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悪役令嬢にされる予定でしたが、先に舞台から降ります。【500万PV感謝】  作者: 星渡リン
第4部 第1章 但し書きは静かに戻る

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第86話 高い家ほど、例外を持ちたがる

 審議二日目の朝、昨日セレフィーナが赤を入れた但し書きは、立派な表紙を与えられて戻ってきていた。


 高位家案件における運用上の留意事項。


 留意。


 なんて上品な言葉だろう。


 セレフィーナは、その二文字を見た瞬間、舌の奥に薄い苦みを覚えた。昨日まで資料の末尾に小さく潜んでいた穴が、今朝には表紙を持っている。


 王都の仕事は早い。


 とくに、穴へ上等な布をかける時は。


「橋渡し確認書の趣旨には、深く賛同しております」


 高位家代表の年配の男は、慇懃な笑みを浮かべた。


 髪は白い。だが、背筋も声も少しも衰えていない。礼を取る角度まで美しく、誰も責めていないのに、そこにいるだけで周囲が一歩引く。


 その男の後ろには、王都でも名の通った高位貴族家がある。


 審議室の王都側役人たちが、わずかに姿勢を正した。


 この空気だけで、すでに一つの圧力だった。


「地方と王都の間で誤解を減らし、責任の所在を明確にする。実に有益な試みでございましょう。先日の親善行事においても、一定の成果があったと伺っております」


 一定の成果。


 第3部の現場で汗を吸った紙も、フィオナがようやく息を吐いた顔も、イレーネが責任欄を守った指先も、この男の口に入ると「一定の成果」になる。


 薄く濾過された言葉だった。


 ノアが、セレフィーナの斜め後ろで資料をめくった。


「昨日の但し書きが、今朝は随分と立派な帽子をかぶっていますね」


 小声だった。


 セレフィーナは返事をしない。


 高位家代表は、こちらの沈黙を気にした様子もなく、微笑みを深めた。


「ただ、高位家案件には、高位家案件なりの性質がございます」


 ただ。


 セレフィーナの指が、赤いペンに触れた。


「名が出るだけで社交界が揺れる家もございます。候補に挙がったというだけで、周囲が意味を読み、本人に余計な負担をかける場合もある。そうした事態を避けるため、まずは家の代表者が先に判断し、必要に応じて本人へ伝える。その柔軟性を認めていただきたいのです」


 王都側の役人が数人、当然だと言いたげに小さく頷いた。


 その頷きが、審議室の温度をじわりと下げる。


 高位家の名が出れば、皆が勝手に意味を読む。

 本人に聞くとかえって重くなる。

 家の代表者が先に判断した方が、混乱を避けられる。


 どれも、王都ではもっともらしい。


 けれど、その言葉の下で本人の声が一段後ろへ押し込まれている。


 ミレイアの指が、控えの上で止まった。


 彼女が見ていたのは、高位家代表ではない。橋渡し確認書の本人意思確認欄だった。


 そこには、本人の署名欄がある。


 その欄を、家代表の判断で置き換えようとしている。


「本人の負担を理由に本人確認を省く場合、その判断を下した方の氏名と責任欄が必要です」


 ミレイアの声が、審議室に低く通った。


 高位家代表が、ほんの少しだけ目を細める。


「もちろん、家として責任を持つという意味でございます」


「家として、ではなく」


 ミレイアは、控えを胸の前で押さえ直した。


「どなたが判断したのかです。本人に聞かないと決めた方の名前が必要です」


 審議室の端で、誰かが紙をめくる手を止めた。


 代表の笑みは残っている。

 けれど、その笑みの端が、わずかに張りついた。


 フィオナが鏡の前で笑えなくなっていた時、ミレイアは怒っていた。


 その怒りは今、制度の欄へ入る言葉になっている。


 ノアが、横で小さく息を漏らした。


「ミレイア様、かなり嫌な書き方を覚えましたね」


 セレフィーナは何も言わず、ペン先で資料の空白を一度だけ叩いた。


 高位家代表は、困ったように肩をすくめる。


「お若い方のご懸念は分かります。しかし、家の名が動く時、本人だけの確認では済まない場面もございます。高位家には、高位家なりの事情がございますので」


 その一言に、ルシアンの指が止まった。


 彼はまだ黙っている。


 けれど、控えの端を押さえる力が強くなる。


 以前のルシアンなら、この説明に頷いていたかもしれない。


 高位家の事情。王都の体面。社交上の混乱。本人を守るための事前調整。


 どれも、王都では正しい顔をしている。


 今の彼は、その言葉の下で誰が削られるかを知っている。


 イレーネが、資料の一部へ視線を落とした。


「確認させてください」


 声は淡々としていた。


「この代行判断案では、本人確認を家代表確認へ置き換えられるとあります。ですが、役割変更を決めた方、費用負担の増加を承認した方、本人が後から辞退した場合に調整を行う方が、それぞれ明記されていません」


