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悪役令嬢にされる予定でしたが、先に舞台から降ります。  作者: 星渡リン
第4部 第2章 非公開はいつも親切

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第91話 親切な沈黙

 エリアナの紹介文案は、配られなかった。


 そのはずだった。


 けれど、セレフィーナの机の上には、薄い紙がいくつも積まれていた。正式議事録はたった一行。


 奉仕茶会補助役について、後日確認予定。


 それだけ。


 その横に、紹介文案が三枚。家宛ての打診文の下書きが二枚。関係者の私的な控えが一枚。


 議事録の薄さに対して、本人を取り囲むための紙だけが妙に厚い。積まれた紙の影が、まだ返事をしていないはずのエリアナの名前の上に落ちていた。


「……本人の返事より先に、外堀の方がよく働くのね」


 セレフィーナは、家宛ての下書きを指で押さえた。


 エリアナ様の柔らかなお人柄にふさわしい役割として。


 ご本人のご負担にならぬよう、事前にご家族へご相談申し上げます。


 本人の名前はある。


 本人の声だけが、どこにもない。


 ノアが横から紙面を覗き込む。


「非公式の合意なんて、監査が入れば一秒で消し飛ぶただの不祥事ですよ。よくまあ、こんなに丁寧な顔で置いておけますね」


「丁寧なら消えないと思っているのでしょう」


「紙の質がよくても、中身が腐っていれば臭います」


 ミレイアは、配布を止めた差し込み紙を手にしていた。赤い枠線は乾いている。けれど、その白い確認欄はまだ空白のままだ。


「エリアナ様は、考える時間がほしいと仰いました」


 その声は控えめだった。


 けれど、机の上のどの紙よりも重かった。


「その言葉が、どこにも残っていません」


 セレフィーナは、議事録の余白を見た。


 何もない。


 手巾を握りしめていたことも、笑顔が遅れていたことも、考える時間を求めたことも、正式な紙の上では最初から存在していない。


 王都側の調整役の婦人、進行補佐、地方神殿の若い助祭が呼ばれたのは、それから間もなくだった。


 三人とも、失礼のない顔で入ってきた。少し困ったような、けれど自分たちは善意で動いたのだと疑っていない顔だった。


「ご本人を傷つけないための配慮でございました」


 婦人が、まずそう言った。


「表の場で急に尋ねられれば、断るにも勇気が要りますでしょう。内々に整えておけば、仮にお断りになる場合も恥をかかずに済みます」


「先にご家族へお伝えしておけば、ご本人も安心してお返事できます」


 進行補佐が続ける。


 助祭も、穏やかに頷いた。


「神殿としても、若いご令嬢のお心に負担をかける意図はございません。静かに準備しておくことも、必要な思いやりかと」


 思いやり。

 配慮。

 安心。


 柔らかい言葉が並ぶたび、エリアナの名前の上に置かれた紙の影が、また一枚ぶん濃くなる。


 セレフィーナは、家宛ての打診文を二本の指で持ち上げた。


 紙の端が、かすかに揺れる。


「この文は、エリアナ様へ見せましたか」


「まだでございます。正式ではございませんので」


「紹介文案は」


「仮案でございます」


「この私的控えは」


「確認のための覚えにすぎません」


 まだ。

 仮。

 覚え。


 その三つの言葉だけで、机の上の紙束はずいぶん身軽なふりをした。


 セレフィーナは、家宛ての下書きを机へ戻す。


「公式記録に残せない配慮なら、実務上は所在不明の指示です」


 婦人の扇が、ぴたりと止まった。


「所在不明などと、そのような」


「では、残しましょう」


 セレフィーナは赤ペンを取った。


 声は低い。怒鳴ってはいない。けれど、部屋の空気が重く沈む。


「非公開で進めるなら、誰が、誰のためと言い、どこまで話を進めたのかを書いてください。記録できない配慮を、本人の上に載せないで」


 進行補佐が息をのむ。


 セレフィーナは紹介文案の上に赤い線を入れた。


 ペン先が紙を削る。


 ぎり、と嫌な音がした。


 その一画で、婦人の「内々」という言葉の逃げ道がひとつ塞がる。


 次の一画で、進行補佐の「仮案」という逃げ道が細くなる。


 さらに赤が走る。


 助祭の「思いやり」という言葉が、記録欄の格子に引っかかる。


「内々の配慮ですのに」


 婦人の声が、初めて少し硬くなった。


「表に出すほどのことではございませんわ」


 ミレイアが一歩前へ出た。


「正式な場で言わせないなら、正式な記録に入れてください」


 全員の視線が、ミレイアへ向く。


 彼女は、空白の確認欄を机に置いた。


「エリアナ様は、考える時間がほしいと仰いました。紹介文案には名前があります。家宛ての文もあります。でも、エリアナ様の声だけがありません」


 言い終えてから、ミレイアは少し息を吸った。


 手は震えていない。


「声を守るなら、黙らせるのではなく、残す場所を作ってください」


 セレフィーナは、ミレイアの言葉を受けて、赤ペンを握り直した。


 紹介文案。家宛て下書き。私的控え。


 三つの紙を机に並べる。


 赤い線が、格子のように走り始めた。


 誰がその場にいたのか。

 本人へ伝えていない理由は何か。

 家へ先に出そうとした文面はどこまで進んでいたのか。

 考える時間を求めた声を、どの紙に入れるのか。


 問いは、文章ではなく枠として置かれていく。


 枠が増えるたび、婦人の口元の笑みが少しずつ固まった。進行補佐は喉を鳴らし、助祭は視線を下げる。


 ノアが、赤字の増えた紙を見下ろす。


「非公開の相談を記録するだけで、ずいぶん表情が変わりますね。よほど暗いところで育てたい話だったのでしょう」


 婦人が言い返そうとして、言葉を飲んだ。


 セレフィーナは顔を上げる。


「この件は、公開確認を要します」


 部屋が止まった。


「公開確認……ですか」


 婦人の扇が、かすかに軋む。


「ええ」


 セレフィーナは、新しい紙を引き寄せた。


 表題に赤で書く。


 公開確認要求。


 赤い文字が、紙に沈んでいく。


「内々に話したこと、そこにいた者、本人へ伝えていなかった理由。紹介文案と家宛て打診文が作られた時点。エリアナ様が考える時間を求めた事実。今後、誰へ何を回すのか」


 婦人が口を開きかける。


 セレフィーナは、その前に紙を置いた。


「表に出せない配慮なら、本人へ向けるべきではありません」


 今度は誰も、すぐには返せなかった。


 ノアが、乾ききらない赤字を指先で避けながら見る。


「これで、内々という言葉もずいぶん重くなりましたね」


「軽かったから困っていたのよ」


 セレフィーナは、公開確認要求書を紹介文案の上へ重ねた。


 ミレイアは、それを見て、ほんの少しだけ息を吐いた。


 エリアナの「考える時間がほしい」という声が、初めて正式な紙に触れた。


 婦人の視線が、赤い表題へ落ちる。


 公開確認要求。


 まだ乾ききらないインクが、生々しい匂いを放っていた。

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