1-2 新たな仕事、新たな世界(2)
その日が来た。
夜8時。
わたしはバー「ミルトン」にやって来た。
この店は大阪ミナミの繁華街、少し奥まったところの雑居ビル4Fにある。
ビルには、ほかの階にも飲食店が多く入っているようだ。
ビルの入口に、ひっそりと立て看板が掲げられてるぐらいしか目印がないので、存在を知っていなければまず見つけられることはないやろね。
さて、この「ミルトン」という店名、なんや奇妙やなと思うよね。
その由来だけど、この店の店長ヒロさん、といっても店には彼一人しかいないが、彼がブラジル音楽の大ファンなんや。
で、そのブラジル音楽のミュージシャンで、ミルトン・ナシメントという人がいる。
そこからとったのだそうだ。
ヒロさん、歳は40代半ばくらいやったかな。
ほっそりとした身体、黒縁メガネに不精ひげをはやしたおっさんだ。
だけど、あたりがやわらかくて、とってもいい人。
どんなことでも気兼ねなく話せる。
ブラジル音楽のみならず、ブラジル料理、文化、ブラジルという名がつくものならなんでも、っていうくらいブラジルが好きで、ブラジルという国そのものにも、もう5回くらい行ってるそうな。
ちょっとしたブラジル博士みたいな人だ。
まあ、そんなこともあって、この店の中ではいつもブラジル音楽がかかっている。
ブラジル音楽とひとことで言っても、いろんな種類の音楽があって、たとえばやな、よく知られているサンバ、ボサノバだけでなく、MPBと呼ばれる、よりポップスやロックのテイストを取り入れたもの、ショーロという古くからあるダンス音楽など、けっこういろいろなものがあるんや。
……あ、いま話したのはすべて、ヒロさんが教えてくれた話の受け売り。
そんな音楽に囲まれながらお酒を飲んだり、ヒロさんお手製のブラジル料理やパスタ、カレーライスを食べられるのがこの「ミルトン」だ。
千坂先輩がこの店を教えてくれたのは、いまの会社にまだ千坂先輩がいたときのこと。
わたしが社内では話しにくいような相談事を先輩に持ちかけた際に、
「おー、そういう話なら、ほかの社員に聞かれずに二人だけで話せるバーがあるぞ」
って連れて来てくれた。
それが最初。
社内で話しにくい相談事っていうのは、たとえば……。
ほかの先輩社員の仕事が雑で、わたしがいつもその修正をするはめになるんで困ってるんだけど、どうすればいいでしょうか……。
といった、特定の社員にかかわる内容のもの。
それから、
このシステムの中にデザインをうまく落とし込むには、どうやったらいいんですかね……。
といった、まだプログラムのことをよくわかってなかったわたしの個人的な質問で、説明にはけっこう時間がかかりそうなやつ。
とか……。
ま、いろんなこと。
本当にいろんなことを、ここで先輩と話したものだ。
そんなわけでここミルトンは、先輩とわたしが二人だけで話をしたいときに来る、隠れ家のようなお店。
そしてきょう、またそんな先輩との「密会」の機会がやって来たというわけ。
あはは、くーっ!
わたしは肩から胸の近くまで伸ばした髪の先をさわった。
ああー……あまり手入れができてない。
つやがいまいちだし、枝毛が目立つ。
そっと頬を撫でる。
肌も少々荒れ気味。
毎晩9時、10時近くまで残業が続く日々をわたしが過ごしていることが、この髪と肌の様子からも一目瞭然だ。
せっかくひさしぶりに先輩に会えるというのに、なんでこの有様……。
はぁー、とわたしはため息をついた。
そして、わたしのきょうの服装は、黒地にアート作品がプリントされたTシャツ。
その上にピンクのフルジップパーカー。
下はライトブルーのデニム、白に赤のナイキロゴが入ったスニーカー。
思いっきり普段着だ。
普段着なりに、おしゃれ心を可能な限り入れてみたとはいえ。
仕事からまっすぐ来なければならない、ということもあり、あまり普段とちがい過ぎるおしゃれな格好で職場に来たら、それはそれでほかの社員たちに詮索されかねない。
「え?どうしたの、おしゃれして。もしかしてデート?
