4.8 南地語
南地は西空と共に叫び声の発生源へと向かっていた。西空と共に、というのは語弊があるかもしれない。何故なら西空は壁を蹴り、弧を描き、階段を何段も飛ばして駆け上がり、速度を殺さず目的地を目指し、その後ろ姿はみるみる遠ざかっていくのだから。
不意にパルクールという競技を思い出した。街中を舞台にした、障害物競争のようなものだ。西空はその選手だったのだろうか。
そんなことを考えている内に、西空の姿が2階へと消えた。南地も遅れまいと階段を駆け上がる。
2階へ上り、五十嵐を閉じ込めておいた物置の扉が開いていることに気付いた。
五十嵐を閉じ込めた時、外からしっかりと鍵を閉めておいた筈なのに、どうして扉が開いているんだろう。どうして西空は物置の中に入ろうとせず、外から中を窺っているだけなんだろう。
「に、西空君。どうしたの……」
息絶え絶えに話し掛けると、西空は無言で物置の奥を指差した。そこには縄で縛られた五十嵐が仰向けに倒れ、その上に覆い被さるように立つ一匹の犬。
「ジョ、ジョナサン!」
ジョナサンがグルルと喉を唸らせた。その口には大ぶりのナイフが咥えられており、切っ先が五十嵐の喉元に突き付けられていた。
――犯人の喉笛を必ず切り裂いてくれよう
以前、ジョナサンはこう言った。喰いちぎる、では無く、切り裂く、という表現だった。言葉に若干の違和感を覚えたが、ジョナサンはあの時から殺しにナイフを使うことを考えていたのだ。
ジョナサンは老犬で、もう人を噛み殺す力は無いからナイフを選んだんだろうけど、だからと言って犬がナイフを使うなんて思い付くか?
ジョナサンの底知れなさに戦慄を覚える。
「き、君達! 見てないで、早く何とかしてくれぅぅぇっ!」
五十嵐が助けを求めると同時に、ジョナサンがグルルと不機嫌そうに唸る。唸り声による振動がナイフに伝わり、皮膚を軽く切り裂いた。赤い血が首元からうなじに向かって、つぅっと滴る。
「変に刺激すると勢いで殺しちゃいそうなんで、手を出せずにいたんです」
「な、何でこんなことになってんスか?」
「知らん! 目が覚めたら、もうこの状態になってたんだ」
五十嵐が上擦った声を上げる。次の瞬間、余計なことは喋るなと言わんばかりにジョナサンは喉を唸らせ、五十嵐を威圧する。ジョナサンは今にも五十嵐を殺してしまいそうな雰囲気だ。
でも、どうしてジョナサンはすぐに五十嵐を殺さなかったんだろう。西空が到着するまで猶予があったはずだ。もしかして殺す気はなく、別の考えがあるんだろうか。
南地はゆっくりと、なるべく刺激をあたえないよう、ジョナサンと一定の距離を保ちつつ正面に回る。そして意を決し、ジョナサンと目を合わせた。
「女。丁度いい所に来た。貴様の助力を求む」
ジョナサンから人間の言葉が発される。取り敢えず、会話できる程度には理性が残されているようだ。
「ジョナサン。何でこんなことをしてるの」
「女。以前にも言ったであろう。我は轢き屋を大地に還すと」
「でも、その人が轢き屋だと決まったわけじゃないよ」
「かも知れん。だがこやつは協力者工藤を殺そうとした。殺すに十分値する」
「え、えっと、その……」
しどろもどろな南地に対し、ジョナサンが不機嫌そうに喉を鳴らす。
「女。こやつから同胞の居場所を聞き出せ。話さねば殺すと伝えろ」
「ど、同胞?」
「同胞の居場所はこやつしか知らぬ。半ば諦めていたが、またとない機会が巡って来た」
ジョナサンが何を言っているのか理解できない。
「同胞って何のこと?」
「同胞は同胞だ。我が同胞。大した縁は無いが、助けられるのならば助けてやりたいというのが犬情であろう?」
