寒い
曇り空にかなり巨大なドラゴンが一匹。何かを確認するかのようにきょろきょろと視線を彷徨わせながら空を飛翔しています。さっき見た時よりもかなり低い位置を飛んでいるので、今度はその姿をしっかりと見ることが出来たわ。
「緋色のドラゴン……」
我が領土、いえ、我が国でドラゴンなどを見るのは珍しいのです。と言っても皆無なわけではありません。
我が国と隣国のメルゼベル公国の間には、その二国の領土を合わせた以上の、ものすごく大きな森が広がっています。「黒の森」と呼ばれるその森の北側には、天まで貫きそうなほど高い山々があるのですが、ドラゴンたちはその山脈の辺りを根城にしていると伝えられております。そして、その山々の辺りから黒の森の半ばほど辺りまで飛翔してくることはよくあることのようなのです。近年では、アーノルド地方でも目撃されたことも、回数は少なくともあったそうです。
まあ、この辺りはわたしが実際に確かめたことではなく、以前家庭教師から教わっただけの知識でしかないのですが。
「アーノルド地方はともかく、うちの屋敷の上までに飛んでくることなんて……これまであったかしら……?」
ドラゴンを見上げながら、誰に問うわけでもなくぼそっと呟いたら……。
え?
目が、あった?
上空のドラゴンと?
まさかとは思いましたが、まさかではありませんでした。
北から南方向へ飛んでいたはずのドラゴンが、何故だかいきなり方向を変えてきたのです。
いえ、もっと正確に申し上げましょう、わたし目掛けて一直線に、速度を上げて飛んできたのですっ!
そして……ずしんと、地響きを立てて、その赤い色のドラゴンは我が家の庭に下り立ちました。うわっ!このドラゴンが降り立ったことで、ドラゴンを中心に、庭の地面が陥没したわ……。ちょっとした池くらいの大きさのへこみが出来ているのよ。ド、ドラゴンって……重いのかしら?それとも衝撃でなのかしら……。うわあ……。
わたしはドラゴンと、地面のへこみを交互に見ていたら……ドラゴが突然は大きな口を開けました。
ものすごい、咆哮。
体が後ろに吹っ飛びそうなほど。わたしは足にぐっと力を籠める。
「う……っ」
「ひい……っ!」
わたしは耐えることが出来たのだけれど、使用人たちが、恐れに腰を抜かしたようでその場にへたりこみました。
使用人たちの恐怖に震える様子など全く気にも留めずに、ドラゴンはわたしの目の前までやって来て、ぐっとその顔を近づけてきました。
……ああ、なんという美しい金色の瞳。
わたしは何故だかそのドラゴンから目が離せませんでした。
真夏の太陽のように輝く黄金の瞳。
そして鱗の色は、赤。
まるで、暗闇の中で燃え盛る炎のようです。
そんな赤い色を纏うドラゴンが、わたしに顔を寄せてきました。手を伸ばせば届きそうなほど近くに、ドラゴンの巨大な顔がある。
……不思議と恐ろしさは感じません。恐ろしさとは逆に、何故だかとても懐かしい人に出会ったような、そんな気すらするのです。不思議ね、わたしこんなに近い距離でドラゴンを見るなんて初めてだというのに。
何かを問うような、ドラゴンの咆哮。風圧で、体が吹き飛ばされそうになるのを何とか耐えていたら……パクリと、わたしはそのドラゴンの大きな口に咥えられてしまったのでした。
「ひぃいいいいいいいいいいいっ!」
叫びを上げたのはこれまたニーナで。わたしはきょとんとしておりました。
だって、例えば親猫が子猫の首を咥えてどこかへと運ぶような、そんなふうにそっと軽く咥えられたのですものね。
とはいえ、そう感じているのはわたし一人だけなのです。
ニーナは「お嬢様がドラゴンに食べられるっ!」と叫んだ後気絶しました。
お父様は「娘を離せっ!」と叫び、セバスチャンは鋭い視線で武器か衛兵でも探すようにあちこちに目をやっています。
「えっと……?」
