5-45 ユディーア対チリアット④
ゼド=アダスの狙いはシナモリアキラの『罪』の再演だ。それが呪術的な価値の獲得に繋がるのか盗賊王の個人的趣味かはともかく、ユディーアの身体を乗っ取ることで『介錯』を誘っているのはまず間違いない。
「私の意識がまだ残っているうちに、早く! こいつごと私を殺して!」
ゼドの安い演技にシナモリアキラが騙されるかどうかはともかく、ユディーアにとって切迫した危機は彼の左腕に存在していた。
「換装・五番」
紀人の無機質な言葉が響く。言葉遊びの盤面を構築するのが呪文使いの定石だが、それを初手から崩されればあとは単純な暴力が支配する戦場が現れるのみ。『射影三昧耶形』と呼ばれるシナモリアキラの参照行為によって、義肢に刻まれた記号が文脈を高速で導引、複雑かつ精緻な創造を実現可能にする。
黒鱗に覆われた右腕と対をなすように、左腕を純白の装甲が覆っていく。
手の甲に浮かび上がるのは環を描く森と頭蓋骨の紋様。
死をモチーフにクラフトされたウィッチオーダーの五番義肢・ディスペータは人格を宿す古き女神のなれの果てであり、紀人シナモリアキラに付随するアトリビュートでもある。
チリアットが降ろしている御霊は紛れもなく荒ぶる神々。
歪な形で結びついた二柱の怒りと裁きには一切の遊びがない。
ありきたりな呪文なら思いつくが、この状況で有効かどうかは不明瞭だ。『杖の座の同盟者として』だとか『呪文の座が望む善き世界のために』だとか、そんなふわふわとした言葉を紡ぐのは元よりユディーアの得意分野ではなかった。
「待っ」
ユディーアが動くより先にシナモリアキラが吼えた。
牙猪の大きな口から放たれたのは声というより音波。
『あ』とも『お』ともつかない雄叫び。頭上で羽ばたく鷲獅子が呼応し、共鳴した音は獣の群れが次々と響かせる遠吠えのように大気を制圧していく。
騒音で呪文を封じるという手段は単純だが効果的な呪文対策だが、ユディーアにとってはさしたる脅威とは呼べない。同規模の咆哮で相殺してもいいし、視覚記号によるカウンターから肉体言語を組み合わせた近接戦闘に持ち込むことだって容易だ。現代の呪術戦闘ではとっくに廃れた古臭い戦法と言えるだろう。
だからこそあえてこんな時代遅れの手を選んできたことがひっかかった。
幾らでも返しの手段がある。その代表的なものは、古くから『蛮人戦術』として知られているものだ。呪術巧者なら話の通用しない『愚かな獣』や『異獣』というレッテルを貼って相手を貶めることができる。
それは亜竜王アルトの血の源流、言語支配者ダーカンシェルが最も得意としていた呪い。
ならず者であるゼドには無理でも、ユディーアなら実行可能な対処法だ。
試されている。あるいは、確かめようとしている?
『シナモリアキラはあたしを認識している!』
確信に近い直感が全身を貫き、ユディーアは瞬間的に己を制した。
ゼドとシナモリアキラが激突し、レナリアの『招集』に従って出現した大量の悪鬼が軍勢となって牙猪を包囲する。熾烈な戦闘を横目に見ながら、ユディーアはアストラル空間の中心に立つ盗賊王を観察し続けた。
制圧されたアストラル空間の主導権を取り返すこと自体は不可能ではない。ゼドを倒し、汚染されたユディーアの宣名価値、『銀貨』として具象化した名前を捨てればいい。
『ユディーア』という名前の重さは理解しているが、この状況では四の五の言っている場合ではない。自己を奪われるくらいなら別の名で生きた方がマシだ。
問題は、具体的にそれをどのようにして実行するか。
戦況は膠着している。部屋の隅に押しやられたユディーアの疑似身体は自己増殖する二重の封鎖呪文に行く手を阻まれ、メートリアンはレナリアに対してマウントポジションをとっているが組み合いながら壮絶な呪文戦闘での鍔迫り合いを演じている様子だ。
肉体の外部で封鎖呪文の檻に囚われたセリアック=ニアは脱出を試みているが時間がかかりそうだし、現状ではユディーアの肉体を乗っ取ったゼドを排除する方法が見つからない。
