第二十話 消えたページ (3)
人がまばらになった廊下を抜け、アンダーソン教授の研究室へと向かう。数歩先を歩くチェイサーの背中を見つめながら、先ほどの彼の言葉を思い出した。
『君を信じたい』
たった一言なのに、この万能感はなんだろう。見つめられるだけで、指先が痺れて蕩けそうになるこの感覚は。
寒そうな細身のシャツ姿に、胸が締め付けられる。
(ああ、ダメだわ……)
もう認めざるを得ない。私は、この男が好きなんだ――。
立ち止まってほしくて、こちらを向いてほしくて、そっと手を伸ばしかけた。
「遅かったね」
突然響いた声に我に返り、手を引っ込める。
声の方に視線を向けると、研究室前の廊下でクラークが壁に寄りかかり立っていた。
「……レオ」
「ずいぶんと待ったよ。二人で何をしていたの」
まさかチェイサーに抱きついて泣いていたなんて言えるはずがない。穏やかなその声に、なんとなく後ろめたさを感じて黙り込んだ。
そんな私の気持ちを悟ったのか、クラークの緑青の目がこちらに向けられる。
先ほどまで泣いていたせいで、おそらく目が腫れているはず。見られるのが嫌で顔を逸らすと、チェイサーが庇うようにその背に私を隠し、押し殺すような声を出した。
「お前には関係ない」
彼がクラークに向かってそんな言い方をするのを初めて聞いた気がする。驚いてその背中を見つめるけれど、当然ながら彼がどんな顔をしているのかはわからなかった。
「……そう」
嘆息交じりで返事をすると、クラークはそれまでの会話を区切るように手を一つ叩いた。
「とりあえず、班の皆は家に帰らせたよ」
「……そうか。悪かったな、任せてしまって」
二人の間に流れていたひりつくような空気は霧散し、すぐにいつも通りの語り口になった。そのあまりの変わりように私だけがついていけず、チェイサーの後ろでそっと様子をうかがう。
「ただの憶測でものを言うことは良くないことだとしっかりと釘を刺しておいたから、しばらくは皆静かにしてると思うよ」
「釘を刺した、ね。なんて言ったんだよ?」
「さあ?」
チェイサーは「恐ろしいやつ」とつぶやいて乾いた笑いを漏らした。そして私の方を振り返り、目を細めた。
「というわけで、レオがあいつらを黙らせてくれたそうだ」
「人聞きが悪い言い方をしないでくれないか」
口ではそう言いながらも、クラークも笑っている。一瞬流れた気まずい雰囲気はもうどこにもない。
男の人って切り替えが早いわ。そんなことを思いながら、クラークに向かって頭を下げた。
「クラーク様、ありがとうございます」
「いや、僕の方こそ、あそこで皆を止められなくてごめんね」
眉を下げて困ったように謝るクラークは、この時ばかりは本音でしゃべっているようだった。少なくとも、私はそう感じた。
にこりと笑うと、つられるように彼も口の端を上げる。
「さて、それじゃあアンダーソン教授とホーク助手にお話をうかがおうか」
クラークはドアの呼び鈴を鳴らした。
* * *
研究室には教授しかいらっしゃらなかった。
人のいいアンダーソン教授は、私たちの急な来訪に怒ることもなく、返って申し訳なさそうにあごに手を当てた。
「今はホークが不在なんだよ。彼が課題を受け取ったのだから、本来ならまずは彼に聞かなければいけないのだがね。あと数日は戻らないから、コレット君に確認したんだ」
それが大事になってしまったのか、と教授は頭を掻いた。この雰囲気から察するに、事態はそこまで悪くはなさそうでほっとする。
というか、この教授の言葉をあそこまで悪意のある表現に変えたコレットの方が問題だわ。
とりあえずは自分の主張を改めてここで教授にお伝えした。
「私がホーク氏に課題をお渡しした時には確かに全ページ揃っていました」
「ではやはり何か手違いがあったのかもしれないな。ホークが帰ってきたらもう一度聞いてみよう。君たちには申し訳ないが、この件は少し保留にしてくれないか」
その言葉を了承し、私たちは教授にお礼を言って部屋を後にした。
「さてと、とりあえずはこれで問題ないってことか?」
チェイサーが肩の力が抜けたように息をつく。その言葉にクラークはうーん、と考え込む様子を見せた。
「ホーク助手が戻られるまでの間に、念のためあらゆる可能性を当たってみよう」
と、レポートが消えた理由を指折り考え始めた。
まずは、故意ではなく、何らかの理由で落丁が発生が発生した可能性。
あるいは班のメンバーに何か恨みのある者の仕業。この場合、実際の被害にあったコレットか、疑惑を掛けられた私のどちらかに対する怨恨である可能性が高いだろう、とクラークは言う。
もしくは、全くの第三者による犯行か。
「アメリア、心当たりはあるかい?」
そう尋ねられても困る。心当たりなんて、一つしかないもの。
どう考えてもコレットが怪しい。けれど、それを口にするのは憚られた。証拠もないのに疑ってしまっては、先ほど私がされたことと同じことをすることになる。
答えあぐねて黙っていると、チェイサーが不思議そうにつぶやいた。
「そもそも、研究室の中にあるレポートに触ることなんてできるのか?」
確かに、基本的に研究室は無人の時には施錠されているはず。それなら鍵を持っている人物以外がレポートに手を出すことは不可能だ。
「……鍵?」
浮かんだ言葉が思わず口をついて出る。
そういえば、あの日。コレットと口論になった後、ホーク助手に鍵を返しに行った。そこで彼は「内緒だよ」と言いながら、鍵を呼び鈴の横にあるポストに投げ入れたのだ。
「サリバン嬢? どうかしたのか?」
固まったまま動かなくなった私を覗き込むようにチェイサーが身をかがめる。
「そうよ、鍵ですわ!」
「はっ?!」
思わず身を乗り出した私に、チェイサーは驚いて後ずさった。それに構わず、私は頭の中で一つの説を仮定する。
あの鍵は恐らく研究室の鍵だ。あのとき、私とホーク助手以外の誰かが鍵をポスト入れるところを見ていたとしたら?
一連の出来事を説明すると、クラークが瞳を鋭く光らせた。
「もし鍵の在りかを知っている人物がいれば、人目を盗んで教授の研究室に入ることができるということだね」
「ええ、あくまで可能性ですけど」
「じゃあ、待ってみようか」
待つ? 首を傾げた私に、クラークは彼らしからぬにやりとした笑いを見せた。
「本好きな君なら知っているだろう? 犯人は必ず現場に戻ってくるものだよ」
走り出したアメリアを追いかけるのがアルバートの優しさなら、その場に残って彼女のために周りのフォローをするのがレオナルドの優しさだったりするのです。





