第73話 家格の足りない責任
未定欄は、いつも小さい家のそばで口を開けている。
セレフィーナは、机の上に置かれた追加調整表を見下ろした。
整った線。丁寧な文字。余白まで上品な紙。
その端にある「使者受け入れ」という一行へ、目が止まる。
たった一行。
けれど実際には、深夜に門番へ指示を出し、寝入った料理人を起こし、馬房の空きを確認し、翌朝には帳簿と宿泊名簿を突き合わせる仕事だ。その重さを、王都のペン先は少しも知らない。
「こちらの未定分につきましては、実務に明るい家へ一部ご協力いただければと」
王都側の補佐役が、穏やかに言った。
柔らかな声の中に、相手の喉元を正確に狙う冷たさが透けて見える。親切のふりをした、洗練された絞め技だった。
「フォルク家は地方実務にお詳しいとうかがっておりますし」
年長の婦人が続ける。
「土地勘もおありでしょう? こうした細かな確認は、現場に近い方のお力が頼りになりますわ」
イレーネは答えなかった。
紙の上を、指先だけが動く。
ばらばらだった空白が、補佐役のペン先一つで、フォルク家という名前の下へ黒い塊となって積み上がっていく。
あれは分担ではない。
誰も持ちたがらないものを、小さい家の足元へ掃き寄せているだけだ。
「追加の宿泊確認は、フォルク家へ仮に」
補佐役が筆を走らせる。
「神殿側の控えも、地方側の実務確認と合わせた方が早いでしょう」
「名簿照合も同じ窓口で済ませられますわね」
「当日の不足分も、動きやすい家が見てくださると助かりますもの」
フォルク家。
またフォルク家。
余った荷物を置く棚のように、その名が使われていく。
一方で、王都寄りの大きな家へ回される紙は軽やかだった。
来賓への挨拶。王都側代表との歓談。神殿儀礼の見届け。
失敗しても経験になる役。後日、家の名誉として語れる役。紹介文へ麗しく書ける役。
フォルク家へ渡されるものは、成功しても誰も覚えない。
失敗した時だけ、まっ先に名前が燃える。
「大きな役ではありませんし」
補佐役はにこやかだった。
「むしろ、融通の利く家にお願いした方が、全体としては円滑かと」
融通。
セレフィーナは、その言葉を舌の上で転がした。
押しつける側が、自分の手を汚さずに相手の時間を奪うための、柔らかい布。
イレーネが、ようやく顔を上げた。
「確認いたします」
声は低い。
「今お話に出た未定業務のうち、フォルク家に仮置きされたものは五件です」
そこで、王都側の補佐役は返事をしなかった。
手元の資料の端を爪で弾く。
ぴしり。
乾いた音が、イレーネの言葉を取るに足らない雑音として室内に響かせた。
イレーネの声は揺れない。
「それらは、不備が出た場合に最初の確認先となる業務です」
「責任というほど大げさなものでは」
「では、初動担当を明記してください」
「そこまで細かくしますと、かえって」
補佐役は言葉を濁した。
もう会話で返す気がないのだろう。爪がまた紙の端を弾く。小さな音のたびに、周囲の何人かが視線を落とす。
笑い声はない。
その無関心が、いちばん露骨だった。
王都側の婦人が、扇を閉じた。
揃いすぎた乾いた音が、宣告のように響く。
「フォルク家のお嬢様は、本当に細やかでいらっしゃるのね」
褒め言葉の形をしている。
中身は違う。
「ただ、こうした親善の場では、多少の余裕も必要ですわ」
イレーネは口を閉じた。
代わりに、控えの余白へ短く書き込む。
件数。担当案。発言者。
感情ではなく、記録を積む手つきだった。
その横顔に、セレフィーナはかすかな熱を覚えた。
イレーネの視線には、戦場で同じ泥を被る者を見つけた時のような、冷徹な信頼が宿っていた。
「それに、フォルク家ほどの規模でしたら」
別の年長者が、何でもないことのように言った。
「表に立つより、実務で支えていただいた方が双方にとって穏当でしょう。多少負担が寄っても、大きな問題にはなりませんわ」
大きな問題にはならない。
問題がないのではない。
問題として扱わなくていい家だと、そう言ったのだ。
セレフィーナは笑った。
にこりと。
相手が安心するには少し冷たい角度で。
「そうですの」
彼女はゆっくり言った。
「目立つ問題にはならない、ということですわね」
年長者の笑みが一瞬だけ固まる。
「いえ、そのような意味では」
「では、どういう意味かしら」
セレフィーナは声を荒らげない。
「負担が寄っても大きな問題にはならない、というご発言でしたから。確認しただけですわ」
王都側の補佐役が、居心地悪そうにペンを置く。
その音が、ひどく耳障りな耳鳴りのように室内に残った。
「アシュクロフト侯爵令嬢、こちらはあくまで仮の調整でして」
「ええ。仮の調整だからこそ、言葉を正確にしておくべきでしょう」
セレフィーナは追加調整表の端を押さえた。
「あとで“そのつもりではなかった”と言われると、現場が困りますもの」
会合は、その後も何事もなかったかのように続いた。
王都寄りの家には来賓対応。
大きな家には神殿側代表との同席。
ルベール家には交流時の案内と紹介補助。
フィオナの名は、また前に近いところへ置かれる。
そしてフォルク家には、追加確認と現場対応が積まれた。
紙の上では、すべてが「適材適所」に見える。
けれどその適材は、なぜかいつも火消し役の席に置かれている。
休憩のために人が動き始めると、ノアがセレフィーナの横へ寄った。
「大きい家は名誉を取り、小さい家は責任を取る」
小声だった。
「ずいぶん親切な親善ですね」
セレフィーナは表情を変えない。
「ええ」
追加調整表から目を離さずに答える。
「親切すぎて、吐き気がするわ」
ノアが、フォルク家の欄を指先で軽く叩く。
「これ、後で燃えますよ」
「燃えるでしょうね」
セレフィーナは言った。
「ただし、燃える場所はこちらで決めるわ」
イレーネが、自分の控えを見下ろしたまま、ぽつりと呟いた。
「……不備が出れば、最初に呼ばれる位置ですね」
誰に向けた言葉でもなかった。
それでも、セレフィーナの耳にははっきり届いた。
彼女は返事をしない。
代わりに、赤インクの蓋を開けた。
金属の小さな音が、机の上で乾く。
フォルク家の欄の横に、セレフィーナは短く書き込む。
初動担当とする場合、当該業務の決定権限および差止権限を同時に付与すること。責任のみの仮置き不可。
ペン先が紙を削る。
赤いインクは、繊維を切り裂くように深く沈んだ。
ノアが愉しそうに目を細める。
「それ、前に出ている大きい家の予定まで止められますね」
「責任を渡したいのでしょう?」
セレフィーナはペン先を上げる。
「なら、権限も渡してもらわないと」
赤い文字は、フォルク家の名の横でひどくよく目立った。
セレフィーナは乾かない赤を見つめる。
紙の白に、じわりと滲みが広がっていく。
「さあ」
彼女は小さく笑った。
「今度はあなたたちが、自分たちの名誉がどれだけ燃えやすいかを知る番よ」




