表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢にされる予定でしたが、先に舞台から降ります。【500万PV感謝】  作者: 星渡リン
第4部 第1章 但し書きは静かに戻る

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

87/87

第87話 神殿儀礼は、別扱いでございます

 審議三日目の朝、神殿側から提出された意見書が机に置かれた瞬間、審議室の空気が塗り替わった。


 ほのかに香油が漂う紙面。端正な文字。祈りの前に手を洗わせるような、汚れのない余白。


 白い。


 その白さは清潔というより、こちらの手の汚れを先に責めてくるようだった。


 セレフィーナは、意見書の表題を見下ろす。


 神殿儀礼における橋渡し確認書運用上の配慮について。


 配慮。


 昨日は高位家の事情。

 今日は神殿の配慮。


 但し書きは、毎朝違う衣をまとって審議室へ入ってくる。


「橋渡し確認書の趣旨につきまして、神殿として異を唱えるものではございません」


 神殿側の使者は、一点の曇りもない微笑を浮かべていた。


 穏やかで、白くて、どこにも尖ったところがない。だからこそ、反論する側だけが先に荒く見える。


「本人の負担を避け、王都と地方の間で誤解を減らす。責任を明らかにする。いずれも尊い趣旨でございましょう」


 尊い。


 その言葉が置かれただけで、審議室の背筋が少し伸びる。


 神殿の言葉には、そういう力がある。反論する前から、こちらの声を小さくさせる力だ。


 セレフィーナは、意見書の中ほどへ視線を落とした。


 ただし、神殿儀礼には、その性質上、通常の社交手続きと同一に扱いがたい役割が存在する。


 また、ただし。


 ノアが隣で、資料の端を指先で押さえた。


「昨日は家格。今日は神聖性。着替えの早い但し書きですね」


「静かに」


「静かすぎるから危ないんです」


 セレフィーナは返事をしなかった。


 神殿側の使者は、声を荒げることなく続ける。


「祝福役、奉仕役、証人役など、儀礼の中で神殿が選定する役には、信仰上の意味合いがございます。事前に広く確認を求めますと、その方は周囲の視線にさらされます。神殿側で静かに面談し、整えたうえでお伝えする方が、ご本人の心を守れる場合もございましょう」


 静かに面談。


 整えたうえで伝える。


 その順番に、セレフィーナの指先が止まった。


 選ぶのは神殿。

 面談するのも神殿。

 記録するのも神殿。

 本人の意思確認を代替するのも神殿。


 白い布で包まれているだけで、中はひどく閉じている。


 その時、フィオナの指が紙の端で止まった。


 彼女の視線は、意見書の一文に落ちている。


 祝福にふさわしい者。


 たったそれだけで、指先から血の気が引いていく。


「フィオナ様」


 ミレイアが、すぐに声をかけた。


 フィオナは小さく首を振る。大きく取り乱したわけではない。ただ、紙の端を押さえる指が強くなった。


「……祝福と言われると、断る方が、汚しているように聞こえます」


 それだけで十分だった。


 似合う。

 親善の顔にふさわしい。

 あなたが立つと場が和む。


 かつてフィオナの肩へ載せられた言葉と、形は違う。けれど、重さは同じだった。


 今回は、それが祝福という名をまとっている。


「神聖な言葉ほど、断る側を不敬な存在に仕立て上げます」


 ミレイアの声が、冷たく審議室に響いた。


 神殿側の使者が、穏やかな目を向ける。


「そのような意図はございません」


 ミレイアは、意見書の該当箇所をペン先で叩いた。


「神殿が善意で行うとおっしゃるなら、記録されて困ることはないはずです」


 審議室の空気が、わずかに固まった。


 ミレイアは続ける。


「『本人のため』に非公開で面談し、神殿の中だけで完結させる。その手順で本人が断れると、あとから誰が確認できますか。神殿側の記録だけで“了承済み”とされれば、本人はどこで違うと言えますか」