というより、これは本当に『乗っ取られている』状態なのだろうか。
それにしては、妙にしっくりとくるような。
自由を奪われたはずのユディーアは、自分の中に違和感を探そうとしてそれが見当たらないことに衝撃を受けていた。
何故か、あるべき窪みにぴったりと嵌まる突起を見つけたように思えてならない。
知らないはずのパズルのピース。
その疑念に応じるかのように、ユディーアを拘束する文字列の鎖から二つの顔がにょきにょきと生えてくる。涙を流す男と喜色満面の男。両者共に、盗賊王とよく似た印象の顔つきだった。恐らくは彼の人格をベースにした仮想使い魔だろう。
「理解が追いついてきたようだね、ダーカンシェルの末裔。けど悲しむことはない、これが君の本来の運命なんだから」
「ヒャッハー! 喜べ女! テメエは戻ってきたのさ! 俺たちフルグント六柱、群体紀人の懐になあ! 俺たち『シェロンの弟子』はこれまで代替メンバーでフルグントを回してきたが、テメエは正規メンバー! 大歓迎だ畜生め! 俺たちはお役御免だな!」
何を言っているのか理解するのに一瞬の間を要した。
つまるところ、盗賊王ゼドというのはシナモリアキラと同じタイプの群体紀人なのだ。
転生紀人がマレブランケという十二の化身を有するように、盗賊紀人はフルグントという六柱の化身を有する。いや、有していた。
『伝説の暗殺者シェロンの弟子』というよくある尊大な自称が真実であれば、ゼドもレナリアも失われた正規メンバーの穴埋め、あるいは後継者なのだろう。
ユディーアは亜竜王の父たるダーカンシェルの後継者として見出された。
レナリアの妙に気やすい態度にもそれで得心がいった。あの女は最初から自分を仲間に引き入れるつもりだったのだろう。
「騙し討ちじゃないですか!」
「別にいいでしょ、それが私たちの在り方なんだから! アテンプレクとユディーアを前にして手段なんて選べない! ティーアードゥとダーカンシェルの神威で満たされたディスケイムの血統作品! 私たちはその両方を手に入れるの!」
開き直るレナリアの顔面をメートリアンの拳が打ち据えるが、痛みよりも喜びが勝っているのかまるで堪えている様子はなかった。
ユディーアの両脇で蠢く二つの顔がぐずりと崩れて再び文字列に変化する。それは力ある言葉によって編まれた呪詛であり、連綿と受け継がれてきた強固な遺志だ。
六つに連なる宣名のコイン。『死神の腕』シェロン、『弱者の盗人』クラララリア、『刈り取る者』ティーアードゥ、『猫の死』ダーカンシェル、『こぼれない鎌』ラウス、そして『外れない矢』レメス。そのほとんどは『新しき神』として知られている紀人の名であり、かつて槍神によって殺され、奪われ、勝利によって包摂された神の威光そのものだ。
シナモリアキラとゼドが激突するたび、ユディーアの目の前でティーアードゥとダーカンシェルのコインが共鳴するように燐光を放つ。どこまで計画のうちだったのかは不明だが、この一幕が『紀人の席の争奪戦』という状況と地続きであることは確かだった。構図は変質しているが、やっていることはこれまでと同じだ。
上位者による駒の奪い合い。身勝手にも程がある傲慢と不遜。
腹立たしいことこの上ない。
あたしの王国で、断りもなくふざけた真似を。
意味不明な思考と衝動が湧き上がる。なのにユディーアに困惑はない。
それはもう、自然とそこにあるものだったから。
思えば戦闘の始まりからそのもどかしさは胸の内にわだかまっていた。
そう、不満なのだ。
集団に紛れながら牽制の投射攻撃を織り交ぜ、一撃必殺の機会を狙う暗殺者の戦術はゼドやレナリアにとっては当然の方法なのだろうが、ユディーアにとっては迂遠すぎる。
「下手くそ」
気付けば鎖を引き千切っていた。無造作に進み出て、唖然とするレナリアに封鎖呪文を投げつける。あとはメートリアンに任せておけばいい。邪魔な男の背中を足裏で蹴りつけて、振り返った顔面に『剥落の鉤爪』を叩き込む。陰気な雰囲気の男は無数の銀貨になって散らばっていった。
