悪霊のお出まし
雨がターナー伯爵家の古びた窓を延々と叩き、まるで館の魂の全てを奪い取ろうとするように、不気味な音を立てていた。レノーラは広間の中央に立ち、リュートを手に、弦をそっと弾いた。
黒髪が燭台の揺らめく光に照らされ、赤い瞳が暗闇の隅々を見据える。館は死んだように静寂に閉ざされていたが、その静けさはまるで嵐の前で、息を潜めているかのように不穏だった。レノーラの心は、表向きは冷静だったが、内心では苛立ち、疲れていた。
「また面倒くさい依頼ね。それもこれも、神父パウロのせいよ。」
と彼女は毒づいた。
地元の神父パウロは、いつも厄介な仕事を彼女に押し付けてくる。今回も、凶悪な幽霊を祓う依頼を、当然のように投げつけてきたのだ。
「いい加減、自分の禿げ頭でなんとかしなさいよ、パウロ」
とレノーラは心の中で毒を吐きながら、唇には薄い微笑みを浮かべていた。
レノーラは吟遊詩人として旅を続け、歌で人々の心を癒してきた。
だが、彼女のもう一つの顔は、さまよう魂を導く者だった。
古の儀式と神聖な歌を操り、死者の怒りや悲しみを鎮める術を身につけていた。
ターナー伯爵家に呼ばれたのは、悪霊と化したアンナ・ターナーを祓うためだ。雨の日を狙ってやってくるのは、亡霊の力が最も増すこの天候が、儀式に最適だから。
レノーラはリュートを握り、広間の空気を感じ取った。冷たく、重い。まるで心臓を握り潰すような圧迫感に、レノーラは身構えた。
アンナの霊が、すぐそこにいる。
彼女の胸に、ほのかな不安が芽生えたが、すぐに打ち消した。
「怖気づくなんて、私らしくないわ」と自分を叱咤し、背筋を伸ばした。
突然、広間の空気が凍りついた。
カツ、カツ、カツ。ひとりでに響くヒールの鋭い音が、館に不気味に響いた。
アンナの合図だ。
レノーラの心臓が一瞬高鳴り、彼女は気を引き締めた。だが、内心では冷ややかな嘲笑が漏れた。
「わがまま娘のご登場ね。そんなにヒールを鳴らすなんて、ほんと下品よ。」
アンナの霊が放つ怒りのオーラは、まるで冷たい刃のようにレノーラの肌を刺した。
彼女は広間を見渡した。ターナー伯爵は疲れ果てた顔で立ち尽くし、夫人は震える手でハンカチを握りしめていた。ジェーンはウィリアムの肩に寄り添い、青ざめた顔で唇を噛んでいる。ウィリアムは落ち着いた表情でジェーンを支えていたが、彼の目には深い不安が宿っていた。
伯爵が震える声で言った。
「レノーラ殿、アンナの霊は…あまりにも強い未練に縛られています。あの子は…私の末娘は、馬車の事故で死んで、もうこの世にはいないはずなのです。それなのに。…可哀相にウィリアムへの愛が、彼女をこんな恐ろしい姿に変えてしまったのです。」
伯爵の声は、娘への愛と、家族を脅かす存在への恐怖で震えていた。
レノーラは胸が締め付けられる思いだったが、表面上は静かに頷いた。
レノーラはアンナの悲劇を知っていた。
婚約が決まり、ウィリアムとの結婚の準備が粛々と進められていたある雨の日。
アンナは輝くような笑顔で、未来を夢見ていたという。
だが、その日、激しい雨の中、馬車が森の道で大木に衝突。木々の間を滑り落ち、馬車は粉々に砕けた。
戻ってきたのはアンナの侍女だけだったという。
命からがら、泥まみれで屋敷に這い戻った侍女が、伯爵に悲劇を告げた。
「アンナ様が…亡くなりました…。」その声は震え、雨と涙で濡れていた。
アンナの希望は一瞬で奪われ、愛も夢も闇に飲み込まれた。
葬儀の日、村人たちは悲しむことよりも、恐れることを取ったのだ。
村人たちは伯爵たち家族の悲しみをよそに、噂を面白おかしく広げるばかりだったという。
「アンナ様の死は呪いだよ。彼女の魂はきっと、ウィリアム様を離さないだろうね。」
心無い噂を聞いてもなお、いやだからこそ、ジェーンは葬儀で心からの悲しみの涙を流していたという。
美しく、わがままに育ち、そして悲しく散っていった次女。
アンナの死は、館に深い闇を落としていた。
シャンデリアの揺れ、ひとりでに動くティーカップ、突然消えるろうそくの炎。それらはすべて、アンナの怒りと悲しみが作り出すものだった。
ふと、空気の一角が歪んだ。レノーラの視線がそこに引き寄せられ、彼女の息が一瞬止まった。アンナの霊が現れたのだ。
かつての美貌は今、髪を振り乱し、瞳に狂気を宿した恐ろしい姿に変わっていた。彼女の目は憎悪に燃え、レノーラを焼き尽くさんばかりに睨みつけてきた。
レノーラは一瞬、その目と合った。
彼女の心に、冷たい確信が走る。
「生前から性根が腐ってたのね。」
と断じたが、伯爵の手前、言葉を飲み込んだ。
だが、アンナの視線には、ただの憎しみだけではない何かがあった。
深い悲しみ、裏切られた心の叫び。
レノーラは一瞬、同情を感じたが、すぐにそれを振り払った。
「同情なんて無駄よ。あなたはもう、この世に留まるべきじゃない。」
「ジェーン様、ウィリアム様、離れないでください。」
レノーラは穏やかに、だが力強く言った。死してなお、アンナは姉の婚約者を奪おうとしている。
「私がここにいる限り、彼女はあなた方を傷つけることはできません。」
そんなことは、レノーラが許さない。
ジェーンが小さく頷き、ウィリアムの腕を強く握った。レノーラはジェーンの怯えた姿を見て、胸に熱い感情が湧き上がるのを感じた。
ジェーンは心優しく、妹にすべてを譲ってきた女性だ。彼女の穏やかな笑顔、静かな強さ。そのすべてが、レノーラの心を動かした。
ウィリアムはアンナの死後、政略結婚のためにジェーンの婚約者となったが、二人の間には本物の愛が芽生えている。残念ながら、それがアンナの霊をさらに怒らせている原因でもあった。
レノーラは心から願った。
「ジェーン様には、幸せになってほしい。」
普段の彼女の毒舌な内心とは真逆のその思いは純粋で、熱を帯びていた。ジェーンのような魂が、こんなわがままな悪霊に脅かされるなんて許せない。
「レノーラ、気をつけて…」
ジェーンの声は震えていたが、彼女の目には信頼が宿っていた。
レノーラは微笑み、優しく答えた。
「大丈夫です、ジェーン様。私に任せてください。」
その言葉を言う瞬間、彼女の胸に決意が燃え上がった。ジェーンとウィリアムを守るため、そしてアンナの魂を解放するため、彼女はすべてを賭ける。
レノーラは深く息を吸い、リュートを奏で始めたのだった。