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悪役令嬢にされる予定でしたが、先に舞台から降ります。【350万PV感謝】  作者: 星渡リン
第1部 第6章 次の舞台は、自分で作る

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第35話 王都の台本が破れる

「ええ。きれいに残っています」


 ノアの返答が落ちたあと、会場には、音楽よりも薄く、それでいてずっと強い沈黙が広がっていた。


 誰か一人を悪役にして終えるつもりなら、自分はそのためには立たない。

 しかも、そのやり取りはもう記録された。


 その事実が、祝賀の場へ薄い刃のように走っていた。


 止まったのは、ざわめきだけではない。

 ここへ来るまで皆が無意識に信じていた、「こう進むはずだった流れ」そのものだった。


 それでも、神殿はまだ崩れていなかった。


 高位司祭は一歩だけ前へ出る。白と金の法衣は乱れず、微笑みも穏やかなままだ。声にも焦りは乗せない。ここでそれを見せれば、先に負けると知っている者の落ち着きだった。


「皆さま」


 その声は、祈りの場で人を鎮める時と同じ響きを持っていた。


「若き方々のあいだに、行き違いがなかったとは申しますまい。けれど、それを今宵すべて裁くことが、この祝福の席にふさわしいとは思えません」


 緩やかに周囲を見渡す。


「誤解が重なったこともあったのでしょう。若さゆえに、言葉が届かなかったことも」

 そして、いかにも穏やかに結ぶ。

「だからこそ、これ以上の混乱ではなく、理解ある収まり方を選ぶべきではございませんか」


 会場のあちこちで、小さく息を吐く音がした。


 それは賛同ではない。

 ほっとしたい者の音だった。


 これで終わるなら、その方が楽だ。

 誰も深く傷つかず、誰も責任を引き受けず、美しい祝賀の形だけは残せる。


 そういう終わり方へ、まだ戻れるのではないか。


 そんな期待が、伏せた睫毛の奥や扇の陰で、かすかに揺れた。


 けれど、その逃げ道へ先に石を置いたのは、ノアだった。


「ずいぶん手の込んだ誤解ですね」


 軽く聞こえる声だった。

 けれど、今夜の彼の目にはいつもの遊びがなかった。


 壁際から歩み出たノアは、侯爵家の家令が控えていた資料の束から数枚を取り上げ、そのまま会場の中央寄りへ進んだ。さきほどの返答が、ただの確認ではなく、次の一手の準備でもあったことを示すように。


「今回だけの行き違いなら、時期が綺麗に重なりすぎています」


 彼は一枚目の紙を示す。


「卒業舞踏会と星冠祭の開催時期です。ここ十数年、王都で婚姻調整や派閥再編、大きな推戴が行われた年ほど、この二つは妙に近い時期へ置かれている」


 次の紙へ移る。


「偶然で済ませるには、揃いすぎでしょう」


 さらにもう一枚。


「こちらは過去の社交記録です。“社交界を乱した”とされた伯爵令嬢の件。噂の量のわりに、具体的な罪状は曖昧です。けれど彼女が外れた直後、王都では儀礼の強化と席次の再編が起きている」


 ノアは視線を上げた。


「つまり、今回だけじゃない」


「……そんな、まさか」


 誰かが、隠しきれずに呟いた。


 若い貴族の一人が、弾かれたようにミレイアの近くから半歩下がる。さっきまで“報われる少女”のそばに立つことを、どこか誇らしげに見せていた顔だった。その動きひとつで、会場の均衡が目に見えて傾いた。


 扇を持つ貴婦人たちの手元が乱れる。閉じ損ねた扇骨がかちりと鳴り、誰かの手袋の指先が杯の脚を滑らせた。赤い酒がほんの少し、銀の盆へ散る。


 高位司祭は口を開きかけたが、ノアは止まらない。


「さらにこちら」


 帳簿の写しを掲げる。


「地方負担の記録です。“誰かが選ばれる年”に限って、領地側の献納と儀礼費が不自然に増えている。祝福は美しいでしょう。でも、その裏で誰が費用を払っていたかとなると、話は別です」


