第二話 レティシア・サリバン
永遠にも思える馬車の旅が終わり、ようやく私たちは領主邸へ到着した。
ほんの数時間だったはずなのに、とてつもない疲労を感じる。
窓の外に目を向ければ、主の帰還を待ちわびた多くの使用人が、玄関で並んでいるのが見えた。その真ん中にはお母様が立っている。
レティシア・サリバン。
サリバン侯爵夫人であり、私の母でもある女性だ。
変わり者として有名で、この数年は社交をせず領地にこもりっきり。ーーと、噂されている。
しかし、そんなのは真っ赤な嘘だ。
社交を何年もしていらっしゃらないのは事実だけれど、領地にこもりっきりだなんて。お父様の代わりに領地運営を任され、立派にこなしていらっしゃるというのに。
本人は全く気にしていないみたいだけれど、愛するお母様が正しく評価されていないことが歯噛みしたくなるほど悔しい。何も知らないくせに。何度そう叫び出しそうになったかしれない。
そう、私はお母様が大好きなのだ。
優しくたおやかで、笑顔を絶やさない人。母とはこうあるべき、と思わずにいられない女性。
ただ、成長するにつれて、お父様とは違う意味で少し苦手になってきてしまった。なんというか、彼女は扱いに困るのだ。
(……自由人なのよね)
お母様を表す言葉があるとすれば、その一言に尽きると思う。
小さくため息をつくと、馬車の扉が開いた。お父様に会釈をし、先に降車する。
その瞬間、体に温かい衝撃を感じた。
「リア、お帰りなさい」
「お母様……ただいま戻りました」
首に手を回し私を抱きしめる小さな体を、そっと抱きしめ返す。
「まあまあ、また背が伸びたのね。それに美人になったわ」
そう言って少女のような笑顔で私を見上げる。それにほほ笑み返しながらも、私は別のことが気になって仕方なかった。
嬉しいです、お母様。もちろん嬉しいんですよ? でも、お母様が先にご挨拶すべきは、当主であるお父様なんです……!
相変わらずの無邪気な振る舞いに、背中から冷や汗が流れた。だって、私の真後ろにはお父様の気配がするんだもの。
「あら、旦那様もお帰りなさい」
だから!! そんなついでみたいに言わないでください……!
しかしひやひやしているのは私ばかりで、当のお母様はにこにこと笑うだけだ。
「変わりはないか」
「ええ、今年は豊作でしたし、領民たちの冬の蓄えも十分だと思います」
お、か、あ、さ、まーーーー!
その回答は違います。いえ、違わなくはないけど、領地の報告は後でいいのよ。お父様は、「お母様に変わりがないか」をお聞きになりたいのです!
心の中で絶叫してみても、少しも届かない。お母様は朗らかな声で私達二人に声を掛けた。
「長時間の移動で疲れたでしょう。お茶を入れさせますから、旦那様もリアも一服してはどう?」
「いや、私は急ぎ確認する書類があるから執務室へ行く」
「まあ、相変わらずお忙しいのね。ではお茶はそちらへ運ばせますね」
お母様の提案に軽くうなずくと、お父様はすぐにその場を去った。
張りつめていた緊張が解けて、大きく息をつく。どうして毎回、両親の会話にはらはらさせられなければならないんだろう。
疲れ切った私とは正反対に、お母様は嬉しそうだ。
「旦那様ったら遠慮しなくてもいいのに」
「えんりょ、ですか?」
「そうよ。久しぶりだから、母娘二人きりにさせてくれたんだわ」
「そうでしょうか……」
私には、急ぎの書類があるという言葉以上の意味は読み取れなかった。本当に、お父様が気を遣ってくださったの?
