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1943年8月 浅草・新吉原

もう夕方ですが、まだ暑いですわね。


お上りさんは帰省中です。


涼やかな曲を聴き、扇風機も出してもらいましたが、汗は出ます。


電気ストーブのように、青い光線を出して体を冷やしてくれる機械を、誰か開発してほしいですわ。


さすがのお上りさんにも無理ですわね。


「機械は専門外」とご自分で認めるほどですもの。


お上りさんは本日夕刻帰って来られるご予定です。


戻られたら、浅草にご一緒するお約束もいたしました。


今から楽しみですわ。




コンコン

「ただいま戻りました」

「おかえりなさいませ」



「お上りさん!」

「お嬢さん」


相変わらず、すーん、とした顔ですわね。


ふふ。


「これを」


湯の花まんじゅう?


「群馬県の伊香保の銘菓です。明治43年伊香保温泉の老舗菓子店・勝月堂が考案したとされていて、全国の『温泉まんじゅう』の元祖と言われています。『湯の花』は温泉成分が結晶になったものです。一番有名な特徴ですが、湯の花まんじゅうは茶色い皮。これは伊香保温泉の源泉である『黄金の湯』の茶褐色を元に作られたためで、皮には黒糖などが使われ、温泉の色を表現しており、つまり」


「な、なるほど。元祖・温泉まんじゅう、ですのね、分かりましたわ。ありがとうございます。皆で頂きますわ」


お上りさんのおかえりですわ。


◇ ◇ ◇


さあ、いよいよです。

本日は、もう決まっていますの。


淡い水色のワンピース。

夏用のニットカーディガン。

ワンピースと同じ色のトークハット。

帽子と襟のリボンがゆるく巻かれているのが、おしゃれですわ。


ま!


お外は暑いですわ。


日傘は持って行きませんと。



お上りさんが玄関に立っていましたわ。

暑いですものね。


あら?


またお洋服が違います。


夏用のサマーウールジャケット。

綿の開襟シャツ。

サマーウールのスラックス。

革靴。


お上りさんは一度もわたくしのお洋服を、お褒めになったことはありません。


お洋服は誰か、女性の方とお選びになっているはずです。


「お上りさん。外出着はどなたかと選んでらっしゃるの?」

「母と姉です」


まあ!


「僕は服に興味がないので、母と姉が自分の服を買いに行く時に、僕の分も買って来るのですよ」


「でも、今回は下宿に来られたのでしょう?お勉強するために来られたのなら、上質なお洋服はこれほど用意しなくても、よろしいのではなくって?」


「男爵様のお屋敷に下宿が決まった時に母から『ご令嬢がいらっしゃいます』と言われました。母も姉も外出が好きなので、こうなることを見越して、季節に合う洋服を揃えて下さったのでしょう」


まあ!


ふふ。わたくしの華やかな装いでも、お上りさんが恥をかかぬよう、お母様とお姉様がご配慮して下さったのね。


「そうでしたの。謎が解けてスッキリしました。浅草へ参りましょう」



お上りさんの首元に汗が流れて。


ま!


わたくしとしたことが!


……。


(肌を少し見せるのよ)


あのお友達の助言は、こういう意味でしたのね。


3月に半袖が寒いのは当たり前ですわ。


誰にも見つかっていないのが幸いです。


穴があったら入りたい。


◇ ◇ ◇


市電の中も暑いですわ。

「お上りさん。電気ストーブのように、青い光線が出る冷房器具はないのでしょうか」


「赤い…光線?……。冷房器具に用いることができるかわかりませんが、ラジウムを使った夜行塗料は、淡く青緑の光を出します。正確に言いますと、青緑色に光るのは硫化亜鉛で、ラジウムはその発光を引き起こす役目ですね」


そうでしたわ…。


科学と物理が不得意とは、おっしゃられていませんでした。


しかし。


「ラジウム。わたくし授業で習いましたわ!マリー・キュリーさんが発見した元素でしたわね。ノーベル賞も受賞された方」


「はいそうです。ロシア帝国支配下のポーランド・ワルシャワ生まれ。本名は マリア・スクウォドフスカ。女性が大学へ進学しにくい時代だったため、フランスへ留学。パリで物理学者のピェール・キュリーと結婚しました」


まだ、大丈夫です。


「1898年。ウラン鉱石を研究していて『ウランを取り除いた後の鉱石の方が、なぜか放射線が強い』という矛盾に気付き、『まだ未知の元素がある』と考えました。そこから膨大な鉱石を精製し、ポロニウム、ラジウムを発見しました。当時としては歴史を変える大発見でした」


歴史につながってしまいましたわ!