 そのまま、最後の紙を静かに開く。


「神殿文書の言い回しも面白いですよ。“相応しき器”“退く影”“巡りを乱さぬ対”」


 ノアの声は薄く笑ったが、笑ってはいなかった。


「人を人としてではなく、位置として読んでいないと、こうは書きません」


 今度は、誰かの扇が本当に床へ落ちた。


 乾いた音が、妙に大きく響く。


 高位司祭の顔から、初めて“穏やかなだけの余裕”が剥がれた。


「記録は記録にすぎません」

 司祭は言った。

「後から、いかようにも意味づけはできましょう」

「もちろん」

 ノアはあっさり頷く。

「だから僕も断言はしていません。ただ、単発の誤解と見るには、よくできすぎていると言っているだけです」


 それが痛かった。


 断言で殴られていないからこそ、逃げにくい。

 偶然だと言い張るには、積み上がった紙の束が多すぎた。


 その時、アシュクロフト侯爵が椅子から立ち上がった。


 派手な所作ではない。ただ立っただけなのに、会場の視線が自然にそちらへ流れる。家格というものは、こういう時に初めて重みを持つ。


「私からも申し上げましょう」


 低く、よく通る声だった。


「我が娘を、曖昧な空気で処理させるつもりはありません」


 誰も口を挟めない。


「具体の罪状なく、印象と役回りだけで一令嬢へ負を集めるのは、公の扱いとして不当です。しかもそれが、王都の節目ごとに繰り返されてきた可能性がある」

 侯爵は神殿と学園を順に見た。

「であれば、これは娘一人の感情の問題ではない。家格と名誉、そしてこの場の公正に関わる話です」


 貴族たちの表情が変わっていく。


 侯爵令嬢の不機嫌。

 若い者同士の行き違い。

 そういう小さな枠へ押し戻せなくなったのだ。


 その隣で、エヴァリーヌも静かに立ち上がった。


 夫ほど低くはない。けれど、その声は貴婦人たちの耳へまっすぐ届く温度を持っていた。


「どのご令嬢であっても、同じ位置へ置かれ続ければ、いつか息ができなくなります」


 扇を持つ貴婦人たちへ視線を向ける。


「それにもかかわらず、“あの娘なら耐えるべきだった”“あの娘だから悪く見えた”と受け取れる言葉が、この数か月あまりに多うございました」

 エヴァリーヌは声を荒げない。

「それを社交の名で済ませるおつもりでしたら、私どもは看過できません」


 暖炉の火が、ほんの少しだけ弱くなったように見えた。


 もちろん錯覚だ。

 けれど、その場にいた誰もが同じ錯覚を見たのだろう。貴婦人たちの姿勢が揃ってわずかに正される。先ほどまで“若い娘たちの行き違い”として頷き合っていた者たちが、今は一人も軽々しく視線を交わせない。


