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幻想再帰のアリュージョニスト  作者: 最近
第4章 傷つけるのはハートだけ、口づけるのは頬にだけ

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終節:救『Parable of The Barren Fig Blade』



 昔々の物語。

 あるところにカインとアベルという兄弟がおりました。

 兄のカインは鋤を持ち畑を耕し、弟のアベルは犬と共に羊の世話をしておりました。二人は悪魔の化身である虫や狼と戦い、苛酷な日々を耐えていました。つらく苦しい生活の中、兄弟はお互いに支え合いながら生きていこう、どんな理不尽にも挫けずに頑張ろうと誓い合います。

 前向きに生きる二人に、あるとき父がこう命じました。


「自分たちの持ち物の中で、最も価値あるものを生贄として私に捧げなさい」


 父への愛を試された二人は、言いつけ通りに大切なものを生贄に捧げました。

 アベルは肥えた羊の仔を。

 カインは最愛の弟を。

 子供たちの行いに、父は激怒しました。

 彼らが尊ぶべき天なる父に何の敬意も、愛情も、信仰も持ち合わせていないことがわかったからです。正解は最も素晴らしい価値を持つ父を殺す事だったのに。


 激怒した父は嵐となり、カインの畑を根こそぎにし、彼が歩む大地の全てが荒野となるように呪いをかけました。

 これを見た母、万物を生み出した大地は天空の怒りが届かぬ地割れの狭間に息子を誘い、深い闇の中に匿いました。


 これ以降、父なる天は子に試練を、母なる大地は子に庇護を与えるようになり、全ての幼子は父を憎み母を愛するようになったのです。

 母は大いなる愛で子を包み込み、荒ぶる父の暴力を一身に引き受けながら自分の中にすっぽり隠れている、かつて自分の一部だったものたちに囁きます。


「いい子ね、可愛い坊や。今はお母さんが守ってあげる。だから、大きくなったらきっとお父さんからお母さんを救ってね」


 愛情の命じるままに、子は母と約束を交わします。

 大きくなったら、きっとお父さんを殺して、お母さんをお嫁さんにしてあげる。

 そうして子は自らの父を、そして兄弟を殺すことを決意したのです。




 蝿、ハエ、はえ、羽音――ぶんぶん響く耳障りな音。

 まだ冬だというのに、学院にはこれほどたくさんの虫がいただろうか。若き王は煩わしさを振り払うように強く息を吐き、目的地へと足を運ぶ。

 無花果いちじくレイの行く手には幾多の試練が立ちはだかっていた。

 帰還した生徒会執行部、六王は災厄そのもの。糸で吊された顔の無い人形たち、六人の美男子たちが入れ替わり立ち替わり現れて、レイを誘惑していく。


「あ、新しき王のなんと美しいことかー。あの黒髪の艶やかさ、まさしく俺の後継者に相応しい。このマラードが先輩として指導してやろうー」


「えー、こ、この学院の男子部には上級生が下級生を指導する制度がある。師弟すなわち父と子の関係性になぞらえてな。じ、自由奔放? な他の者たちには任せられん。ここはこのアルトを父と呼ぶがいいー」


 戸惑うレイの周囲をくるくると回る六王の大根役者ぶりに、レイの隣でトレミーが思わず吹き出す。


「舞台掌握のアピールをするにしても、もう少しマシな役者はいなかったわけ?」


 サイズの合っていない衣裳を身に纏った山賊、浮浪者、ならず者――妖しき魔人、絶世の美貌持つ再生者を演じるには役者が足りていない。

 それでもめげずに演技を続けるにわか仕込みの素人たち。彼らは口々に若き王の親権を主張し、自分こそが未熟な王の代理人となって学院の王権を手にするのに相応しい父親であると言い立てる。

 レイの意思などにはまるで頓着せず、傍若無人に振る舞う六王。

 困惑が先立っていたレイも、とうとう我慢できず、


「去れ! 俺の父は故郷にいるただ一人、お前たちなど顔も知らぬ!」


 と激昂する。だが六王たちにとって子供の言葉など虫の羽音も同然。誰ひとりとして相手にする者はおらず、それどころか振る舞いが更に傲慢さを増すばかり。やがて暴虐は行き着くところまで行き着いた。


「王権の象徴である花嫁を父に渡すがいい、息子よ」


「そうだそうだー、子は自らの妻子を父に捧げるのが古くからのならわしだー」


 照明が舞台の端に落とされ、少女人形の花嫁姿が露わになる。

 六王たちはドレス姿の渦巻羽クルミを取り囲むと、これは俺のものだ、玉璽をよこせと奪い合いを始める。それを見たレイは思わず「やめろ」と叫ぶが、


「あら。私など不要と常々仰っていたではありませんか」


 とクルミが意外そうな表情をすると、気圧されたように押し黙ってしまう。

 続く言葉を持たないレイに、トレミーが発破をかける。


「そこで黙っちゃ駄目だよレイちゃーん。ほらほら頑張って、男の見せ所だぞー。レイちゃんのかっこいいとこ見たーい」


「ええい、お前は少し黙ってろ!」


 トレミーは口の端に着いていたジッパーを閉めてすうっと背景に溶けていった。レイは勢いに任せて六王たちにくってかかる。


「貴様らもだ、これ以上の好き勝手は許さん! 学院の風紀を乱す不良生徒ども、退学にしてやるから覚悟しろ!」


 すると六王は大げさに両手を上げて仰け反り、口々に非難の言葉を言い立てる。


「なんと横暴な! これは権力の濫用だ!」


「このような理不尽には断固として抗わねばならぬ!」


「王の専横に対する正統なる革命を!」


「決闘だ! 決闘だ!」


 若き王に投げつけられる白い手袋、その数六つ。

 騒がしく退場していく六王と、舞台に取り残されるレイとクルミ。


「良かったのですか?」


「さあな。お前は次の発表会の心配でもしていろ。さっさとレッスンに行け」


 平坦な表情で問うクルミから顔を背けて去って行くレイ。

 その背中を、人形の瞳がじっと追い続けていた。

 暗転した舞台に、蝿の羽音がいつまでも響く。




 かくして六王との戦い、既視感に満ちた再演劇が始まる。

 空に吊されたダモクレスの剣、輝くような天上の舞台と光の梯子。


「虚ろを満たせ、鎧骨壱式!」


 六王たちが叫ぶと、床から迫り上がってきた鎧のような拘束具が彼らを外側から抱きしめる。死者の骨で作られた外骨格が闇を噴出させ、役者を役で染め上げる。六王は過去と合一し、再びの生を得て現世に降り立つ。

 恐るべき力を持った古き王たちに対抗すべく、トレミーはレイにあるものを託す。王の胸、肋骨の下あたりに手を添えて、ぐっと力を込めて押したのだ。


「何をする」


「レイちゃんの胸にいつも剣があるようにっていう、ちょっとしたおまじない。忘れないためのメモや付箋みたいなもので、大した力は無いけど」


 若き王は首を傾げた。何故かはわからない。

 メモ、付箋――その言い方は、まるで何か胸に忘れ物をしているような。


 ――だめよ王子さま、それは美しくないわ。


 先輩――先輩? 彼女は誰だったろう。

 いつか聞いた言葉を、白昼夢のように思い出す。

 だが追想に浸る暇も無く、決闘は始まってしまう。

 地竜と化した美しき王が吼え、従僕は届かぬ過去の煌めきに手を伸ばす。

 墜ちていく流星と共に、声が遠く消えていった。


「ああ、そうか。俺の星は、ここにあったのか」


「陛下、私は、常にあなたのお側に」


 狂王子は潔癖症の仮面を血に染めて、仮初めの墓標に押し潰されて眠りにつく。

 呪うように呟いて、微睡みの中で怨嗟を吐いた。


「ああ、母様、母/おのれエトラメトラトン、あの魔女め/うして、僕を――」


 誰より強固な個我を保ったまま、敗退してなお生存を勝ち取った義手の覇王。

 早々に舞台から降りると、呆れた様子で客席を突っ切って退出していく。


「――この喧嘩の意味が分かった。付き合うだけ馬鹿らしい上に首を突っ込むのは野暮というものだ」


 時の果てを垣間見る多相の紀人、あどけない少年、狂える王、老いた賢者は己の終端に貪り尽くされて消えていく。


「不貞! 姦通魔! そうか、お前こそが我が妻を奪う寝取り男だったか――!」


 夜の王は絶望を謳い、宝石の姫はその手を引いて荒野へ誘う。


「セリアには、倒すべき相手が見えています」


 ――そう。セリアック=ニア/ナーグストールには確信があった。


 猫の爪が闇夜の帳を引き裂くと、紗幕が引き裂かれると同時に世界そのものが大きくたわむ。背景空間の歪曲、音響に混じるノイズ、音像の歪みに羽音が混じり、蝿、そうハエの耳障りな音がさっきから延々と響いているのにどうして誰も気づけなかったのか。猫だけがそれに対抗できる。宝石の爪がぶんぶんうるさい音を一気に吹き散らし「お願い、ナーグストール!」という叫びが世界を塗り替えた。


 セットが破壊された舞台、六王に扮したゼド配下の盗賊団員に取り囲まれたクレイとミヒトネッセ、虚ろな瞳の人形が並ぶ観客席、ハエが飛び回る腐臭まみれの古びた劇場。この場所からはどうしようもない死の臭いがする。

 セリアック=ニアの影から飛び出した奇怪な宝石人形はそこまでが限界だったのか、形を失って少女の中に戻っていく。気を失って舞台の端に倒れ込む猫姫。

 ――違和感。何か、致命的な事実に気付きそうなのに、あと少しで届かない。


 そこでようやく俺=シナモリアキラは自分を取り戻した。

 違う、意識を敵に集中させろ。優先的に対処すべきはゼドで間違い無いはずだ。

 舞台袖に放置されていた『この身体』は恐らくグレンデルヒ役として使われた人形だ。外れた首を嵌め直し、立ち上がって舞台を目指す。理由はわからないが演劇はぶち壊しになった。この隙を逃す手は無い。


「さっすが、ノラちゃん頼りになるー!」


 ところが、俺より先に動いた者がいた。

 いつのまに出現していたのだろう、どこか女のようにも見える、男子用制服を着た少年がクレイのそばで星の海を広げている。意味が分からないが、彼の掌から銀河系らしき映像が拡大しているとしか表現できなかった。何らかの呪術だろうが、そもそもこいつは誰だ、こんな役者いたか?