密かに首を傾げた私を目ざとく見つけ、お母様はふふふと笑いを漏らした。
「そんなに不思議? 旦那様が気を遣ってくれるのが」
「え、いえ、そんなつもりではないんですけど」
「リアもまだまだ旦那様のことがわかってないわね」
天真爛漫な顔で言い切るお母様は、私よりもよっぽど少女のようだった。その笑顔が目映くて思わず目を細める。
お父様はきっと、お母様のこういうところを愛していらっしゃるのね。
私たち父娘では持ちえない、明るい太陽のようなオーラを放つ女性。お母様の愛らしさの十分の一でも私が引き継いでいたら、お父様は私を可愛がってくださったかしら。
そう考えたら、心臓がぎゅっと掴まれたように呼吸が苦しくなった。
黙り込んだ私を下からのぞき込んでいたお母様が、優しい声を出す。
「さ、行きましょうか。とっておきの紅茶があるのよ」
* * *
「リアはミルクティーでいいかしら?」
ティールームに入ると、お母様はくるりと振り返って私に問いかけた。
「はい、ミルクたっぷりがいいです」
「お茶の好みは変わらないわね」
私をソファに座らせながら、お母様は笑う。
そして部屋の隅に目くばせをすると、控えていたメイドが一礼して部屋を離れていった。
「お母様こそ、相変わらずコーヒーがお好きなんでしょう?」
「そうよぉ、スイーツには苦いコーヒーが一番合うもの」
でも誰もわかってくれないのよね、と残念そうに息を吐く。
確かに、この国でコーヒーを飲む女性はあまりいない。男性でも好みが別れるところで、お父様は紅茶派なので我が家でコーヒーを飲むのはお母様だけだ。
ただの嗜好品の話だけれど、お母様の場合はそれだけは済まされない。
『まあ、コーヒーだなんて一部の殿方が飲むものではなくて?』
『さすが、サリバン候は心が広くていらっしゃるのね。わたくしがコーヒーを飲んだら夫に眉をひそめられますわ』
脳裏に、数年前のお茶会での婦人たちの言葉が思い浮かんだ。
国で有数の権力者であり、美麗な容姿を持つお父様に嫁いだためか、お母様は常に周りからの嫉妬にさらされていた。
何かにつけて因縁をつけられ、嫌味を言われる。
それでもお母様はいつも笑顔を絶やさなかった。とても芯が強い方なのだ。
とはいえやはり心労がたたったのか、数年前に体調を崩してしまった。そこで私が十五歳で社交界デビューすると同時に、領地で療養するようにとお父様が配慮なさったのだ。
以降、お父様がパーティーへ出席なさる時は私が同席していた。
「失礼いたします」
メイドの声に現実に引き戻される。二つのポットとティースタンドを載せたワゴンがテーブルまで運ばれてきた。
「おすすめはアップルパイよ」
勧められるがままに、アップルパイを取って一口食べる。
サクっとした軽い口当たりのパイ生地と、甘酸っぱいりんごの香りが口内に広がった。控えめなシナモンがりんごの果汁とよく合う。
「美味しいですね」
「そうでしょう? 今年のりんごは特に出来が良かったの」
お母様は嬉しそうに私が食べる様子を眺めている。その頬はふっくらとして血色もいい。
「体調がよさそうで安心しました」
「ええ、こっちに来てからはだいぶ調子がいいの。旦那様とリアのおかげね」
そう言って眉尻を下げ、申し訳なさそうに私の瞳を見つめる。
「あなたにばかり社交を任せてしまって、ごめんなさいね」
「いいえ、お母様には領地運営の方が向いているんですわ。私にはこんなに美味しいりんごはつくれませんもの」
アップルパイをもう一口ほおばり、にこりと笑って見せると、お母様は少し安心したように両肩の力を抜いた。
「そう言ってもらえると嬉しいわ。十年前からの品種改良がようやく実を結んだの。後はもう少し気候に左右されないようになるといいのだけど。 近いうちにリアを果樹園へ案内するわね」
「ええ、ぜひ」
ミルクティーをこくりと飲み込み、夕食までの時間、お母様とのお茶を楽しんだ。





