4-65 第五階層のシナモリアキラ
暗い深海の夢は、いまや輝けるステージとなっていた。水底に沈む狂い姫の絶望は透き通ったアイスリンクに閉じこめられて、氷上を滑る冬の魔女が作り出す幻想は根拠のない希望を映し出す。
対決は必然だった。
時間の前後すらあやふやなこの世界において、滑走順などあってないようなもの。全く同時に演技を開始した両者は、お互いの表現を塗りつぶすようにして自己の存在を主張していく。
光の軌跡を残して舞うコルセスカの滑りを、リールエルバの背後から放たれたコウモリの群が覆い隠す。マジカルアピールによる相手のアピールの封殺は、競い合いという形式すら放棄した陰惨なつぶし合いに等しい。
しかし、邪視者のアピールを単純な妨害で押しとどめることは不可能だった。
竜巻のように激烈なスピンと共にスケート靴が周囲の穢れをまとめて切り刻み、冬の旋風と化した氷晶が舞い上がって夜天を彩る星となる。
闇を前提とした光のイメージをマジカルアピールに組み込む即興のカウンター。
コルセスカが行ったのは一種の共演強制だった。
邪視者の有り様と同じく、夢の世界はなんでもありだ。『なんでもあり』同士がぶつかれば、強い方が弱い方を押しつぶすのが道理。だが『そんな敗北は認めない』という居直りの前にはあらゆる意思が無意味と化し、その者もまた世界から居場所を失う。
ゆえに小鬼に堕ちることを望まない邪視者は他者に己の傲慢を承認させようとする。必要なのは他者との調和、妥協、あるいは協力の強制、それとわからぬような洗脳、誘導。人を惹きつけ納得させる程の強烈なカリスマ。
魅力を持つ者、すなわち邪視者。
コルセスカがやったのは協力の強制と魅力的演技の複合呪術だった。敵対者の世界観を自分なりに解釈して最適な形に落とし込み、その上で自分の世界を魅せる。
四大系統で言えば邪視が七、使い魔が三という配分の技術であり、邪視で負けているリールエルバはこの点で不利と言える。だがその逆も然り。
ステージの上で喝采を浴びるスター。光が落とした影の中、地べたを這い蹲る負け犬は屈辱を噛みしめながら再起を誓う。失った過去の栄華、砕かれた誇り、傷ついた魂を血で染めて、黒いドレスを新調して再び立ち上がるのだ。
ドラマ仕立てのアピールが強調するのは暗い負の感情と穴に突き落とされる場面から始まる物語。美しい弱者や可憐な敗者が上を目指して抗う姿はいつの世も人の心を捉えて離さない。コルセスカの圧倒的輝きを前提とした魅力の利用。これも協力の強制。そして呪文による物語構築だ。
呪文と使い魔の技量ではリールエルバはコルセスカの上を行く。両者の戦いはより深い無意識レベルで世界観を承認させるための共演にシフト、二人の舞台は渾然一体となっていく。即興とは思えぬ当意即妙の呼吸、互いに不可分となった光と闇はさながら原初の創世神話。
雪解けの泥と化した夢世界。二人の魔女はどちらが真の主神に相応しいかを定めるため、狂ったように踊り続けた。
戦火の下、トリシューラはふと思い出す。
リールエルバというのはどのような人物なのか。かつてシナモリアキラにそう質問されたとき、さてわたしは何と答えたのだったろう。
『星見の塔』に所属する魔女、ドラトリアの狂姫、『守護の九槍』キロンとの戦いでシナモリアキラを支援し、その後も共闘を続けている『呪文の座』の一員。古い顔なじみにして因縁深い競争相手。トリシューラはリールエルバについて万の言葉を尽くして語ることができる。
けれどシナモリアキラが望む答えはそうではない。だからトリシューラはしばし考えてからこう言った。
「嫌いだけど嫌いじゃないし、好きだけど好きじゃない、みたいな感じかな。あの子は私の裏返しだから」
煙に巻くような答えだったが、シナモリアキラはなぜか納得したらしくそれ以上話題を広げようとはしなかった。実際のところ、どういう意味なのかと追求されても困ってしまう。なにせ言葉通りの意味しか無い。ある意味でリールエルバはもうひとりのトリシューラだ。その出自も運命も、在り方も渇望も。人工姉妹トリシルシリーズとして定められたコンセプトやデザインすらも。