 困惑よりも先に事態が動き出す。六王役であったゼドの配下たちが呆然と立ち尽くすクレイ確保に動くが、クレイを守るように立ちはだかった謎の少年により阻まれた。彼が広げる宇宙的光景が空間を押し広げると、クレイとの距離はどんどん離れていくばかりでちっとも縮まろうとしない。いつしか盗賊たちは劇場の端に追いやられてしまっていた。


 それを見て、俺もようやく足が動いた。

 上手から疾走してきたのは白衣を纏ったカーイン。下手側にいた俺よりもクレイとミヒトネッセに近かった奴は恐るべき速度で貫手を放ち、ミヒトネッセの首筋に一撃を叩き込んだ。直後、人形はその輪郭を失い衣服だけがはらりと落ちる。

 カーインは丸太にめり込んだ指を抜きながら「空蝉かっ」と悔しげに言うが、同時に走り寄ってくる俺を視認。カーインが頭を下げると同時、俺はガタガタに緩んでいた頭部をぶん投げる。投擲された俺の頭部が屈み込んだカーインの上を通過して背後から迫っていたミヒトネッセの頭部に肉薄。


「その首、挿げ替えさせて貰う」


 オルヴァの技術を再現し、大口を開いた俺の頭部が侍女人形の首に食らいつく。

 万物を貪り尽くすブレイスヴァを摸倣するカシュラムの戦闘術は、当然のごとく噛み付きの技術を精練させている。顎に力を込め、人形の首に歯を食い込ませる。

 オルヴァの呪力が牙と化して肌を突き破り、グレンデルヒによる呪的侵入が架空のアストラル構造の奥深くへと俺の支配力を及ぼしていく。ミヒトネッセの内部に意識を集中させていく最中、ふと遠い声を聞いた。

 これは、どこか懐かしい――音色、ハミング、ことば、詩歌――子守歌?


「いかん、退避しろシナモリアキラ!」「おお、ブレイスヴァの顎はいずこ!」


 グレンデルヒとオルヴァの警告よりわずかに早く、俺の意識は闇の中へ引き摺り込まれた。世界は暗転し、舞台が一瞬で切り替わる。ここは途方も無く深い洞窟の奧だ。ミヒトネッセの意識の底に作られた罠、侍女人形の中に潜んだゼドが俺を狩るために用意していた処刑場。


「未来の観測ってのは邪視だ。望む未来を引き寄せるんじゃねえ、観測者の紀源に根ざした世界を押し広げる。賢者の完成された円環は破滅を内包した終端に必ず到達し、聖女の未来回想は終端から遡るから必ずはじまりに戻るってわけだ」


 暗闇に響く声が、シナモリアキラ化して零落したオルヴァの限界を嘲る。どこだ。どこにいる。感覚を研ぎ澄ましてもゼドの気配が掴めない。ミヒトネッセの中に存在するはずの奴の気配が、どうして『これ』と確定できない?


「うぅ、ひっく。本質的には『現在』しか無いんだよぉ。観測者がいる『今ここ』だけが過去と未来の広がりを認識できる。ああ、最果てから遙かに遠い中心。はじまりの揺り籠。『現在』の祭壇こそがこの世界槍の中心なんだぁ」


 嗚咽のような言葉の中に奴の意思が見える。迷宮を踏破し、宝を手に入れ、敵を倒す。単純な本質が、しかし掴んだと思った途端に手からするりと抜けていく。


「翼猫ヲルヲーラ――九尾伽ナインテイルの一角が崩され、『神々の遊戯盤』であるこの世界槍の支配権は宙に浮いています。『双生児の鹿の仔』と『松明の騎士』は祭壇の準備が整うまで静観の構え。機会は今しかありません」


 年若い少年のような声が静かに響く。

 周囲から順番に聞こえてくる言葉は、まるで別々の誰かが喋っているかのよう。

 いやそうではない。音の源、その数は確実に一つでは無い。女の声まである。


「そう、気付いたようね? 相、面、貌――化身という言い回しもある。複合的な性質を孕み、伝承が揺らぐ神々の在り方としてはそれなりにポピュラーじゃない? あなたやアレッテ・イヴニルも含めて、とってもありふれている」


 小鬼化を防止するためのセーフティ――グレンデルヒかオルヴァの知識らしきものが脳裏に浮かぶ。多面性を持つ、というか多重人格であることは紀人にとって自我を維持するために必要な手段のひとつらしい。


「お前が――お前たちが、ゼドか」


「その通り。はじめまして、私はレナリア。よろしくね」


 闇の中に浮かび上がった顔は、長い銀髪を二つに括った年若い少女のもの。盗賊王とは似ても似つかないが、紛れもない同一人物だ。

 俺はゼドに包囲されていた。目の前のレナリアに加え、左右に気配が増える。人参を囓りながら涙を流し続けている細身の男と、矢に貫かれた頭部を揺らしながら薄笑いを浮かべている長身の男だ。


「僕たちとしてはこの場で決戦を始めてもいいのですが、その前に少しばかり話したいと彼が強く希望するもので、このような場を設けさせていただきました。ああ、申し遅れましたが僕はセロナ。セロナ・ハーヴェストです」


 真下から穏やかな少年の声。意識をより深い方へと向けると、靄がかかったような小柄な姿がある。上等な仕立ての白い礼服が良く似合う美少年が、槍と鎌を一体化させたような長柄武器を手にして優しそうな微笑みを見せていた。

 セロナが一歩脇にずれると、奧からようやく良く知った姿が現れた。薄茶のくたびれたコートにテンガロンハット、無精髭の陰気な顔。このゼドの気配は、初めて対面するものではないと確信する。


「そういうわけだ、アキラ。少し話に付き合え」


「今まで俺の前に出てきていたのはお前だな。主人格なのか? 目的は? ミヒトネッセに入り込んで何をしようとしている?」


「俺は俺、殺し屋紛いのアダス、盗賊崩れのゼドだ。狙いは『死人の森』に眠る財宝、古代の叡智、失われた神秘。目的は一貫して変わっていない」


 ゼド――いや、アダスは迷い無くそう答えた。

 確かに探索者であるこの男は最初から目的がはっきりしているが、ミヒトネッセを操りラクルラールの舞台を乗っ取っている現状の説明にはなっていない。

 アダスは苛立つ俺を宥めるように説明していく。地下迷宮でのクレイとの対決。ミヒトネッセの密かな入れ替わり。彼女が使った異界転生という呪術によりゼドは存在ごと吸い尽くされたのだと言う。


「ミヒトネッセは見事に仕事をやり遂げた。そして彼女の理解はそこで止まった」


 ゼドたちはいま物理的実体として存在していないようだが、ミヒトネッセはこいつを制御しきれなかったのか。銀髪の少女が妖しい鱗粉を撒き散らしながら囁く。


「俺たち/私たちは罪貨。交換可能な英雄。あの肉体に拘る必要はもはや無いわ。ミヒトネッセに『純粋な呪力』として複写され、奪われた時点で『盗賊王』の伝播は終わっている。奪うにしろ売買するにしろ、価値は運ばれるためにそこにある。ならば奪われた私たちも、俺たちであることに変わりは無い」


 ミヒトネッセがコピーした能力そのものがゼドとして振る舞っているというのなら、それはもはや尋常な人の在り方ではない。

 紀人ゼド――包囲されてはっきりとわかる。こいつは同じ紀人に存在を気取らせないほど気配の隠蔽に長けている。盗賊や暗殺者、もしくはそれに関連した権能を持つ『新しき神』。オルヴァにすら予見できなかったこいつらは厄介に過ぎる。


「安心しろアキラ。せっかく紀人に至れた後輩をいきなり狩るなんてマナー違反はしない。むしろその逆。俺はお前を守ってやりたいんだ」


 アダスの言葉に思考が止まる。何を考えてるんだかよく分からない奴だったが、ここに来ていっそうわからなくなってきた。


「は? いったい何から守るつもりなんだよ」


「お前を脅かす全てのものから。つまり神だ、それ以外にあるか?」


 何を当たり前の事を、みたいな顔をされた。

 いやまあ、紀人の脅威なんて似たような存在だけだろうけど。


「お前は自分の置かれている立場の危うさを理解しているか? ただでさえ全面戦争が保留されているだけの戦場、女神どもが覇を競う祭壇の中心にいるんだぞ? 生まれたての紀人など養分同然、狩りの獲物としては最上の部類だ」


「だからさっさと殺して食っちまおうぜって俺は言ってんだろ糞アダスがよお、ぐだぐだやってねえでホラ食えそら殺せやれブチ犯せよ退屈だろうが!」


 矢の男が小刻みに身体を揺らしながら口を挟んでくる。

 落ち着きが無いのは頭に突き刺さった矢のせいだろうか。


「殺し、奪い、勝ち取る! これぞ盗賊の掟、英雄の性ってな。槍こそ祈りの祭具と称える蛮人世界、適応した俺こそが正解だ。抵抗する相手を力で組み伏せ、牙を突き立て血肉を取り込み、猛る英雄性の象徴を突き刺して精を注ぎ込む。人生はそれだけだ。他の紀人どもはぜんぶ紛い物、なにもかも薄っぺらな糞、糞、糞だ!」