正宗の隠し部屋にあった犬小屋と名前が書かれた大量の表札を思い出した。ジョナサンの言う同胞は、あの表札に書かれた犬のことを言っているのかもしれない。
「分かった。とにかく、五十嵐さんに同胞の居場所について聞けばいいんだね」
「愚問。早く聞き出せ」
「その前に、咥えてるナイフを離して」
「何を言う。それでは五十嵐を殺せない」
「殺したら居場所を聞き出せない」
「だから今聞き出せと命令している」
「居場所を聞き出したら?」
「そうしたらこいつは用済み。殺す」
「それじゃ同胞を助けられないよ……」
南地は立ち上がり、ジョナサンから目を離さず、躾けるように上から声を浴びせる。
「もしジョナサンがここで五十嵐さんのことを殺したら、ジョナサン自身はどうなると思う」
「女。何を言っている」
「間違いなくジョナサンは捕まり保健所に送られる」
ピンと垂直に立てられた尻尾が垂れ下がった。
「言っとくけど、ウチは人間だから、人が死んだら絶対に警察を呼ぶからね。これが何を意味するかは、賢いジョナサンなら分かるよね。ジョナサンはそれでいいの?」
垂れ下がった尻尾が地面と水平に振られた。
「だから、ここは一旦人間のルールに従って、五十嵐さんを解放して。ジョナサンにとってはとても不本意かもしれないけど」
「……従えば同胞を救い、轢き屋を殺すことができるのか?」
「それは分かんない。でも此処で短気を起こしたら、同胞を救うことはできなくなる。それどころか、本来の目的の轢き屋を殺すことも」
ジョナサンの腰がやや落とされ、水平だった尻尾は完全に垂れ下がった。
「分かった。女に従おう。こいつを殺すのは一旦止めだ」
そう言うと、ジョナサンは五十嵐から飛び降りた。咥えていたナイフを離し、カランカランと渇いた金属音が鳴る。
「老い先短いとはいえ、保健所送りは断固拒否。我は些か冷静さを失っていたようだ」
説得は成功だ。南地は安堵で息が抜け、脱力した。
「女。よくぞ我が過ちを正してくれた。褒美に撫でさせてやろう」
ジョナサンがクゥーンと甘えるような声を上げ、垂れ下げた尻尾を大きく左右に振りながら近付いてきた。次の瞬間、ワラジムシが全身を駆け回るような怖気が南地を襲った。
南地は奇声にも似た悲鳴を上げ、飛び跳ねるようにジョナサンから離れた。
「何やってるんですか」
西空が飽きれた声を上げた。
「しょうがないでしょう! 撫でるなんて絶対無理!」
ジョナサンは尻尾を垂らし、悲しそうな目をしていた。
申し訳ないが、幾ら会話しようとも心を通わせようとも、怖いものは怖い。撫でるなんてもっての外だ。だが、ジョナサンは諦めてなかったのか、南地の元へ小走りで向かってきた。
「危ねえ!」
刹那、西空が迫真の叫び声を上げた。
そしてブスリと肉の繊維を断ち切る小さな音。
赤い飛沫。
「い、いや、わたしは、ジョナサンを殺そうと……」
五十嵐は狼狽し、ゆっくりフラフラと後ずさる。拘束していた縄がいつの間にか解かれ、彼は今自由の身だった。
五十嵐のその手首と額に赤い斑点が付いており、それが血であることに気付くのは、西空が表情を苦悶に歪め、小さなくぐもり声を上げながら尻餅を付いてる理由を理解してからだった。
西空の太腿に小振りのナイフが突き刺さっていた。そのナイフは先程ジョナサンが五十嵐に向けていたナイフだ。それがどういう訳か、今は西空の太腿に突き刺さっている。刃とジーンズの境界が赤く染まり、赤い楕円がどんどん広がっていく。南地はジョナサンが近づいてきた時以上の悲鳴を上げた。
「悪くない……わたしは悪くない!」
