九章・2
「この間は良いものを見てきたの?」
「はい。綺麗な絵をたくさん見てきました」
家で絵を描く用意をしながら、母さんと美弥子が二日前の美術館のことについて話をしていた。
「日本の絵は何かあった?」
「浮世絵がありました」
「そう。それはいいものを見たわね。楽しかった?」
「はい!」
美弥子は嬉しそうにそう言った。
「それにしても、まさか美術館に行ってから絵を描くまでに二日待たされるとはな」
「だって木曜日じゃあたし一緒に描けないじゃん。学校だし」
キャンバスを運びながら、一咲子が不満そうに言った。
「お母さん、学校休ませてくれないし……」
「当たり前でしょ。今大事な時期なのに」
美術館に行ってから二日も間が空いたのは、一咲子が、自分も一緒に描きたいと言い出したからだ。
「美弥子ちゃんが待っているんだよ?」
「一咲子がいなくても絵は描けるじゃないの」
「でも、わたしはお母様と一咲子さんと一緒に描けるので、嬉しいですよ?」
「美弥子ちゃん!」
一咲子はキャンバスを美弥子の近くに置くと、美弥子にがばっと抱きついた。
「やっぱり美弥子ちゃんはかわいいねえ。おおよしよし」
「ううう……苦しい」
「一咲子、離れろ。美弥子が苦しがっている」
俺は一咲子の首根っこを掴んで美弥子から離した。
「ぷうう……助かりました」
美弥子は風船から空気が漏れるように大きく息を吐いた。
「何お兄ちゃん、嫉妬? ジェラシー?」
「違う。単に美弥子が苦しがっていただけだ。美弥子がこの間まで入院していたんだってことを忘れるなよ」
「あ……。ごめん、美弥子ちゃん……」
一咲子は、はっとしたような顔をして美弥子に謝った。
「え、いえいえ! わたしの体はもう大丈夫です! オールオッケーです!」
しかし美弥子は元気な声でそう言った。
「無理すんなよ?」
「していません。大丈夫です」
美弥子は自分の元気を示すように腕をぶんぶんと振った。
「二人とも、準備はできたかしら?」
母さんが自分のキャンバスの横から顔を出して二人に言った。
「大丈夫です」
「うん、大丈夫」
「じゃあ、描きましょうか」
三人のキャンバスの前には、果物かごに色とりどりの果物が入れられたものが置かれている。絵を描くにはスタンダードな題材だろう。
俺は絵を描く用意はしなかった。別に描きたくなかったし、どちらかと言えば絵を描いている美弥子たちを見ていたかったからだ。
「お母様」
「何?」
「ここなのですけど……」
「どれどれ?」
母さんは自分のキャンバスから離れて美弥子の後ろに回った。
「ここはね、こうやって描くと立体感が出るわよ」
「わあ、本当です! すごいですね!」
美弥子は自分の描いた絵に驚いていた。
「またわからないことがあったら言ってね?」
「はい。お願いします」
美弥子はそう言うと、また真剣な表情でキャンバスに向かった。
「……つっきーも描けばいいのに」
「お兄ちゃんは絵描けないよ」
美弥子のつぶやきに、一咲子が横から答えた。
「ばらすなよ」
せっかくこのまま知られずにいけるかな、と思っていたのに。
「そうなのですか?」
「まあな」
「一輝は小さい頃から絵が下手だったわ。それはもう、驚くくらいね」
「あたしは小さい頃から、まあ、お母さんほどじゃないけど描けたよ」
「お父さんに似たのかしらね、一輝は」
「お父さん、絵下手だったもんね」
「お父様、ですか?」
「ああ、たしかに父さんは下手だった」
俺は父さんが描いた絵を何度か見たことがあるが、驚くくらいに下手だった。俺よりも下手じゃないかと思ったが、母さんと一咲子からはドングリだと言われた。
「そう言えばわたし、お父様に一度もお目にかかっていません。ご挨拶しなくても大丈夫でしょうか?」
「そう、だな。一応、挨拶しておくか。ついて来い」
俺は美弥子の手を引いて仏間に向かった。
「美弥子、ここに父さんはいる。意味は分かるな?」
「……はい。あの、その、ごめんなさい」
「いいよ、別に。そのうち言うつもりだった」
俺と美弥子は仏壇の前に座って、線香を立て、そして二人で手を合わせた。
「お父様、初めまして。三園 美弥子と言います。このお家で、つっきーと、お母様と、一咲子さんにお世話になっております」
父さん、この子は美弥子っていう子だ。素直で、感情が豊かで、かわいい子だ。俺は、この子のこと、大事にするつもりだから、安心してくれ。
美弥子は声に出して、俺は心の中で、父さんに言った。
「……似ていますね」
「ん?」
「写真です」
「ああ」
俺は写真の父さんを見た。写真の中で、優しく微笑んでいる。
「つっきーとよく似ていますね」
「ああ。よく言われる」
俺はどうやら父さん似らしい。自分ではあまりわからないが。
「どんな人でしたか?」
「……普通の父親だよ。優しくて、時に厳しくて、いい父親だよ。まあ、ちょっと優しすぎたんだ。飛び出してきた子猫避けて事故起こして、それで死んじまうとか、漫画かよ」
俺の文句を聞いても、写真の父さんは微笑んだままだった。
「なんだか、こんなことを言うと、失礼かもしれないですけど」
「何だ?」
「つっきーのお父さんらしい、最期ですね」
「どういうことだ?」
「どこまでも優しい」
「俺は父さんほど優しくはない」
「そうでしょうか?」
「そうだよ」
俺はまだまだ父さんには及ばない。
「でも、やっぱり優しいですよ」
それでも美弥子は、そう言ってくれた。
「そうかよ。……さて、戻るか」
「そうですね」
最後に、俺と美弥子は仏壇に頭を下げて仏間を出た。
○
「完成したな」
「完成しました」
「完成したね」
「完成したわね」
俺たちの前には、三枚の絵があった。
絵の描けない俺が言うのもなんだが、どれも個性が光る、素晴らしい絵だった。
「初めて書いたにしては、良い出来じゃないか」
「ありがとうございます」
「そうね。なかなかいいわね。美弥子ちゃん、真面目にこの道に進んでみたらどう?」
「え、そ、それは……」
「お、お母さん! もうこんな時間! 片づけてご飯の支度しないと!」
美弥子が口ごもると、一咲子が急に母さんにそう言った。
「あ、もうこんな時間なの? 私楽しくって、ついつい時間忘れちゃった」
「あたしも手伝うから、行こう」
そう言って、一咲子は母さんの背を押して行ってしまった。
「何だ、あいつ?」
受験のプレッシャーで頭が大変なことになっているのか?
「さ、さあ……」
美弥子も戸惑ったようにそう言った。