「家として責任を持つという趣旨で」


「現場では、“家”は頭を下げません」


 イレーネは、補足意見書の空白部分をペン先で叩いた。


 乾いた音が、長机の上でやけに響く。


「頭を下げるのは、署名欄から漏れた誰かです。問い合わせ先になるのも、返答するのも、調整するのも、必ず誰か一人です。その誰かが書かれていない場合、空白を埋めるのは下位の実務担当になります」


 高位家代表の手が、表紙の端で止まった。


 爪が紙を軽く押し、白い筋が入る。


「そこまで細かく記すと、かえって運用の迅速さが損なわれますな」


「損なわれる迅速さとは、どなたが責任を持たずに済むための速さですか」


 セレフィーナが言う前に、ルシアンが口を開いた。


 声は低い。


 審議室の空気が、一段重くなる。


 高位家代表が、王家側の席へ目を向けた。


「殿下」


「高位家には事情がある。それは理解している」


 ルシアンは、控えを指で押さえたまま続けた。


「だが、影響が大きい案件ほど、後で揉めた時に困るのは高位家自身だろう。誰が判断したのか、誰が本人確認を省いたのか、誰が費用を承認したのか。その記録がなければ、体面を守るどころか、責任の押し合いになる」


 高位家代表の微笑が薄くなる。


 ルシアンはそこで一度、奥歯を噛み締めた。


 自分が言っていることの重さを、彼自身も理解しているのだろう。王家の席に座る者が、高位家の運用に記録を求める。その一言が、どれほど嫌がられるかも。


 それでも、彼は目を逸らさなかった。


「高位家の体面を重んじるなら、その判断に伴う署名もまた重くあるべきだ」


 その言葉は、綺麗な演説ではなかった。


 相手の理屈を、そのまま相手の喉元へ戻しただけだ。


 高位家は重い。

 ならば、記録も重くなる。


 セレフィーナは、赤いペンを取った。


 ペン先が紙に触れる。


 高位家案件であることは、本人意思確認を省略する理由とはならない。

 やむを得ず代行判断を行う場合、判断者名、代行理由、本人への通知時期、撤回可能範囲、責任者を明記する。


 上等な紙の表面を、赤いインクが深くえぐる。


 高位家代表が、書き込まれた赤字を見下ろした。


「そこまで求めますと、高位家案件の調整はかえって難しくなります」


「影響が大きいのでしょう」


 セレフィーナは顔を上げた。


「軽く扱う理由にはなりません」


「しかし、候補に挙がるだけで本人に負担が」


「だから、本人に聞かないと決めた方の名前を書いてください」


 ミレイアが言った。


 声は先ほどよりも、少しだけ強かった。


「負担を避けるために本人を外すなら、その判断には責任が必要です」


 イレーネも続ける。


「家代表とだけ書かれても、現場では処理できません。確認先、調整者、費用判断者を分けてください。まとめて“家”とされると、最後に小さい実務担当へ流れます」


 高位家代表は、口を開きかけて閉じた。


 セレフィーナは、さらに一行を加える。


 高位家案件、確認強化対象。


 その文字が入った瞬間、補足意見書の上品な顔つきが変わった。


 高位家だから軽くするはずだった紙が、高位家だから濃く書く紙へ変わっていく。


 ノアが、セレフィーナの赤字を覗き込む。


「監査が入った時、真っ先にこの判断者の名前が見られますね」


「そのための欄よ」


「たいへん親切です。逃げる順番まで分かりやすい」


 セレフィーナは、黙って余白へ書き足した。


 持ち帰り検討者名。

 削除希望項目。

 削除理由。

 削除による影響先。


 高位家代表は、その赤字を見た。


 表紙の端を押さえる指が、わずかに震える。


「本日のご意見、持ち帰って検討いたします」


「ええ」


 セレフィーナは、乾ききらないインクから目を離さなかった。


「どなたが、どの項目を、何の理由で検討するのか。あわせてお知らせください」


 代表の指が、表紙の端を押さえたまま固まる。


 審議室の空気は、まだ冷たい。


 上等な紙の上で、赤いインクだけが生々しく光っていた。

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― 新着の感想 ―
>「損なわれる迅速さとは、どなたが責任を持たずに済むための速さですか」 これ、地の文から見てルシアンの台詞だけども言葉遣いがセレフィーナになってますね。
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