第二十五話 いるか、いらないかです
『その規約、もういらないんじゃない?』
朝の七時に、それを三回読んだ。
三回読んでも、文字は変わらなかった。
送ってきたのは、蛇ノ目傘音だ。
彼女は嘘をつかない。
だから、これは質問だった。
質問には、答えなければならない。
『いるかどうかは、書いた者が決める』
そう返すと、一分で返事が来た。
『じゃあ、書いた者に会いたいな』
『今日の二時。打ち上げのファミレスで』
昼の一時五十分。
ファミレスの入り口で、五月雨が腕を組んで立っていた。
「なんでいるんだ」
「護衛だ!」
朝、夏祭りの誘いを断る理由に「蛇ノ目と会う」と書いたのが間違いだった。
「蛇ノ目と鐘ヶ淵を二人にできるか。私は隣の席にいる。いないものと思え」
五月雨は、隣のボックス席に座って、メニューを顔の前に立てた。
上下が、逆だった。
いないものと思うのは、たいへん難しい。
蛇ノ目は、メロンソーダを二つ持って待っていた。
「あの夜の、再現」
にこにこしながら、片方を僕の前に置く。
僕がこの店で、メロンソーダを三分かけて注いだ夜のことだ。
この人は、使える材料は全部使う。
「私はね、いらないんじゃない?って聞いただけだよ。いるなら、いるって言えばいい」
「いる理由なら、説明できる」
「どうぞ」
「夏休みは適用外だ。でも、規約がなくなったわけじゃない。規約はある。ただ、効いていないだけだ」
「うん。あるけど、何も縛ってないんだよね」
蛇ノ目は、ストローを回した。
「それ、百舌鳥から見たら、ないのと何が違うの?」
答えようとして、口が開いたまま止まった。
違いは、ある。
あるはずだ。
あるはずなのに、言葉になる前に、ほどけていった。
「昨日の夜、百舌鳥、何時に電話した?」
「……二十三時、五十九分」
「あの子、二十三時から、ずっと画面を見てたんだって」
蛇ノ目は、スマホを軽く振った。
「『かけていいと思う?』って、私に聞いてきたから。私は、いいとも、だめとも言わなかった」
「それでね。百舌鳥にも、同じことを聞いたの」
「同じこと」
「その規約、もういらないんじゃない?って」
入り口のドアのベルが、からんと鳴った。
「答えは、本人に聞いて」
蛇ノ目が立ち上がった。
「ドリンクバー、二人ぶん払っといた。ゲームじゃないから、勝ち負けはないよ」
隣の席で、メニューが倒れた。
「蛇ノ目! まだ謝ってないからな!」
「知ってるよ、式部」
蛇ノ目が店を出ていく。
五月雨が「見張る!」と叫んで、その後を追っていった。
護衛は、護衛する相手を置いて、いなくなった。
入り口に立っていたのは、百舌鳥だった。
白いシャツに、薄い水色のスカート。
四日ぶりに見る顔だった。
かわいい、と思った。
思っただけで、言わなかった。
夏休みは、適用外だからだ。
「……傘音に、呼ばれました」
「僕もだ」
彼女は、僕の向かいに座った。
いつもなら隣だった。
でも、隣に座る理由は、第十八条にしか書いていない。
百舌鳥は、黙ってドリンクバーに行った。
メロンソーダのボタンを押して、止めて、また押して。
泡が落ち着くのを待って、また少し足す。
三分かかった。
「……その注ぎ方」
「鐘ヶ淵くんの、注ぎ方です」
知っていたのか、と聞く前に、彼女が続けた。
「一年、見ていたので」
耳が、赤くなった。
でも今日は、「たまたまです」とは言わなかった。
「昨日の電話」
「間違えました。……間違えました」
二回だ。
嘘だと分かる。
分かっているのに、僕は「そうか」と言ってしまった。
そうか、ではない。
僕の口は、夏休みに入ってから、肝心なところでだけ仕事をしない。
テーブルの真ん中の紙ナプキンに、二人同時に手を伸ばした。
指の先が、あと一センチで触れるところだった。
二人とも、同時に手を引いた。
「適用外なので」
「適用外だからな」
声が、そろった。
そろったのに、ちっとも嬉しくなかった。
「鐘ヶ淵くん」
百舌鳥が、グラスを両手で持った。
「規約は、いりますか」
僕は、答えようとした。
いる、と言えばいい。
たった二文字だ。
でも、いる理由を聞かれたら、その先は、どこにも書いていない。
「……適用外なだけで、なくなるわけじゃない」
「適用外の規約は、鐘ヶ淵くんにとって、何ですか」
少し考えた。
考えて、いちばん正確な答えを言った。
「ノートだ」
百舌鳥の顔が、止まった。
バスのときと、同じ止まり方だった。
「ノート。……そうですね」
彼女は、メロンソーダを半分だけ飲んで、立ち上がった。
「一日、ください」
「何の」
「規約が、いるかどうか。私が、決めます」
「意味を決めるのは、書いた者だぞ」
「意味じゃありません。いるか、いらないかです」
彼女は、まっすぐ僕を見た。
「第零条には、そっちは書いてありません」
負けた、と思った。
でも今日の彼女は、勝った顔をしていなかった。
いつもの彼女なら、勝つと、少しだけ得意そうな顔をするのに。
百舌鳥が出ていったあとも、僕はしばらく座っていた。
テーブルに、グラスが二つ残っている。
どちらも、メロンソーダが半分。
あの夜の僕と、同じ残し方だった。
ナプキンの前で引いた指先が、まだ変な感じがした。
触れていないのに、触れたところより、よく覚えていた。
次の日の昼。
玄関のチャイムが鳴った。
門の外に、百舌鳥が立っていた。
両手で、白い封筒を持っていた。
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