「彼女は史上初めて、1903年ノーベル物理学賞、1911年ノーベル化学賞を受賞。異なる分野で二度ノーベル賞を受賞した最初の人物です」


「ええ。マリー・キュリーさんは女性初のノーベル賞受賞者。そして2度の受賞、さらに異なる分野での受賞は男女問わず、人類初の偉業を成し遂げた方ですわ」


やりましたわ!


お上りさんの会話に乗れました。


都会の女、完成です。


そういえば。


「旦那様のピェール・キュリーさんはどうされましたの?」


「ピェール・キュリーは、1回目のノーベル物理学賞を受賞後、確か…3年後に交通事故死されました」


まあ!そんな。


「では、マリー・キュリーさんは2度目のノーベル賞は旦那様のお支えなしで、ご自分の力で…」


なんとお強い女性なのでしょう。


わたくしでしたら、研究をやめてしまったかもしれません。


もしかしたら、お二人の夢だったからこそ、あの方は続ける道を歩んだ。


悲しくないはずが、ないですもの。


「1914年第一次世界大戦開始後。彼女は移動式X線撮影車を開発・普及させました。前線へ赴き、負傷兵の骨折や銃弾の位置を調べるために使われ、数多くの命を救ったとされています。つまり、ラジウムを発見した科学者でありながら、戦争では『人を助けるため』に放射線技術を活用した、素晴らしい女性物理学者・科学者です」


ああ…。わたくし、泣きそうです。


自分の心身より、他者のために。


きっと、旦那様との約束だったのですわ。


旦那様がご覧になっている、と。


「今では『放射線にはまだ未知の可能性がある』とされ、医療、美容、科学、様々な分野で活用されています」


「彼女が、いえ、ご夫婦で発見したラジウムが新しい未来を照らしてくれますわね」



「ええ。そろそろ浅草ですね」


「まあ、あっと言う前でしたわね。参りましょう」


◇ ◇ ◇


浅草の仲見世。


人通りが減りましたわね。


子どもの頃、お父様とお母様と来た時の賑わいを、お上りさんにもご覧になって欲しかったですわ。


しかし、わたくしが暗い顔ではいけません。


「さあ、お上りさん。ここが浅草です。どうですか?」


「628年…」


え?


お待ちになって。


1300年ありますわ。


ここは、八月の炎天下の浅草ですのよ。


「お、お上りさん。わたくし汗をかいてしまいましたの。境内の木陰を歩きませんか?」

「あ、すみませんでした」


ふう、危なかったですわ。


でも、どうしましょう。


1300年の歴史を語られるのでしょうか?


「わたしの祖父はよく、『浅草寺の雷門はな、でっかい赤提灯と、雷神風神様のご立派な像があったんだ』と申しておりました」



女中さん!



「では、1865年の田原町大火で焼けた雷門の、前の世代の方ですね」


「え、ええ…。左様でございます」


……その火災は。


「お、お上りさん」

「はい」

「仲見世のお店で、そろそろお昼にしませんか?」


◇ ◇ ◇


大黒家天麩羅。


浅草はここ、と決めていましたのに。



心を乱してしまいました。



⸻お嬢様。


仲居さんに椅子とお水をご用意して頂きました。


⸻あなたのせいではありませんわ。


お上りさんがいつも通りなのが、幸いです。


◇ ◇ ◇


「ありがとうございました!」


「こちらこそ、ごちそうさまでした」




「お、お嬢さん!?」


お上りさんごめんなさい。


もう少し、お付き合い頂けませんか?


「そ、そちらは!」


ええ、承知しておりますわ。


ご令嬢が行ってはならない。


知ってはならない。


女の悲劇の地、ですもの。


「こちらは新吉原の大門。今も遊女の方がいらっしゃいます」


わたくしが来れるのは、この門の前まで。


「田原町大火は新吉原にも延焼。1911年の大火災で、新吉原も大門もほぼ全焼いたしました」


お上りさんはうつむかれました。


ご存知ですわよね。


お上りさんが本気で驚かれた声を、わたくし初めて聞きました。


「ここで起きたことは、悲劇以外のなにものでもありませんわ。……お上りさんは、どう思われますか?」


「……見えにくくなっただけだと思います」


偽りのないお答えです。


わたくしも、そう思います。



暑くなってきましたわね。



いえ、もう少しだけ、これくらい。



ふしだらな令嬢と思われたでしょうか?


いえ。



「お時間を取らせてしまって、申し訳ありません。帰りましょう」


自然な笑顔。


の、つもりでした。


今日はお上りさんの方が、優しい微笑みでしたわ。

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