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第7話:今日も世界は幸福に滅ぶ

「子供が落ちたぞ!」


高い橋の上から、母親が必死の形相で川面を見下ろしている。

飛び込むのを躊躇っているうち、幼い少年は手をばたつかせながら、みるみるうちに流されていく。


「誰か! 誰か助けて! お願い!」


次の瞬間、世界が滅んで巻き戻った。


気付けば、少年は先ほどと同じように橋の上で身を乗り出している。

母親は急いで我が子を抱きしめてむせび泣いた。


「破壊神様……! ありがとうございます……ありがとうございます……!」


一度、全員死んでいるのだが、もはやそんなことは問題ではなかった。



「おい、金を出せ!」


王都の路地裏で、ナイフを構えた暴漢が叫ぶ。

対峙する商人は、欠伸をしながら懐中時計を見た。


「そろそろまた滅ぶみたいだぞ。仮に今、お前に金を渡しても、五分後には俺の財布に戻ってる。俺を殺したとしても、五分後には俺は生き返る。ここからお前が逃げたとしても、五分後には俺の前に戻って来る。……どうすんのこれ?」


「……どうすんだこれ」


「やめとけって。何かおごってやるよ、どうせ戻るし」


強盗は成立しなくなった。

悪行を行うためのコストがリターンを完全に上回った結果、世界から犯罪という概念が消失した。

不慮の事故も、仕事のミスも、滅びのあとでやり直せるようになった。


失敗が、存在しない世界。

それは一見、ユートピアのように思えた。



エルフの国の補佐官フレアは、今日もまた、幾度となく「朝食」を口に運んでいる。


「……飽きたなぁ、このトーストの焼き加減」


愚痴をこぼしながらも、彼女は優雅にさっきと違う種類のジャムを塗る。


世界は変わった。

あの全裸の破壊神がこの世界に現れ、息をするように滅びと再生を繰り返してからというもの、人々の死生観は物理法則ごと破壊された。


当初は死の恐怖に震えていた民衆も、今やこの「巻き戻し」を、生活を便利にするためのインフラか何かだと思い始めている。


「フレア様! おすすめの恋愛小説、読み終わりました! 今日だけで五十冊目です!」


円卓を揺らして身を乗り出したのは、獣人国の前王ライオネルの娘、ミーナだった。

彼女はかつて、獲物の息の根を止めるためだけに研ぎ澄ませていたその反射神経と動体視力を、今や高速で活字を追うことに費やしている。


「早いわね。どうだった?」


「……すごいです。胸がキュッてなって、喉が熱くて。獣人の国には、こんな感情を綴った本なんて一冊もありませんでした。あたしたちはただ、狩って、食って、子を成して、死ぬだけでしたから。……あたし、この世界が滅びるようになって、初めて『恋』ってものを知りました。あたしもいつか、恋、してみたいなぁ」


