表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

悪霊のお出まし

雨がターナー伯爵家の古びた窓を延々と叩き、まるで館の魂の全てを奪い取ろうとするように、不気味な音を立てていた。レノーラは広間の中央に立ち、リュートを手に、弦をそっと弾いた。

黒髪が燭台の揺らめく光に照らされ、赤い瞳が暗闇の隅々を見据える。館は死んだように静寂に閉ざされていたが、その静けさはまるで嵐の前で、息を潜めているかのように不穏だった。レノーラの心は、表向きは冷静だったが、内心では苛立ち、疲れていた。


「また面倒くさい依頼ね。それもこれも、神父パウロのせいよ。」

と彼女は毒づいた。


地元の神父パウロは、いつも厄介な仕事を彼女に押し付けてくる。今回も、凶悪な幽霊を祓う依頼を、当然のように投げつけてきたのだ。

「いい加減、自分の禿げ頭でなんとかしなさいよ、パウロ」

とレノーラは心の中で毒を吐きながら、唇には薄い微笑みを浮かべていた。


レノーラは吟遊詩人として旅を続け、歌で人々の心を癒してきた。


だが、彼女のもう一つの顔は、さまよう魂を導く者だった。

古の儀式と神聖な歌を操り、死者の怒りや悲しみを鎮める術を身につけていた。


ターナー伯爵家に呼ばれたのは、悪霊と化したアンナ・ターナーを祓うためだ。雨の日を狙ってやってくるのは、亡霊の力が最も増すこの天候が、儀式に最適だから。


レノーラはリュートを握り、広間の空気を感じ取った。冷たく、重い。まるで心臓を握り潰すような圧迫感に、レノーラは身構えた。

アンナの霊が、すぐそこにいる。

彼女の胸に、ほのかな不安が芽生えたが、すぐに打ち消した。


「怖気づくなんて、私らしくないわ」と自分を叱咤し、背筋を伸ばした。


突然、広間の空気が凍りついた。

カツ、カツ、カツ。ひとりでに響くヒールの鋭い音が、館に不気味に響いた。

アンナの合図だ。

レノーラの心臓が一瞬高鳴り、彼女は気を引き締めた。だが、内心では冷ややかな嘲笑が漏れた。

「わがまま娘のご登場ね。そんなにヒールを鳴らすなんて、ほんと下品よ。」


アンナの霊が放つ怒りのオーラは、まるで冷たい刃のようにレノーラの肌を刺した。

彼女は広間を見渡した。ターナー伯爵は疲れ果てた顔で立ち尽くし、夫人は震える手でハンカチを握りしめていた。ジェーンはウィリアムの肩に寄り添い、青ざめた顔で唇を噛んでいる。ウィリアムは落ち着いた表情でジェーンを支えていたが、彼の目には深い不安が宿っていた。


伯爵が震える声で言った。

「レノーラ殿、アンナの霊は…あまりにも強い未練に縛られています。あの子は…私の末娘は、馬車の事故で死んで、もうこの世にはいないはずなのです。それなのに。…可哀相にウィリアムへの愛が、彼女をこんな恐ろしい姿に変えてしまったのです。」

伯爵の声は、娘への愛と、家族を脅かす存在への恐怖で震えていた。

レノーラは胸が締め付けられる思いだったが、表面上は静かに頷いた。

レノーラはアンナの悲劇を知っていた。


婚約が決まり、ウィリアムとの結婚の準備が粛々と進められていたある雨の日。

アンナは輝くような笑顔で、未来を夢見ていたという。


だが、その日、激しい雨の中、馬車が森の道で大木に衝突。木々の間を滑り落ち、馬車は粉々に砕けた。

戻ってきたのはアンナの侍女だけだったという。

命からがら、泥まみれで屋敷に這い戻った侍女が、伯爵に悲劇を告げた。

「アンナ様が…亡くなりました…。」その声は震え、雨と涙で濡れていた。


アンナの希望は一瞬で奪われ、愛も夢も闇に飲み込まれた。

葬儀の日、村人たちは悲しむことよりも、恐れることを取ったのだ。


村人たちは伯爵たち家族の悲しみをよそに、噂を面白おかしく広げるばかりだったという。

「アンナ様の死は呪いだよ。彼女の魂はきっと、ウィリアム様を離さないだろうね。」


心無い噂を聞いてもなお、いやだからこそ、ジェーンは葬儀で心からの悲しみの涙を流していたという。


美しく、わがままに育ち、そして悲しく散っていった次女。

アンナの死は、館に深い闇を落としていた。

シャンデリアの揺れ、ひとりでに動くティーカップ、突然消えるろうそくの炎。それらはすべて、アンナの怒りと悲しみが作り出すものだった。


ふと、空気の一角が歪んだ。レノーラの視線がそこに引き寄せられ、彼女の息が一瞬止まった。アンナの霊が現れたのだ。

かつての美貌は今、髪を振り乱し、瞳に狂気を宿した恐ろしい姿に変わっていた。彼女の目は憎悪に燃え、レノーラを焼き尽くさんばかりに睨みつけてきた。


レノーラは一瞬、その目と合った。

彼女の心に、冷たい確信が走る。

「生前から性根が腐ってたのね。」

と断じたが、伯爵の手前、言葉を飲み込んだ。


だが、アンナの視線には、ただの憎しみだけではない何かがあった。

深い悲しみ、裏切られた心の叫び。

レノーラは一瞬、同情を感じたが、すぐにそれを振り払った。

「同情なんて無駄よ。あなたはもう、この世に留まるべきじゃない。」


「ジェーン様、ウィリアム様、離れないでください。」

レノーラは穏やかに、だが力強く言った。死してなお、アンナは姉の婚約者を奪おうとしている。


「私がここにいる限り、彼女はあなた方を傷つけることはできません。」

そんなことは、レノーラが許さない。


ジェーンが小さく頷き、ウィリアムの腕を強く握った。レノーラはジェーンの怯えた姿を見て、胸に熱い感情が湧き上がるのを感じた。


ジェーンは心優しく、妹にすべてを譲ってきた女性だ。彼女の穏やかな笑顔、静かな強さ。そのすべてが、レノーラの心を動かした。


ウィリアムはアンナの死後、政略結婚のためにジェーンの婚約者となったが、二人の間には本物の愛が芽生えている。残念ながら、それがアンナの霊をさらに怒らせている原因でもあった。


レノーラは心から願った。

「ジェーン様には、幸せになってほしい。」

普段の彼女の毒舌な内心とは真逆のその思いは純粋で、熱を帯びていた。ジェーンのような魂が、こんなわがままな悪霊に脅かされるなんて許せない。


「レノーラ、気をつけて…」

ジェーンの声は震えていたが、彼女の目には信頼が宿っていた。

レノーラは微笑み、優しく答えた。


「大丈夫です、ジェーン様。私に任せてください。」

その言葉を言う瞬間、彼女の胸に決意が燃え上がった。ジェーンとウィリアムを守るため、そしてアンナの魂を解放するため、彼女はすべてを賭ける。


レノーラは深く息を吸い、リュートを奏で始めたのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