「ハッピー、お下品。少し黙りなさい」


 レナリアが矢の男を小突くと、唾を飛ばしながら喚いていた口がぴたりと止まった。どうやらゼド内部の人格たちには力関係があるらしい。

 邪魔がいなくなると、アダスが話を続けた。


「確かに俺たちの本質はそこのトリガーハッピー野郎が言った通りだ。血肉を取り込んで敵を孕み、強姦することで己を孕ませる。グレンデルヒは性を市場価値に換えて競争の原理を説いたが、俺はその原始的戯画と言える。英雄が怪物に勝利し、怪物の死を取り込み不死の王として君臨し、絶対的王権を手にする。ならず者の王こそがもっとも古い神話のひとつ。俺はその体現者だ――しかし」


 ハッピーとやらがゼドの中で最も単純な衝動を司っていることは俺にも理解できるが、ならこいつは? アダスと名乗るこの男は俺を他の紀人や紀神から守りたいという。その動機を生み出すものは何だ。

 何故か、俺はそれを知っている気がした。


「この俺、アダスの本質は盗賊ではなく殺し屋だ。依頼されれば契約通り、上質な死を顧客にお届けする。安楽死代行から戦いで散りたい戦士の相手役までこなすクリーンな人殺しが売りで、市民に愛される優しい死神ともっぱらの評判だ」


「笑わせるな。共感ごっこなら余所でやれ」


 思わず罵声が出た。凄まじく苛立たしい。遮断できないほどに、不快感が絶え間なく湧き上がってくる。アダスの言葉は当人でさえまるで信じていない張りぼての台詞だ。断言するが、こいつの殺しは言葉通りの優しいものでは絶対にない。

 こいつは俺の前世を知っているのだろう。気持ちが分かる。だから仲間だ。優しくしてやると? 殺人者同士の共感――そんなものを俺に肯定しろと言うのか。

 脳裏に浮かぶのは無限に死に続ける男の顔。美貌を苦悶に歪め、『介錯』を待つばかりの『俺が切り捨てたもの』だ。

 捨てた不要品を押し売りされることほど鬱陶しい出来事があるか?


「俺とお前の欲望は同じだという話をしているんだ、シナモリアキラ。お前も望んでいるのだろう。殺した相手に幻想の赦しを語らせ、託された力として身に纏う。トバルカインとやらは恐れと欲望の形だ。あれは自傷に似ている。傷を抉り出し、死を指向して生を実感する、大いなる欺瞞」


 アダスの陰気な顔、陰鬱な口調に少しずつ、だが着実に熱が込められていく。

 興奮した瞳、執着の視線、俺を捕らえようとする粘ついた感情は、シナモリアキラという存在を規定しようとしている。この男は、俺をこうあるべきと欲望している。同じものだから、同じになれと命じているのだ。


「俺は『女王』の権能を奪い全ての赦しを手に入れる。この望み、お前ならわかるはずだ。信じろ、俺はお前を救ってやれる、掃き溜めの神だ」


 闇の底から、アダスの手が伸ばされる。心からの親愛を込めて、アダスは俺を求めている。だから俺は、奴が口を開く前に答えを決めた。


「俺と習合しないか、転生者セト。紀人になったばかりでは抵抗があるかもしれないが、なに、遅かれ早かれいずれは経験しなければならないことだ」


「断る。お前の一部になる気はない。それと俺はシナモリアキラだ。前世のことはだいたい忘れた。殺し屋だっけ? 何の話か覚えてねえよ」


「そうか、無理矢理というのもいいだろう。神話の衝突は不可避だからな」


 こうして俺とゼドの決裂は決定的となった。

 敵陣のど真ん中に切り離された俺は即座に自爆。

 精神世界に呪力が吹き荒れ、物理的に首に噛み付いていた頭部も同時に爆散。ミヒトネッセの身体が舞台を転がっていくが、即座に立ち上がり体勢を立て直す。侍女人形の髪色はいつのまにか銀に変わっていた。


「確かレナリアって人格名だったな。他にいた四人はどうした」


 近くにいるカーインに聞こえるように言う。あの一瞬の出来事を詳しく説明している時間は無いが、敵の数だけでも把握させるべきだろう。


「まあ、狂靱つよい心。ハッピーやラメントじゃ相手にならないわね」


 レナリアは俺の言葉を受けて薄く微笑むと、小刻みに痙攣して暴れ出そうとする右腕を軽く押さえて言った。


「下がっててアダス。貴方の執着は分かるけど、今は私たち全体の勝利を優先させてちょうだい。この男には私が司る権能が最も効果的なの」


 ミヒトネッセの髪色が一瞬で銀色に染まる。周囲に可視化されていく呪力はまるで鱗粉。少女が両手を広げると手品のように武器が出現。右手には鉤爪、左手にはステッキ。腰からは蝶翅のような大きなリボンが広がって揺れる。

 首無しのまま拳を構えて警戒する俺を嘲笑うようにレナリアは言った。


「貴方、事故で死ぬわ」


 飛び退くよりも早く、真上から落下してくる巨大質量の気配。駄目だ、避けきれない。迫る光と熱、そして風圧と重圧。橋が落ちてくる。


「不運ね。悪竜を呪い、私に祈りなさい」


 舞台天井の照明ブリッジが容赦なく俺にのし掛かった。舞台照明器具を吊り下げるパイプ状のサスバトンならともかく、作業要員が乗り込める大型の照明ブリッジを咄嗟に回避するのは困難だ。急激な大質量の落下により舞台の一部が崩壊し、俺が制御していた人形が粉々に砕け散る。

 カーインと見知らぬ少年は観客席側に退避してクレイの救出に成功したが、未だクレイは虚ろな目で宙を見つめている。役の縛りから抜け出せていないのだ。


 寄り代を失った俺は即座に認識の階層を引き上げ、『マレブランケ』に一斉攻撃の指令を下した。上空に出現した道化と老賢者が準備していた大呪術を解き放ち、観客席の二階から銃士が狙撃、レナリアが遠隔操作していると思しき舞台機構操作盤に眼鏡の少年が呪的侵入を試みる。


「ふっ、このくらい僕の手にかかれば――あれ? この人、舞台機構を制御してないのかな、じゃあなんで」


 眼鏡のブリッジをくいっと持ち上げながら得意げな顔をしていたファルファレロが絶句。目の前で起きた事態が信じられなかったのだ。

 レナリアが鉤爪で虚空を一撫でしただけでグレンデルヒとオルヴァが解き放った光球があっけなく掻き消え、彼女がもう片方の手に持ったステッキを一振りすればカルカブリーナが狙撃した銃弾はその軌道を逸らす。


 背後から強襲をかけるマラコーダの尾による一刺し、腕を硬質化させたルバーブの衝角突撃にもまるで動じず、踊るように身体を捻って攻撃を受け流す。回転する勢いのままに放たれたレナリアの蹴りがルバーブの胴を捉え、触手と化したツインテールから投擲された隠しナイフがマラコーダの尾に突き刺さる。刀身に刻まれた対抗呪文がサソリの尾が内包する呪毒を解体し、舞踏に付与された呪文がルバーブの巨体を容易く吹き飛ばす。


 更には手掌を上下に構えたオルヴァが、高く飛び上がって爆撃を行おうとしていたグレンデルヒが、目に見えない何かに襲われたかのように急に仰け反り、顔面に斜めの引っ掻き傷を作ったかと思うとふらりと倒れ込んでしまう。優雅に立つレナリアの背後に半透明な輪郭、三角耳を持った獣のような姿が明滅した。

 呆然とするファルファレロの真横から突如として暴れ牛が突っ込み、小柄な身体が宙を舞う。恐怖のあまり震えて縮こまっていたチリアットはとうとう一目散に逃げ出すが突如舞台に開いた奈落に落下する。


 二階席で仲間たちが全滅する様子を見届けたカルカブリーナは、震える声で「嘘だろ」と呟いた。俺も同じ気持ちだったが、まずは落ち着けとカルカブリーナの恐怖とストレスを抑制する。扁桃体に食い込んだ微細機械に感情を噛ませて代行させつつ、エミュレートした感情を出力して肉体を正常に再起動させていく。


「逃げ場が無いのに逃げるのは悪手、主導権を師範代に渡してカーインさんの後方支援しつつ敵の分析、大丈夫だ、俺は死なない――本当に? 俺の役割はもう無いって、親父と一緒に用済みになったんじゃないのか、クレイの芝居は父殺しの劇で、あの時に親父を助けようとした俺は舞台に求められて無いんじゃ」


 駄目だ、呼吸の乱れが止まらない。

 というか妙だ。感覚と感情の制御が機能していない。カルカブリーナとチリアットの両名は臆して動けず、ファルファレロも交通事故に遭った激痛で呻いている。

 体勢を立て直したマラコーダが第一の義肢を『創造クラフト』して車輪の女王ヘリステラの転生力を引き出そうとするが、手の甲にお馴染みの車輪を構築することが出来ない。為す術無くレナリアの鉤爪と体術に追い詰められていくマラコーダ。やや遅れて観客席の真ん中で立ち上がったルバーブを乱髪(スカルミリオーネ)と定義、彼に主観を合わせて再度のアトリビュートを試みる。


射影三昧耶形アトリビュート・異型一番――『路の女王』」


 今度は成功した。ルバーブの巨体がずんと質量を増し、彼が踏みしめる足下に呪力が満ちていく。いつの間にかすぐそばにカーインの姿があることに気付く。

 この男の事情もよく分からないのだが、ひとまず俺と同じくレナリアと敵対するつもりらしい。油断無く舞台の女を見据えながらカーインは言った。


「事故に見せかけた殺しを得意とするレナリアといえば、東方の第七世界槍に根を張る『黒斑病公司』という闇組織の頭目だ。あまりの邪悪さから『朱』の天主に破門されたという『夢界の殺し屋』――まさか盗賊王と同一人物だったとはな」


