5-47 レジェンド対モーレツターボババア②
目と鼻の先。手を伸ばせば触れられるはずの背中だった。
そのわずかな隙間がどうしても埋められない。
ビルメーヤの競技者としての人生はとうとう不完全燃焼のままに幕を閉じた。
あれほど焦がれた亡霊に、彼女の箒が届くことはなかったのだ。
レコードゴースト。それは蘇る過去の残影。コースに刻まれた至高の記録。
競技者の思念に引きずられるようにしてその痕跡を記録し続ける灰色の精霊たち。
極まった集中状態、あるいは天に近づくような変性意識の中で、飛翔する競技者たちは『透明な背中』を幻視するという。
サーキットの残留思念はひとつの指標だ。
競技者であるならば、誰もがそれを乗り越えようとする。
記録更新。より速く、もっと先へ。
そうして刻んだ軌跡が新たな伝説を形作るように。
たとえ競技者としての生が終わりを迎えても、己が亡霊がコースに刻まれるように。
生まれつきの才には恵まれなかったが、幼いビルメーヤは諦めなかった。
少女が憧れたのは心の翼をはためかせる血族たちの姿ではなく、機械仕掛けの箒に跨って飛ぶ競技者たちの姿だったからだ。
少女は生ける伝説たちのようになりたかった。
箒乗りたちが集う遥かなグレイスボーアの空に己の全てを叩きつけたかった。
改宗の決意は固く、父の失望のまなざしと泣き崩れる母の慟哭でさえビルメーヤを止めることはかなわない。加護を乗り換えた十二歳、はじめて地に足を着けて立とうとした瞬間の高揚。直後に転んで立ち上がれなくなった時に湧き上がった負けん気。巡節が一周するまで歩行訓練を続け、ようやく箒に跨れるようになった時の希望。人生の喜びは常に空のイメージと共にあった。手の届かない、あと少しで届きそうな遠い幻影。
いつか未来に辿り着く、どこまでも自由な速度の果て。
夢見た世界。そこに届かず、届かないまま老いた自分は生を終えていくのだ。
老いとはその事実に直面することだった。
人生の苦しみは常に空のイメージと共にあった。もう手の届かない、遠い郷愁。
「先生おねがい、私に箒で飛ぶやり方、おしえて!」
託すことは敗者の諦観だろうか?
もうビルメーヤの手が未来に届くことはないだろう。
だが、まだ届く者に手を貸すことはできる。それは未来につながる道だ。
自分と同じように、才能に恵まれなかった少女がいる。
運が良いことに、空の民でありながらも父親は三肢と来ている。その出自は才に乏しい少女の血族内における立場をより悪くするものだったが、箒乗りとしての適性を高めるために改宗して加護を乗り換える必要が少女にはない。
リーナ・ゾラ・クロウサーは良い箒乗りになるだろうという直観があった。
それを悪あがきと呼ぶのは恐らく意地の悪い見方でしかなくて、そのあり方こそが正しく老いるということなのだろうと理解していた。
お行儀のよい道を選び、己の経験を受け継がせ、後進に道を譲り静かに目を閉じる。
正しい歩みを続けていれば、余生は心穏やかに過ごせるだろう。
「本当に?」
雲の上から大地に飛び降りた時の決意を覚えている。
世界が激変するほどの決断は今も胸にある。
かつてクロウサーであったビルメーヤは知っている。たとえ末端であったとしても、巨大な血の呪縛に真っ向から抗うことの恐ろしさを。その道のりの険しさを。
足りない。リーナに与えるものがたったこれだけでは何の意味もない。
困難を乗り越えるための距離も速度も不足していた。
前途ある若者に受け継がせるだけの厚みがビルメーヤには全くない。
老いて誰かに受け継がせることが正しい道とは言うけれど、それだけの資格が果たして己にあるだろうか? それは魂を燃やし尽くした者だけが示せる痕跡のはずだ。
皮手袋の中で、細く衰えた指先が震えている。十二歳から鍛え続けてきたはずの筋力は、既に空に浮いていた頃と同じくらいになっていた。
決意を抱いたばかりの未熟な肉体。だが、心だけは遥かな空にあった。
荒れた乱気流は現役時代よりも恐ろしく感じられた。
吹き荒ぶ暴風はごうごうと轟き、予測困難な軌道で衝突と反発を繰り返す岩塊は無数の塵を撒き散らし視界を遮る。安全な飛翔を望むなら大きく迂回するしかない状況だ。
代償は速度。失うのは記録。
片方の天秤に乗っているのが命なら、どちらを選ぶべきかは明白だった。
