第28話 主役になりたかったわけじゃない
ミレイアが侯爵領へ来たと知らされた時、セレフィーナは一度だけ手を止めた。
昼下がりの執務室には、領地の帳面と、王都から持ち込まれた資料がまだ広がっている。窓の外では風が乾いた草を撫で、遠くで荷車の軋む音がかすかに聞こえた。
「ご本人、ですか」
先に問うたのはリズだった。声音は低く、はっきりと警戒している。
「はい」
使いの者が答える。
「付き添いは最小限で、正式な王家の使いではないとのことです。ご本人が、どうしてもお会いしたいと」
セレフィーナは少しだけ目を伏せた。
手紙の次は、本人か。
不思議ではない。あの手紙だけで終われるほど、王都の空気は軽くないだろう。けれど、実際にここまで来たという事実には、文字よりずっと重いものがあった。
「……殿下は?」
リズが尋ねる。
ルシアンはまだ館に滞在していた。侯爵家の客として扱われてはいるが、王都へ帰るには少し早いと判断されたのだろう。あるいは、帰る前にもう一度何かを言いたいのかもしれない。
「複雑そうなお顔でございました」
使いの者は慎重に答えた。
「ただ、ご面会そのものを止めるご様子ではなく」
セレフィーナはそこで小さく息を吐いた。
「わかったわ。お通しして」
「お嬢さま」
リズが一歩前へ出る。
「ご無理をなさる必要はございません」
「ええ。でも、これは読まずに捨てるのと同じにはしたくないの」
リズはすぐには頷かなかった。だが、やがて短く頭を下げた。
「承知いたしました。私は必ず控えます」
◇
応接室へ入ってきたミレイアは、セレフィーナの記憶にある姿よりずっと細く見えた。
衣服はきちんとしている。髪も整えられている。けれどそれは、「整っている」というより「崩れないように必死で留めてある」に近かった。頬の色は薄く、目の下には眠れていない影がある。王都で人目を集めていた頃の、どこか浮き立つような危うさはもうなかった。
代わりにあるのは、ひどく疲れた若い娘の顔だった。
「お時間をいただいてしまって、申し訳ありません」
ミレイアは礼をした。動きはぎこちないが、逃げずに立っている。
「お話はうかがいます」
セレフィーナは静かに言った。
「どうぞ、お座りになって」
ミレイアは小さく頷き、勧められた椅子へ腰を下ろした。リズはセレフィーナの少し後ろに控えたまま、少しも警戒を解いていない。
しばらく沈黙があった。
気まずさというより、ミレイアが最初の言葉を探している時間だった。喉の奥で何度も形を変えた言葉を、どれならちゃんと届くのか測っているような沈黙。
「手紙を……読んでいただけて、ありがとうございました」
ようやく出た声は小さかった。
「読みました」
「本当は、あれだけでは足りないと思っていました」
「そうでしょうね」
セレフィーナの返しは、やわらかくも冷たくもなかった。ただ、先を促すだけの静けさがあった。
ミレイアは膝の上で指を組み、少し俯いた。
「わたし、何から言えばいいのか、ずっとわからなかったんです」
「ええ」
「でも、ちゃんと言わないといけないと思いました。もう、黙ったままではいけないと」
その言葉には飾りがなかった。
誰かに整えられた告白ではない。自分で怖がりながら、それでもここまで持ってきた言葉だとわかる。
「……殿下に助けられた時、最初は本当にありがたかったんです」
ミレイアはゆっくりと話し始めた。
「王都も学園も、わたしには息苦しくて。何を言えば失礼で、何をしなければ笑われるのか、いつも少し遅れてしまっていたから」
「そうでしょうね」
「だから、あの時は救われたような気持ちになりました。でも」
そこで、ミレイアの指先が少しだけ強く組まれる。
「助けられるたびに、周りの目が変わっていったんです」
セレフィーナは黙って聞いた。
「わたしを見る目が、“編入してきた子”じゃなくなりました。“守られる子”とか、“選ばれる子”とか、“報われるはずの子”とか、そういうものに変わっていったんです」
「……」
「みなさま、やさしい言葉をくださるんです。きっとつらかったでしょうとか、殿下がいてよかったですねとか、これからは幸せになれますよとか」
ミレイアはそこで笑おうとして、うまくできなかった。
「でも、そのどれも、わたしがどうしたいかを聞いてから言われた言葉ではありませんでした」
その一言に、リズの眉がわずかに動いた。
「セレフィーナ様がいらっしゃる間は、まだ少しだけ、わたしも曖昧でいられたんです」
ミレイアは続けた。
「でも、いなくなられてからは、急に全部がはっきりしてしまって……」
声が、そこでかすれた。
