第66話 机の上では軽い額
机の上に積まれた王都の見積もりには、現場の汗の匂いが一滴も混じっていなかった。
薄い紙。整った字。端正な欄。
そこへイレーネが落とし直した実費の控えを並べると、同じ行事の話をしているとは思えないほど、机の空気が変わる。
窓の外では、倉から運び出される麻袋の数を誰かが読み上げていた。返事が飛ぶ。荷車の車輪が石を削る。朝の仕事は、もう止まらない。
「“軽微な追加費用”」
セレフィーナは王都側の文書を読み上げた。
「好きよね、この書き方」
ノアが肩越しに覗き込む。
「王都の帳場で読むぶんには、たしかに軽いんでしょうね」
「向こうの机は傷まないもの」
セレフィーナは別紙を一枚めくる。
「傷むのは、こっちの人手よ」
イレーネが、王都側の照会欄を指で押さえた。
「この一通に答えるたび、書記が半日、机に縫い付けられます」
声は低く、平らだった。
「そこで終わればまだ良い方です。差戻しが来れば、もう半日。補足を書き足せと言われれば、さらに半日」
紙の端をまっすぐ揃える。
「その間に、水路の見回りは後ろへずれます。倉の在庫確認も遅れます。神殿提出用の控えを三部作るなら、誰かが夕方まで帰れません」
ルシアンは何も言わなかった。
ただ、イレーネが書き込んだ控えの端にある
水路補修一件分
冬支度備蓄一回分
という文字を、穴が開くほど見つめている。
王都側の補佐役が、小さく咳払いをした。咳払いのあと、居心地が悪そうに袖口の刺繍をいじる。
「ですが、そこまで費用へ置き換えてしまうと」
言葉を選ぶ顔になった。
「親善行事の趣旨が……少々、窮屈に見えるのでは」
イレーネはその人を見ず、帳簿へ視線を落としたまま言う。
「窮屈なのは現場です」
その一言のあと、廊下の向こうで木箱を下ろす音がした。誰かが「そこ、先に運んでくれ」と叫ぶ。もう一人が返事をする。人が動かなければ回らない音だ。
セレフィーナは差額欄へ指を置いた。
「この額」
爪の先で、数字の並びを軽く押さえる。
「水路補修なら一件分。冬支度なら一回分。橋板の交換も、今月は飛ぶわね」
視線を上げる。
「王都では“少し”でも、地方では“今月をどう越えるか”なのよ」
補佐役は黙った。
神殿側の書記は、茶器へ伸ばした手を途中で止めた。
ルシアンはまだ何も言わない。右の帳簿を見つめたまま、表情だけが少しずつ悪くなっていく。
イレーネが次の紙を開く。
「しかも、これは一件分です」
その細い指が、次の欄へ移る。
「確認照会が増えれば、通常業務の穴埋めも増えます。フォルク家規模なら、家令一人分の月給に届きます」
そこで、ようやく顔を上げた。
「この額を軽いと言えるのは、払わない側だけです」
今度は、受け皿に茶器が触れた。
小さな音だった。だが、その場にいた全員が聞いた。
誰もすぐには言い返さなかった。
言い返せないのだ。
数字の形が、あまりにも悪かったから。
セレフィーナは王都の見積書を引き寄せた。
余白へぺん先を置く。
「結構」
小さく言う。
「そこまで“透明性”がお好きなら、中央で全部抱えていただきましょう」
ノアの目が細くなる。
「嫌な書き方をしそうですね」
「ええ。とても」
セレフィーナは迷わず書きつけた。
追加照会・転記・控え作成・再確認に伴う確認経費ならびに人員拘束相当額は、透明性確保の観点から中央調整費へ一括計上のこと。地方側へ個別負担として配分しない。
そこまで書いて、ぺんを止める。
口元がゆっくりと歪んだ。
「……『改善』ですって?」
セレフィーナは紙を見下ろしたまま言う。
「だったら、この額に見合うだけの配慮を、今度は王都の帳場で払ってもらいましょうか」