ビルメーヤの決意は固い。空から飛び降りる時、彼女はいつだって迷わなかった。
老婦人は箒の先端を上に向けて舞い上がる。誰よりも高く高く、遥かな空へ。
計器を視界に入れながら空間の塵埃比率とエアフィルターの限界を概算し、機体に圧し掛かる大気の流れから勘でルートを絞り込む。ビルメーヤにとって勘とは経験則であり、同時に研究を重ねた過去の選手たちの記録の集積だった。計器が示す現在のデータと過去のデータを照らし合わせ、『良し』と答えが出たならそれは未来につながる道となる。
「では、墜ちますか」
そうして、飛び降りた。
荒れ狂う風と岩塊に挑むように、重力を味方につけて下へ、そして前へと落下する。
現役時代、ビルメーヤが伝説に挑むために模索した道のりの果て。
その答えは高度にあった。
あらゆる機甲箒は原則として『浄化』によって飛翔している。送風機により負圧を作り出して『穢れ』を吸引、エアフィルターで『聖俗』を分離する簡易聖別を実行、作り出された簡易浄界の呪力を展開して飛翔。この一連の流れにおいて『大気中に含まれる穢れあるいは呪力』が速度に影響を与える。
現在、この空域は大量の砂塵、生命の大移動に伴う魂の霧散、飛散する生物の残骸といった要因によって大気中の穢れが増大している。
だが穢れはある一定高度に到達すると溜まりづらくなることが知られていた。
天は清浄な空間であるがゆえに、箒で速度を出すことが困難となる。常識で考えればビルメーヤの上昇は速度を落とすだけの愚行だった。
だが、若き日のビルメーヤは通説を塗り替えた。
前に落ちていく。稼いだ高度によって杖的な物理法則に従って加速した箒は、フラット型の吸い込み口に入り込む穢れの総量がある段階から急速に増えたことで駆動ロジックの根幹たる世界観を切り替える。『空/金式』のハイブリッド祭壇ゆえにバランス型だった祈祷効率が爆発的に上昇。言ってしまえばそれは誤作動だ。
状況に合わせて適切に変化するはずの簡易浄界はグラデーションを描くようになだらかに世界観を切り替える。ゼオーティアの柔らかい諸法則を乗りこなすための、それは現代呪具にとって必須の機能だ。あらゆる機械は杖的な法則と呪術的な法則に適応する。
その切り替えは零から一までの間にある小数点を刻むような段階的なものであって、決して零が即座に一に切り替わるようなものではない。はずだった。
旧式の機体に残されていた致命的なエラー。
聖別フィルターと呪動機を限界まで酷使し、本来なら安定した単一視座によって実行されるべき飛翔という高度な呪術が複数の視座によって並列で行われてしまう。
それは例えば、イニシエーションとしての自由落下が重力のみならず勇気によって価値を与えられるように。ビルメーヤの飛翔には二重の速度が意味づけられる。
連結した風車型タービンに送り込まれた二重の呪力は瞬間的に圧縮され、空間を占有する空気が爆発的な浄化効率を発揮。現在の主流であるコンプレッサー式やハイブリッドシステムでは実現不可能な荒々しい空間の書き換えが周辺の精霊たちを根こそぎ追い散らす。
「しょっ、正気かビルメーヤ選手?! 『空落とし』は確かに現役時代の彼女の得意技ではありますが、あれをこの選定レースでやるのは無茶が過ぎます!」
「増加した消費呪力。排熱と冷却の問題。機体への負荷。乗り手の安全。数々の問題を度外視した命知らずの暴走とも呼べる荒業です。彼女に続く乗り手も確かにいましたが、しかしそれはスプリントやラストスパートに限った話。長丁場となる耐久レース、それもこんな序盤で使用されたのはこれが史上初でしょうね」
外野の解説を置き去りにして、ビルメーヤは加速する。
想起するのは過去。積み重ねた希望の道のり。
老人の正道を外れ、諦め悪く道なき道へと足を踏み出す、みすぼらしい悪あがき。
遠ざかる声が己を呼び止める。誰かが老いた身を案じている。
知ったことかと加速を続け、あらゆる障害をぎりぎりで躱して前に進む。
何人を追い越したのか、ビルメーヤには見えていない。
そんなことには最初から関心がなかった。ゴールさえ老いた身には遠すぎる。
最初から、見えていたのはその背中だけ。
遠い幻影。記録に息づく亡霊の姿。
幼い日、伝説に憧れた。
