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悪役令嬢にされる予定でしたが、先に舞台から降ります。  作者: 星渡リン
第4部 第3章 その解釈が役を決める

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第93話 同じ文を、違う顔で読む

 審議室には、署名欄を増やされた者たち特有の澱んだ空気が残っていた。


 誰も表立って不満を言わない。だが、書類へ伸びる指は鈍く、赤い枠線を避けるように紙の端ばかりが擦れている。


「では、次の文言に移ります」


 進行役が、改訂案の中ほどを読み上げた。


「現場負担が過大となる場合、必要に応じて柔軟な対応を認める」


 セレフィーナの指先が、赤ペンを持ったまま止まった。


 審議役の一人が、にこやかに顔を上げる。


 その笑みを見た瞬間、背筋が冷えた。


 言葉を褒める顔ではない。

 自分たちの手元へ引き寄せられると見抜いた顔だ。


「たいへん現実的な文言かと存じます」


 審議役は、問題の一文を指で押さえた。


「では、高位家案件や神殿案件においても、通常手順に馴染まない場合には、この“柔軟な対応”を適用できるという理解でよろしいですね」


 赤ペンの先が紙に触れた。


 小さな赤い点が、じわりと滲む。


 言葉を盗まれかけている。


 セレフィーナは、審議役の指先を見た。上等な手袋に包まれた指が、こちらで作った文を、何食わぬ顔で別の場所へ運ぼうとしている。


 ノアが隣で、低く言う。


「美しい“柔軟性”という言葉は、お上の手に渡れば、職務怠慢の免罪符になりますよ」


 審議役の笑みが、ほんの少し硬くなる。


「ノア様。少々、言葉が過ぎるのでは」


「では、柔らかく言い換えましょうか」


 ノアは、審議役が押さえた一文を見下ろした。


「誰も責任を持たずに手順を抜くための布です。かければ汚れが見えなくなる」


 進行補佐の喉が鳴った。


 審議役は、穏やかな表情を崩さない。


「高位家や神殿には、それぞれ事情がございます。通常手順にこだわれば、かえって混乱を招きましょう」


 短い言葉だった。


 けれど、その中に、高位家の体面も、神殿の特殊性も、王都側の都合も、まとめて押し込まれている。


 ミレイアが、紹介文案を止めた時の差し込み紙を見下ろした。


「本人負担への配慮、という言葉でも同じことが起きました」


 声は静かだったが、鋭い。


「本人のため、と言いながら、本人確認欄は空白でした。今回も、“必要”と書いた瞬間、誰の必要かが抜けています」


 審議役がミレイアを見る。


 その視線には、若い令嬢が口を挟んだことへの薄い驚きが混じっていた。


 だが、ミレイアは引かない。


「本人の返事がないまま紹介文が作られたように、現場の負担が確認されないまま“柔軟”だけが先に使われるなら、同じです」


 イレーネも、地方側資料の端を机に置いた。


 乾いた音がする。


「地方に届く時には、“柔軟対応済み”とだけ書かれているでしょうね」


 彼女の声は氷のように冷えていた。


「誰の負担が軽くなったのか。誰の仕事が増えたのか。誰が費用を持つのか。そこが空白のまま、王都では調整済みですと言われる。そうなれば、こちらは結果だけを飲まされます」


 審議役の笑みが、今度ははっきり薄くなった。


「そこまで悪意に取らずとも」


「悪意がなくても、空白は埋められます」


 イレーネは即座に返した。


「たいてい、弱い側の時間で」


 審議役は、なおも穏やかに押してくる。


「規定に“必要に応じて”とございます。必要性の判断には、案件ごとの裁量が必要ではありませんか」


「誰にとって必要なのかが、抜けています」


 セレフィーナが言った。


 審議室が止まった。


 進行役の羽ペンも、紙の上で止まる。


 審議役は、少し間を置いて微笑む。


「では、その区分をどのように明確にされるおつもりですか」


 その声には、挑発が混じっていた。


 どうせ分けられないだろう。

 どうせ柔軟という言葉には幅があるだろう。

 どうせ最後は、読む側の裁量になるだろう。


 そういう顔だった。


 セレフィーナは、赤ペンを握り直した。


 がり、とペン先が走った。


【現場負担の定義】


 審議役の指が止まる。


 セレフィーナは構わず書き込んだ。


【実務担当者、本人、費用負担者に発生する追加作業・時間・金銭負担を指す】


 赤い線が、文字を囲っていく。


 次の行。


【高位家の体面、神殿側の儀礼都合、王都側の進行都合は含めない】


 部屋の空気が、ぴんと張った。


 婦人の扇が止まる。助祭の微笑が遅れる。審議役の唇が、わずかに開いた。


「セレフィーナ様、それは少々、限定が強すぎるのでは」


「限定しなければ、あなた方が持っていくでしょう」


 セレフィーナは、顔を上げずに言った。


 また赤い文字が走る。


【柔軟対応の適用目的】


【弱小家および地方実務の過重負担軽減に限る】


 ペン先が紙を深く削った。


 赤いインクの匂いが、清潔な審議室に鋭く混じる。


 審議役が、ゆっくりと息を吸った。


「しかし、高位家案件でも、影響が広い場合には」


 セレフィーナは最後の一行を書き込む。


【高位家・神殿・王都側の手順免除理由として用いることを禁ずる】


 がり、と音がした。


 審議役の指が、問題の一文から離れた。


 さきほどまで滑らかに読まれていた文は、赤い定義に押さえ込まれ、もう勝手な方向へ動けない。進行役が、慌てて追記を控えに写し始める。


 審議卓の向こうで、誰かが小さく咳払いをした。


 セレフィーナは、まだ乾かない赤字を見下ろす。


 赤い枠線の端から、インクが紙の繊維へじわりと沈んでいく。


 清潔な審議室の中で、その匂いだけが、やけに生々しく残っていた。

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