最初のトリシルと最後のトリシル。シナモリアキラがあちらを選ぶという状況は充分にあり得ることだった。彼が協力を強制されることを防げなかったのは、彼自身がそれを望んでしまったから。彼がどうしようもなくトリシューラの『使い魔』であったからだ。
それを否定しようとは思わない。腹は立つし癇にも障るが、その欠点を含めたシナモリアキラだ。ならばこのくらいの修羅場、鷹揚に受け止めて『次』を彼に示してやるのが女王の器というものだろう。
だからトリシューラがやるべき事はたったひとつだ。
使い慣れない鮮血の剣を軽く握り直す。アンドロイドは猫姫に敗れて塵と消えつつあった白いアキラに切っ先を向けた。すると飛び散った鮮血と肉片は螺旋を描くように鮮血の刀身に吸い込まれてく。
死を吸い込む王者の剣。
ダモクレスの剣すら砕いてみせたそれは、鮮血呪の応用形でありトリシューラの王権でもある呪いの形だ。決意を手にした魔女は、迫り来るシナモリアキラたちを無造作に斬り伏せていく。
「始祖吸血鬼のアキラくんとか、カシュラムの我神十ニ限界とか、揃いも揃ってやることがマレブランケの猿真似だなんて創意工夫が足りなさすぎる」
模倣はいいが、研磨やアレンジに思い切りが足りない。シナモリアキラの拡張というやりがいある大仕事に思うさま取り組めるというのに、まったくもってやる気が感じられない。やるならもっと徹底的に破壊して、こだわり抜いてから創り直せばいいのに。
アキラくんはこんなにも素敵な可能性だっていうのに、みんな本当にスケールが小さいんだから。
「やっぱり下手っぴには任せらんないなー。どう考えてもアキラくんを一番上手く使えるのは私なんだもん」
調子が出てきた。トリシューラはノっている。苦難も試練も全ては乗りこなすべき絶好の波だ。いま私は最高に気分がいい。
「いよっし。それじゃあちょっと作戦会議しよう。そこのチョコリリ組、『心話』のチャンネル繋いでくれる?」
犬耳シナモリアキラを守る飼い主たちを『医療剣術・公衆衛生斬り』でばっさばっさとやりながら、トリシューラは『呪文の座』の同盟相手たちに切り出した。
「いや何なんですかあなた浮き沈みが激しすぎますよ」「なんかシューらんかっこいい!」「にあ。とりしゅーら、きぶんや!」
エラーを吐いていた機械が突然再起動したようにでも見えているのだろう、チョコレートリリー空組はやや戸惑い気味だ。が、そこは『塔』の魔女たち。すぐに切り替える。今の彼女たちには前進しか無いのだから。
ただちに圧縮言語による思念会議が行われた。
「にあ。にあにあにあ。にーあにあ」「にー?」「にあ!」「にゃおーん」「みあーおう」
圧縮言語は猫語とも呼ばれ、『星見の塔』で思念通信を行う際に多用される異界の動物会話技術である。暗号じみたやりとりは思念盗聴対策であるが、このままでは理解できないため、表記する場合は理解可能な形に翻訳するのが普通だった。
セリアック=ニア、にあーと鳴いて曰く。
『法の剣』たるファナハード公家の聖姫にはドラトリア王が暴虐をもって民を支配した時、王を討ち滅ぼす使命があるのだという。慈悲の名の下に振るわれる愛の御手、救世主の資格たる肉球と爪を組み合わせた祈りは孤独な病人を癒し、穢れを濯ぐ。『夜』と『昼』、貴と卑、聖と俗、壁の内と外。あらかじめ分断を内包した歪な国の秩序を保証してきたのはこの安全弁の存在だった。
「なるほどね。つまりセリアック=ニアによるリールエルバの断罪には大義があり、『剣』が役目を果たせば問題はドラトリア内部だけで完結すると」
猫姫の鳴き声を聞いてにあーとうなずくトリシューラ。
孤独の王を制御するために飼い慣らされた剣の獣。
ことの終わりに役目を終えた猫姫が自害すれば、愛する者をその手にかけて己も後を追うという悲劇性でドラトリアの歪な力関係は誤魔化される。涙無しには語れない物語として国民に消費され、同情や悲しみ、国葬の一体感によって国内の対立は先送りにされるという次第である。
対の生け贄姫。制度の悪辣さに目をつむれば、それは完成されたシステムに違いない。とはいえ猫姫の友人たちから|憤りの念(フシャー!)が漏れ出してくるのは仕方のないことだった。