織宮さん、いつの間にカレシできたん!?」
とか、まあ、そんな感じに。
あー、ほんまにデートやったらええのになあー……。
そういう事情なので、なんら怪しまれずにここまで来られるよう、不本意ながら最低限のおしゃれにとどめた。
ま、仕方ないやろ。
そもそもきょうは仕事の話なんやし。
と、スマホのLINE通知が鳴った。
千坂先輩だ。
わたしはスマホの画面を見た。
<すまん、いま仕事場出た。
15分ほど遅れる。
それまでヒロさんとおしゃべりでもしながら待っててくれ。
申し訳ない!>
わたしは、先輩のメッセを見ながら、二マーッ、とひとり怪しい微笑を浮かべる。
待ちますよ、先輩のためなら。
ナンボでも。
そして、一回、深呼吸をすると、ミルトンのドアノブに手をかけた。
このビル全体と同じように、少し古びて汚れた鉄製のドア。
でもドアノブはいつもきれいだ。
きっとヒロさんがいつもきれいに拭いているのだろう。
先輩がわたしよりあとから来ると知って、正直少し気が落ち着いた。
さっきまで、先輩にどんな顔して会おうか、ちょっと緊張してたから。
ドアをゆっくりと開けると、わたしは恐る恐る声を出した。
「こんばんはー……」
「おおー、マサノちゃんか?」
なつかしいヒロさんの声が、店の奥から元気に響いてきた。
「ヒロさん!
はい、マサノです!!」
わたしはたちまち元気を取り戻して、声を上げた。
カウンターの奥の厨房に、ヒロさんが笑顔で手を振っているのが見える。
「いやー、よう来た!
いらっしゃい、お入りお入り!」
ヒロさんの声と手招きにつられるように、わたしは店の中に入っていった。
ヒロさんも店の中も、前回最後に来たときと全然変わっていない。
服装も、あいかわらずベージュの長袖シャツに濃いグレーのミリタリーパンツだ。
夏でも冬でも一年中、これが変わらぬヒロさんの制服みたいなもん。
8時頃のような時間帯には、まだだれもほかにお客さんが来ていないことも、変わっていない。
(この店にお客さんが来始まるのは、いつも10時を過ぎてからなのだ)
いや、ちょっと変わったところもある。
店の済の一角に、ブラジルの打楽器がいろいろ置いてあるのだが、それが前より増えた。
それから、メニューも少し増えた。
それから、これはちょっと言いにくいんやけど、ヒロさんの白髪が増えた。
少し、老けたんかなー。
「マサノちゃん、オレが老けたとか思うてるやろ?」
「え!?
いやいやいや!
そんなこと、思うてません!
全然変わってませんよ、ヒロさん!
