5-43 ユディーア対チリアット②
最後に顔を見たのはセインディアの博物城で行われたとある展示でのことだ。
保全された血統作品の展示。それは祭礼に等しい。
『血』に意味と価値を与え、文脈の中に配置するまじない。
博物城を運営するキュレーターたちは独自の裁量権を持つ企画者であり、祭司でもある。
その日に行われた『ペラティア展』は大断絶によって失われた世界の記憶を呼び覚まそうとする文化的死霊術であり、槍神教と義国によって奪われた価値を取り戻さんとする呪詛でもあった。テーマは暗黙の怒り。朽ちた文化と欠けた美が立ち並び、再現しきれなかった遺物が打ち捨てられる廃墟の光景。取り繕うことさえできない絶対的な空虚が見すぼらしく並ぶさまは、無数の敗北を表現する。
滅びた都をモチーフにした展示は、『ユディーア』の浄界に等しい。
企画を立案したのは自らの娘を展示の目玉に据えたレストロオセ四十四士の後継者。
城主代行ティシリアの後押しもあり、成功は最初から約束されたようなものだった。
実際、初日に行われた式典には各地から数多くの有力者が来訪し、主催者はその全てと顔を繋ぐことに成功していた。
四方の彩域からはディスケイム家との関係が深い賢者たち。
中原からは鈴国の重鎮、とりわけ打倒義国に燃える愛国者たち。
この催しを取り巻く文脈を踏まえれば、それは決起集会に近い儀式だった。
『ユディーア』はこの場の流れを利用して多方面への繋がりを得たが、逆に言えば周囲はディスケイム家と四十四士が保全してきた『歴史という血脈』に合流することに成功した。
理想の王国。尊ばれる聖域。紀竜の権威。
ガロアンディアン、そしてペラティア神殿が守り続けてきた大いなる竜母の血。
それは時を超えてもなお神秘性を保ち続ける大義そのものだった。
奪い、殺し、その果てに敗北の痛みを押し付けられたならば。
失われた価値のために、人は当たり前の決意を胸に抱くに決まっていた。
巨大な世界槍によって穿たれた大地。
これは滅びた国という傷痕と痛みを、小さく哀れな少女に背負わせるための手続きだ。
キニスという子供を、特別にするための大仰なお披露目。
展示の演出は灰色だ。滅ぼされた文明は灰都の名を与えられ、過去の中に封じられている。だがそれ以上に、その中心で朽ちた玉座に背を預ける幼子には色彩が欠落していた。
それを見た者たちはいずれも喪失を見る。絶望を視る。諦観を観る。
だからこそ、彼らの心にはそれに反するような熱意が燃え上がるのだ。
失われた価値を想って。尊ぶべき理想に焦がれて。
悪がもたらした悲劇を前に、善人たちは血統を賛美する。
偉大なるアルト王の血を引く者よ。
誉れ高きダーカンシェルの言葉を受け継ぐ子よ。
恐るべきカズキスの呪いを刻まれた器よ。
美しくも麗しいハース・アル・ガニヤに象られたテテリビナの梢よ。
旧世界の記憶を超えていく産声よ。
来るべき救済の日、大いなる世界獣の背に我らを導きたまえ。
「ついにディスケイムから動物想に届く血統が現れたか」
瓦礫と灰積もる廃墟浄界の中で、無垢なる神性と聖なる救い手の到来に歓喜する群衆。
環境を包括する『作品』の在り方を拒絶するように、少数の者たちが遠ざかる。
人々が小さな王に哀れみと崇敬を捧げる光景を少し離れた位置で眺める視線が二つ。
先に発言したのは金毛の猿人。隣にいた曲がり牙の猪人がそれに応じて呟いた。
「もはや藍の天主やクロウサーの後塵を拝すこともない、というわけですな。これでティシリアの発言力は決定的なものとなってしまった。ダーカンシェル実験の成功が認められた以上、我々も次期城主に従わざるを得なくなる」
アテンプレクという猪人の男はディスケイム家の内部ではさしたる発言力を持っていない。あくまでも血統作品のひとつであり、せいぜいが有力なキュレーターの補佐を行うのが関の山。博物城の手足として自分に見切りをつけることも、血統術師や騎士といった役職のポスト争いに参加することもなく、中途半端な立ち位置に甘んじている。
それが許されているのはひとりの有力者との繋がりがあってこそだ。
博物城において、ある男の派閥に属しているという事実は重い。