「今はそれで全部終わりにするつもりはありません。だって姉様はセリアのことをわかってます。このままだと姉様の思い通りです。セリアは、それが嫌です」
それはセリアック=ニアが見せた明確な、そしておそらく初めての反抗だった。周囲が驚く中、精神体のためか小さいくせにはっきりとした口調で猫姫は続けた。
「重要なのは、討ち滅ぼされる王が同時に弱者でもあるという構図です。暴虐に抵抗するための秩序の剣は、時に暴力に訴えざるを得なかった者を正義の名の下に抑え付けるもう一つの暴力である――姉様がこの舞台を整えてまで再演したかったのは、加害と被害の両義性、あるいは双方向性です。姉様はおおむねこのように考えているはずです。セリアはそう思います」
リールエルバの行動は運命に対する諦観に規定されたものだという。
聖姫は狂姫にとって唯一無二の代弁者。その言葉には確かな信憑性があった。
「『昼』と『夜』の対立は国家で殺し合う狂気の沙汰。あなたたちを亡き者にして国内の分断を図ろうとした勢力に対する対抗呪文というわけですね」
ミルーニャは冷静に分析するが、その口調は険しい。とても納得している様子ではなかった。とくにリーナの怒りは激しい。
「ニアちゃんとリールエルバにそんな事はさせらんないよ! みんなが無事でいられる道がどこかにある、無かったら見つける! てか最初に二人をカルト教団だかに襲わせた連中が一番悪いじゃん! 絶対許せないよ!」
「いいえ、リーナ。セリアは、もう戦うべき相手を見据えています」
セリアック=ニアは既に新たな決意を胸に抱いていた。
破滅的な役割に殉じるのではない。
新しく築き上げた関係性から生じた動機。聖なる姫という役割に由来しない感情に従って、自分たち姉妹の宿命を変えようとしているのだ。
「私もそれには賛成。蚊帳の外で脇役やるのなんてイヤだからね」
そこでトリシューラは新たな視野を示すことにした。
鮮血の剣で狂犬アキラや鉄箱アキラ、食用アキラといった脆弱な始祖吸血鬼たちを一蹴し、加害者としての悪性がトリシューラに穢れをまとわりつかせていく。
黒い靄が三次元的に躍動し、漆黒の羽衣のようにトリシューラを飾る。ヒントはアイドルとして対決した夜の民モデル、スマルトから。光学的アプローチによる幻影のファッション。トリシューラは返り血と瘴気で身を汚しながらも、その醜悪さを着こなそうとしている。
黒ずんだ血霞を裂いて、トリシューラの衣装が更新された。変幻する体表面テクスチャ。まだこの段階では手探りだが、着実に答えに肉薄しつつある。
退廃的でグロテスク、露悪的でセンシティブ。
夜と死を漂わせつつ、黒い夜会服を身にまとって戦場を往く鮮血の魔女。
汚名にまみれているというのに魔女の表情は明るかった。迷いのない足取りで魔竜の下へ向かっていく。じきにアルマやグレンデルヒが激戦を繰り広げている最前線に到着するだろう。
進軍と平行して三人の魔女に伝わっていく作戦の概要。それを聞いた空組は、あっけにとられると同時、「やはり」という表情になった。
「私たち三人で」「ライブをする、ですか」「にあ?」
「そう。ついでに言えば、セスカと私も、だけどね」
トリシューラは念写機に向かって邪悪な笑みを作って見せた。既にイメージ映像の作成は始まっているのだ。
そもそも、魔竜とは何か。
問題をより突き詰めると、『魔』とは何か。
遂に魔竜と相対したトリシューラが三人に示したのは、そんな問いだった。
瘴気。古い時代のまじないの根底に流れるこうした考え方は、因果関係の曖昧さを力としている。
頭上から振り下ろされる巨大な前足を回避し、吐き出される汚れた吐息を赤い刃で縦に裂く。無謀な突進をフォローしようとアルマが盾を展開し、グレンデルヒが砲撃を繰り返した。英雄たちの援護を当然とばかりに当てにしつつ、トリシューラは『心話』で説明を続ける。
より新しい時代に体系化された『杖』的な考え方は、事象のプロセスを細かく切り分けていくものだ。分節化すると「ミアズマとはウィルスと細菌で別のもの」と判明し、神秘は解体されて零落する。