 使者の微笑みが、ほんのわずかに揺れた。


 薄い氷へ細い傷が入るような、かすかな変化だった。


 ノアが、意見書を横から覗き込む。


「非公開選定、神殿側面談、儀礼後記録。監査が入った時、外部から確認できる材料がありませんね」


 細い指で、三箇所を順に叩く。


「神殿が“本人は了承した”と書けば、それが事実として扱われる。第三者の署名がなければ、あとで争う者だけが不敬に見えます」


 神殿側の使者の視線が、ノアへ移った。


 ノアは涼しい顔をしている。


「たいへん便利です。記録を作る側が、事実も作れる」


 使者は、柔らかく息を吐いた。


「神殿は、本人の心を軽んじるものではございません。むしろ、外部の目にさらさず、静かな面談によってその方の心を守るための提案です」


 それも、半分は正しいのだろう。


 大勢の前で確認されることが負担になる場合はある。

 名前が出るだけで噂が立つ場合もある。

 静かに聞くことが必要な時もある。


 だからこそ、ここに穴を開けてはいけない。


 セレフィーナは、赤いペンを取った。


「神殿が正しく運用するとおっしゃるなら、後で疑われないための証拠を残すべきでしょう」


 審議室の視線が、彼女へ集まる。


「善意で行った面談だと、後から誰が確認できますか。本人が本当に断れる状態だったと、誰が証明しますか。神殿の中だけで完結する記録では、本人と外部の者は確認できません」


 使者の微笑が、静かに止まった。


 王都側の数人が身じろぎする。


 神殿相手に、ずいぶん踏み込んだ。

 そういう空気が、無言で広がる。


 けれど、セレフィーナは退かなかった。


 神殿だからこそ、曖昧にしてはいけない。

 神聖な言葉で包まれた役ほど、断る側は自分を責める。

 ならば、橋渡し確認書は外すどころか、もっと必要になる。


 神殿側の使者が、ゆっくり口を開いた。


「神殿儀礼では、役を受けること自体が名誉でございます」


 名誉。


 その一言が、審議室に重く置かれた。


 拒めば、名誉を拒むことになる。

 断れば、祝福を軽んじることになる。

 ためらえば、信仰心を疑われる。


 その言葉がどれほど人を縛るか、フィオナの指先が教えていた。


 セレフィーナは、その指を見た。


 そして、使者に向き直る。


「名誉なら、なおさら受ける本人に選ばせてください」


 審議室が止まった。


 セレフィーナの声は荒くない。

 けれど、赤いペンを握る指は少しも緩んでいない。


「名誉という言葉で断りにくくなる役ほど、本人の確認と撤回権が必要です」


 使者は、すぐには返さなかった。


 セレフィーナは意見書へ赤を入れる。


 上等な紙が、赤を吸う。


 祝福役。奉仕役。証人役。


 神殿側が美しく並べた語のすぐ脇に、第三者立会、撤回可能期限、責任者名という、ひどく俗っぽい文字が食い込んでいく。


 使者の微笑みの端が、ほんの少しだけ硬くなった。


 セレフィーナは止めない。


 赤いインクが、祈りのように整えられた余白を汚していく。


 神殿側面談は、本人意思確認の補助。代替とはしない。


 その一文を書き足した時、使者の指が控えの端を押さえた。


 強くはない。

 だが、確かに力が入っていた。


 ミレイアが小さく言う。


「撤回できる期限は、本人に伝える日付と一緒に」


 セレフィーナは頷き、赤を重ねる。


 ノアが余白を指す。


「第三者の署名欄も。あとで“立ち会ったつもり”と言われると困ります」


 また、赤。


 イレーネも控えの別の箇所を押さえる。


「責任者名は、神殿全体ではなく担当者名でお願いします。現場では“神殿”へ問い合わせても、返事は返ってきません」


 さらに、赤。


 神殿側の意見書は、少しずつ神聖さを剥がされていった。


 祝福。奉仕。名誉。神聖性。


 それらの美しい言葉の横に、立会記録、撤回期限、責任者名が並ぶ。


 セレフィーナの手元から漂うインクの匂いが、香油の匂いを押し返していく。


「ずいぶん、俗務に寄せた運用でございますね」


 神殿側の使者が、静かに言った。


「人を役に載せる手順は、俗務で支えてください」


 セレフィーナは顔を上げた。


「信仰心は神殿の中でどうぞ。ここでは、誰が誰に何を求めたのか、その足跡を残すことだけを問題にしています」


 使者は沈黙した。


 怒らない。

 声を荒げない。

 微笑みも崩さない。


 ただ、指先が控えの端を一度だけ押さえた。


 ノアが、赤字を眺めながら言う。


「神聖な抜け道に、ずいぶん俗っぽい鍵をかけましたね」


「俗っぽい鍵で開く扉なら、神聖でも何でもないわ」


 セレフィーナは、意見書の一文へ視線を落とす。


 神殿儀礼は、別扱いでございます。


 その下に、赤線を引いた。


 濃く。


 紙の繊維が赤を吸い、線の端が少し滲む。


 神殿側の使者は、まだ微笑んでいた。


 けれど、その指先は、赤線の入った一文を逃さぬように押さえたまま、しばらく動かなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
勝手に選ばれる生贄を守れたかな?
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