2.7 南地語(みなみちかたり)
凶暴そうな犬が何度も何度もこちらに向けて吠えてくる。吠えられるたびに、南地はビクリビクリと体が震わせたが、一度目を閉じ大きく深呼吸をした。
落ち着こう。まずは落ち着こう。猛犬は柵の向こう側なんだから怯える必要なんて無いんだ。
南地は意を決し、閉じていた目を思いっ切り見開いて、正面の犬と視線をガッチリ合わせた。
「オイ姉チャン。胸ノデカイ姉チャン聞イテンノカ?」
次の瞬間、犬の口から人間の言葉が発された。成功だ。南地は聞こえてくる声に注意深く耳を傾ける。
「オレト一緒ニアソボーゼ。楽シイコトシヨーゼ。キモチイーゼ。柵ゴシデモイケルゼ。尻ヲダソーゼ」
そしてただのセクハラ言動に全力で脱力した。不審者に向かって吠えているのかと思いきや、まさか発情してただけだったとは。
「オイデカパイ姉チャン返事シヨーゼ。無視ハ寂シーゼ。放置プレイハ望ンジャネーゼ」
もし人間だったらセクハラで訴えてやる所なのだが、相手は動物だ。泡立つ感情を抑えながら、南地は犬との対話を続ける。
「ねえ。聞きたいことがあるんだけど」
「聞キタイ? オレノサイズノコトカ?」
「いや違――」
「オレノハスーパービッグダゼ。ダカラヤローゼ。満足スルゼ」
駄目だ。かなりお馬鹿さんな犬だ。まともに取り合ってたらいつまで経っても話を聞き出せそうにない。無理矢理にでも本題に入ってしまおう。
「あのさ。このワンちゃん知らないですか? ジョナサンって名前なんだけど」
そう言って、ジョナサンの写真を二枚見せた。一枚は高橋と写っているもの、もう一枚は和水正宗と写っているもの。
「教エタラ遊ブノカ?」
「はいはい遊ぶから教えて下さい」
「ヨシキタバッチコイ」
犬は差し出された2枚の写真を見比べつつ、臭いを嗅いだ。
「犬ハ知ラネーガ、隣ノ兄チャンナラ知ッテルナ。最近ハ見ネーガ、コイツショッチュウコノ辺ニ来テタゼ」
そう言ってから、犬は高橋の写った方の写真を舐めた。
「本当スか!」
「本当ダ。ホボ毎日来テタカラ、ヨク覚エテルゼ。オレノ事ガ好キナノカ、柵ノ近クマデ来テ、ナニカ突ッ込ンデクンダゼ。誘ッテルトシカオモエネーゼ。デモ直グ別ノ場所ニ行ッチャウシャイボーイ何ダゼ」
一匹目から手がかりを発見できるなんて、かなりラッキーだった。動物は興味の無いことを覚えてることが少ない。だから、高橋が毎日この高級住宅街に来ていたという情報はかなり信憑性が高い。
「デモ、コノ兄チャン最近コネーンダゼ。寂シーンダゼ」
「……何時位に来てたんですか?」
「ナンジ? 何ダソレ」
しまった。時刻と言う概念は人の間でのみ共有されているものだった。えっと、犬に聞くのなら……
「この人が来たとき辺りは明るかった? お日様はどこらへんにあった?」
「ンナ事ヨリモ教エタンダカラ遊ボーゼ」
「あ、いや、えっと……」
「マズ尻ヲダソーゼ。約束守ローゼ。ヤローゼ」
「まずはウチの質問に答え――」
「ハヤクシヨーゼ。ハヤクシヨーゼ。ハヤクシヨーゼ。ハヤクハヤクハヤク!」
やがて犬は牙を剥き、グルルと唸り声を上げる。その機嫌悪そうな唸り声を聞いて、背筋に悪寒が走った。会話中は薄れていた恐怖心が南地の元へと駆け足で舞い戻る。
「サモナキャソノデカパイ喰イチギルゾ!」
突如犬が鉄柵の間から口を出し、噛み付こうとしてきた。当然、その牙が届くことは無かったのだが、南地を怯ませるには十分過ぎるほどで、犬から目を逸らしてしまう。
次の瞬間、人間の言葉が犬の鳴き声に変わり、さらなる悪寒が全身を駆け巡った。
「はいそこまで。南ちゃんよく頑張りました」
北山が間に入り、南地を犬から遠ざけてくれた。そして2人は逃げるようにその場から離れる。西空も2人の後に続く。
南地達が姿を消しても、暫く犬は鉄柵の前で吠えつづけたが、飼い主が家から出てくると直ぐに吠えるのを止め、悲しそうな表情をしながら家の中へと戻って行った。
先程の犬が壁向こうに消えてから、南地は犬から聞いたことをそのまま説明した。
「つまり、この辺りに高橋君が頻繁に来てた可能性が高いわけだ」
「うん。でも何時に来てたのかは聞き出せなくて」
「朝ね」
北山が即座に断定する。
「何でそう言い切れるんですか?」
「犬の話から推測すると、高橋君は毎日家のポストに郵便物を届けてた。毎日届けるものといったら新聞。そして新聞は朝配達するもの。夕刊とかもあるけど、高橋君は私達と同じ学生だからそれは考えにくい。つまり、高橋君は新聞配達のバイトで毎日この辺りに来ていたということ」
北山は一気にそう言うが、やがて張っていた胸を窄め、自信なさげな表情で
「多分……」
と付け加えた。
いつも思うけど、北さんってホント締まらないなあ。
「と、とりあえず工藤君に確認してみる」
確認の結果、やはり高橋は毎朝新聞配達のバイトをしていたそうだ。
工藤曰く、高橋はそれ以外にも色々バイトをしていたらしいが、新聞配達以外では何のバイトをしていたのかは知らないらしい。というのも、高橋は短期のバイトを転々としていたらしく、その中で長く続けていたのが新聞配達だそうだ。
「あれ? そういえば……」
北山は鞄の中から高橋が写っている写真を取り出し、周りの景色と見比べる。
「もしかして、これを撮った場所ってこの辺りじゃない?」
北山に言われ、南地と西空も写真と辺りを見比べる。
「言われてみると、そうかもしれないですね」
「っていうか、まんま此処じゃないスか!」
南地は唐突に判明した手掛かりに興奮し、思わず大声を上げてしまう。北山に注意され、大声出してすんませんと暗い声で謝った。
「案外、佐々木って奴が言ってたこと嘘じゃないのか?」
西空がボソリと呟いた。西空のそれは唯の独り言だったが、南地は抱き始めた考えを肯定しているように感じた。
佐々木は犬を高橋に攫われたと主張した。余りにもオカシな人だったため、南地は彼の言い分を全く信用していなかったが、ここに来て俄然信憑性が生じ初めたのだ。
高橋に愛犬ジョナサンを攫われた高橋。必死の思いで佐々木は高橋の姿を写真に収めることに成功する。それがこの場所なのだ。
「いやー、それはどうだろう。これは隠し撮りの写真。撮影者は高橋君がジョナサンとの散歩でここを通ると知っててこの写真を撮ってる。正直信用できない」
「それもそうですね」
即座に自分の考えが否定され、南地は泣きたくなった。