第三話 王命
領地に到着してからの数日間は、かなり忙しかった。
お父様について町の責任者に会いにいったり、お母様と一緒に果樹園の様子を見たりと、やることがたくさんあったのだ。
そのせいか、夜は夢を見る間もなくぐっすり眠ってしまう。ひどい時には、夕食時に眠気が襲ってくることもあった。
ただそれはどちらかと言えば心地のいい疲れで、忙しいながらも充実している自分がとても誇らしい気持ちになる。
そして、熟睡した翌朝は何とも気持ちがいいのだ。
めずらしくすっきりと目が覚めた私は、大きく伸びをすると、ベッドから立ち上がり、朝の身支度を始めた。
(今日は何も予定がないから、久しぶりに読書でもしようかしら)
この屋敷には、王都の家とはまた違った種類の書物がたくさんある。
特に、お母様が各地から集めたという農作物に関する書物は膨大で、読んでみたいものがいくつかあった。
内容を理解できるかはわからないけれど、お母様がそばにいるのだから、いつでも質問できるという気軽さが嬉しい。
今日一日のスケジュールを考えつつ着替えを終えた私は、ふとアンナが活けた花瓶に目をやった。
白くて小ぶりな花がいくつも咲いている。普段我が家に飾られている花と違い、ずいぶんと可愛らしいものだったので、何気なく尋ねた。
「アンナ、あの花はなんという名前なの?」
「えっ」
私のバレッタを選んでいたアンナは驚いたようにこちらを振り返り、目をぱちぱちと瞬かせた。困ったように視線が宙をさまよう。
「知らないの?」
「いえ、確かリナリアという花だと伺いました」
心なしか、アンナの声が緊張している。その様子に違和感を抱きつつ、あまり聞かない花の名前だったので、さらに質問を重ねた。
「どこで買ってきたの?」
「先ほど、屋敷に花を売りに来た行商人からです」
「ずいぶんとめずらしい商品を扱っているのね」
「そう、ですね」
さっきからアンナは私と目を合わせようとしない。いったい何を隠しているの?
問い詰めようと口を開こうとしたとき、部屋のドアがノックされた。
「アメリアお嬢様、失礼いたします。旦那様と奥様がお呼びです」
執事のしわがれた声が戸の外から聞こえる。
(お父様とお母様が――?)
何の御用かしら。これまで二人揃って私を呼びつけることなどなかったのに。
なんとなく、嫌な予感がした。
でも、お二人からの呼び出しとなれば応じないわけにはいかない。
アンナに目を向けると、彼女はすぐに理解して準備を始めた。
私は扉の外で待つ執事に返事をする。
「すぐに伺いますとお伝えして」
頭の中であらゆる可能性を考えながら、身支度をする。
そうして私は、アンナの不可解な言動のことなどすっかり忘れてしまった。
* * *
「た、ただいま、参りました」
部屋に流れる空気が冷たくて、思わず口ごもった。
いえ、暖炉は点いているのだから、本当に寒いわけではないのよ?
ただ、お父様が醸し出す空気が氷点下の湖のごとく冷え冷えとしていて、私は身体をぶるりと震わせた。
とてつもなくお怒りだ。ただその理由がわからず、立ったまま目線を伏せる。
お父様は黙って足を組み、じっと私を睨めつけていた。
「旦那様、そんな怖い顔をしていたらリアが可哀想よ。この子は何も悪くないんだから」
隣に座るお母様が助け舟を出してくださったものの、鷹の目に射抜かれた私はぴくりとも動くことができない。
(私は悪くないって……じゃあ何故お父様はこんなにもお怒りなの?)
さっぱり見当がつかず、視線だけを動かしお父様を見る。
不機嫌を全く隠そうとしないその顔は、こめかみに青筋が浮きあがり今にも破裂してしまいそうだ。
しばらく無言だったお父様は、怒りを押し殺したようなため息をつき、口を開いた。
「アメリア……レオナルド・クラークと婚約する意思はあるか」
……。
……。
「……はぁ?!」
たっぷりの間の後、思わず声を上げてしまった。しかしお父様の眉間の皺が一層深くなったので、慌てて自分の非礼を詫びる。
「も、申し訳ありません。あまりにも唐突なお話で取り乱しました」
というか、今もなお、現在進行形で取り乱し中だ。
まだ理解が追いつかない。どうして私とクラークが婚約なんて話になるのよ。
「そうよねぇ、突然そんなこと言われたら。旦那様、ちゃんと順を追って話してあげて」
お母様が宥めるようにその腕に触れると、お父様はちっと舌打ちをした。
そんな様子のお父様は初めてで、これまでにないほど苛立っているのがわかる。
「国王陛下から打診があったのだ。お前とクラークの長男を婚約させてはどうか、と」
お父様の手元には、握りつぶされた手紙らしきものがあった。
テーブルの上に置かれた封筒の蝋には、紛れもない王家の印が押されている。
その紋章を凝視しながら、私は震える唇で尋ねた。
「どうして陛下がそのようなことを?」
「理由などは問題ではない。その意図がなんであれ、陛下のお言葉であることが重要なのだ」
お父様の言葉に、ごくりと喉が鳴る。
それはわかっている。国の元首たる国王の命であれば、よほど無茶なものでない限り諾々と受けなければならない。
でもこれはよほどのことじゃない?