「笑っていてほしいんだって、わかりました。喜んでいてほしいんだって。殿下のご好意を受け取って、皆が納得する顔をしてほしいんだって」
セレフィーナは、そこで初めて少しだけ目を細めた。
やはり同じだ、と思う。
自分は退く役に押し込まれた。
そしてミレイアは、選ばれる役に押し上げられた。
向きが違うだけで、どちらも「そうあってほしい形」を着せられていたのだ。
「わたし、誰かを悪くしてまで持ち上げられたかったわけじゃないんです」
ミレイアの声が震える。
「でも、どう断ればいいのかわからなくて。違いますって言ったら、皆さま困った顔をするんです。わたしが喜ばないと、どうしてそんな顔をするのって」
「ええ」
「それで、何も言えなくなりました」
そこで初めて、ミレイアはセレフィーナを真正面から見た。
泣いてはいない。まだこらえている。けれど、目の奥がぎりぎりのところで張りつめている。
「わたし、あなたにいなくなってほしかったわけじゃないんです」
その言葉は、手紙の中よりずっと切実だった。
「本当に、違うんです。ただ、わたしもどうしていいかわからなくて……」
セレフィーナは少しのあいだ黙っていた。
簡単に許せる話ではない。あの時、ミレイアが何も言えなかったこともまた事実だ。沈黙は時に加担になる。
けれど同時に、目の前にいる娘が無邪気な勝者ではなかったことも、もうよくわかった。
「あなたは」
セレフィーナはゆっくり口を開いた。
「主役の座を欲しがっていたわけではなかったのね」
ミレイアの瞳が、大きく揺れた。
その一言は、彼女がさっきまで拙く積み上げていたものを、ちょうど正しい形で受け取ったのだろう。
「……はい」
答えた時には、もう声がほどけていた。
「はい……っ」
こらえていたものが、そこで切れたらしい。ミレイアは俯いて、片手で口元を押さえた。肩が小さく震える。大きく泣き崩れるのではなく、どうにか音を立てまいとして、それでも止められない泣き方だった。
リズは何も言わなかった。
セレフィーナも、すぐには慰めなかった。
その代わり、沈黙を壊さずに待った。
やがてミレイアは、息を整えようとするみたいに何度か浅く呼吸した。
「わたし……」
「ええ」
「主役になりたいなんて、思ってなかったんです」
セレフィーナはその言葉を急がせなかった。
「私は退く役に置かれた」
静かに言う。
「あなたは選ばれる役に置かれた」
「……」
「反対に見えるけれど、どちらも自分で選んだ立ち位置ではなかったのね」
ミレイアが、涙の残る目でこちらを見る。
その視線の中に、ようやく何かがつながる気配があった。
敵と味方ではない。
奪う側と奪われる側でもない。
同じ装置の中で、別々の札を持たされて立たされていた者同士の線だった。
「わたし、あなたのことをずっと怖い人だと思っていました」
ミレイアは震える声で言った。
「きちんとしていて、何も揺れない人だと思っていました」
「揺れていたわ」
セレフィーナは淡く返す。
「見せないようにしていただけで」
「……はい」
その返答に、ミレイアはまた少し泣きそうな顔をした。
「普通でいたかったんです」
彼女は俯いたまま、ぽつりと言う。
「特別な子でも、守られる子でも、選ばれる子でもなくて」
「ええ」
「ただ、失礼のないようにして、ちゃんと勉強して、ここにいてもいいんだって思いたかっただけなんです」
セレフィーナは、その言葉を胸の中でゆっくり受け止めた。
普通にここにいたい。
それは、どれほど小さく見えて、どれほど奪われやすい願いだろう。
王都はいつも、人を役に分けてしまう。立たせる者と退かせる者に。祝福される者と、祝福のために見えなくされる者に。
その中で「普通にいたい」は、いちばん叶いにくい願いなのかもしれなかった。
ミレイアは、とうとう声を押し殺しきれずに言った。
「私、主役になりたかったわけじゃないんです」
涙に濡れた声が、応接室の静けさへ落ちる。
「ただ、普通にここにいたかっただけなのに」
その言葉のあと、しばらく誰も話さなかった。
窓の外では、領地の風が木々を揺らしている。王都のように意味をつけられた風ではなく、ただ吹いて、通り過ぎていく風だ。
セレフィーナはその音を聞きながら、目の前の娘を見た。
この子は主役ではない。
自分も悪役ではない。
そう呼ばれる前に、ただそれぞれの場所で、息をしていたかっただけの人間だった。
その当たり前が、王都ではどれほど難しかったのかを、今はもう、二人とも知っていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
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