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悪役令嬢にされる予定でしたが、先に舞台から降ります。【450万PV感謝】  作者: 星渡リン
第3部 第6章 役は、家格では決まらない

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第81話 親善の席は整っている

 会場は、嫌になるほど整っていた。


 左右対称に飾られた白い花。磨かれた床。家格と動線を崩さないよう並べられた椅子。誰がどこに座り、誰がいつ立ち、誰が誰を紹介するのかまで、気持ち悪いほど綺麗に決められている。


 セレフィーナは入口で足を止めた。


 この完璧な「お膳立て」を、彼女は知っている。


 灯りの角度。花の香り。控えめなざわめき。

 あの夜も、場はこうして整っていた。


 誰かが前へ立つために。

 誰かが見下ろされるために。

 誰かが、役から逃げられなくなるために。


「……よく整っていますね」


 隣でノアが言った。


 感心しているようで、まるで感心していない響きだった。


「整いすぎていて、昔なら吐き気がしたでしょうね」


「今は?」


「少しだけするわ。慣れる必要のないものに、慣れたくないだけよ」


 ノアは答えず、手元の控えを軽く持ち直した。


「ただ、今日は床板が違います。下に、不格好で可愛げのない梁が通っていますから」


 セレフィーナは、進行役の手元を見た。


 通常の進行表の隣に、薄い別紙が挟まれている。


 橋渡し確認書。


 不格好な赤字の紙が、整いすぎた会場の中で冷や水をぶっかけていた。あの紙があるだけで、王都の役人たちの視線が、わずかにぎこちなくなる。


 セレフィーナは、その赤字を見て指先に力を入れた。


 これは飾りではない。

 きれいな進行を褒めるための控えでもない。


 暴走する車輪へ、無理やり叩き込む鉄楔だ。


 あれがある限り、口先だけの「親善」は、前ほど滑らかには進めない。


 会場の奥、実務席の近くにイレーネが立っていた。


 背筋は伸びている。表情も崩れていない。けれど、実務記録の控えを押さえる指は白い。


 小家の娘。

 数字にうるさい。

 親善の場で空気を読まない。

 侯爵家に守られた。


 そんな声にならない視線が、薄く刺さっている。


「緊張している?」


「余裕はありませんので」


 イレーネは即答した。


 セレフィーナは何も言わず、彼女の肩に一度だけ手を置いた。


 今日は、一人で数字を支えなくていい。


 王家側の確認欄もある。差止権限もある。責任を寄せるなら、費用と権限も一緒に出させる。口頭での仮置きは通らない。


 イレーネは、肩に置かれた手を一瞬だけ見た。


「……承知しています」


 短い返事だった。


 それで十分だった。


 次に、セレフィーナはフィオナを探した。


 フィオナは花の飾られた柱の近くにいた。淡い色のドレスは、会場の光によく映える。だからこそ、周囲の視線が自然と彼女へ吸い寄せられていた。


 以前なら、その視線はそのまま彼女を前へ押しただろう。


 親善の顔にふさわしい。

 場を和らげる。

 少し前に立つだけでいい。


 そういう言葉が、柔らかな布のように彼女を包み、逃げ道を塞いでいた。


 婦人の一人が、笑みを浮かべて近づいてくる。


「フィオナ様、本日はやはり華やかでいらして。あなたのような方が少し前に立って、親善の顔となってくだされば」


「本日のフィオナ様の担当は、案内補助です」


 ミレイアが、柔らかく間に入った。


 声は穏やかだ。

 けれど、進路はきちんと塞いでいる。


「ご本人の確認済みですわ。挨拶役への変更は、中間承認を通す手順となっておりますの」


 婦人の笑みが、ほんの少し固まった。


「あら。けれど、そんな紙切れより、フィオナ様ご自身の笑顔の方が、よほど親善にふさわしいのではありませんこと?」


 紙切れ。


 その言葉が落ちた瞬間、フィオナの指がわずかに動いた。


 ミレイアが答えようとする。


 けれど、その前にフィオナが口を開いた。


「……いいえ」


