第91話 親切な沈黙
エリアナの紹介文案は、配られなかった。
そのはずだった。
けれど、セレフィーナの机の上には、薄い紙がいくつも積まれていた。正式議事録はたった一行。
奉仕茶会補助役について、後日確認予定。
それだけ。
その横に、紹介文案が三枚。家宛ての打診文の下書きが二枚。関係者の私的な控えが一枚。
議事録の薄さに対して、本人を取り囲むための紙だけが妙に厚い。積まれた紙の影が、まだ返事をしていないはずのエリアナの名前の上に落ちていた。
「……本人の返事より先に、外堀の方がよく働くのね」
セレフィーナは、家宛ての下書きを指で押さえた。
エリアナ様の柔らかなお人柄にふさわしい役割として。
ご本人のご負担にならぬよう、事前にご家族へご相談申し上げます。
本人の名前はある。
本人の声だけが、どこにもない。
ノアが横から紙面を覗き込む。
「非公式の合意なんて、監査が入れば一秒で消し飛ぶただの不祥事ですよ。よくまあ、こんなに丁寧な顔で置いておけますね」
「丁寧なら消えないと思っているのでしょう」
「紙の質がよくても、中身が腐っていれば臭います」
ミレイアは、配布を止めた差し込み紙を手にしていた。赤い枠線は乾いている。けれど、その白い確認欄はまだ空白のままだ。
「エリアナ様は、考える時間がほしいと仰いました」
その声は控えめだった。
けれど、机の上のどの紙よりも重かった。
「その言葉が、どこにも残っていません」
セレフィーナは、議事録の余白を見た。
何もない。
手巾を握りしめていたことも、笑顔が遅れていたことも、考える時間を求めたことも、正式な紙の上では最初から存在していない。
王都側の調整役の婦人、進行補佐、地方神殿の若い助祭が呼ばれたのは、それから間もなくだった。
三人とも、失礼のない顔で入ってきた。少し困ったような、けれど自分たちは善意で動いたのだと疑っていない顔だった。
「ご本人を傷つけないための配慮でございました」
婦人が、まずそう言った。
「表の場で急に尋ねられれば、断るにも勇気が要りますでしょう。内々に整えておけば、仮にお断りになる場合も恥をかかずに済みます」
「先にご家族へお伝えしておけば、ご本人も安心してお返事できます」
進行補佐が続ける。
助祭も、穏やかに頷いた。
「神殿としても、若いご令嬢のお心に負担をかける意図はございません。静かに準備しておくことも、必要な思いやりかと」
思いやり。
配慮。
安心。
柔らかい言葉が並ぶたび、エリアナの名前の上に置かれた紙の影が、また一枚ぶん濃くなる。
セレフィーナは、家宛ての打診文を二本の指で持ち上げた。
紙の端が、かすかに揺れる。
「この文は、エリアナ様へ見せましたか」
「まだでございます。正式ではございませんので」
「紹介文案は」
「仮案でございます」
「この私的控えは」
「確認のための覚えにすぎません」
まだ。
仮。
覚え。
その三つの言葉だけで、机の上の紙束はずいぶん身軽なふりをした。
セレフィーナは、家宛ての下書きを机へ戻す。
「公式記録に残せない配慮なら、実務上は所在不明の指示です」
婦人の扇が、ぴたりと止まった。
「所在不明などと、そのような」
「では、残しましょう」
セレフィーナは赤ペンを取った。
声は低い。怒鳴ってはいない。けれど、部屋の空気が重く沈む。
「非公開で進めるなら、誰が、誰のためと言い、どこまで話を進めたのかを書いてください。記録できない配慮を、本人の上に載せないで」
進行補佐が息をのむ。
セレフィーナは紹介文案の上に赤い線を入れた。
ペン先が紙を削る。
ぎり、と嫌な音がした。
その一画で、婦人の「内々」という言葉の逃げ道がひとつ塞がる。
次の一画で、進行補佐の「仮案」という逃げ道が細くなる。
さらに赤が走る。
助祭の「思いやり」という言葉が、記録欄の格子に引っかかる。
「内々の配慮ですのに」
婦人の声が、初めて少し硬くなった。
「表に出すほどのことではございませんわ」
ミレイアが一歩前へ出た。
「正式な場で言わせないなら、正式な記録に入れてください」
全員の視線が、ミレイアへ向く。
彼女は、空白の確認欄を机に置いた。
「エリアナ様は、考える時間がほしいと仰いました。紹介文案には名前があります。家宛ての文もあります。でも、エリアナ様の声だけがありません」
言い終えてから、ミレイアは少し息を吸った。
手は震えていない。
「声を守るなら、黙らせるのではなく、残す場所を作ってください」
セレフィーナは、ミレイアの言葉を受けて、赤ペンを握り直した。
紹介文案。家宛て下書き。私的控え。
三つの紙を机に並べる。
赤い線が、格子のように走り始めた。
誰がその場にいたのか。
本人へ伝えていない理由は何か。
家へ先に出そうとした文面はどこまで進んでいたのか。
考える時間を求めた声を、どの紙に入れるのか。
問いは、文章ではなく枠として置かれていく。
枠が増えるたび、婦人の口元の笑みが少しずつ固まった。進行補佐は喉を鳴らし、助祭は視線を下げる。
ノアが、赤字の増えた紙を見下ろす。
「非公開の相談を記録するだけで、ずいぶん表情が変わりますね。よほど暗いところで育てたい話だったのでしょう」
婦人が言い返そうとして、言葉を飲んだ。
セレフィーナは顔を上げる。
「この件は、公開確認を要します」
部屋が止まった。
「公開確認……ですか」
婦人の扇が、かすかに軋む。
「ええ」
セレフィーナは、新しい紙を引き寄せた。
表題に赤で書く。
公開確認要求。
赤い文字が、紙に沈んでいく。
「内々に話したこと、そこにいた者、本人へ伝えていなかった理由。紹介文案と家宛て打診文が作られた時点。エリアナ様が考える時間を求めた事実。今後、誰へ何を回すのか」
婦人が口を開きかける。
セレフィーナは、その前に紙を置いた。
「表に出せない配慮なら、本人へ向けるべきではありません」
今度は誰も、すぐには返せなかった。
ノアが、乾ききらない赤字を指先で避けながら見る。
「これで、内々という言葉もずいぶん重くなりましたね」
「軽かったから困っていたのよ」
セレフィーナは、公開確認要求書を紹介文案の上へ重ねた。
ミレイアは、それを見て、ほんの少しだけ息を吐いた。
エリアナの「考える時間がほしい」という声が、初めて正式な紙に触れた。
婦人の視線が、赤い表題へ落ちる。
公開確認要求。
まだ乾ききらないインクが、生々しい匂いを放っていた。