肉体の制御を取り戻す。『シナモリアキラは何かを探ろうとしている』という理性の警鐘を無視して薄く笑みを浮かべた。知りたいというのなら教えてやればいいのだ。
ガロアンディアンの王が、誰であるのかを。
鋭く伸びていく鉤爪の長さと反比例するかのように視線が少しずつ下降していく。既にそんなことはどうでもよくなっていた。どうせ裏返ればどこまでも見晴らせる。
吼えた。頭上で王の威光を振りかざす鷲獅子に対してただ『不遜』という意思を叩きつける。場の主導権を握り返し、周囲に群れる有象無象を無視して牙猪に狙いを定める。
視線がかち合う。直後、目の前に先端。咄嗟に回避するが追随してくる。天眼を研ぎ澄ませると、周囲の悪鬼たちも両目を抑えたり頭部を振ったりして悲鳴を上げている。
物理攻撃ではない。目の前に牙を出現させるという、おそらくはアテンプレクが手札として隠し持っていた幻術だろう。幻術や閃光符に類する死の光景を共有する目晦まし、あるいは恐怖を増幅するための自己暗示の応用か。
悪鬼の群れはこれでほとんど無力化されてしまっていた。シナモリアキラの方は大音声の咆哮に紛れさせた超音波を利用した反響定位で索敵を行っているらしい。メートリアンの情報にあった音響処理アプリ『Doppler』とかいう呪文を使っているのだろう。
いずれにせよユディーアは出遅れた。天眼による周辺知覚に切り替えたが機先を制したシナモリアキラがわずかに速い。黒い巨腕で悪鬼の頭蓋を握り潰しながら投擲。ガードした状態で飛び退るが死体は直前で爆発四散。体内に仕込まれていた黒い瘴気を撒き散らしながら天眼による知覚を遮る。
立て続けに異変。シナモリアキラによって殺戮された悪鬼の群れが地面からむくりと起き上がり、損壊した部位を再生させながら緩慢な動きでユディーアに迫りくる。
恐らくは『ディスペータ』の権能だろう。今のユディーアにとってこの程度の死霊術は多少の動作ロスにしかならないが、積み重なればいずれは致命的な隙になるだろう。
周囲で断続的に響く悲鳴はシナモリアキラが殺戮を繰り広げている結果だろう。
死の恐怖によって視界を遮られた世界。狩場とする無音の殺戮者は王として死者たちの上に君臨している。散発的な奇襲を咄嗟に防いでいるばかりでは敵の手駒が増えるばかりだ。果たしてこの状況を覆すにはどうすべきだろうか?
答えは単純。
誰がこの場の君臨者なのかを、正しく理解させるだけでいい。
すう、と深く命を巡らせる。気息とは血を巡る風。万象を巡る生命力。
祖なる意思、神なる呼気、その果てに世界へと融けていく不可視の霊。
体内に構築した固有彩域の色彩は灰。肺腑から喉を伝い口腔で堰き止められた灰神が舌が紡いだ呪文によって歌となり、咆哮の勢いで荒れ狂う。
口を開き、燃え盛る呪文詠唱を解き放った。
牙猪が展開していた死の幻影が残らず消えた。更なる脅威が現れたからだ。
灰色に揺らめく炎がユディーアの前方を焦がし、そこから広がって上下と左右、更には背後に回って全方位を蹂躙していく。
『吐息』は古い亜竜たちが大いなる紀竜に近づこうとする過程で確立されていった呪術基盤だ。ユディーアが使う『灰燼回帰の吐息』は、文字通り周囲の全てを灰燼に帰す。支配された再生者たちも、灰となればユディーアの支配下に置かれる。
死者すらも永劫ではない。蘇った悪鬼は何度でも死を迎え、まだ息のある悪鬼もろとも時間流の大河によって押し流されていった。朽ち果てていく世界の中で、加速しながら離脱する牙猪を見つけた。手にはかろうじて難を逃れていた小さな猫姫。
大したことではない。心の片隅で抗議するメートリアンを無視して最後の灰神を口から吐き出し切る。これで邪魔は消えた。あとは敵を屠れば良い。
一歩踏み出す。相手は猫を地面に降ろして何か声をかけている。二歩踏み出す。立ち上がり、左の義肢を前にしてこちらを待ち構える。三歩で残留した灰神を踏みしめる。ゆっくりとした歩みに意識を割いていた相手の体感時間はそのまま。