そう言いながら、脱兎の如く五十嵐は物置から逃げ出した。
「テメエ!」
西空は五十嵐を追いかけようとするが、足に上手く力が入らず、その場に崩れる。
「だ、大丈夫!」
我に返り、南地は西空の元へと駆け寄った。視界の片隅にナイフで断ち切られたロープが目に写る。五十嵐はジョナサンが落としたナイフを奪い、それでロープを切ったのだ。あのとき何故直ぐにナイフを回収しなかったのか。自分の愚鈍さが、いつにも増してが腹立たしい。
「とりあえず、手当てを……」
「大丈夫です。それよりあの野郎を早く追いかけないと」
立とうとする西空の腕を掴み静止すると、西空の表情が恐怖で引き攣った。南地は対人恐怖症のことを思い出し西空から離れる。
「ごめん。でも、安静にしないと。北さんを呼んでくるから……」
「こんな掠り傷どうってことありません」
そう言うと、西空は太腿のナイフを掴み一気に引き抜いた。反動で血飛沫が飛び散り、床の一部を赤く濡らす。そして血の付いたナイフを投げ捨て、南地が止める間もなく、西空は駆け出した。
「待って!」
南地も慌てて追い駆けた。
階段を下り、廊下を走り抜け、屋敷の外に飛び出すと、五十嵐は正門の門柱に取り付けられたパネルを操作していた。恐らく、門を開けるためのスイッチだ。
このままでは逃げられてしまう! と、思ったが……
「何で開かないんだ! 開けよ!」
そう叫びながら五十嵐はパネルのボタンを何度も何度も連打していた。しかし正門は一向に開く気配がない。最終的に五十嵐はパネルを殴り始めたが、扉はうんともすんとも言わず、その口は閉ざされたまま。
「おい、観念しろ」
西空が五十嵐の背中に向けて冷たく告げた。
五十嵐はビクリと体を震わせたが、振り返りもせず狂乱気味にパネルを激しく叩く。
「無駄ですよ。ブレーカーを落としましたから」
背後から北山が現れた。振り返ると、東海と二葉もいた。
東海は西空の反対側に回り、五十嵐を取り囲む。ようやくこちらを振り返った五十嵐は、視線を右往左往視線を走らせ、何とか逃げ出せないか模索していたが、やがて諦めたのか訛声の奇声を上げその場に蹲った。
「さて五十嵐さん。あなたに聞きたいことが山程――」
「北さん! そんなことよりも、まず西空君の手当を!」
「そんなこと? 手当?」
「太腿を刺されちゃったんです。ウチを庇ったばっかりに……」
南地が言い終わる前に、北山は西空の元へ駆け寄った。
「大変! 二葉さん。救急箱はありますか?」
「リビングにあるわ。自由に使ってちょうだい」
「西空君。応急処置するからリビングに行きましょう。歩ける?」
「いえ、大丈夫です。それよりもまずあの野郎を捕まえないと」
「それは東君たちに任せればいいから」
「ですが、また逃げられたらどうするんですか。ぶっちゃけ東海さんガリヒョロ……」
「おい聞き捨てならねえぞ。誰がガリヒョロだ誰が」
「五十嵐の様子を見る限り暫くは大丈夫。それに、さっきも言ったけどブレーカーを全部落としたから、そこの正門からは絶対に逃げられない。一応3人いるし、いざとなれば取り押さえられる」
「ですが……」
「もう!」
北山は西空の頭を両手で挟み、あと少し動いたら唇が触れ合う距離まで顔を近づける。
「いいからリビングに来なさい。とっとと治療させなさい。西空君は刺傷を甘く考えてるみたいだけど、万一ばい菌とか入って化膿したら、最悪足を切り落とすことになる。それは嫌でしょう。分かったなら四の五の言わずこっち来なさい」
「は、はい……」
西空は震え声で頷いた。その顔は恐怖で青ざめるのと同時に羞恥心で赤くなるという複雑な色をしていた。