何故、このドラゴンはわたしを咥えたりしたのでしょうか?食べるわけではないと思うのですよね……。問いかけようとしたのですが、それより先に、ドラゴンがばさりと翅を広げました。ふわっとした浮遊感。それでドラゴンが飛翔したとわかりました。お父様たちの姿がどんどんと遠ざかっていきます。
「わたしは大丈夫ですからー!」
とりあえず、ドラゴンに咥えられつつ叫んでみましたが、お父様やセバスには聞こえたでしょうか?あっという間に我が館が遠ざかっていきます。
……えーと、このドラゴン。わたしをどうするつもりなんでしょうか?このまま裕福な国の娼館にでも連れて行ってくれる……なんてことは、無いですよねえ……。
そんなことを考えるわたしはもしかしたら状況に頭がついていけなくて、思考停止をしていただけなのかもしれません。
ほけーっと、ドラゴンに咥えられ。
ほけーっと、ドラゴンに咥えられたまま空を飛んで。
……ああ、眼下に我が領土が見えます。
大河から溢れた水に浸されたままの低地。流木。壊された家々の残骸。
あのあたりはナーハン河の観光ポイントだった辺りではないかしら?お母様がまだご存命だったころ、家族みんなであのあたりに来たことがあったわね。
両岸切り立った岩、青や碧色の神秘的な色合いが美しい河の水、紅葉した葉……、渓谷美と言うのかしら。その美しさは今も目に焼き付いているわ。
そうそう、ナーハン河の清流と豊かな自然を堪能しつつ、川下りの船に乗ったわね……。名物の川魚料理も美味しかったわ。なんていったかしら……、そうそう、ナーハンアユの塩焼きっ!魚の背骨に添うように、ジグザグに打たれた櫛。焼き上がりが白く見えるようにしっかりと振られた塩。最初は強火で、その後は弱火でじっくり焼くと、ホクホクの塩焼きが出来上がるのだと調理人から教えてもらったわ。フライも唐揚げも美味しかった。お父様は小魚を濃い味付けで煮込んだものがお気に入りだった。お酒によく合うって……、そしてお母様からは「飲み過ぎにご注意くださいませ」ってお小言を言われて……。ああ、あの頃は楽しかったなあ。お腹いっぱい食べていたし……。
などと感傷(?)に耽っているうちに、あっという間にドラゴンは我がウェステルハイム領の端まで来てしまっていた。
この辺りは確か、アーノルド地方。リンゴの果樹園が広がっていた所。幼い頃、何度かお父様に連れられてきたことがあった。今はもう……見る影もないけれど。
「黒の森……に連れていかれるのかしら」
次第に鬱蒼とした大きな森が見えてきた。我が国に隣接してはいるのだけれど、足を踏み入れた者はほとんどいない。
と言うのも、この黒の森には千年以上生きている魔女がいて、人間が足を踏み入れるのを拒否している……という噂なのよね。
以前隣国の調査兵団がこの黒の森に侵入を試みたことがあったのだけれど……、装備品や武器、携帯食などすべて奪われた上に、調査団の人たちが記憶を失って帰ってきた……なんてことがあったらしいの。それ以来この黒の森は其処にあるけれど、無いものとして扱え、みたいになっているのよね。
その黒の森の上空を、わたしはドラゴンに咥えられて飛んでいるなんて……。
うーん、人生何が起こるかわからないわね。
……なんて、余裕ぶっていられるのもこの辺りまでだった。
空を飛ぶ。生身のままで。……防寒着も来ていないのよわたし。
つまり何が言いたいのかというと……寒い。
上空っていうだけで寒い。
それを凄いスピードで飛んでいるのだから、風が体に直接ぶつかってとんでもなく寒い。体の熱はどんどんどんどん奪われる。……実はさっきからがたがたと体が震えて仕方がないのよね。寒い寒い寒い寒い。このままでは、マズイ。
「あの、そろそろ降ろしてくれないかしら……?」
実際には「あの、ぞろぞろ おろじで ぐれない がじら」みたいな言い方で、ガタガタ震えながら呟いてみたら……、その言葉をドラゴンが聞いてくれたのか、はたまた目的地に着いたのか、黒の森の真ん中あたりでドラゴンは急降下した。




