第81話 親善の席は整っている
会場は、嫌になるほど整っていた。
左右対称に飾られた白い花。磨かれた床。家格と動線を崩さないよう並べられた椅子。誰がどこに座り、誰がいつ立ち、誰が誰を紹介するのかまで、気持ち悪いほど綺麗に決められている。
セレフィーナは入口で足を止めた。
この完璧な「お膳立て」を、彼女は知っている。
灯りの角度。花の香り。控えめなざわめき。
あの夜も、場はこうして整っていた。
誰かが前へ立つために。
誰かが見下ろされるために。
誰かが、役から逃げられなくなるために。
「……よく整っていますね」
隣でノアが言った。
感心しているようで、まるで感心していない響きだった。
「整いすぎていて、昔なら吐き気がしたでしょうね」
「今は?」
「少しだけするわ。慣れる必要のないものに、慣れたくないだけよ」
ノアは答えず、手元の控えを軽く持ち直した。
「ただ、今日は床板が違います。下に、不格好で可愛げのない梁が通っていますから」
セレフィーナは、進行役の手元を見た。
通常の進行表の隣に、薄い別紙が挟まれている。
橋渡し確認書。
不格好な赤字の紙が、整いすぎた会場の中で冷や水をぶっかけていた。あの紙があるだけで、王都の役人たちの視線が、わずかにぎこちなくなる。
セレフィーナは、その赤字を見て指先に力を入れた。
これは飾りではない。
きれいな進行を褒めるための控えでもない。
暴走する車輪へ、無理やり叩き込む鉄楔だ。
あれがある限り、口先だけの「親善」は、前ほど滑らかには進めない。
会場の奥、実務席の近くにイレーネが立っていた。
背筋は伸びている。表情も崩れていない。けれど、実務記録の控えを押さえる指は白い。
小家の娘。
数字にうるさい。
親善の場で空気を読まない。
侯爵家に守られた。
そんな声にならない視線が、薄く刺さっている。
「緊張している?」
「余裕はありませんので」
イレーネは即答した。
セレフィーナは何も言わず、彼女の肩に一度だけ手を置いた。
今日は、一人で数字を支えなくていい。
王家側の確認欄もある。差止権限もある。責任を寄せるなら、費用と権限も一緒に出させる。口頭での仮置きは通らない。
イレーネは、肩に置かれた手を一瞬だけ見た。
「……承知しています」
短い返事だった。
それで十分だった。
次に、セレフィーナはフィオナを探した。
フィオナは花の飾られた柱の近くにいた。淡い色のドレスは、会場の光によく映える。だからこそ、周囲の視線が自然と彼女へ吸い寄せられていた。
以前なら、その視線はそのまま彼女を前へ押しただろう。
親善の顔にふさわしい。
場を和らげる。
少し前に立つだけでいい。
そういう言葉が、柔らかな布のように彼女を包み、逃げ道を塞いでいた。
婦人の一人が、笑みを浮かべて近づいてくる。
「フィオナ様、本日はやはり華やかでいらして。あなたのような方が少し前に立って、親善の顔となってくだされば」
「本日のフィオナ様の担当は、案内補助です」
ミレイアが、柔らかく間に入った。
声は穏やかだ。
けれど、進路はきちんと塞いでいる。
「ご本人の確認済みですわ。挨拶役への変更は、中間承認を通す手順となっておりますの」
婦人の笑みが、ほんの少し固まった。
「あら。けれど、そんな紙切れより、フィオナ様ご自身の笑顔の方が、よほど親善にふさわしいのではありませんこと?」
紙切れ。
その言葉が落ちた瞬間、フィオナの指がわずかに動いた。
ミレイアが答えようとする。
けれど、その前にフィオナが口を開いた。
「……いいえ」
細い声だった。
だが、消えなかった。
「私は、この書類の通りに動きます」
婦人が目を細める。