 レナリアの足下の床が迫り上がり、持ち上がっていく。

 階段状になった舞台の高みから、女は俺たちを見下ろす。


「あら、貴方も『御山』のご出身? 思わぬ所で同郷に会えると少し嬉しいわね」


「同感だ。名高き三兇手とこのような場所で出会えるとは望外の幸運だが――」


 ルバーブと横目で意思疎通を交わすカーイン。この二人は一度は拳を交えたこともあり、おおよその実力は互いに把握しているはずだ。その二人をして、今下せる判断はひとつしかない。


「――できるのは時間稼ぎだけ、か」


 カーインは不敵に笑って腰を落とし、構えを取った。


「結果的にアインノーラは虎の尾を踏んでしまったわけだが――そのお陰で重要な事実が明らかになった。猫の姫君には敬意を示さねばなるまい」


「言ってる場合?」


 迫り来るレナリアの鉤爪をルバーブの硬質化した腕が防ぎ、側面から貫手を放つカーインの猛攻を目に見えない何かが妨げる。レナリアの髪や服の中に潜む暗器、そして舞踏呪文が凄まじい速度で繰り出され、不運にもカーインが足を滑らせてルバーブに激突したおかげで全てが二人に直撃する。原因はバナナの皮だ。


 駄目だ、『サイバーカラテ道場』は機能不全でカーインたちの環境も最適とは言い難い。店員さんなら運気が悪いとでも表現するのだろうが、御守りも無しにこの相手と戦うのは危険過ぎる。俺がやるべきことは決まっていた。


「そういうわけだ、シナモリアマランサス。場面を転換しろ」


「グラッフィアガットと呼んでちょうだい」


 ダウナーで投げ遣りな声が応じて、舞台袖から紅紫フクシャの長髪を造花で飾った少女が登場する。両手には騎士と魔法使いの人形。


「ベルグくんと!」「ガルラくんの!」「むりやり人形劇がはっじまっるよー!」


 どんどんぱふぱふー。人形たちはやけくそじみた表情で飛び跳ねる。

 舞台を中断して黒幕を直接叩くことには失敗した。この場は強引にでも舞台を再開させて策を練る時間を稼ぐしかない。シーンの間に挟まるこの人形たちの幕間劇ならば、不自然な中断の辻褄合わせにはもってこいだ。


「そういうわけで、あとはレイちゃんに丸投げだ。頼むぜー、正直まーじで手詰まりだからさー」


 人形たちの活躍によって世界が『演劇』という枠の中に嵌め込まれていく。空間が歪み、認識が書き換えられていく中、謎の少年がクレイに語りかけているのが聞こえた。主役の意識は今もまだ劇中にある。劇が結末を迎えた時、きっとゼドの目的は成就するのだろう。今はそれをどう妨害するかを考えよう。

 敗北を噛みしめながら、小さな違和感を俺は見過ごした。

 カーインとセリアック=ニアにそれを問い質さなかったこと。

 俺は多分、恐れていたのだ。




 多分、夢だった。

 これはどこかで演じられた些細な一幕。

 目覚めたら忘れている、まどろみに溶けてしまうだけの嘘。

 学院を騒がせた六王たちは退学となり、学生たちは楽しい青春を謳歌していた。試練を経た若き王、無花果レイの表情は柔らかくなり、傍らの友人と軽口を叩き合う姿がよく目撃された。

 学院は平和で、日常は穏やかに過ぎていく。幼い人形の若者たちは遠い未来を夢見ていた。孤島の外、海の向こうに広がる世界で輝ける星にきっとなってみせる。夜空の星を見上げて願うように、彼らは意思を抱く。


 それは学院の王に据えられた無花果レイにとっても同じ事。漠然と思い描く未来はまだ形になっていなくとも、舞踏を学び、研鑽を重ねる日々はきっと無駄ではないと信じている。授業と部活で汗をかいた時間は、成果となって帰ってくる。積み重ねは必ず実を結ぶと、根拠の無い確信だけを頼りに進み続けていた。 


「楽しそうね」


 ふと、冷えた口調の言葉が投げかけられる。

 日暮れを迎えた時刻の練習場、他の部員たちが帰った後でもレイは未だに舞い続けていた。そんな彼を壁際に寄りかかって眺めるクルミ。練習着を身に纏った現在の彼女はトロフィーとしての侍女ではない。女子部員のひとりでしかないお前はそのように振る舞え、というレイの命令を忠実に守っている。


「舞なんて神に奉納するためのごっこ遊びでしょ。祭司王としての責務を熱心にこなすのは責任感から? それとも他にやることが無いの?」


 嘲るような口ぶりだが、込められていたのは真剣な問いかけの意思だった。

 動きを止め、クルミの瞳をまっすぐに見てレイは言った。


「そうだな。俺はこれの他にできることもやりたいことも知らない。ただ惰性で、形をなぞっているだけかもしれない」


「空っぽね。あんたに王としての中身なんて無いんだわ」


「そうかもな。それでも、『形』を研ぎ澄ましていくのは楽しい」


 レイの口から自然に出てきた『楽しい』という言葉に、クルミの表情が凍る。瞳が震え、何かを言おうとして失敗する人形。そんな彼女の動揺を露知らず、レイは遠くに想いを馳せるように練習場の天井を見上げた。


「転校してくる前、俺に舞を指導してくれた先輩にも言われた。俺の才能ならこれから先、いくらでも尊敬を勝ち取ることができるだろうと。その時の俺は尊敬など欲しくは無いと言ったが、今はそうでもない」


 先輩――ここにはいない誰かを懐かしむ男の口調は少し寂しげで、けれど誇らしげだった。楽しいというのなら、その思い出こそ楽しさに満ちているのだろうと思わせるほどに。


「称賛を受け取るのも、そう悪いものではない。何も無い俺だが、積み重ねたこの技術と見目が良いという外側の形だけで『ここにいても良い』というゆるしを得られるなら、それに報いる道を選んでもいいのかもしれない」


 クルミは言葉も無く、独白するレイを見つめていた。

 人形の端整な顔には少しの驚きとわずかな落胆、そして苛立ちと憧憬が入り交じり、やがてそれは強い感情へと変わっていった。レイの言葉は続いていく。


「先輩と約束したんだ。独りよがりの狭い舞ではなく、周りを見て踊る広い舞を見つけると。だから――そうだな。たぶん俺は卒業後もこうして練習して、ステージに立っていたいんだ。だからいま、こうしている」


 不意の問いかけから、自分自身の望みについての答えを導き出したレイの表情は晴れやかだった。クルミは何かを言おうとして飲み込み、重い溜息を吐く。

 ややあって、低い声で吐き捨てた。


「――そう。マザコンじゃモテないし、よかったんじゃない?」


 怪訝そうな顔をするレイだが、クルミは口をかたく引き結んでそれ以上の言葉を繋げようとはしなかった。レイは奇妙に思いつつも人形に語りかける。


「学院の平和を脅かす敵もいなくなったことだし、お前も先々のことを考えておけよ、クルミ。お前の腕ならこの先も続けていくことが――」


 最後まで聞かず、クルミは無言のまま練習場を去って行く。

 レイの呼びかけは虚しく響き、どこにも届かないまま消えた。

 暗転。世界は闇に包まれる。


「不思議なんだけどさー。六王を取り込んでも平然としてた君が盗賊王が入った途端好き勝手にされてるの、なんか変じゃない? 許容量の問題? 盗賊王がそれだけヤバいのかな。でもさ、今って中身も完全に『ミヒトネッセ』だよね」

 

 場面転換のために暗転した世界に星々の輝きが灯っていく。場面と場面の狭間、暗転した時空間を引き延ばして割り込んだ少年トレミーが侍女人形の顔を覗き込みながら問いかける。


「君が一番見えない。振られたとこ悪いけど、強引にでも探らせて貰うよ」


 伸ばされた手を、ミヒトネッセは意にも介さず舞台袖へと向かう。

 侍女人形はトレミーを認識していない。瞳には何も映らず、映さない。

 少年の手のひらに展開された呪術の構成が解かれ、光の帯となって人形の中に入り込もうとする。だが、それらは人形の体表面に触れる直前に見えない壁に遮られたかのように弾かれてしまう。


「うお、なんつー見ないフリの上手さ。どうしたもんかなこれ」


「やり方が手緩いんですよ。こういうのは、こうです」


 トレミーは愕然と声のする方向を見た。ここは彼が支配する時空の狭間だ。誰にも気付かれないように一秒未満の瞬間に作り上げたこの場所に足を踏み入れることなど、たとえグレンデルヒ級の呪術師でも不可能なはず。


「えい」


 トレミーの常識とミヒトネッセの無視を問答無用のグーパンチが粉砕した。侍女人形は鼻を潰さぬように顔を傾けたために頬に拳をめり込ませ、そのまま吹っ飛んでいく。腰の入った力強い右ストレートを放ったのは雪のような冬の化身、冷たくも明るい光を巨眼に宿す魔女、コルセスカだった。


「はい打撃に反応いただきました。あれれー見えてないんじゃなかったんですかー、時間が停止した空間で存在しないはずの相手に殴られてるのに演技が徹底されてないですねー、とう」


 仰向けに倒れたミヒトネッセ目掛け、コルセスカは両足を揃えて跳躍。魔女の全体重が人形の腹部にのし掛かり、衝撃のあまり呻き声が漏れる。それでもどうにか平然を装って立ち上がろうとするミヒトネッセの足が凍結。コルセスカは無造作に足払いをすると、そのままマウントを取ってグーパンチの雨を浴びせかけた。