淀みなく足元から広げた灰神がレールを敷く。滑るように加速。薄い皮膜のような世界で限定的な三眼瞬知を発動し、相手の瞬きよりも先に肉薄して一撃を鳩尾に叩き込んだ。
牙猪によって死の脅威として判定されないように鉤爪を解除した上での貫手。だが七情掌法による一撃は標的に死には至らずとも決定的な影響をもたらす。
怒則気上。過剰なストレスでシナモリアキラの肝機能は低下し血圧は上昇、最終的には吐血と共に卒倒する。強引な呪力操作で耐えたとしても精神を呪縛する激昂が思考力を奪い去ることになるだろう。優位を確信し、追い打ちの連撃を叩きこもうとしたユディーアは片腕を相手の左手が掴まれていることに気付いた。
黒い右腕が迫る。強引に身を捩るが間に合わない。鈍い音がして臓腑を衝撃が揺らした。
激痛と同時に理解する。
シナモリアキラの感情制御は、七情掌法を無効化できるのだ。
あくまでも杖の理路に根差した防御であるのなら、呪力を併用した内家拳で無力化できるはずと判断したのは誤りだったのか。あるいは、紀人となったことで『シナモリアキラの感情制御』という力が神の権能としての強度を得ていたのか。
いずれにせよ、明確な事実がひとつ。
ユディーアとシナモリアキラの相性は最悪に近いということだ。
密着状態での連撃を耐え切るのはいかに亜竜人でも困難。拘束から逃れるように身を捩り、体格差ゆえに浮きそうな重心をアストラル尾の実体化によって沈ませてから息を吸い込んだ。『吐息』という脅威の準備行動を匂わせて潰すか引くかの二択を迫りつつ徒手空拳の右手で喉の前をガード。
シナモリアキラは視線をユディーアの口、指先、がら空きの腹という順番で巡らせてから瞬時の判断で掴んでいた手を放して後退、完全に見えていなかったはずの頭上からの一撃を回避してみせた。身を捩るのと同時に天眼石の髪飾りで幻影を構築し、不可視化した髪房によって奇襲を叩き込む策は不発に終わった。
頭髪に疑似神経を通して『気』を張り巡らせばそれは小型の腕に等しい。同じく髪の毛を操作するアレッテ・イヴニルやラプンシエルとの交戦経験が活きたのか。
そこから攻防は停滞し始めた。シナモリアキラの黒い鱗に覆われた右腕は時に盾となってこちらの攻め手を遮り、時に矛となって奇襲を強引に押し潰す。
圧倒的なウェイト差と『死の脅威によってアテンプレクを追い詰めてはならない』という制約、何よりも七情掌法が通用しないという最悪の相性。ユディーアは効果の薄い打撃戦を強いられ、制圧を狙うシナモリアキラは掴みから抑え込むために間合いを詰めては逃げられるという泥仕合が繰り返される。
機を狙うユディーアは絶えず移動しながら装甲板で覆われたブーツの裏で灰神を地面に擦りつけるという地道な作業を繰り返していた。灰神で場を染める。相手は色号論に基づいた戦闘法に通じているわけではない。体力的には相手が上かもしれないが、長期戦は望むところだった。何度目かになる接近戦を経てシナモリアキラを狩場に誘い込む。
ここだ。吐き出した呼気によって己の手足となった灰神たちが円環となってシナモリアキラを取り囲む。必殺を期した策は決着をもたらすかに思われた。
だが実際には、その更なる外側で勝敗は決していたのだ。
空でじっと待機していたように見えた鷲獅子が高く鳴き、呼応するように離れた場所で小さな猫姫が飛び跳ねる。円環によって囲まれていたのはユディーアの方だ。
戦いは最初から一対一などではなかった。
状況を読み違えたユディーアの敗北。
というより、これは。
「シナモリアキラ! こっちを巻き込んでも構いません、まとめてやって下さい!」
「にあー!」
ユディーアの支配を掻い潜りながらも秘匿回線を通じて通信呪文を発動させたメートリアンと、密かに連携していたセリアック=ニアが勝利したと言った方がより正確だ。
顔面に張り付いた二頭身の猫姫によって体勢が崩れる。
その隙を逃さず、シナモリアキラの一撃がユディーアの胴を貫いた。
左腕で心臓を一撃。致命傷だった。
同時にウィッチオーダーが唸るような異音を発してユディーアの体内を震わせる。