空を支配するダウザールは箒においても覇王だった。天に挑むパーンはいかなる荒天でも臆することはなかった。至高のミブリナは解釈可能な速度の更なる向こう側に到達した。
ビルメーヤはそこには行けない。才に乏しい身ではそこには届かない。
それでも挑んだ凡人たちは確かにいて、それら無数の執念が記録となって世界に刻まれている。空に挑むその姿を、少女は格好いいと思ったのだ。
軋む肉体が壊れていく。引き裂かれる魂が燃え尽きていく。
足りなかったものに、やっと届いたような気がした。
若いリーナに託す資格。教えを示すために本当に必要だったもの。
限界を超え続けたビルメーヤの眼に映るものは曖昧な輪郭と光だけ。
競い合う相手も導くべき教え子もここにはいない。
果てなき空で、いまビルメーヤはひとりきりだ。
だが、手を伸ばせば届く。
届けばもう、ひとりではない。
彼女が手を伸ばすのは未来という希望であり、過去という記録だ。
かつて焦がれた伝説。その後ろ姿に、魂だけで喰らいつく。
決意と気迫、燃え続けて身軽になったかすかな心がわずかに触れて、灰になる。
解き放たれた意志は自由になって、どこまでも広がる空へと飛び立っていった。
それは追い抜かされた者たちの眼を見開かせるほどに壮絶な散りざまだった。
己の命を完全に燃焼させることを厭わぬ暴走でもぎ取った一位。
この瞬間に先頭に立つ。ただそれだけを目的にした無謀な飛翔は老いて衰えた肉体には過酷に過ぎたが、少なくともビルメーヤは本懐を遂げたのだ。
「己が命をもってリーナに道を示したか。天晴れな女よ。弔いは盛大にしてやらねばな」
感心した様子で前を往く機体を眺めるダウザールだったが、不意にその眉根を寄せた。黄金の眼が妖しく輝き、力を失って機体の内部で項垂れるビルメーヤの遺体を凝視する。霊なるものを知覚するマウザの瞳が何かを幻視しているのだ。
力尽きたはずのビルメーヤに寄り添うようにして、半透明の何かが箒に乗っている。
箒レースにおいて亡霊とは身近なものだ。
それは過去の記録が可視化されたものであり、霊感に乏しい者でさえ知覚できることがある偉大なる選手たちの速度。世界に刻まれた飛翔の痕跡。
後に続く者たちが負うべき道標であり、この状況ならばリーナが目撃したビルメーヤの背中こそがまさしく『亡霊』となるに相応しい記録であったと言えるだろう。
ならば、あの微かな女の姿はビルメーヤの霊魂なのだろうか?
違う。それは、彼女の身体から抜け出たものではない。
逆だった。ビルメーヤが遂にその手を届かせた亡霊が、彼女の身体に吸い込まれていく。
びくり、ともう動かないはずの老体が震える。
静かに朽ちていくはずだった遺体が起き上がった。
「死霊術、いや転生アプリか!」
ダウザールの後ろを飛翔するエンハが声を上げる。
そう解釈しなければ説明がつかない光景だった。
ビルメーヤは最初から準備をしていた。ここで命をかけて未熟な現当主に道を示し、燃え尽きた後も彼女を守るべく次の手を打っていたのだ。
誰もがそういうストーリーを想像し、悲劇に続く救いのある展開に胸を撫で下ろす。
死は凄惨で悲しむべきものだが、『老人の死』に加えて『若者に託す』『若き日のように全力を出し切って燃え尽きる』という展開が加われば一種の爽やかさと感動がもたらされる。既にレース展開まとめ動画の製作者たちは『感動の展開』『涙なしには見られない』『老選手の最後の飛翔を見逃すな!』といった呪文を紡ぎ始めている。不謹慎ながらも効果的に作用する死の娯楽化は楽しい祝祭の一部だ。観客席にいた関係者や古いファンたちは揃って涙していたが、その胸に訪れたのは決して悲しみばかりではなかった。
「ババアの死を肴に感動ストーリーで大盛り上がりかい? 悪趣味だねえ」
その空気に水を差すように、しわがれた声が静寂を割った。
選手たちは同時に奇妙な状況に気付く。
操縦者が死亡して失速するはずの機甲箒が、未だに先頭を維持している。
ビルメーヤの機体は、まだ死んでいなかった。
「この子が欲しいのはそんなもんじゃあない。そうだろ? まだ飛べるよねえ?」
死んだはずの老婆が喋っている。そればかりか、力強く操縦桿を握って飛翔を継続していた。より速く、より巧みに、より劇的に。
意外な展開に観客たちは騒然となる。