ミーナは、ボロボロになった本の表紙を愛おしそうになでる。


「……でも、続きは無いんですか? これもう全部覚えちゃいました」


「続きなんて、この世界にあるはずないでしょ。新しい本を書こうとしても、完成する前に世界が巻き戻るんだから」


円卓の反対側は、ジャンクフードと酒で散らかり放題だった。

ドワーフ王ドワンゴが、腹を叩いて笑う。


「飲んで食って、死んで戻って、腹が減った状態でまた飲む! これ以上の幸福があるかぁ!」


「……醜い」


フレアは冷ややかに言い放つが、否定はできない。

世界に「幸福度」という数値があるならば、それは間違いなく史上最高値を更新し続けている。

事故は消え、失敗は許され、美食と娯楽が無限にリピートされる。


――誰もが、この死なない遊園地に満足している。

マモル様が一人で恥じらいという名の孤独な地獄に耐え続けているおかげで、私たちは失敗のない人生を謳歌しているのだ。


「……誰かが、やらないといけないのよ」


フレアは自室に戻り、クローゼットを開ける。

そこには、マモルの思念を傍受するための装置――開発中のアイディアや覚書のメモがびっしりと貼ってあった。


マモル様の声が聞こえる気がする。


そう直感していたのは、フレアだけではない。

特に五感の鋭い獣人族へのリサーチでは、何か耳鳴りのように、誰かの声が聞こえている気がする、という調査報告が上がっている。

ミーナ姫から聞いた話では、この滅びと再生の現象が始まったタイミングとぴったり一致していた。


……あくまでも仮説でしかないが。


彼女は魔力回路と配線を計算し、トライ&エラーを繰り返す。

少し組み上がったところで世界は滅び、また最初からの作業になる。

実に遅々とした空しくなるような作業でも、フレアは取りつかれたようにコツコツと開発を続けていた。


その時、王宮を大きな揺れが襲った。


――マモル様が、また何か恥ずかしい目にあったのだろうか。


「これは、来るわね」


フレアは手近な高級スイーツを口に放り込んだ。



小説、演劇、あるいは闘技場。

形に残らない体験型エンタメの消費スピードは異常だった。


昼から一本の演劇を観て、夕方の滅亡でリセット。

今度は別の劇場に行き、一日にいくつものエンタメを楽しむ。

一日の体感時間は、滅亡の回数分だけ何倍にも膨れ上がり、人々は一日に幾つもの人生を消費していく。


一方、役者は悲惨だった。

若手俳優の期待の星、アルノーは、今回が初主演の舞台だった。

彼は、今日だけで同じ悲劇の主役を百四十二回演じ終えたところだ。


「……新鮮さ? そんな寝言、百回前のリセットに置いてきたよ」


劇場の楽屋。

アルノーは鏡も見ずに、慣れすぎた手つきでドーランを塗り直す。

数ヶ月かけて磨き上げた一世一代のモノローグも、リセットの度に繰り返せば、ただの発声練習と変わらなくなった。

子役たちは一日のうちに初舞台を百四十二回も繰り返し、今や舞台袖で悟りを開いた老人のような眼差しで出番を待っている。


「いいか、野郎ども! 普通にやっても客はもう拍手すらしてくれねえぞ! 前回はオチを先に叫ばれた! その前はセリフを覚えてかぶせてきやがった!」


座長の怒声が飛ぶ。

観客もまた、記憶が蓄積されるがゆえに目が肥えすぎていた。

結末を知っている物語を、彼らはもはや筋書き通りに観ることを拒絶する。

昨日と同じタイミングで泣き、昨日と同じタイミングで死ぬ役者を、彼らは「やる気がない」とみなすのだ。


「よし、次はアドリブのみ。設定だけ残して好きにしろ! 『実は王様は、宇宙人だった』ってことにしてもいい! いきなりニンジャが現れて戦いが始まってもいい! 血しぶき見せてけ! 裸になれ!」


「この前は『裸になれば面白いと思ってんの?』ってヤジがきましたよ」


「うるさい! とにかく、客を驚かせろ!」


もはや演劇は、観客との終わりなき知恵比べバトルという、新ジャンルエンタメへと変貌しつつあった。


「……アルノーさん。『続き』やりませんか」


共演の新人女優が、虚ろな目で提案する。

それは、最近、楽屋で流行り出した新しい演劇メソッドだった。

滅亡の瞬間、途中で途切れた物語。

その「続き」を、リセット後の冒頭に持ってきて再開するのだ。


「前回の滅亡時、貴方は私に毒を盛る直前だったよね。……『続き』やろうよ。私もう、毒を飲むか飲まないかの直前で死んで戻るの、飽きちゃった。『毒だけど、毒じゃなかった』ってところから始めて、二人でダンカン殺さない? あいつこないだ、私の展開パクったんだよね」


観客もそれを望んでいた。

昼から始まった一本の芝居は、幾度とないリセットを跨いで、上演時間が百時間を超える前代未聞の超大作と化していた。

もう観客も役者も初期の展開は覚えていない。

最初は「復讐に燃える王子」だったアルノーは、今や「王位を捨てて、隣国でラーメン屋を開業した店主」を演じている。


「……いいだろう。なら、今回はラーメン屋が異世界転移して、その世界の王様がラーメンに感動して俺を貴族にするグルメ無双路線で行こうか」


「それはカレー屋の時にやったじゃない」


「じゃあ、ラーメンに転生する方向で行こう。『このラーメンは出来そこないだ、食べられないよ』って俺を捨てた勇者パーティにざまぁする。その流れでダンカン殺してみようか」


アルノーが舞台へ踏み出す。

脚本などない。

再演も不可能な一度きりの物語は、何度も繰り返す世界よりもずっとリアルに感じられた。

俺たちは死なないが、キャラは死ぬ。

アルノーたちはフィクションの中で、この世界に、生と死の意味をどうにか繋ぎとめていた。

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