普段は封じられている女神の機械義肢がその制限を解除され、手の甲に張り付いた頭蓋骨が妖しく輝き始める。膨れ上がる呪力は光を吸い込む黒い暗がりを生み、球状に広がってすっぽりとユディーアの全身を包み込んだ。
殺害と死。ならばその後に待ち受ける運命とは何か。
それは冥府への移動と、死後の裁きに他ならない。
女神が実在するこの第五階層において、死後の世界とはすなわち地下空間に等しい。
そしてそこは、選定レースが目指す到達地点でもあった。
「少し予定が変わりましたが、これで終盤には合流可能です! 私は先に冥府でリーナを待ちます、そちらは手筈通りに! セリアック=ニア、一緒に!」
「にあ! ついてく!」
広がる闇は『扉』だった。
ユディーアと一心同体のメートリアンがまず引きずり込まれ、それに続くようにして小さなセリアック=ニアも闇の中へ飛び込んでいく。
こうして殺害という形式を踏まえた転移術は成功した。
『ディスペータの誓約』は違反に対する不可避の罰として機能し、罪人の運命に対して必中の呪いを完成させる。ユディーアがどのような抵抗を試みたとしても、この結末は不可避であったのだ。ある意味で予定調和の結果がもたらされた後、息を吐いた巨漢は声を絞り出すようにして空を仰ぎ、嘆願した。
「どうか、私に、もういちど、機会を」
鷲獅子はじっと牙猪を睥睨している。
感情のうかがえない目で、哀れな罪人の処遇に思いを巡らせるかのように。
強大な神々の操り人形と化した男は諦めずに言葉を紡ぐ。
それが許されるまで、恐らくこの男は何度でも願い続けるのだろう。
「主を守る、最後の役割を」
「いいだろう」
鷲獅子が、厳かに口を開いた。
それが果たして慈悲であったのか、あるいは断罪であったのかは定かではない。
だが、アテンプレク=チリアットは救われたように笑顔を見せた。
「元よりお前に任せるはずの任務だ。王を守れ、チリアット」
「この命に代えても」
その言葉に偽りはなかった。
一切の躊躇なく、牙猪は己の腕で自害を果たした。
左腕に纏った『ディスペータ』の機能はまだ継続している。
漆黒の死が巨体を呑み込み、『扉』となって男を奈落へと誘った。
そうして、その場からあらゆる生命の気配が消える。
「茶番は終わりか、ルウテト」
全てが終わったあとの戦場を見下ろしながら、鷲獅子が空を舞う。
何もないその背に目を凝らせば、資格ある者には騎乗する二人の姿が見えるだろう。
形を持たぬ第五階層の神々。転生紀人とその従属神の姿が。
「あら、今はディスペータですよ、アキラ様」
義肢の男と、その左腕に融け合うように寄り添う半屍の女。
艶っぽくしな垂れかかる肉と骨を鬱陶しそうに押しのけて、シナモリアキラは言った。
「お前はルウテトとしてゼドと契約していた時からこの状況を見越していたのかと訊いている。ごまかしはやめろ」
「流石にこの流れはアドリブですよ。正統な後継が目覚めかけたら協力して封じる、という取り決めはありましたけどね。当然ですが、もうあれとの契約は終了しています」
シナモリアキラはこれ見よがしに鼻を鳴らした。言葉には納得したが、疑いの眼はそのままだ。信用のまるでない眼差しを心地よさそうに受け止めて、死の女神は微笑む。
「これで最悪の事態はひとまず先送り。良かったでしょう?」
「『裏』の冥府に隠していた『名無しの王』の件、本当なんだな?」
一方通行のあからさまな思慕を受け流しながら、その裏の悪意を平然と無視して本題に切り込む。普段と同じつれない態度が不満だと主張するかのように肉のある片方だけの頬をぷくっと膨らませる女。頑なに無視しつつ一言一句同じセリフを繰り返す男。下らない形式を幾度か作業のようになぞるが、当然のように最後には飽きる。
「自覚的なマンネリズムと再演というのは私たちの在り方としてある意味で完成形に近いとは言えませんか? 転生と死のように」
「今回そういうのいいから本題進めろ。与太は暇な時に聞いてやるから」
「ぶうぶう」
「豚の鳴き真似は二度とするなって言ってんだろ!」