「まあ。随分と堅いことをおっしゃるのね」
「はい」
フィオナは、胸の前で紹介文の控えを押さえた。
「堅くしていただいたので、助かっています」
婦人の扇が、一瞬だけ止まった。
「本日の私の役割は、案内補助です。挨拶役ではありません。変更が必要な場合は、確認をお願いいたします」
「……もちろん。無理にというわけではありませんわ」
「はい」
フィオナは頷いた。
「考える時間をいただけるなら、私も安心してお答えできますから」
言い終えたあと、フィオナの胸元が少しだけ緩んだ。
強張っていた肩が、ほんのわずかに落ちる。
ミレイアは横で、静かに微笑んでいた。
その笑みの下に冷たい線が引かれていることを、セレフィーナは見逃さなかった。
王家側の席では、ルシアンが進行役と向かい合っていた。
彼の手元には、通常の進行表だけでなく、橋渡し確認書と王家側の控えが重ねられている。
「本番中の変更は、まず中間承認へ回せ」
ルシアンの声は低い。
進行役が、一瞬だけ戸惑ったように手元の紙を見た。
「口頭でのご相談であっても、でしょうか」
「相談なら記録する。変更なら承認を通す。言い方で責任を逃がすな」
進行役の背筋が、わずかに伸びる。
「承知いたしました」
「費用と人手の追加が出るなら、王都側の責任欄を空欄にしたまま進めるな」
「はい」
「本人意思確認前の紹介文変更も認めない」
進行役は、今度はすぐに頭を下げた。
「承知しております」
以前なら、王都の体面や儀礼の見栄えを最初に確認していただろう。
今日は、違った。
王子らしいきらきらした輝きは、少し減ったかもしれない。
代わりに、今のルシアンには事務臭さがあった。書類の角に指を置き、逃げ道を潰していく顔つきだ。
今日の会場では、その方がよほど頼もしい。
ノアが横でぽつりと言う。
「殿下も、ずいぶん実用的になられましたね」
「褒めているの?」
「もちろん。王子様の眩しさは、書類の不備を照らしてくれませんので」
「相変わらずひどい褒め方ね」
「最大限です」
セレフィーナは肩をすくめた。
その時、会場の反対側で、小さな音がした。
ぱちん。
旧来派の年長貴族夫人が、扇を閉じたのだ。
夫人は進行表を覗き込むようにしながら、鋭い爪で紙の端をなぞっている。
視線が、イレーネへ向かう。
次に、フィオナへ。
そして、進行役の手元に挟まれた橋渡し確認書へ。
もう一度、イレーネへ。
どこまでも左右対称な会場。
磨き上げられた床。
乱れのない花。
揃えられた笑顔。
その中で、夫人の視線が走る場所だけが、泥を引いたように汚れて見えた。
「随分と、手続きが増えましたこと」
夫人が、柔らかく言った。
「親善なのに、少々堅苦しいですわね」
補佐役が、困ったように微笑む。
「円滑な進行のため、と伺っておりますが」
「ええ、もちろん。円滑であることは大切ですわ」
夫人の笑みは崩れない。
だが、爪はまだ進行表の端に置かれている。
その先が、紙を薄く削るように動いた。
ノアが声を落とす。
「ほら、紙に足を取られ始めました」
「まだ転ばないわ」
「ええ。だから次で足を出すのでしょう」
会場の楽師が弓を構えた。
進行役が、開会を告げるために一歩前へ出る。
席は美しい。
花も、笑顔も、順番も、何もかもがよく磨かれている。
けれど今のセレフィーナには、その磨かれた顔の下に走る歪みが見えていた。
誰を前へ出したいのか。
誰へ責任を寄せたいのか。
どの言葉が、押しつけへ変わりそうなのか。
旧来派の夫人が、爪で進行表の端をもう一度なぞる。
紙の繊維が、かすかに毛羽立った。
その細い傷は、磨かれた床に落ちた泥よりも、ずっと目についた。