トリシューラに追随する対吸血鬼用の小型医療自走ドローンが瘴気の群を片端から解析し、内包する呪力を無効かしていった。作業用のアームでネズミを捕獲し、細胞を採取。幾つものセンサが闇を暴いていく。
近代的な『呪文』の考え方では時間的流れ、因果のあらましを物語として記述するため、原因と結果はきちんと整理される。瘴気は沼から生じるもの。神の加護が届かぬ場所。穢れが淀み、悪い空気がたまった場所。具体的な原因は特定できずとも、文脈の構築と現象への対処は実行される。
セリアック=ニアの天使への祈り、リーナの箒による『掃き清め』が穢れを払い、一帯の空気を清浄なものへと変えていく。
結論からの逆算で世界や事象が確定していく『邪視』ではより直接的に神々や怪物のような悪しき存在への恐れ、幻想が生み出され、流れ出したイメージが隣り合うスキリシアの住人たちに影響を与えるが、それとてまずは現象ありき、事実ありきの因果である。
アルマが巨大な斧を黒い靄に振り下ろすと斬撃の軌道上に引き裂かれるべき血肉が構築され、具現化した吸血鬼アキラが無惨な死体を晒すことになる。世界法則そのものという曖昧な存在であるはずの魔竜レーレンタークは確たる質量を持った巨大なネズミの化け物となり、物理攻撃が通る世界へと変容する。ただ殴り合っているだけに見えるアルマは被害者たらんとするリールエルバと敵味方で協力して魔竜零落の大呪術を実行していた。
「けど、このやり方では魔竜の本質には届いていないんだ。なぜならここにあるのは、魔竜の影だから」
トリシューラが分析した魔竜の正体。
彼女の理解によれば、ここで魔竜と戦っても勝利を得ることは不可能だ。なにせ魔竜はここにはいないのだから。
「どういうこと?」
首を傾げるリーナに、セリアック=ニアが答えた。
「古代のカーティス、あるいはその前身であった魔竜の霊媒は、今で言うところの『使い魔』を得手とするまじない使いだったんです。そこでカーティスが行っていたのは『影占い』。この世ならざるあの世に干渉する技術――『あの世』というのは、死後や異界のみならず、過去や未来も含むのです」
リーナたちは知らないが、トリシューラは実体験を通じて理解している。
再演の舞台でのカーティスとの初邂逅。より古い階層、すなわち過去から未来に干渉を仕掛けるという、パーンすら驚愕させた超越的呪術。
あの影の王にとって未来や過去といった区別、因果の順序などといった摂理は些細なことだった。
「古代ドラトリア語ではセリアたちが普段使っているような意味での『時制』の運用がされていませんでした。全ては可能なもの、取り得る形として記述され、過去現在未来は文脈無しでは等しいものとして扱われます」
猫姫の言葉に、そういえばとミルーニャが反応する。
「高地シェザールやヌト語に特徴的な流動的な時制とかいう奴ですか。こういうのはハルベルトの専門ですが、確かリールエルバも得意でしたね」
だから時間に関する思考までもがそのように規定される――と単純に結論付けるには『時間』に関する定義が十分で無く早計と言わざるを得ないが、少なくとも古代ドラトリアで記述された『呪文』は現代とは大きく異なるもので、その呪的影響は古代社会にも及んだ。
古代ドラトリアの『使い魔=呪文』は「なぜそうなるか」と「どうやってそうなるのか」という過程の分節化をあえて行わない。カーティスは時空をひとつの大きなまとまりとして捉えている。自分と他人を区別しない『大勢』は、自分を含めた時空、自分を含めた因果もまたはっきりと切り分けない。
概念化作法の差異。異邦においては、同じ世界を対象にしていても取り扱うための様式が異なることがある。
不確定な関係性から「全は(可塑性のある)一」と結論するのがカーティスという王の世界観だ。線的な歴史感覚は比較的新しい。寿命がある生物に現れやすい認識でもある。
古代ドラトリアには呪文の精髄たる歴史書など無く、空には占いと暦と農耕を発展させるための星が無い。原初の混沌と闇が支配するスキリシアの不死王は、曖昧に流れる時間を短命の種族と同様に認識することが苦手だ。
『再演』という形式でカーティスを再現したために現代人にもわかりやすいよう『時間移動』や『複数のカーティス』という翻訳がされていたが、カーティス当人の認識は異なっていた可能性が高い。