「あの、ちょっとやり過ぎじゃない。女の子の顔をそこまでフルボッコにするのはどうかなーって思うんだけど、いやマジで。ていうかどっから出てきたの。ええ、嘘でしょ、何この空気」


「どこのどなたかは存じませんが、ちょうど良い空間だったので使わせて貰います。それからご心配無く、痕が残るような殴り方はしませんよ」


 突然現れた闖入者の暴挙に戸惑うトレミーと、他人の領域だろうと構わずに拳を振るい続けるコルセスカ。奇しくも時空間に干渉可能な『イマジナリーフレンド由来』とされる存在が顔を合わせた瞬間だったが、そうと知らないコルセスカはそのままミヒトネッセを痛めつけることに専心した。


 ボロボロになっていくミヒトネッセだったが、彼女は頑として目の前の事実を認めようとしない。ただ小さな呻き声が漏れていた。うわごとのような『認めない』という呟き。彼女の瞳は幻想を見ていない。そんな人形に拳を叩きつけながら、コルセスカは淡々と語りかけていく。


「『塔』時代、かつて私が何度こうやってボッコボコにしてもあなたは何も無かったかのように振る舞っていましたね。どんな痛みも強がりで乗り越えて、幼い男児のような頑なさであの子にちょっかいを出し続けた」


 言いながら拳を振り下ろす手は止めず、容赦の無い暴力は的確な痛みと衝撃を人形に与えていく。コルセスカの怜悧な瞳はいつになく寒々しく、見られた者の心胆を寒からしめるような冷気を発していた。彼女がそのような視線を向けている時点でミヒトネッセに抗う術は無い。至近距離からの邪視が人形を震えさせる。


「貴方のトリシューラに対する言動を私は絶対に許せませんし、許すつもりもありません。ですが先ほどのクレイとのやりとりで確信しました。私は貴方の行為を憎みますが、ミヒトネッセというキャラのことはわりと好ましいと感じています」


 瞬間、はじめて人形の表情が崩れた。

 瞳が動揺に惑い、必死に隠そうとしていた呻き声を隠せなくなっている。

 その隙を狙ってコルセスカの手が素早くミヒトネッセの頭部に伸ばされた。触れたのは人形のぜんまいばね。髪飾りのようにも見えるそれを、魔女はぐるりと無造作に回すと、強引に抜き取った。


「あ、取れるんですねこれ」


「ちょっ、やめっ、返しなさいよ!」


 思わず出てしまった声にしまったという表情になるミヒトネッセ。

 コルセスカはそれを見て満足そうな微笑を浮かべた。


「返して欲しいですか?」


「あ、それは、けど」


 無視しなければミヒトネッセの中で何かが壊れてしまう。

 自分に課したルールを破らされていることへの恐れと戸惑いが人形の言葉を途切れさせる。だがコルセスカは容赦をしない。


「ならまずトリシューラにこれまでの事を謝罪し、ラクルラール派の企みを残らず吐き出し、ついでに私に豪華ディナーと新作ゲーム代を奢り、更に私の言う事を何でも聞くメイドさんになってもらいましょうか。あと私が指パッチンしたら影から現れてスカートの中からナイフ投げるやつやって下さい」


「要求が多い! てか人をキャラ呼ばわりとか、あんた頭おかしいんじゃないの? これは現実なのよ、あんたみたいな幻影のお遊戯に私を付き合わせないで。偽物のくせに、自由さを演出するな!」


「なんだ出来ないんですか? はー、メイド忍者といってもその程度ですか。期待外れもいいところですね」


「余裕で出来るっての! 馬鹿にするのもいい加減にっ」


 気色ばむミヒトネッセには取り合わず、急に立ち上がるコルセスカ。

 見下ろす視線は冷え冷えとしている。そこには遊びも冗談も無く、ミヒトネッセは口を閉ざすほか無かった。


「貴方の現状はある意味で自業自得なので同情はしません。ですが根本的には私の責任であり、私が解決すべき問題でもあります。だからこそ、今ここで布石を置いておきましょう。この先に繋げるために」


 そう言って、コルセスカは制服の中に奪ったぜんまいばねを仕舞い込む。ここで返す気は無いという意思表示に、ミヒトネッセは異を唱えることができなかった。 氷の視線は、人形の身体を完全に凍てつかせている。


「あなたみたいないじめっ子の末路は大別して二つ。いじめていた相手に見返されて鼻っ柱をへし折られた後そのまま悪役に堕ちてバッドエンドか、なんだかんだで謝罪や和解があり互いの力を認め合う仲間となるかです」


「最悪の二択ね。どっちも願い下げよ」


 吐き捨てるミヒトネッセ。そんな彼女に降り注ぐ冷気が、微かに和らいだ。


「私は、どちらかと言えば都合のいいハッピーエンドが好きですね」


 そう言ってコルセスカは倒れたミヒトネッセを両手でひょいと持ち上げてえいやとばかりに遠くに投げ捨てた。闇の彼方に消えていく侍女人形。手で庇を作ったコルセスカは投げたものが舞台袖の向こうに落下したことを確認してからさてそれでは、とばかりに振り向いた。


「ところで、初めて見る顔ですが貴方はもしかしてクレイの――おや?」


 隔離された時空間の支配者はいつの間にかどこかに消えていた。

 コルセスカは訝しげに眉根を寄せて少し考えを巡らせている様子だったが、しばらくしてまあいいかとその場を離れていく。

 誰もいない闇の中で、コルセスカは微かな声で呟いた。


「ではサリア、アルマ、打ち合わせ通りにお願いします。残念なことに、今回のバッドエンドは回避不能ですが――せいぜい痕跡を残してやりましょう」


 強気に微笑む魔女の背後でほんの一瞬だけ炎と影が揺らめき、かき消えた。




 平和な学院が揺れていた。

 孤島に打ち寄せる波は荒れ、風は不吉を運ぶようにごうごうと啼いている。

 曇天から軋んだ空気が押し寄せ、生徒たちの日常に病と不作の影が忍び寄りつつあった。民衆は口々に災いの再来を嘆く。

 王は全ての敵対者を退けたはず。どうしてこのようなことに?


 試練は終わってなどいなかった。

 若き王が立ち向かうべき、最後の試練がまだ存在していたのだ。

 ぶん、ぶん、ぶん、ぶん。

 耳障りな羽音が死体にたかっている。


 侵略者という外敵を倒し、六王という内部の敵を倒し、王の目の前にはうずたかく屍が積み上がっていた。ハエがたかった人形の山を前にして、泣き叫ぶ者たちがいた。六王を慕う、彼らの部下や血族たちだ。

 しかし、旧生徒会執行部の残党に対して王が命じたのは冷たい裁定だった。

 彼は学院内部の秩序を引き締めるために、敵に容赦をすることはできなかった。

 甘さを見せれば次なる反乱を招く。

 平和を維持するためにこそ、厳しさは求められていた。


「この糞にも劣る畜生連中、不遜にもこの俺の父親を僭称した虫けらどもの死を嘆くことを禁ずる。その屍は野晒しとし、鳥に啄まれるに任せよ」


 肉親を葬るという家族の情が打ち砕かれ、生徒のひとりが海に身を投げた。

 レイはそれでも表情を動かさなかった。

 屍の尊厳を守るという埋葬の倫理を穢されたとして、墓守が首を吊った。

 レイはそれでも心を揺らさなかった。

 永遠の眠りを尊ぶというハザーリャ神への信仰に反すると先住民が毒を飲んだ。

 レイは沈黙を貫いた。


 若き王は冷酷だと民は恐れた。

 校庭に集った生徒たちは、全校集会の場で学院の王に訴えかける。

 嘆願する人々の言葉を、神殿の祭壇じみた壇上で王は無言で受け止めていた。


「どうか私に死者たちを葬る資格を与えて下さい、王よ! 何故あなたの法はかくも苛烈なのですか。私たちの内なる法と慈悲の心は嘆き叫んでおります」


「屍の尊厳を損なう事は埋葬の倫理にもとります。安らかなる眠りを妨げる事はハザーリャ神への冒涜に当たります。どうか、私たちに慈悲を」


 どこまでも厳しく、レイは民たちに命じた。

 人々は彼を恐れた。だが恐らく彼以外の誰が王であっても同じことであったろう、なぜならば国家の敵対者を貶める律法は彼がこの島を訪れるより前に定められたもの。急造でこしらえた王に嘆願するなど、はじめからナンセンスなのだ。


「ならん! 古き邪神の法など捨てよ、さもなくばこの国を去れ!」


「肉親を葬るは家族の情、それすらも捨てよと仰せですか」


「それは」


 レイは食い下がる人々の強い感情を向けられて言葉を詰まらせた。彼を責める民衆コーラスの叫びを、無理矢理に振り払おうと一気に捲し立てていく。


「いいや、いいや! 我ら死後の民、冥府より蘇りし再生者はあの世の裁きを待つことの無い身。冥府神ティーアードゥの裁定を恐れ、国家の法と内なる法を遵守する他の眷族種とは事情が異なるのだ。我らにとって裁定神ティーアードゥなど恐るるに足らず、ゆえにこそ秩序を維持する為には王国の法は絶対である」


「王よ、それは逆でございます。内心の法、神々が魂にお授けになった天与の法が裁かれぬからこそ、我らはそれを守り通すべきなのです!」


「形無きもの、裁くことのできぬものは幻と同じだ」


「ならば貴方は愛を捨てたのだ」


 強い非難の言葉がレイを突き刺した。捨てた、捨てたと唱和される声。その声が響くたび、若き王の表情が苦しみに歪む。世界の苦しみが頂点に達したか、ついに荒れ狂う天に雷鳴が轟き、黒く濁った穢れの雨が大地を汚すようになった。