 細い声だった。

 だが、消えなかった。


「私は、この書類の通りに動きます」


 婦人が目を細める。


「まあ。随分と堅いことをおっしゃるのね」


「はい」


 フィオナは、胸の前で紹介文の控えを押さえた。


「堅くしていただいたので、助かっています」


 婦人の扇が、一瞬だけ止まった。


「本日の私の役割は、案内補助です。挨拶役ではありません。変更が必要な場合は、確認をお願いいたします」


「……もちろん。無理にというわけではありませんわ」


「はい」


 フィオナは頷いた。


「考える時間をいただけるなら、私も安心してお答えできますから」


 言い終えたあと、フィオナの胸元が少しだけ緩んだ。

 強張っていた肩が、ほんのわずかに落ちる。


 ミレイアは横で、静かに微笑んでいた。

 その笑みの下に冷たい線が引かれていることを、セレフィーナは見逃さなかった。


 王家側の席では、ルシアンが進行役と向かい合っていた。


 彼の手元には、通常の進行表だけでなく、橋渡し確認書と王家側の控えが重ねられている。


「本番中の変更は、まず中間承認へ回せ」


 ルシアンの声は低い。


 進行役が、一瞬だけ戸惑ったように手元の紙を見た。


「口頭でのご相談であっても、でしょうか」


「相談なら記録する。変更なら承認を通す。言い方で責任を逃がすな」


 進行役の背筋が、わずかに伸びる。


「承知いたしました」


「費用と人手の追加が出るなら、王都側の責任欄を空欄にしたまま進めるな」


「はい」


「本人意思確認前の紹介文変更も認めない」


 進行役は、今度はすぐに頭を下げた。


「承知しております」


 以前なら、王都の体面や儀礼の見栄えを最初に確認していただろう。


 今日は、違った。


 王子らしいきらきらした輝きは、少し減ったかもしれない。

 代わりに、今のルシアンには事務臭さがあった。書類の角に指を置き、逃げ道を潰していく顔つきだ。


 今日の会場では、その方がよほど頼もしい。


 ノアが横でぽつりと言う。


「殿下も、ずいぶん実用的になられましたね」


「褒めているの?」


「もちろん。王子様の眩しさは、書類の不備を照らしてくれませんので」


「相変わらずひどい褒め方ね」


「最大限です」


 セレフィーナは肩をすくめた。


 その時、会場の反対側で、小さな音がした。


 ぱちん。


 旧来派の年長貴族夫人が、扇を閉じたのだ。


 夫人は進行表を覗き込むようにしながら、鋭い爪で紙の端をなぞっている。


 視線が、イレーネへ向かう。


 次に、フィオナへ。


 そして、進行役の手元に挟まれた橋渡し確認書へ。


 もう一度、イレーネへ。


 どこまでも左右対称な会場。

 磨き上げられた床。

 乱れのない花。

 揃えられた笑顔。


 その中で、夫人の視線が走る場所だけが、泥を引いたように汚れて見えた。


「随分と、手続きが増えましたこと」


 夫人が、柔らかく言った。


「親善なのに、少々堅苦しいですわね」


 補佐役が、困ったように微笑む。


「円滑な進行のため、と伺っておりますが」


「ええ、もちろん。円滑であることは大切ですわ」


 夫人の笑みは崩れない。


 だが、爪はまだ進行表の端に置かれている。

 その先が、紙を薄く削るように動いた。


 ノアが声を落とす。


「ほら、紙に足を取られ始めました」


「まだ転ばないわ」


「ええ。だから次で足を出すのでしょう」


 会場の楽師が弓を構えた。


 進行役が、開会を告げるために一歩前へ出る。


 席は美しい。

 花も、笑顔も、順番も、何もかもがよく磨かれている。


 けれど今のセレフィーナには、その磨かれた顔の下に走る歪みが見えていた。


 誰を前へ出したいのか。

 誰へ責任を寄せたいのか。

 どの言葉が、押しつけへ変わりそうなのか。


 旧来派の夫人が、爪で進行表の端をもう一度なぞる。


 紙の繊維が、かすかに毛羽立った。

 その細い傷は、磨かれた床に落ちた泥よりも、ずっと目についた。

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