金眼によって異変を観察していたダウザールは神妙な表情で呟いた。
「伝説が形に? レコードゴーストの具現化、とでも呼ぶべきか」
死霊術でもなければ転生アプリでもない。
だが、確かに転生に近い現象が起きていた。
それは転生紀人の仕組んだ必然だったのかもしれないし、ビルメーヤの意思が結実したことによる奇跡であったのかもしれない。あるいは、遊戯を至上の価値として定める『コキュートス』によって変質を続ける第五階層における新たな『当たり前』が形になった結果という可能性もあった。
唐突な恩師の死に直面して涙を流していたリーナさえ呆然としている。
知っていたはずの誰かが別人のような口調で喋り、飛翔しているのだ。
いつの間にか追い上げていたクリーナーがビルメーヤを抜き去ろうと迫る。
「誰だか知らねえが! 俺よりツイてはいねえだろ!」
運否天賦によって空を駆ける博徒にとって相手の格は関係がない。
ただ己の豪運のみを頼みにして前を目指す男の飛翔は常識では測れない速度を実現していたが、それをビルメーヤの姿をした何者かは鼻で哂った。
「見えちゃいないねえ。ひとりで飛ぶにしても、空さえ掴めてないんじゃ話にならない。この身体の子はそこんとこちゃあんと分かってたよ。若いなりによく考えたもんさ」
天運が速度を呼び、最短のルートを示す、実力差を超越した幸運がクリーナーを導いて、ぐっと手を握った男が勝利を宣言する。
だが先頭に到達する直前、男の鼻先に箒が割り込んだ。追い抜かされるかに思われた老婆が全く同じルートを先行していたのだ。追突寸前の状況下で減速することもままならないクリーナーは慌てふためく。先行する老婆が機首をわずかに上方へと巡らせると気流が乱れ、機体の制御を失ったクリーナーが大きく失速していく。
「クソがっ、そこは俺のラッキールートだぞ!」
「速い者勝ちだよ。そんなことも知らずに空に出たのかい?」
譲らない。これまで誰も阻むことができなかった運任せの飛翔を、正体不明の乗り手は当然のように上回った。無数の敵意と対抗心が背中に突き刺さる。それを心地良いと不敵に笑って老女は一位を維持し続ける。負け惜しみの罵声すら彼女にとっては激励に等しい。
「さっさと道を譲れ、お呼びじゃないんだよ!」
「あたしはずうっとビルメーヤだよ。なにせ加護が決まる前からこの子を待っていたんだからねえ。このくらいの『続き』は認めてもらわなくっちゃあ転生都市の名折れじゃないかい? そこんとこどうなんだい機械女王のお嬢ちゃん」
「えーと、転生紀人及び死人の森の女王との審議が終了しました。結論、ビルメーヤ選手の同一性を認めます! 転生した彼女もまた『ビルメーヤ選手である』という解釈の適用に問題はありません。駄目でも飛び入り参加とか盛り上がるしいいじゃーん! 機械女王オッケー! 機械女王オッケーです!」
「だってさ! それじゃあ改めて、本気で行こうかい!」
『ビルメーヤ』が調子づいて先頭を独走する状況に危機感を覚えたのか、二番手グループから突出したのはダウザールとパーンだった。左右に並んだクロウサーが横目で老婆を睨みつける。直前まで老選手の無謀な飛翔を二人は看過していた。それが先に続くことのない死出の旅路だと理解していたからだ。
「不遜な地虫めが。身の程を知り、地を這うがいい」
「悪いが、好きに場を荒らしていいのは俺だけと決まっている」
しかし今は違う。二人は明確にビルメーヤを敵と見なしていた。
常人ならば耐えられぬほどの圧力。
それに挟まれながら、ビルメーヤは凄絶な笑みを浮かべていた。
「その舐め腐った口がきけなくなるまで私のケツを見せてやるよ」
均衡は僅かだった。
猛烈な加速、劇的な振り切り、急速上昇と稼いだ高度を使った急加速を繰り返すジグザグの軌道。荒れ狂う風を赤子のようにあやして進むビルメーヤの飛翔は魔術的だった。
呪力量において誰よりも高みにあるはずのダウザールをもってしても、その背中にはわずかに届かない。その差を埋めるべく、老いた巨人は小手先の呪文を弄した。
「無茶を続けるものだ。老骨にはさぞ堪えるだろう」
「私は永遠の百歳だよ。魔女ってのはね、百歳超えたらそっから死ぬまで青春なのさ」
何故、その差が埋まらないのか。
その答えがそこにあると言わんばかりにビルメーヤは飛ぶ。