我が国を支える四大貴族とも言われるクラークとサリバンの血統に関わる話だ。
「私もレオナルド様も長子です。それに、他に跡を継ぐべき弟妹もいないではありませんか」
私たちが婚約すれば、どちらかの家の後継者がいなくなることになる。
お父様は黙ったまま何もおっしゃらない。代わりに、苦虫を噛み潰したような顔をするだけだ。
「まさか……私にクラーク家へ嫁げとおっしゃるんですか?」
その瞬間、お父様がテーブルを力いっぱい叩きつけた。部屋に響き渡った鈍い音に、思わず首をすくめる。
「無論、お前をクラークなどにくれてやる気はない。ただ、陛下直々のお言葉を無下にするわけにはいかない」
その剣幕に怯えながらも、私を嫁がせるつもりはないという言葉にほっと息をつく。
しかし、次の言葉に私は再び凍りついた。
「来月のご即位二十周年の祝賀会には、クラークの息子と参加するように」
「えっ?」
「陛下が、お前たち二人に会いたいと仰せだ」
「そんな……」
想像以上に話が進んでいることに、足元が崩れ落ちるような感覚になる。言葉が出なくなった私を見つめ、お父様はさらに続けた。
「私からも陛下に進言はするが、お前からもきちんとお断りできるようにしておきなさい」
「……はい」
何とか声を絞り出して返事をすると、お父様は席を立ち、部屋を出ていった。
「リア」
気づけば、お母様が横に立ち肩を抱いていた。私と同じ紺碧の瞳と目が合う。優しい光を放つその双眼に、顔が歪むのを止められなかった。
「お、かあ、さま」
肩に置かれた手にしがみつく。足が震えて立っていられない。そんな私を、お母様はソファへと導き、座らせてくれた。
「大丈夫よ、落ち着いて」
背中をさすりながら、優しい声で諭す。それはまるで幼い子どもをあやしつけるようで、促されるままに大きく深呼吸をした。
「急に婚約の話なんてびっくりするわよねえ」
確かに、予想していなかったことに驚いたこともある。でもそれ以上に、私が他家へ嫁ぐのだという、その可能性があるんだということにとてつもない衝撃を受けた。
じゃあ私がこれまでがんばってきたことは何だったの。サリバンの当主になる、そのことを第一に考えて生きてきた私の十八年間は意味のないものになるの?
膝の上に置いたこぶしをぎゅっと握りしめると、横で私を見つめていたお母様が静かに口を開いた。
「リアは、レオナルドのことは嫌い?」
「いえ、そういうわけではないですけど……」
言葉は濁したものの、嘘は言っていない。
数か月前までだったら、答えはイエスだった。でも、先日の課題の一件以来、クラークに対する嫌悪感はだいぶ薄まったと思う。
私の答えに、お母様はにこりと笑った。
「だけど、彼との婚約は嫌なの?」
「もちろんです! お母様だってご存じでしょう? 私がお父様の後を継ぐためにどれだけ努力してきたか」
努力したことを威張るつもりはない。ただ、自分の主張が正しいと伝えたくて、私は必死にお母様に説いた。
お母様はうんうんとうなずいて、私の頭を撫でる。
「リアは昔からがんばりやさんだものね。でもね、もう一度考えてほしいの。リアが婚約したくない理由は、サリバンを継がなくてはいけないという『義務感』からだけなの?」
「え?」
「もし、家のことなど何も気にしなくていいと言われたら、婚約してもいいと思う?」
「そんなこと……」
あり得ない。サリバンの後継問題なしに、私の婚約者を決めるだなんて。そう言い返したかったけれど、お母様のこちらを見据える目が真剣で、私は口を閉ざした。
(もし、家のことなど何も気にしなくていいと言われたら?)
頭の中でお母様の質問を繰り返す。
そんなこと、これまで考えたことなかった。でも、もし全てのしがらみを捨てて誰かと結婚できるなら。それなら、私は――。
「……たとえそうだとしても、レオナルド様との婚約は望みません」
思い浮かんだ顔を打ち消すように、お母様の質問にだけ答える。耐えきれずに目線を落とした私を、お母様は抱きしめた。
「そう、わかったわ。リアが望まないのなら、私もこの話は反対よ」
「……」
黙ったままその胸に頭をあずけると、お母様の心臓の音が聞こえた。一定のリズムを打つ鼓動に、動揺していた気持ちが少しだけ落ち着いてくる。
「私も今回は王都へ行くわ」
「え?」
唐突な言葉に思わず顔を上げる。お母様は、いつもの明るい笑顔で片目をつぶって見せた。
「なんとかして、婚約を回避しなくちゃね?」
第一章執筆では即位十五周年としていましたが、二十周年に変更しました。