口さがない者たちの言葉を借りれば『金魚のふん』ならぬ『金猿のふん』といったところだが、アテンプレクはその立場に満足していた。だからこそ、目の前の光景には言い表せない感情がある。とりわけ、色の無い少女の扱いに関しては。
「歯がゆいですな。本来ならマーネロア様がティシリアの如き毒婦に膝をつく必要など皆無。あと数名、こちら側の派閥に有力なキュレーターを引き込めていれば。この歪んだ城の在り様を変えることができたかもしれないというのに」
「クドラカーンが俗世の政に無関心なのはわかっていたことだ。過ぎたことを悔やんでも仕方があるまい。今後、我らは中央での立ち回りに注力すべきだろう」
黄金の猿人が厳かな口調で過去を切り捨てたことで、気弱な牙猪アテンプレクの弱さが尾を引く余地は無くなった。金毛巨猿の長い腕は太く、重々しく、荘厳な柱のように大地に屹立している。彼の名はマーネロア。ティシリアやクドラカーンと並ぶ博物城の至宝は、ただ前だけを見据えている。
「あの娘がユディーアを継ぐのであれば、逆にセレクティ派との関係を強化しておくべきだが、それ以上に押さえておく点が二つ。城主アゥルメイアに抗し得る古竜、ダエモデク卿との関係性に布石を打つこと。テテリビナ穏健派の『緑の御者』殿との同盟を今以上に強固にしておくこと。となれば当面の問題は封じられた世界樹、その第八階層と第五階層になる」
それは、展示の中心であるキニスという作品を取り巻く『流れ』の先にあるものを見越した発言だった。
「この展示を始まりの狼煙として捉えるなら、ティシリアの一派は確実にあの娘を『祝祭』の中心に運ぶだろう。その時、私かお前のどちらかがその場に居合わせられたなら」
マーネロアは、ある種の確信を持ってまだ見ぬ未来を語る。
彼に未来を視る力はない。
だが、先にある希望に向かって前進する意思はあった。
途方もなく強く固い、黄金の信念が。
「我ら『境界動物解放戦線』は、為すべきことを為そう。ダーカンシェルの鎖を砕き、血と肉体から解き放たれた真なる自由を創り出すために」
その圧倒的なまなざし、輝かんばかりに未来を見据える瞳を、猪人は太陽を直視するような思いで焦がれていた。邪視ということばで括れば陳腐に堕する。魔眼という作法に当て嵌めれば本質を見失う。それは光だ。少なくとも、アテンプレクにとってマーネロアとはそういう存在だった。
「アテンプレク。あの娘の未来に意思を届ける。お前の命を私に捧げよ」
「喜んで」
瞬間が引き伸ばされ、世界が静止する。
孤絶した時の中で、少女だけは作品としての使命を全うしようと微動だにせずにいたが、やがて不思議そうに瞬きをして呟く。
「せんせい?」
異なる時の流れを生きる秘術。その要諦を幼い身で掴んで見せた少女の才気は恐るべきものだが、同時に悲劇的な宿命を示唆していた。
幼いキニスは、こうなるようにと定められた。
血統作品。無数の試行錯誤の果てに産み落とされた、骸と灰の娘。
それを哀れとは呼ぶまい。何故なら、金猿と牙猪も全くの同類であったから。
だが、それでも。
「聞こえているか、灰の娘。滅びに飾られた血の器よ。お前はいま、戦の始点に立っている。戦火のあとに降り積もった灰は全ての終点だ。ゆえにこそ、お前は悲しみと怒りのための薪としてくべられている。見よ、お前を賛美する愛国者たちの闘争心を」
マーネロアの言葉を、幼い少女は理解できない。
それでも構わぬと、彼は未来の彼女に向けて意思を届ける。
いつかこの意思を振り返る、キニスではない誰かのために。
「お前は死だ。ティシリアとお前の母は、お前に恐るべき滅びを願ってしまった。いつか正しき怒りがお前と言う灰を呪い、言祝ぐだろう。それは闘争の渦、始まりも終わりもない怒りの循環、流血の継承に他ならぬ」
抽象的な言葉は呪文であり、託宣でもある。
事実、金色の猿は氏族における賢者であり預言者でもあった。
彼は神性と相対し、未来を示す指針だ。
その助言は、光となって誰かの未来を照らすだろう。
牙猪アテンプレクは不出来な指導者で少女を救うには力不足だった。
不格好な優しさが誰かを救うことはない。それだけの意思が彼には欠如している。