「いひゃいでひゅー」
頬を引っ張られて鳴き真似をするルウテト=ディスペータ。これも惰性に近い反応だ。
しばらくして真顔に戻った女神は気を取り直して答えを返す。
「仰る通り、『名無しの王』は死にました。というより、存在の矛盾に耐え切れずに自動的に崩壊したというべきでしょうね。もとより六王の転生は強引なもの。粗悪な器が優れた器と比較されてしまえばごまかしを続けるのは難しい」
かつてグレンデルヒと相対したシナモリアキラは過去の再演によってサイバーカラテを古代の六王たちの身体性と同期させることで世界を改変し、最強の英雄に勝利した。
しかし『古代サイバーカラテ』と共に蘇った六王たちは人形師ラクルラールの手駒だったミヒトネッセとアレッテ・イヴニルの暗躍により暴走。現代に蘇った六王たちはガロアンディアンを脅かす災厄と化す。亜竜王アルトの成れの果て『名無しの王』もその一人だ。
否、今となっては過去形で語るべきだろう。
「グレンデルヒの報告した状況の、更に深刻なケースか。ハタラドゥールは『正統な転生者』という並行矛盾史の呪文をティリビナ人に強弁されて存在を奪われたが、こっちはそもそも小細工を弄するまでもなかったわけだ」
「そういうことです。何しろまがい物はこっちにあった『名無しの王』なんですからね。こういうのを本物に仕立てるのはトリシューラの得意分野ですが、さすがはディスケイムというべきでしょうか。血統作品の価値はそう簡単に貶められない」
隠し病院を巡る攻防の中心は『名無しの王』だった。
ガロアンディアンの王権、その核心なのだから当然と言うべきだろう。
だが、奪い合われる宝も要人も、既に失われていたとすれば。
戦場では虚構の争奪戦が行われていたことになるのだろうか?
いいや、そうではない。
『王』はそこにいた。それは確かな事実だ。
「アルト王は消えたのか?」
「わかっているでしょう? 移っただけですよ、本来の器に。奪い合うべき『名無しの王』なんてもういません。だって彼女には名前がある。あやふやな立場を渡り歩く可哀想な子。幾つもの不安定な呪いが、またもや増えたわけですね♪」
楽しそうな女を呆れの混じった目で一瞥してから、シナモリアキラは小さく嘆息した。
見えない手綱を右手で握りしめ、鷲獅子の頭を巡らせる。
既にこの場に留まる理由はない。どの道、宿敵との決着に至るとは思っていなかった。盗賊王は簡単に自分が殺されないように器を選んでいる。有利な状況をこちらで設定し、相手を完全に封殺できなければ紀人同士の戦いに勝利することは不可能だ。
それでも悔いともどかしさは残る。
様々な思惑の坩堝と化した第五階層の中心で、シナモリアキラは満足に動けていない。
男の心中を見透かしたように下から覗き込む視線にぶつけられるのは苛立ちだ。
微笑みは、嗤いの上に被せた仮面だとわかっている。
「お前、助けたな」
シナモリアキラの苛立ちを女は柔らかく受け止めた。
「それはもちろん、愛しい貴方への助力は惜し」
「助けたな?」
遮るような詰問。
甘えにも似た憎しみを、いつものように嬉しそうに抱きしめる。
彼の左腕は、常にその身体を抱きしめられるようにその位置にあった。
「あの子には裏切りに対する罰を与えただけ。あなただって、大切な恩人を害した裏切り者を許せないのでは? これは正当な応報であり、個人的な仕返しですよ♪」
抱擁と拒絶。そのやりとりさえ抵抗の形をなぞっただけの茶番だと見透かされているのだとしても、シナモリアキラは演技を放棄することはない。
「生徒に対する責任。キュトスの姉妹としての情。俺に対しての言い訳としては確かに十分だな。王の頭上に見せつける剣としても」
「あら、随分と大仰な解釈。さいきんの貴方は深読みが密かなブームなのでしょうか」
茶番。そう、これは茶番劇だ。
新しき神とその権能。
若き紀人と老いた紀神。
都市を統べる特権者と、その権力そのものである指先。
玉璽にして優勝杯たる女と、それを侍らせる男。