 民衆の大合唱が王を切り刻む。


「父との愛を拒絶し、母との愛までも捨てるというなら、その証を法の剣で示せ」


 民衆が王の前に担ぎ出したのは、濡れ鼠となった侍女人形。

 侍女服のあちこちがすり切れ、顔は幾度となく殴られたかのように傷付いている。暴行を受けたらしきクルミの無惨な姿にレイは息を飲んだ。人形は己の運命を諦めたように息を吐いて、台詞を口にする。


「どうぞ、貴方が葬るべき屍を野晒しになさいませ」


 言われるがままに、王は鞘から剣を引き抜いた。

 レイが握るのは屍蝋の腕、誰かから奪われた筈の右腕。彼は存在しないはずの右腕で自らの右腕を握り、剣に見立てて人形に突き立てた。


「駄目だレイちゃん、その剣は違う!」


 誰かの叫びは間に合わず、鋭い影と人形の影が交叉する。

 雷鳴が轟き、閃光が舞台を覆った。

 クルミの口から血が溢れ、命が失われていく。それと共に彼女から彼女のものでない男の声が吐き出され、壊れたような哄笑が響き渡った。


「さあ約束の時だ女王よ、俺を死神にしてみせろ! 殺し屋の異名などではなく、『紀』に刻まれた理において死の執行者として承認しろ。血に汚れたこの手を濯ぎ、全ての罪と苦痛と死者どもの呪いから俺を自由にしてくれ!」


 侍女人形の影が幾つもに分かたれ、六人分の影が両手を広げて笑い続ける。

 王の剣に倒れた侍女人形、その遺体がどろりと崩れていった。

 腐り落ちた人形の肉、美しかった容貌は無惨な畜生のものと成り果てる。

 その面相はさながら腐った豚。


「ぶう、ぶう、ぶう、ぶう」


 ぶんぶんぶんぶん。屍にハエがたかり、不快な羽音が響く。

 王国に腐臭が蔓延していく。

 埋葬は許されない。忌まわしき敵に安らかな眠りは許されない。

 外なる法の体現者である若き新王は、いかなる内なる法の叫びもこれを黙殺すると定めている。ゆえに、屍とそれに縋り付く者たちの心には安寧は訪れず。


「なんということだ。女王は外敵との戦いに倒れ、今また新王の冷酷な裁定により二度目の死を迎えた! 埋葬も許されずに打ち棄てられた女王の骸、そのなんと哀れなことか! おお槍の神々よ、願わくばこの暴挙を見過ごし給え、さもなくばどうか怒りを収め給え!」


 コーラスの恐れおののく声、音とシルエットだけの民衆たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。彼方から投擲され、島を貫く巨大な質量。幾つもの槍が王国を襲っていた。女神の死を嘆いた槍の神が荒ぶっているのだ。

 降り注ぐ穢れと槍の雨、蔓延する病、不作、荒天、不運。

 災いは王国の未来を閉ざし、若き王の表情を絶望に曇らせていく。

 民衆たちの姿無き声が無慈悲に響いた。


「豚こそ多産の象徴、命と性を司る獣。祭壇に祀られた女神の聖性が淫欲の仮面を被るとき、巫女は死と無垢なる愛の役割を担う。反転したのだ、女神と巫女が!」


 侍女人形の遺体、蝿まみれの豚の屍がゆっくりと立ち上がる。

 蘇りの過程でその腐肉は崩れ、しかして不気味に蠢き膨張し続ける。

 砂と泥にまみれた女の髪の毛に、きらりと光るのは質の異なる髪。

 彼女が掠め取った蜂蜜色の一房。


「人形に盗まれた女神の髪、呪いを伝えるそれこそが操り糸」


 六王を取り込んでさえ自我を保っていたミヒトネッセが、ゼドを取り込んだ途端に存在を支配されてしまったのは何故か。ゼドが六王を上回る紀人であったからか、それとも人形の許容量を超えたからか。

 どちらでもないと、蜂蜜色の操り糸が語る。

 ミヒトネッセという存在の支配権など、既に彼女には無かったのだ。

 クレイは、崩壊した舞台の上で役目を失っただけのただの若者は、目の前の少女の変わり果てた姿を見て、悟った。

 自分が貫いたものの正体を。


「無垢なる巫女を穢したな、死せる愛を貫いたな。それこそが王の罪、母との姦通である! 慣習法で定められた家族の禁忌、知らなかったでは済まされぬ!」


 幾つもの声がクレイを責め立てる。

 彼はただ運ばれてきただけだ。そこに彼の意思は無く、そこに彼の決断は無い。

 クレイは剣だ。自らの意思と決断を主君に委ねた純粋な道具。

 だから何も考えない、だから何も懊悩しない。

 そうであったはずなのに。


「おお、見よ! 若き王は遂に破滅の予言を成就させた。それと知らずに六人の父を殺し、それと知らずに母を愛したのだ! インセストの禁忌、情交の咎、近親者と寝所を共にすること罷り成らぬと法に定め置きながら、王が自らそれを破るとは、なんと嘆かわしいことか!」


 よろめくように後退り、舞台の端まで追い詰められるクレイ。

 手には血に染まった剣。いや、血塗れの右腕。

 彼の右手は何も握ってなどいない。

 舞台に上がった時点で彼は自分自身の腕を取り戻していた。

 王は自らの腕を汚して女を貫いたのだ。


 侍女の服と人形の身体、腐った豚の頭部を持った異形の屍が、じっとクレイを見つめていた。虚ろな眼窩から覗く底無しの闇と蛆の白を少年は恐れた。

 膨張する腐肉は寄生していた侍女人形の身体に収まらず、ついに豚の頭部は器から溢れ、服を脱ぎ捨てるように天井近くまで伸び上がる。

 がたりと音を立てて捨てられた人形の胴、割れた頭部。

 哀れな敗残者を舞台から押し退けて、腐肉と蛆と蝿と黒々とした瘴気によって構成された異形の怪物がその巨大な全身を明らかにしていく。

 醜い豚の頭部、その右半分の腐肉がごっそりと崩れ落ちて白骨が露出する。

 虚ろな眼窩に、死を象徴する冬の氷雪が結晶して眼球となった。


「松明に蹂躙された不毛の樹木いのち――世界樹の焼失と共に失われた『死人の森』に収獲の春は来ない。ならば実るように育てればいい。無花果の剣よ、裁定の時です。貴方に相応しいのは収獲ですか、それとも剪定ですか?」


 聞く者を蕩けさせるような甘やかな声だった。

 残酷な問いを投げかけているとは思えぬような美声に、クレイは恐怖しながらも興奮を隠しきれない。恍惚とした表情で、彼は愛すべき存在が自分を求めているという幸福を甘受する。母に縋り付く幼子そのままの表情で、クレイは収獲という言葉を繰り返し叫んだ。


 だが、豚は淀んだ視線を子供に向けるばかり。

 退屈に倦んだような溜息を吐くと、そのまま頭を巡らせてここではない何処か、舞台を破壊する槍が飛んできた方向を見据える。

 舞台の中心を貫く、とりわけ巨大な槍。

 豚は腐肉の塊を蠢かせた。すると黒々とした汁液を溢れさせながら肉が爆ぜて内側から真っ白な腕が飛び出す。ほっそりとしてはいるが、サイズ感の狂った巨大な手が柱の如き槍を掴み、一気に引き抜く。

 槍を掲げた怪物は全身に歓喜を漲らせて叫んだ。


「やっと取り戻せた。私の浄界、私の死人の森、私の世界槍、私の力。未だ完全ではありませんが、感慨深いものですね」


「世界槍――? 陛下、それは、どういう」


 クレイの不思議そうな問いかけに、豚の女王はうっとりとした表情で答えた。

 彼女が握る槍は、いつのまにか氷の視線によってその在り方を変質させつつある。いまやそれは氷によって形作られた透明な槍なのだった。


「これこそが私の槍。『心臓』を降臨させるには世界樹との融合深度が足りませんが、力を取り戻した今ならミューブランの地下大空洞から『さかしまの森』を招き寄せることくらいはできるでしょう」


「心臓というのは、トライデントの? ミューブランというのは亜大陸の、聖絶によって燃やされたティリビナ人たちの霊峰のはず。陛下とどのような関係が」


 クレイは何も分からずに戸惑うばかり。

 女王は小さい子供に昔話を語り聞かせるように、未知の言葉を紡いでいく。


「本来の第八世界槍である世界樹ティルブ=ユグドラシルは松明の炎によって死を迎えました。その後、欠落した世界の軸を私の槍が埋めて安定化させた。それが現在の上書きされたこの世界槍というわけです」


「この世界槍――陛下の槍? その、申し訳ありません、俺には何が何だか」


「そうですね。貴方にも色々と教えねばなりませんが、その前に」


 蝿たちの赤い複眼が一斉に打ち棄てられていた侍女人形の残骸を見る。慈母の崩れ落ちそうな微笑みが歓迎の意思を示した。

 突然むくりと起き上がる人形にクレイがびくりと身を震わせるが、直後その表情が驚愕に染まる。侍女の姿は幻のように消え失せて、そこには薄汚れたコートとテンガロンハットの陰気な男が立っていたのだ。

 豚はそれを見て大いに鼻を鳴らした。


「愛しい愛しい私のクレイ。可愛い可愛い私のリル。雄々しい雄々しい私のイアテム。愉快な愉快な私のグレンデルヒ。素敵な素敵な私のゼド、ぶうぶうぶう」


 異形の音にクレイは身を震わせ、ゼドは薄く笑った。

 盗賊王を見下ろす巨大な女王はひとしきり笑ったあとにこう続ける。


「ぶう。私が教育ビルドした生徒ユニットたちの中で、貴方は最も優れていました。ぶひぶひ。過去からの指し手プレイヤーである私の優位性は、手駒ユニットの育成と準備を事前に仕込んでおけることぶう」