だが、それができる者は確かに存在する。
英雄はいるのだ。
「だが血のさだめに臆してはならぬ。死は恐ろしいが、もっと恐ろしいのは死の価値が損なわれることだ。いまは理解せずともよい。だがいずれお前はこの記憶を想起するだろう。誰もが命の価値を求めて抗い、意味のある死を望む。だが黙して語らぬ死者の価値を決めるのは残された者の特権なのだから」
マーネロアには及ばずとも、それが小さな波紋となって少女の諦念を拭う一助となれば良いと、アテンプレクは願う。
「キニス様。あなたがそう願う限り、お父上の死は無価値にはならないのです」
わずかに少女の瞳が震えた。
恐れるように、感情の振幅を押し殺すように。
希望。それが実在するかもしれないという未来から目を背け、怯えて縮こまる。
今の少女にできるのはそれだけ。
少なくとも、彼女には時間が必要だ。
だからこれは、未来への布石。
「我らの願いでもある。亡き友が愛した娘が、灰に埋もれたままであっていいはずもない」
失われたものは取り戻せない。
だが、それでも過去は未来に繋がっている。
灰色になった瓦礫の都という心象風景は、母が望んだ娘のための王国だ。
キニスの世界は灰色になった。大いなる欠落は、母による父の惨殺から始まっている。
「死者の言葉を探すといい。色褪せぬものは、必ずそこにある」
黄金に輝くまなざしは確信に満ちていた。
そんな虚構が実際にはないのだとしても、彼はそれを信じて行動する。
邪視の本質がそこにあり、呪文と言う欺瞞の根拠の要はそれだった。
色の無い少女には響かない。それでも、記憶は確かに刻まれた。
それは遠い昔のこと。古びて忘れ去られた、つまらない記憶。
「アテンプレク先生?」
互いにとって不意打ちのような再会。
ディスケイム家の同胞。かつての恩師。それ以上の、とある勢力にまつわる記憶。
死んでしまった父の歴史は、未だ途切れてはいない。
娘である自分が生きている以上、そんなことは分かり切っていたはずなのに。
終わったものがそこで全て欠けて失われる。
そんなことはないと、彼女は知っていたはずだ。
ただ、見ないようにしていただけ。
あの瞬間からずっと。血に染まる母の『剥落の鉤爪』を目に焼き付けて、それと同じものが己の血肉に備わっているという恐ろしい事実を理解した時からずっと。
わからないふりをしていた。知っていたけれど、なにもしなかった。
次々と記憶が想起されていく。蘇る過去と連鎖する情報の洪水は、状況に流されるままだったユディーアが本来なら利用可能な道具になり得たはずのもの。
境界動物解放戦線。金毛種と猿人。ヴァナラとエイプキン=ントゥガ族における交雑のライン。ダーカンシェル実験。第六世界槍の言語境界域。神授王権を更新するための英雄血統。人間と動物の狭間にある血族。与えられた言語の剥奪。存在しない言語の翻訳創造。巨人戦域で言語支配者に抗う者。ントゥガの言語解放者。
言語支配者ダーカンシェルとその子アルトは動物に言葉を与え人としての知性を与え、また逆にその特権を剥奪する権能を有していた。
ユディーアはその傲慢なまでの権能を血の中に受け継ぐ者であり。
マーネロアはその支配に抗う者たちの旗印だ。
もちろん知っていた。
父が母親に隠れてマーネロアと親交を深めていたことも、小さなキニスは知っていた。
博物城という魔窟、ディスケイム家という伏魔殿で、それがどれだけ危険な綱渡りであったのか、理解できていなかっただけ。
今ならわかる。あらゆる物事は、見た目通りの形でユディーアに優しくわかりやすいように語り掛けてくれたりはしない。
最後の魔将マーネロア。ディスケイム家においてあのクドラカーンとさえ並び称された怪物は、どうやらティシリア派閥との抗争に自分を使いたいらしい。
邪視戦闘の教官だったアテンプレクとの再会。それに付随して蘇った古い記憶は覚えのないものだった。過去視能力者であるユディーア(エレクトラあるいはキニスという呼び名は宣名のコインを取り戻した以上しばらく必要ないだろう)を欺けるだけの記憶封鎖が行うことはできない。つまり今の記憶は、本当に忘れていただけということになる。
