第46話 前へ出される子の息苦しさ
神殿へ続く回廊は、今日も明るかった。
窓から落ちる光が白い石床をなぞり、祝福の支度には申し分ない顔をしている。きれいで、静かで、だからこそ余計に逃げ場がない。
リリア・セヴランは、花綱を抱えたまま笑っていた。
蔓に残った細い棘が指に食い込んでいるのに、その手をゆるめない。笑おうと横に引かれた口元だけが小さく震え、頬の色はすっかり抜けて、無理に息を呑み込んだ人の顔になっていた。
「あなたが前に立つと、場がやわらぎますわ」
「本当に、こういう役にぴったりね」
「皆も安心なさるでしょう?」
やわらかな声が、逃げ道だけを順番に塞いでいく。
少し離れてそれを見ていたミレイアは、喉の奥を指で押されたような気分になった。あの顔を知っている。断れない時にだけ浮かぶ、あの苦しい笑い方を。
「少し、こちらへ」
考えるより先に声が出ていた。
リリアははっと振り向き、それから助けを見つけた人みたいに小さくうなずく。
「はい……少しだけ」
二人は回廊の端の長椅子へ移った。人の出入りはあるのに、この一角だけ妙に空気が薄い。
リリアは膝の上へ花綱を置いた。外した指先の先が赤い。棘の跡だろう、とミレイアは見てしまう。
「ご気分が悪いですか」
そう尋ねると、リリアはいつもの癖で「大丈夫です」と言いかけ、そこで言葉を飲み込んだ。
「……すみません。つい、そう言ってしまって」
「わかります」
ミレイアは自分の手を見た。昔の癖で、指先が絡まりかけていた。
「『ありがとうございます』って言っているのに、喉の奥だけきゅっと引きつること、ありませんか」
リリアが顔を上げる。
「笑っているはずなのに、胸の内側だけ冷えていくとか。断ったら、その場の空気まで悪くする気がして、息を吸うのも下手になるとか」
しばらくして、リリアの唇がかすかに震えた。
「……あります」
声がとても小さい。
「あります。今、まさに」
ミレイアはうなずいた。
「でしたら、その場で決めなくていいです」
「でも、皆さん親切で」
「親切な顔のまま、人を逃がさないこともあります」
言ってから、ミレイアは少しだけ目を伏せた。
「わたくし、前にそれで動けなくなりました。嫌です、と言うほどでもない気がして。でも、お礼を言うたび、喉だけがどんどん狭くなって」
そこでようやく、リリアの肩から力が少し抜けた。
「だから、わかるんです。その顔」
リリアは花綱の蔓をそっと撫でた。棘を避けるような、頼りない指つきだった。
「……前に立つのは、得意ではありません」
「ええ」
「端で手を動かしている方が、ずっと楽です。でも、そう言ったら、がっかりされる気がして」
「そのがっかりまで、引き受けなくていいんです」
きっぱり言うと、リリアは泣きそうな顔になった。
「今すぐ断れなくても構いません。でも、次に同じように頼まれたら、少し考える時間をください、とだけでも」
「……そんなこと、言ってもいいのでしょうか」
「息が止まりそうなまま頷くより、ずっといいです」
リリアはしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
「……やってみます」
「はい」
呼ぶ声が聞こえ、二人は立ち上がる。
花綱はまだ彼女の腕に重たくかかっていたが、さっきのようにそれへしがみついてはいなかった。
「ありがとうございます」
「今のは、大丈夫そうです」
「え?」
「喉が締まっていませんでしたから」
リリアは一瞬だけきょとんとして、それからごく小さく笑った。さっきの笑顔より、ずっと人の顔だった。
◇
夕方、王都屋敷へ戻ったミレイアは、神殿でのことをセレフィーナに伝えた。
会議室の机には、エステルへの打診文と評価記録、費用帳簿の写しが積まれている。窓際に立つセレフィーナはそれを黙って見下ろし、ノアは横で紙の位置を揃えていた。
話が終わると、セレフィーナはしばらく何も言わなかった。
やがて打診文へ手を伸ばし、その端を指先でじり、と押した。白い紙に触れているはずなのに、爪の先まで冷たさが移ったように見える。
「……エステルを排除したその空白へ、この子を押し込むつもりなのね」
低い声だった。
「足りない歯車を、別の場所から無理やり引き抜いて差し込むみたいなやり方だわ。しかも、どちらにも『あなたのため』という顔をして」
ノアが口元だけで笑う。
「悪趣味ですね。しかも、よく磨かれている」
「学園だけの思いつきではないわ」
セレフィーナの視線が、費用帳簿の写しへ流れる。
「祝福の人選と席次、神殿側の顔、寄付金の流れ。全部が同じ日に噛み合いすぎている。誰かが盤面を整えている」
ミレイアは卓の端を握った。
「リリアさん、笑おうとして……笑えていませんでした」
セレフィーナが目を上げる。
「前のわたくしと同じでした。断れない時の顔です」
それを聞いたノアの笑みが、少しだけ鋭くなる。
「善意の仮面を被ったまま、誰かを窒息させる。王都の連中が一番得意な手口だ」
セレフィーナは窓の外、夕方の光を受けた神殿の白壁を見た。その目は、祈りを見ている人のものではなかった。解体する場所を見定める人の目だった。
「いいわ」
そう言って、帳簿を一冊、手前へ引き寄せる。
「神殿の寄付金名簿と、祝福式の席次表。ここ三年の会計記録も全部揃えて」
ノアがすぐにうなずく。
「どこから見ます?」
「端から全部よ。彼らが『善意』で固めた帳簿に、どれだけ自己都合の泥が詰まっているか、暴いてあげるわ」
ノアの口元が、きれいに歪んだ。
「承知しました」
セレフィーナは打診文の上へ帳簿を重ねた。白く整った紙面が、その下に隠れる。
「まずは神殿から潰す」