「それは光栄だがな、女王。娼館での契約を忘れるな。俺はあんたの同盟者となることを絶対遵守の法に誓ったが、部下にも生徒にも傀儡にもなったつもりはない。俺はゼド、おまえたち過去の永遠の敵である盗掘者だ」


「ぶう。私たちを忘却から救い出し、歪な形に零落させる忌まわしい救い手であり理解者。それが貴方ですぶう。貴方のアキラ様への執着も含めて、これからの働きにとっても期待していますぶう」


「食えない女だ」


「豚だから食べられますぶう」


 言ったそばから豚の肉が腐り落ちた。

 二人のやり取りがまるで理解できずに困惑するクレイ。そんな彼を他所に、女王から盗賊王へと何かが受け渡されようとしていた。

 ぶうぶう鳴きながら豚が口と鼻から垂れ流すのは黒く濁った油だ。

 ゼドは帽子を脱ぎ、頭上から降り注ぐ汚液を頭で受け止める。

 異様な光景に凍り付くクレイの思考。

 そんな彼をゼドは油を浴びながら横目で見やる。面白がるような視線だった。


「権能の譲渡に少し時間がかかる。その間に話でもしてやったらどうだ」


「フゴッ、そうですね。クレイ、貴方の頑張りも称える必要がありますぶう」


「こ、光栄です」


 豚の女王の口と鼻は盗賊王への呪術的行為で塞がっている。

 そのため、巨体の腹を突き破って現れた新しい頭部がクレイに語りかけた。

 子豚のつぶらな瞳がクレイをまなざし、瞬時に腐り落ちる。

 

「ぷぎっ。神話の踏破、ご苦労。さぞ混乱しているでしょうが、クレイにも分かるように簡単に説明しますぶひ。私の目的は、『死人の森』のアップデート。再演によって新たな神話を生み出すことだったのです」


 豚は次々と新たな頭部を誕生させていく。腹を突き破って飛び出す子豚たち、出血を伴う多産の家畜が清らかな声で神話的スケールの企みを明らかにしていった。


「六王内乱からの衰退と滅亡、宝剣の劣化を経て忘却に沈んだ『死人の森ヒュールサス』は最終的に鈴国ジャッフハリムに飲み込まれ、再生者オルクスは抗齢呪術によって生まれた長寿者メトシェラたちに上書きされました。ですが悲観することはありません。当然、私はこの世界槍の中核にバックアップをとっておいたのです。ぶう」


 『当然』――その言葉を強調した途端、ゼドが小さく含み笑いをした。

 クレイは怪訝そうな顔をするが、女王は構わずに続けた。


「ですが再演をしても前と同じではいけませんぶひ。解釈を変え、役者を入れ替えて新鮮さを出して行く必要がありますぶう。そのための貴方です、クレイ。私はあなたという主演俳優を最高の存在に育て上げる必要がありました。ぷぎゅ」


 舞台が震え、姿無きコーラスが一斉にクレイの名を称える。

 世界そのものが彼を必要としている――ここは彼のための世界なのだ。

 クレイは、それを誇らしい表情で受け止めるべきか、驚きの表情で受け止めるべきかを判断しかねている様子だった。


「俺にそこまでの期待をかけて下さっていただなんて――陛下、ありがとうございます。この腕の剣に誓って、どのような役でも演じきってみせましょう」


「うーん、まだちょっと真面目ちゃんですね。ぶう。ミヒトネッセとのフラグ管理が甘かったかもしれません。イベントをもうひとつふたつ挟むべきでした。喪失への怒りも情欲の喚起も足りていない」


「陛下?」


 輝くような視線を向けるクレイを、女王はじっと眺め続けていた。

 それは愛し子に向ける目というよりも、実験動物を観察する時のような冷静なものであり、どこか退屈さと諦観の入り交じった暗い視線だった。


「蠱毒――いえ、星見の塔トーナメントと言った方がわかりやすいでしょうか」


「はい?」


 甘やかだった女王の口調が急激に冷えていく。

 未来への期待に満ちあふれていたつぶらな子豚の瞳は残らず腐り落ち、ぼとぼとと舞台に落ちていく幼い命たち。子供たちの未来は無惨にも潰えていく。


「全ての試練ゲームはレベリングのためにありました。戦闘と捕食による自己強化、槍の理を内面化して殺し、奪い、勝利するハックアンドスラッシュの蛮人ゼノグラシア。六王というステージボスを撃破し、新たなアビリティを獲得していく過程。ええ、『マレブランケ』のスロットに六王の仮面ペルソナを追加していくことで、紀人シナモリアキラはより強くなる。あとはアキラ様とクレイが喰らい合う決戦を残すのみ。どちらが勝利しても私の理想は完成するはず」


「おいおい、俺を忘れてくれるなよ。好きな方とガチで喰らい合わせてくれるんだろう? 俺に負けるようならお前には不要な役者ってことだからな。全く、冷酷な女神様だ、豚ってのは沢山生むから子供への愛情が薄いのか?」


「失礼なことを言わないで欲しいぶう。私は子供たちを信じているのですぶひ」


 クレイを放置して、二人の怪物が忌まわしい話し合いをしている。

 若者にはそのおぞましさがわからない。

 自分が置かれている立場が、ことここに至ってもまだ理解し切れていない。


「なあおい、それで女王よ。そこの新人は使い物になりそうなのか? いいように踊らされて、あてがわれた自分の女をゴミ同然に扱われてもまだ尻尾を振っている可愛い子犬ちゃんに、剣の資格があるのかよ?」


 手酷い侮辱にかっとなって頬を染めるクレイだったが、言い返すだけの言葉を持っていないことに気付き、押し黙る。ゼドの言うとおりだった。この状況は、彼にとって本当に喜ばしいものなのか?

 湧き上がる疑問に、豚の女王が悪意を被せてくる。


「クレイ、可愛いクレイ。貴方が正しく新王の役割をこなせるかを試すため、役の解釈を問います」


「はい、何なりとお答えします」


 背筋を伸ばして豚を仰ぎ見るクレイ。

 自分はまだ試されている段階なのだ、この嫌な空気は気を引き締めるべきだという警告なのだと己に言い聞かせながら、新人俳優として最終面接に臨む。

 そして、手酷い圧迫がその心を打ちのめした。


「日常シーンの解釈ですが、若き王は侍女に手を出していたと思いますか? ていうか正直、自分に傅く美しいセクサロイドにむらむらきませんでした?」


 唖然とするクレイ。げらげらと大笑いするゼド。

 母親が息子にする質問としては最悪の部類だ。クレイがごく普通の家庭の少年であったなら、恥ずかしがって誤魔化すか、「うるせえクソババア」とでも言って自分の部屋にでも閉じこもる所だ。だがクレイにそんな態度がとれるはずもない。


「いいえ! 俺は、そのような――」


「それはおかしいですね。ちゃんと欲情するように設定してあるのに」


 女王の言葉を、クレイはまたも受け止め損ねた。

 理解できない。理解できない。理解したくない。

 何かがおかしかった。それに対してショックを受けてはいけないはずなのに。


「誤作動を防止するため、性的なものに近付くと強いショックを受けるよう貴方の魂にはロックをかけています。『部位』などの記号に惑わされることなく、対象の本質にだけ惹かれ、欲望するように設定しました」


 剥き出しの乳房や裸体との接触による気絶。

 クレイにとって異性との過度の接近は禁忌だった。

 理由はわからない。ただそう定められていたからそうなのだと思っていた。

 だがそうではないと、女王は語る。


「私が入り込んで以降のあの人形は、貴方にとって魅力的だったはず。ええ、かつて私と契約を交わしたファウナも忘れられない人になったでしょう? 試作体の貴方が羊飼いの少女を捕縛してきた時、これだと思ったのです。厳しさの中に柔らかさを感じる、貴方にとって適度に都合の良い年上の異性。私への忠誠と両立しうるだけの好意の萌芽はあったはず。それは当然のこと。私しか愛せない貴方は、私が端末化した恋人役だけをそうと知らずに犯すことができる」


 無自覚のインセスト・タブー。

 クレイの脳裏に浮かぶ、血の記憶。

 舞踏の師ファウナの胸を貫き、王の侍女クルミの胸を貫いた自らの穢れた手。

 自分は知らないうちに母親の影を殺し、捕食し、陵辱していた。

 ファウナを自らの意思で殺したと思っていた。

 クルミを役を演じる形で殺したと思っていた。

 違ったのだ、全ては予定されていた。


「陛下、俺は、何なのですか」


 震える声で問いかけると、豚の顔が醜く歪んだ。

 ありったけの悪意を込めて、わざとらしく敵意を掻き立てるように。

 お前の敵はここにいるぞと煽って見せる。


「妄想妖精クランテルトハランス。古代の妖精王は理想の兵士を創造するためにこの呪術をこぞって研究しました。伝え聞くところによれば帝国最強の夢女子セレネ=フルエルミーナは理想の彼氏を同時に百人以上も具現化・維持できたとか」

 

 私もそうできればよかったんですけど、と少し残念そうに豚の頭が項垂れる。

 邪視には向き不向きがあり、その性質にそぐわない大軍勢を構築することはできない。『死人の森の女王』が統べるのは屍の群れでしかない。


「クレイ、貴方は道具。そして私が切り離した端末」


 肉体の一部、自己愛の対象。シナモリアキラが第五階層を拡張身体として扱うのと全く同じ。自我を持った身体性の延長。それが子供、それが家族。

 女王は腐り落ちた肉を眼差し、邪視によって変容させた。

 死が覆り、再びの生を受けた肉塊がクレイそっくりの顔を形作る。喃語を口から漏らす出来損ないのクレイが女王の腹から次々と湧いて出て来ると、そのままどろどろと腐り落ちて崩壊していった。