厳密に言えば、見ないようにしていたのだろう。
目の前の牙猪への感情は複雑で、彼の真の主であろう一人の人物に対しての心情は更に鬱屈とした、それでいて罪悪感に満ちたものだった。大層な期待と過大な希望を抱いてもらって申し訳ないが、それはユディーアには重すぎる。
(きっとあたしは親不孝者だ)
無気力に俯いて、大切な父親の価値さえ貶めてしまう。
復讐者には向いてない。死者の代弁だって本当のところはよくわからない。
向き合うのが億劫な過去から一時的に思考を切り離し、意識を前にだけ集中させる。
マレブランケのメンバーのプロフィールは公表されているが、猪人であるというだけでアテンプレクと結びつけるのは不可能だった。しかし考えてもみればあのディスケイムが第五階層に何の干渉もしていないわけがない。あるいは、潜ませているのは彼だけではないかもしれなかった。
四本の捻れた牙と二メートルを超えた長身、はちきれんばかりの筋肉はかつてと変わらぬ迫力だが、機械女王の仕事であろう黒亜竜の生体義手がいやに目を惹いた。
魔将ダエモデクの骸を利用した寄生異獣。
男はきっと、その遺志の代弁者としてここに立っているのだろう。
白き亜竜王アルトと並び立つ者。
この再会が誰かの描いた絵図なら、出来過ぎていて気持ち悪いくらいだ。
間違いなく、誰かの操り糸が導いた結果なのだろう。
「お久しぶりでございます、ユディーア様。ご壮健な様子でなによりです」
「そちらこそ。チリアットがアテンプレク先生だったなんて、驚きました」
天眼の民に連なる猪人。その中でもとりわけ稀有な血統である『牙猪』は、アロイの人工紀人ティーアードゥの加護を実験的に適用させた二重加護の『天眼の民』だ。その祖は戦乙女ブルーティであり、戦乙女ユディーアの姉妹にあたる。遠い同胞ということもできるだろう。極めて巨大なディスケイムの血族内部においても、加護区分による眷属種同士の連帯感は強い。天眼の民であるならばそれはなおさらだ。
博物城にいた当時から、関係性は悪くなかった。
だからこそ、どう接するべきかが難しい。
ユディーアもアテンプレクも、『下』の戦士としてジャッフハリム陣営に属している。
機械女王はそれを知りつつ見の内に毒を引き込んで上手く使おうとしているようだが、しかしこちらのより深い素性、ディスケイムの内情を詳細には把握していないだろう。
まして、その内側に存在する微妙なパワーバランスと、派閥抗争についてはなおさら。
面倒なことになった。正直なところ、ユディーアはノゴルオゴルオと遭遇した時と同じくらい気分が沈んでいた。あの怪老ほど好感度が低いわけではないが、奴は派閥で言えば城主アゥルメイアや筆頭キュレーターティシリアと同じ保守派だった。
しかし、アテンプレクは違う。父と同じ、ディスケイム家の異端者なのだ。
「女王からはヴァラーハのあざ名とチリアットの号を与えられております。今はどうか、そちらの名で呼んでいただければと」
「新しいご主人様には頭の中を見られてないの?」
「トリシューラ様とマーネロア様は、アキラ殿がこの階層に現れた直後、二回ほど交戦と会談を行っております。その際に協定を幾つか。詳細は、ここでは申し上げられませぬ」
すうっと思考が冷えていくのを感じた。
『チリアット』の過去として開示されている、『魔将ダエモデクの部下であった敗残兵に機械女王が手を差し伸べた』というストーリーは嘘ではないが全てを語ってはいない。ある種の欺瞞呪文だ。アンドロイドの魔女は、半年前の時点で第八階層の攻略に向けて布石を打っていたということになる。
「あの、エレクトラ、というかユディーア? 状況が見えないので説明が欲しいのですが」
「にあ! レナリアぼこって戻ってきた! セリアも解説ほしい!」
「は~い、ぼこられたレナリアも複雑そうな事情を知りたいで~す」
とりあえず、騒がしくなってきた脳内の同居人や肩の上に乗っかった小さな相棒にどう説明をするべきかを考えよう。
賑やかになって仲間が増えた、と無邪気に喜べればどれだけ良かっただろう。
ユディーアは自分に対して七情掌法を打ち込んで強引に『喜』を喚起すべきかどうかを真剣に悩み始めた。