青春を謳歌する老魔女と、空を支配しているはずの老巨人との間にあるわずかな差はいつまでも埋まらぬまま、際限なく開き、遠ざかり、いつの間にか置き去りにされていた。
一方、かろうじて喰らいつくパーンは険しい顔で思索に沈んでいた。正体不明の乱入者に対する打開策を練ると同時に遠い記憶を探り、ひとつの答えに辿り着く。
「お前は、まさかあの時ミブリナの周りをうろちょろしていた小娘か!」
「また会ったねぇ、お兄ちゃん。相変わらず本気になれてないのかい?」
誰もビルメーヤについていけなかった。
唐突な異変、前触れの無い乱入者、知らされていなかった因縁。
選手も観客も置いてけぼりにした展開ゆえに、ビルメーヤの速度は他の追随を許さない。世界を置き去りにした老魔女は最速の呼び名を欲しいままにしていた。
老選手の尊い犠牲によってリーナが成長する、という期待されたストーリーは放棄され、心地良く消費されるはずだった感動の梯子は呆気なく外された。
謎の老魔女は独走する事象の先端、そのページの先にある空白に顔を寄せて囁く。
「さて、まだ寝てんのかいミブリナ。それともダウザールの奴が思いのほか粘ってんのかねえ。アンタの獲物はそろそろ食べ頃だ。モタモタしてると私が食っちまうよ」
激化するレース、混迷の極みにある状況。
先頭集団は更に加速し、後続との差は大きく開いてしまっている。
もはやビルメーヤの背はリーナには見えない。
だが老魔女には確信があった。この肉体の本来の持ち主が見ていた未来は『いま、ここ』だ。過去と未来は全てがひとつに繋がっている。『彼女』の存在はその証明だった。
「そろそろ前座の出番は終わりにしようや。こっからは伝説を始める時間だよ!」
風と大地が荒れ狂うステージを引き裂いて、魔女はページを豪快にめくる。
次元を渡るゲートは目前。
いかなる猛追も許さず、空の絶対者はその中へと真っ先に挑む。
追い縋る者たちの必死さを嘲笑うように、その遅さに否を叩きつけた。
「今時の若いもんは、飛ぶための世界もてめえで創れないのかい? そんなんじゃあ伝説なんざ夢のまた夢、修行のやり直しだ!」
幾重にも連なるリングを通過し、速度の限界を更に超え、魔女の飛翔は更に加速する。
世界の壁を突き抜け、立ち込める霧と海風に勢い良く突入していく。
次なるステージは白翼海。世界有数の飛翔水域がビルメーヤの前に立ちはだかる。
視界すら定まらない白い濃霧の中で、不安ひとつ見せずに老婆は笑った。
「頑張ったご褒美だよ、小さなビルメーヤお嬢ちゃん。いまわの際に見る夢くらい豪華じゃないとねえ。この最速を見てから逝きな。天翔ける聖別浄界、『猛烈乱流渦』をね!」
変容は嵐に等しかった。機体を取り巻く風は渦を巻き、衰えた細腕にはたちまち生気が宿る。頭上に構築された三角帽子の先端がぐにゃりと後方に折れ曲がり、爛々と光る瞳に宿る意思だけが老女の中にある連続性を保証していた。
不屈の意思、すなわち最速を希求する渇望を。
その遥か後方で集団を追いかける黒い機体が、密やかに動き出す。
無人機ジーゼロ。レースの情勢を淡々と分析し、論理的に導き出された対抗策を実行するはずの機械は、しかしサーキットの外部へと干渉を行っていた。レースの観戦フォーラム。様々な声が飛び交うネットのざわめきに、わずかな風を起こすために。
「まーたジジババかよ。誰が得するのこの展開」「知らんジジイが増えて更に知らんババアが増えるとかもういいよどこに需要があるんだよ」「素直に死んどけ」「ほんとそれ」
自動操縦箒のすぐ後ろで、ティリビナ人の男が無表情のまま静かな工作を眺めていた。
最後方のロードデンドロンからはもはや先頭は見えていない。
誰よりも遅れてワープゲートに突入しながら、男は遥かな先を見据えていた。
それは競争相手でもゴールでもない。記録でさえなかった。
ゲートを通過。ティリビナ人が世界を渡る。
たとえ全ての未来を見通す神の子であろうとも知覚の及ばぬ次元の間隙に、若きティリビナ人の小さな呟きが消えていった。
密やかに、挑むように。
「言理の妖精、語りて曰く」
残されなかった言葉が形になることはない。
ただ。前後の文脈に連なる空白がそこには残る。
語られずとも、それは確かに存在していた。