 それは女主人の怒りではなかった。

 社交界の内側を知り尽くした者が、その社交界へ向けて「あなた方も見られていますよ」と告げる圧だった。


 そして、最後の一押しのように、ルシアンが前へ出た。


 王子が公の場で半歩出る。

 その意味を、誰もが知っている。


 だからこそ、会場は呼吸すら抑えた。


 ルシアンはセレフィーナを見た。

 それからミレイアを見た。

 ようやく、自分の言葉が誰へ届くべきかを確かめるように。


「……私は」


 最初の音は低く、少し掠れていた。


「私は、見ていませんでした」


 その告白は、派手な否定よりもずっと重かった。


「セレフィーナが、当然そこにいて」

 そこで彼は一度、言葉を切った。

「当然のように場を整えてくれるものだと、思っていた」


 息を呑む音が走る。


「殿下、それは」

 高位司祭が思わず口を挟む。


 ルシアンはそこで初めて、鋭く司祭を見た。


 声は荒くない。だが、その一瞥だけで続きを封じるには十分だった。


「まだ、話しています」


 短い。

 けれど、誰も二の句を継げなかった。


 ルシアンは正面へ向き直る。


「彼女が引き受けていたものを、支えとしてではなく、最初からそうなっているものとして受け取っていた」

 また一拍。

「そして私は、ミレイアを守るという名目で、その場にとって都合のよい構図に乗っていた」


 ミレイアの肩がわずかに動いた。

 セレフィーナは黙ってその言葉を受けた。


「何が事実かより」

 ルシアンの声は低いままだった。

「何がそう見えるかに、甘えていたのだと思います」

 沈黙。

「それを、王子としての正しさだと、どこかで思っていた」

 もう一度、短く息を継ぐ。

「未熟でした。怠慢でもあった」


 会場の誰も、口を挟めない。


 言い訳の余白がないからだ。

 長く語らないぶん、その言葉はそのまま落ちる。


 そしてルシアンは、会場全体を見渡した。


「これ以上、誰か一人を責めて終える形を、私は認めません」


 その瞬間、何かが決定的に外れた。


 王子。

 選ばれる少女。

 退かされる令嬢。


 その三角が、音を立てずに崩れる。


 高位司祭はまだ何かを言おうとした。

 だが、先ほどまでなら会場を包めたはずの穏やかな言葉が、もうひどく薄く聞こえる。


「神殿は、ただ秩序と祝福を」

「祝福、ですか」


 ノアが小さく呟いた。

 皮肉というより、確認のような声音だった。


 会場の誰も、その言葉にうっとりしなかった。

 もう“美しい結末”へ酔えないのだ。


 誰が悪かったのか。

 誰を責めれば気持ちよく終われるのか。

 その置き場所が、完全に失われていた。


 残ったのは、どうしてこんな形が必要だったのかという、面倒で重い問いだけだ。


 祝福のために飾られていた花々は同じまま。

 照明も変わらない。

 音楽も、止まったきり再開の機会を失っているだけだ。


 それなのに、もうこの場は以前と同じ意味を持てなかった。


 星冠祭へ繋がるはずだった舞踏会。

 若い世代の門出を美しく見せるはずだった場。

 誰かが選ばれ、誰かが退くことで、王都の秩序を整えたように見せる装置。


 その仕掛けが、誰も悪役にならないまま、意味を失っていく。


 セレフィーナは、その崩れ方を見ていた。


 叩き壊したのではない。

 暴いて燃やしたのでもない。

 ただ、読めなくなっていく。


 この場にいる誰もが、もう同じ調子でその台本を読めない。

 読もうとすればするほど、自分たちが何をしてきたのかが透けてしまう。


 それは、思っていたよりずっとみっともない終わり方だった。


 そして、だからこそ、本当に壊れたのだとわかった。


     ◇


 ノアは少し離れた位置から、その光景を眺めていた。


 花はまだ美しい。

 燭台の火も揺れている。

 床は磨かれたまま、祝賀の夜は見た目だけなら何も壊れていない。


 けれど、台本はもう死んでいた。


 燃えたわけではない。

 派手に裂かれたわけでもない。


 もっとみっともなく、皆の前で読めなくなったのだ。


 ……それでも。


 会場の隅、神殿関係者の列のさらに外れで、ひとつだけ動かない視線があった。


 狼狽もせず、顔色も変えず、この惨状を冷たく見つめている瞳。


 ノアはその気配だけを捉えたが、誰のものかまでは掴みきれなかった。


 台本は死んだ。

 だが、その台本を捨てていない誰かが、まだこの場にいる。

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「ぼくは ずっと考えていた ぼくの この一生は なんのためにあるのかと…… ぼくは よくわからないものに ささげられるのだとおもう」 これを思い出しました
王都側の舞台を崩すのに、セレフィーナが役を降りる流れは楽しかったです。 ただ役者がセレフィーナ、ミレイア辺りまでは良かったのですが、一人一人順番に立ち上がることで物語構成が整えられすぎた感じ受けて役を…
このゲームのシナリオを描いたのがゲーム制作者?ではなく、神殿側だとしたのが斬新だと思いました。神殿側には人々の意識をシナリオ通りにコントロールする力があるということですね? 面白いと思いました。 それ…
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