おひさしぶりです!!」
わたしはあわてて、ヒロさんの鋭いツッコミをスルーした。
ヒロさんが下を向いて、くすくすっ、と笑ったのが見えたような気がしたが、気にしない気にしない。
わたしはヒロさんの前のカウンター席に座った。
「おおー、しばらく会わん間に、いっそうきれいになったなー、マサノちゃん。
女度アップした感じがするわ」
わたしはあきれたように、大げさにため息をついて言った。
「ヒロさん、そういうの、いまは完全にセクハラですから。
……もういい加減、わきまえてくださいよ。
女性との接し方」
こんなキツい言い方したけど、本当はこのヒロさんのいつもの調子がホッとしたりする。
まあたぶん、これは一生治らなそうな気がするし。
ヒロさんはバツが悪そうに、ハハハ、と笑った。
「マサノちゃんも変わっとらんな、全然。
安心したわ。
……元気そうやな。
うまくいってるか、仕事とか?」
「まあまあ、なんとかやってます」
ヒロさんはわたしの目の前にメニューを差し出すと、うれしそうに言った。
「ほら、うちのメニュー、マイナーアップデートしたんや。
新しいドリンクも増えたで。
好きなもん、選んでや」
わたしはそのメニューをざっと見て、おいしそうなカクテルがいくつかあるのに気づいたが、そこをこらえてヒロさんに打ち明けた。
「……えっと、あのですね、ヒロさん。
わたし、アルコール飲めなくなったんですよ。
薬飲んでるんで、アルコール禁止なんです」
「お、そうなんか。
ソフトドリンクもちょっと増えたから、そん中から選びいや」
「はい、ありがとうございます。
……ほんなら、このフルーツミックスジュースを」
「ほい了解。
フルーツミックスジュース」
ヒロさんは1分ほどで、ほい、フルーツミックスジュース、と言ってわたしの前に置いてくれた。
そして尋ねてきた。
「……マサノちゃん、薬って、身体でも壊したんか?」
わたしは、できるだけ深刻に感じられないようにさらっと語った。
というか、自分ではそう語ったつもり。
「えと、発達障害、ってわかります?
わたし、検査受けたら、それだって診断受けたんですよ。
ほら、わたしって、だいたいはちゃんとできてると思うんですけど、ときどきパニクって暴走するやないですか。
あれ、ちょっと仕事のときにもあって……。
少し困るな、ってのもあって医者行ったんです、精神科に。
で、診察で30分くらい、これまでにパニクったときの話をしたら、先生が、そりゃもう少し細かく検査しよう、って言い出しまして。
それで発達障害の検査を受けることになって、そんで結果は、軽度のADHD、って診断になりました。
いちおう精神障害のひとつになるということなんで、障害者手帳も取れました。
まあ、そういうわけです」
ヒロさんは黙ってわたしの話を聞いていた。
そして、うなずいた。
「そういうことか。
オレもときどき聞くし、ここのお客さんにも何人かいるわ。
珍しいことやないし、まあ、マサノちゃんは全然だいじょうぶやろ。
仕事もできてるようやし。
ヒョウタがきょうマサノちゃん呼んだのも、仕事がらみやろ?」
ヒロさんはいつも千坂先輩を「ヒョウタ」と呼ぶ。
先輩の「兵輔」という名前を、先輩自身があまり好きではないと言っていたので、ほんなら、とヒロさんがこう呼ぶようになったのだ。
わたしはぎくっとして、思わずヒロさんに詰め寄るように叫んだ。
「え、千坂先輩、きょう来る目的、ヒロさんにしゃべってるんですか!?」
ヒロさんはわたしの様子に動揺することもなく、こちらを落ち着かせようとするように静かな調子で話した。
「いやいや、ヒョウタはなにもオレには言っとらん。
でもな、前に一人で来たときに言っとったわ。
『織宮さんは、うちにほしいんだよな』ってな。
あいつ、マサノちゃんのこと、ホントに評価してる。
そやから、そういう、なんての、ヘッドハンティング、ってやつ?
きょうはそういう話をしたくて、マサノちゃんを呼んだんやろ、そう思うてるわ。
……あー、これは絶対、ほかのだれにもバラさんから心配せんでな」
わたしはゆっくりうなずくと、ヒロさんに軽く頭を下げた。
「……ありがとうございます。
ええ、わかってます、ヒロさんはお客のプライバシーはいつも絶対守る人やって。
そやから心配してません。
いやー、先輩が日頃からそんなん言うてくれてるんかー!
うれしいわー!
ほんまにそういう話であることを願ってますけどねー!」
「んな話ししてたら、来たぞ、ほれ」
「へ?」
ドアがゆっくりと開いた。
顔を出したのは、ヒロさんの言うとおり、千坂先輩だった。
「よっ、お待たせしてごめん。
ひさしぶり」
千坂先輩だ……!
わたしは思わず席から立ち上がって、思いっきり頭を下げていた。
「おひさしぶりです、先輩!
お会いしたかったです……」




