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TS秘書室 ―リストラの代わりに、俺は社長秘書(女)にされた―  作者: らび


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第1話 選べ、と部長は言った

「選べ。希望退職か、──"特別秘書室"への異動か」


 人事部長の禿げ上がった頭が、応接室の照明を鈍く反射していた。俺、榊原誠一さかきばら・せいいち、四十五歳、独身。大鷹物産・総務課で二十三年。無遅刻無欠勤、課長代理止まり。そのキャリアの終着点が、この二択だった。


「特別秘書室、というのは」 「社長直属の新部署だ。詳細は契約後にしか話せん。言えるのは──給与は現在の三倍。任期三年。守秘義務は生涯」


 三倍、という言葉に、頭の中で電卓が鳴った。悲しいかな、総務の人間の脳は数字で動く。マンションのローン残債一千二百万。施設に入った母の月々の費用。四十五歳、再就職市場での俺の値段。答えは出ていた。出ていたが。


「……なぜ、俺なんですか。秘書なら若いのが他に」 「健康診断の結果だよ」部長は書類をめくった。「肝機能、腎機能、骨密度。四十五歳とは思えん優良数値だ。それに独身、扶養家族なし、社内に派閥なし。──適合率、九十七パーセント」


「適合率? 何にです」


 部長は答えず、契約書を滑らせてきた。分厚い。異様に分厚い。パラパラとめくると、中程に医療同意書が挟まっていて、見慣れない単語が並んでいた。染色体、ホルモン環境、骨格再構成。


「部長。これは、なんの手術ですか」 「若返りだよ」部長は初めて笑った。「うちのグループの医療ベンチャーが持ってる技術だ。世に出せば世界がひっくり返る。だがな、術後の身体には……まあ、仕様がある。それを含めての三倍だ」


 仕様。長年の総務経験が警鐘を鳴らしていた。契約書で「仕様」という言葉が出るときは、だいたい碌なことがない。俺は最終ページの但し書きに目を走らせた。八ポイントの小さな活字で、こうあった。


『術後の身体的特徴(性別を含む)について、乙は一切の異議を申し立てない』


「──性別を含む?」


 顔を上げたときには、部長はもう立ち上がっていた。


「嫌なら退職届を書け。今週中だ。ローンの残り、あといくらだったかな」


 卑怯だろう、それは。


 俺は万年筆を握った。二十三年間、稟議書に判を押し続けた右手は、震えながらも、正確に自分の名前を書いた。


  *


 施術は、グループ病院の地下で行われた。


 手術台の上で、麻酔マスクを当てられながら、白衣の医師が事務的に言った。


「三日ほど眠ります。目が覚めたら、違和感があっても急に動かないでください。──重心が、変わっていますので」


 重心? と聞き返す前に、意識は落ちた。


  *


 目が覚めると、天井が遠かった。


 いや、違う。天井までの距離は同じだ。俺の視点が、低くなっている。


 手を持ち上げてみた。白く、細く、爪の先まで整えられた、知らない手だった。喉の奥から出た「え」という声は、高く、掠れて、これも知らない声だった。胸元に、覚えのない重みがある。身体の輪郭のあちこちが、二十三年間つき合ってきた俺の設計図と、まるで違う。


 ベッドの脇に、姿見が置いてあった。ご丁寧に、だ。


 俺はよろけながら立ち上がり──医師の言うとおり、重心が違って一度膝をついた──鏡の前に立った。


 二十五、六の女が、そこにいた。


 肩に落ちる黒髪。白い肌。細い腰。入院着の胸を押し上げる曲線。顔立ちにはうっすらと俺の面影があって、それがかえって恐ろしかった。四十五年かけて作った榊原誠一という人間を、誰かが勝手に「作り直した」のだ。


「……冗談だろう」


 鏡の中の女が、俺の絶望した顔で、同じ口の形を作った。


 背後でドアが開いた。人事部長が、見舞いの花も持たずに入ってきて、鏡の中の俺を上から下まで眺め、満足そうに頷いた。


「適合率九十七パーセント。数字どおりだな、榊原くん──いや」


 部長は、封筒をベッドに放った。中から出てきたのは、新しい社員証だった。写真の欄には鏡の中の女。氏名の欄には『榊原 誠花さかきばら・せいか』。


「明日から社長付きだ。朝八時、三十四階の秘書室に来い。──ああ、心配するな」


 部長はドアの前で振り返り、笑った。


「制服は、こちらで用意してある」


 その言い方の、何かがひどく引っかかった。だがこのときの俺はまだ、翌朝ロッカーで対面する「制服」が、どういう代物なのかを知らない。


 知っていたら、たぶんその夜のうちに逃げていた。


(第1話・了)

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