「もう一度訊く。助けたな。怒りによる殺しに寄りかかろうとした木偶を」
「さあ、何のことでしょう」
女を支配する男と、力そのものとなった女。
固定されてしまった在り方。いつまでも慣れることのない形式。
シナモリアキラはずっと居心地悪そうに、ぎこちない神の役を演じ続けていた。
付きまとう罪悪感は、シナモリアキラに軽はずみな身動きを許さない。
「私はいつだって好きなように振る舞います。あなたのそばで、いつまでも」
その全てを満足そうに、そしてすこしだけ意地悪そうな視線で見守りながら、女神はしつこくシナモリアキラに寄り添い続ける。どれだけ拒絶されても、それこそが心地良いと言わんばかりに。男は女から目を逸らしながら小さくぼやいた。
「悪い冗談だ」
一面の黒。
どこまでも広がる闇。
目蓋の裏も表も同じだ。全ては無であり、同時に始まり以前の有である。
死とは生の裏側。世界の真下。
生命が終わりに辿り着く地の底とはすなわち始まりの空虚である。
また背が縮んでいる。目覚めたユディーアが最初に思ったことはそれで、次に気付いたのは心中にメートリアンがいること、お腹の上に小さな猫姫が乗っかっていることだった。
二人とも意識はない。不思議と息はしている様子で、『生きたまま冥府にいる』という奇妙な状況に陥っているらしい。地下空間と死後の世界が物理的に一体化しているからこそ可能な状況だと思われるが、奇妙なことは奇妙だ。
状況を把握しようと身を起こす。足元はごわごわとしており岩や砂だらけだ。洞窟のような場所なのかもしれない。シナモリアキラとの交戦によるダメージが尾を引いているのか天眼の精度が落ちている。手探りで闇の中を探ると、大きな体に触れた。
じっと目を凝らすと闇に目が慣れてきた、というよりも存在に焦点が合ったかのように巨体が像を結ぶ。無から有が生まれるように、牙猪の死体が息を吹き返す。
アテンプレク=チリアットは完全に再生者化しているようだが、紛れもなくそこにいた。
シナモリアキラやディスペータの気配はない。
どのような経緯があったのかを漠然と察するが、上手く頭が働かない。
何か、とても致命的な事態が発生していたことは理解できている。
だが、どうにも上手く呑み込めていなかった。
心中には未だにゼドやレナリアの存在を感じる。
メートリアン同様に気絶しているようだが、なんとなく目覚めたとしてもさしたる脅威ではなくなっているような気がした。
シェロンならともかく、その力を分け合った弟子であれば下位の権限しか持たないはず。
自覚した今ならわかるが、むしろ警戒すべきはハグレスの干渉だ。
何故か気配を感じないが、奴はいま何をしているのだろうか。
そこまで考えてユディーアは思考を強制停止させる。これは何だ?
自分が誰なのか、自明であるはずのことに対して確信が持てない。
アルティウスにかけられた、幼く退行していく呪い。
その末路が存在の消失だとしても、己を失うことはない。だが現在ユディーアを襲っているのはそういった存在の危機とは根本的に異質なものだ。
「お前は、誰?」
『あたし』という一人称を信じられなくなったユディーアは、疑わしい己を分離するように問いかけた。二人称の先にあるのは『目の前』であり、当然の理として闇の中に『お前』が具現する。それは知らない男の形をしていたが、ユディーアは最初からそれが誰なのかを知っていた。問いかけは確信をなぞるための形式に過ぎない。
「知っているはずだ。気付いているはずだ。目を逸らす意味はもはやない」
右目はない。爪で裂かれたような傷痕は無惨だが、同時に目を逸らせない迫力と戦士の威圧感を飾る魅了の邪視として機能していた。屈強な筋肉質の体躯を窮屈そうな詰め襟の軍服に押し込めた巨躯は、彼の本質を皮肉な構図として体現している。
「俺様はお前だ、ユディーア。亜竜王の転生者よ」
傲慢に、暴力的に。
毅然と、秩序を重んじながら。
印象の定まらない男を、ユディーアは恐れた。
理解できたからだ。
彼の本質を決定する特権が、誰の手に委ねられているのかを。




