幅があるだろう。
どうせ最後は、読む側の裁量になるだろう。
そういう顔だった。
セレフィーナは、赤ペンを握り直した。
がり、とペン先が走った。
【現場負担の定義】
審議役の指が止まる。
セレフィーナは構わず書き込んだ。
【実務担当者、本人、費用負担者に発生する追加作業・時間・金銭負担を指す】
赤い線が、文字を囲っていく。
次の行。
【高位家の体面、神殿側の儀礼都合、王都側の進行都合は含めない】
部屋の空気が、ぴんと張った。
婦人の扇が止まる。助祭の微笑が遅れる。審議役の唇が、わずかに開いた。
「セレフィーナ様、それは少々、限定が強すぎるのでは」
「限定しなければ、あなた方が持っていくでしょう」
セレフィーナは、顔を上げずに言った。
また赤い文字が走る。
【柔軟対応の適用目的】
【弱小家および地方実務の過重負担軽減に限る】
ペン先が紙を深く削った。
赤いインクの匂いが、清潔な審議室に鋭く混じる。
審議役が、ゆっくりと息を吸った。
「しかし、高位家案件でも、影響が広い場合には」
セレフィーナは最後の一行を書き込む。
【高位家・神殿・王都側の手順免除理由として用いることを禁ずる】
がり、と音がした。
審議役の指が、問題の一文から離れた。
さきほどまで滑らかに読まれていた文は、赤い定義に押さえ込まれ、もう勝手な方向へ動けない。進行役が、慌てて追記を控えに写し始める。
審議卓の向こうで、誰かが小さく咳払いをした。
セレフィーナは、まだ乾かない赤字を見下ろす。
赤い枠線の端から、インクが紙の繊維へじわりと沈んでいく。
清潔な審議室の中で、その匂いだけが、やけに生々しく残っていた。