「父親は、えーとそうですね。私がこれまでに触れてきた無数のキャラ、数々の彼氏たち――ああ、貴方も夢主である私の亜種彼氏ではあるのですが――しいて言えば、そのへんがクレイの元ネタです。創作ってそういうものでしょう?」


 クレイは女王の息子だ。

 だがその扱われ方はどうだ。造物主としての傲慢な振る舞い、愛を嘲笑い、子供の運命を弄ぶかのような悪辣な所業。

 純粋な心で主君に使える騎士という在り方を信じていた若者の心に嵐が吹き荒れる。天を仰ごうとも祈るべき神は彼を裏切った。ならば彼はどうするべきか。


「復讐だ! 復讐しかない!」


 合唱する声がクレイの背を押していく。

 そうだやっちまえと煽るゼド。己の正体を知って身を震わせるクレイに期待の視線を送る豚の女王。ぶうぶうと鳴き、興奮して叫ぶ。 


「ああついに! 造物主の課した運命に抗うのですねクレイ? やっと反抗期、素晴らしい、それがトゥルーエンドへの分岐です! 憎いですか、私のことが! 暴虐の父権! 支配の母権! 抗いようのない権力で子供をモノとして扱う親を、内心の自由さえも縛る呪いを、断ち切る決意ができたのですね?」 


 女王は今やこの世で最もおぞましい豚の怪物に成り果てていた。

 濁った声、腐り果てた眼球、蝿と蛆に塗れた悪臭まみれの蠢く肉塊。

 黒々とした汁を垂れ流す口には爛々と光る猪じみた牙、豚の鼻を歪に融合させたような触手がクレイを取り囲み、明確な敵意を向けている。

 怪物と対峙した英雄は、しかし俯いたまま動かない。

 女王は首を傾げて顔を近付けた。


「どうしたのです。親殺しを成し遂げなければ真の意味で完成することは――」


「俺には、貴方に刃を向けることなんてできません」


 透き通った視線だった。 

 刃の如き両目の鋭さは、今や見る影も無い。

 潤んだ瞳に宿るのは、どのような事実があったとしても変わらずに向けられる母への、主君への慕情。それが異性への欲望として設定されていたとしても、恋い慕う想いが醜悪と蔑まれる近親相姦の肉欲だったとしても、彼が辿ってきた忠義の道は、剣という形は嘘では無い。


 だからクレイは憎しみと敵意を抱かないし、抱けない。

 かくして望まれた展開、悪意の演出は滑稽な見世物に終わった。

 豚の女王はしばしの沈黙の後、深々と溜息を吐いた。


「あーあ、まーたノーマルエンドですか。どこで分岐間違ったんでしょうね。これではソルダはおろかガドールにも通用しません」


 いつのまにか油を受ける儀式を終えていたゼドは、飽きたと言わんばかりに舞台から降りてがらんとした観客席を横に使って寝転んでいた。見るに値しない舞台だから寝ると無言で主張し、わざとなのかいびきまでかき始める。

 女王もまた、よしと気を取り直した。


「ま、いいでしょう。やり直せばいいことです」


 巨大な手を生やし、腹部に突っ込んで泥のようなものを取り出す。

 粘土だ。舞台の上で、幼児がそうするように一心不乱にこね始める。


「キャラメイク、キャラメイクと――今度はもう少しオスっぽいデザインとか? ぶひっ、ビルドは戦士系スキル主体で、儀式系は紀人ツリーに届かせるための必須分だけ取得する方向で。経験値ポーションと好感度アイテムぽーいっと。ぶう」


 大量の薬瓶とクッキーが虚空から出現し、出来上がった粘土人形に頭上から降り注ぐ。新しい被造物は美しい少年に生まれ変わって造物主に無垢な好意を向けた。


「いいのですか? 俺などにこのような贈り物を――光栄です、陛下。大切に、ずっと大切にします。陛下の真心に応えられる戦士になることを、ここに誓いましょう。ずっとおそばで、陛下を守らせて下さい」


 キラキラと燐光を放つ少年の笑顔。無垢な信頼、無償の好意が瞬間的に高まり、女王に対して向けられる。


「わーいイベントスチル回収ー。好感度ボーナスは体力と器用さですか。敏捷性欲しかったなー。あとは装備だぶー虚無周回頑張りますぷぎゅ」


「あの、陛下?」


 クレイが――クレイとして期待されていた役者が震える声で母を呼ぶ。その視線は恐怖に染まっていた。新しく作り出された泥人形。今まさに生命を獲得し、確固たる自我を確立しようとしている『クレイ』に、『クレイだったもの』はひどく怯えていた。女王は言った。


「ああそうか、まだいたんですね。うーん、じゃあチュートリアルバトルいってみましょう。クレイ。私の可愛いクレイ。練習用のエネミーを倒して、経験値を獲得するのです。前のデータを引き継いで強くなりましょうねー」


 柔らかな慈母の声が命ずるままに、新たなクレイはどこかたどたどしい手つきで手刀を構え、見捨てられたものに斬りかかる。逆らうことを知らない子供は、母親の暴力から逃げる術を持たない。刃は無慈悲な死をもたらす。

 かと思われたその時だった。


 透明な蝿と共に矢が飛来し、クレイだったものの致命傷を瞬く間に巻き戻していく。傷一つ無い『クレイ』を空間を引き裂いて現れた雪のような少女が攫い、豚の邪視を氷の盾が遮った。観客席から飛び上がって快哉を叫ぶ盗賊王の銃弾を、義肢の男が軌道を予測して回避、赤毛のアンドロイドが反撃の号砲を鳴らす。


「これは合図のための射撃なので銃規制セーフ!」


 叫びながら音響呪文を解放、『爆撃』の雨をゼドに浴びせていくトリシューラ。

 シナモリアキラの左右の義肢がゼドの両手の拳銃と激突し、クレイを片手に抱えながら『新しい方のクレイ』を一瞬で凍結させたコルセスカが豚の邪視を防ぐ。三人は敵対する怪物たちと数度の衝突を経て距離をとり、舞台の上で睨み合った。


 どんな仕打ちを受けてもひたむきな信頼を母に寄せていたクレイは、見捨てられ、殺されかけたショックで今度こそ茫然自失となっている。コルセスカとシナモリアキラの視線が強い感情を乗せて豚の女王を貫く。


「――ルウテトッ!」


「はい、アキラ様。貴方のルウですよー」


 女王は可愛らしく小首を傾げて、真っ白な手を振ってみせる。

 死の化身たる醜悪な怪物と、その傍らに侍る陰気な死神。悪辣な再演の舞台を支配していた古き神と新しき神は、因縁の仇敵と遂に直接の相対を果たした。

 死人の森の女王ルウテトは、豚の皮を脱ぎ捨てて真の姿を露わにする。

 左半身は薄翅を広げる美しい光妖精の美貌。

 右半身は骨の翼を突き出した穢れた死者の異形。

 頭蓋骨の仮面が顔の片側に貼りつき、闇のような眼窩から氷の瞳が迫り出す。

 氷の槍を手にした魔貌の女神は、裸身を骨のドレスで覆うと無邪気な笑みを見せてこう言った。


「役者は揃いました。もはやこの期に及んで紀神としての宣名を躊躇う理由はありません。愚かな小娘、失敗に向かうだけの終わった私。誰が真の邪視者であるのかを、今こそ教えて差し上げます」


 ルウテトの敵意ははっきりとコルセスカに向けられていた。

 険しい表情でもうひとりの自分と相対する冬の魔女は、眼前の結末を予想するように覚悟を決めた表情だった。反対にルウテトは勝利を確信した口調で言い放つ。


「この世界槍の名を教えましょう。誰も意識できず、疑問に思う事すらできなかった認識のヴェールを取り払ってね」

 

 シナモリアキラとトリシューラは、その危機を共有できない。

 だからコルセスカは、傍らの炎と影に命じて二人の前に移動させる。

 そして自分は、クレイを背後に庇って強く前を見据えた。

 言葉が来る。最大級の宣名、紀神の名に匹敵するかそれ以上の呪力が解放され、真実の開示が森羅万象の支配権を書き換える。

 女王が握る透明な槍が伸張し、世界を貫いていった。


「ここは第九世界槍、揺籃命宮アイスナイン。私が持つ九氷晶の最後のひとつ、『氷槍』そのものです」


 明かされた真実と共に、貼り付けられていた世界の野蛮が砕け散る。

 舞台に突き刺さっていた幾つもの槍が全て塵と化し、氷細工の透明な槍だけが女神の手に残される。いま、世界は変革の時を迎えたのだ。

 シナモリアキラたちは荒れ狂う呪力の奔流によって為す術も無く舞台から押し流されていく。力ある紀人たちでさえ抗えない、絶対なる理。

 階層の管理権限を完全に奪われたトリシューラは抗うことができず、シナモリアキラもまた自身の身体を縛られてしまっている。

 ただひとり、コルセスカだけが強い視線をルウテトに向ける。

 女王は薄く笑み、強く瞳を輝かせた。


「分かっていますよ。これでようやく始められる――それでも、最後に勝つのはこの私です。第一浄界――『ステュクス』!」


「第二浄界――『コキュートス』!」


 視線が激突し、時空が軋みを上げる。

 世界観同士のぶつかり合いの果て、敗れたのはコルセスカの世界だった。

 この世界は既に冥府であり、死の女王が統べる手のひらの上。

 森羅万象が捩れて虚空の一点に溶け落ちる。誰も彼もが奈落の大穴へ落とされて、生ある全てが落ちた後には存在という存在が死とひとつになっていく。

 全てはまどろみの中に。

 これは完全なる力を取り戻した紀神ルウテトが見る、グロテスクな夢想だ。


「いい子ね、可愛い坊や。さあ、これからもお母さんが守ってあげる。お腹の中にいらっしゃい。素敵な現実から醒めて、悪い夢を楽しみましょう――?」






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