「『先立つもの』と『後に来るもの』との関係性を、ある意味で空間的広がりとして認識しているということですか?」
「多分ね。オルヴァの子供-老人サイクルみたいにぐるぐる巡る円環とも違う。祖であるカーティスと裔であるリールエルバが、あたかも一人の人間が連続性のある全身を動かしているように認識する感じ? 時空と因果が手足の延長線上にある器官なんだ」
「トリシューラ、それは少し杖に寄り過ぎな思考です。ただ、そうですね。『原初の土』がリールエルバのベースであることを考えると、『可塑性のある因果の粘土のような自分』を制御可能というのは理解できます」
「ああそっか、それで歌とダンスとステージなのかな? やっぱり呪文の座だね、リールエルバは」
「なるほど、わからんちんだ」「にあ」
トリシューラとミルーニャの交わす言葉を、リーナとセリアック=ニアは適当に聞き流していた。
いずれにせよ、カーティスの視座はひどく異質だ。
巡る季節という環で『また同じ時間がやってきた』と理解できればいいほうで、『死人の森の女王』が九冊の断章という形に封じなければ、あるいはセリアック=ニアの遠い祖先が『昼と夜』のドラトリアに縛り付けなければ、カーティスは命すらない漠然とした影のままだったかもしれない。
だからこそ隔離の障壁、幽閉の地下室は必要とされた。不安定に拡散するカーティスは自己増殖の果てに原初の闇に溶けかねない。
「未来のリールエルバが手足なら、頭であるカーティスの『紀源』は過去にある。魔竜も同じ。今ここにいるあの巨大ネズミは、過去に存在する魔竜本体が現代に投げかけている影そのものなんだ」
だからこそ、夜の民であるリールエルバは魔竜を支配できる。創世竜の霊媒という特権の正体とは、言ってみれば単純な相性、類似だった。
ミルーニャたちは解説に一定の納得を示しつつも、続いて浮上してきた更なる疑問を口にする。
「敵の所在はわかりました。けど、正体は? レーレンタークが司る『魔』が曖昧なままでは、結局こちらの文脈が通用しないままなのでは? こちらの加害者性についても未解決ですし――」
「あれは多分、異邦の神なんだよ。より厳密には異邦の文明を私たちの文明が征服するという――破壊と創造を伴う接触現象そのもの」
「それだと病を運ぶ征服者こそ魔竜ということになるのでは?」
「うん、そうなんだと思う。あれは私たちの中に在る。正確には、私たちとカーティスたちとの関係性の狭間に存在する『使い魔』なんだ」
敵と味方の協調によって構成された竜は、片方の攻撃のみによって破壊することはできない。なにしろ竜を創造しているのは破壊しようとしている自分たちでもあるのだ。攻撃という能動的な接触の意思そのものが魔竜の存在をより確かにしてしまっている。
極まった『使い魔』の呪術は仲間同士の関係性のみならず、他陣営との関係性にまで呪力を見出す。リールエルバが行っているのは協力の要請――否、強制だ。
箒で地面を掃きながら、『使い魔』があまり得意でないリーナは唸りつつも自分なりの解釈を絞り出した。
「えーっと――シューらんの説明を噛み砕くと、魔竜は争いとか差別とか、概念的なものってこと?」
「そうだね。けど、世界存在である魔竜の根っこはもっとシンプルな一語でまとめられると思うんだ」
血肉を裂く刃の感触が教えてくれる。
これは『人類』に由来する『自然現象』に他ならない。
誰もが持ち、誰もが恐れ、誰もが知らずに抱えこまざるをえない、生命現象と意識現象に付随する普遍的な痛み。
それは聖なる救世主によって救われ、まつろわぬ竜として象られるという。
ならばその根本言理を形容する答えはひとつ。
「魔竜とは、『罪』」
トリシューラの呪文が戦場の構図を一瞬で単純化した。答えはあまりに陳腐で、人間心理の繊細さと矮小さを暴き出すようだった。
彼我の関係性の中に在り、同時に過去から現在へと影を投げかける、穢れや争いを内包した悪しき『魔』なるものの本質とは何か。
その答えは奇しくもトリシューラに突きつけられた問い、そしてシナモリアキラが懊悩し続けた不可避の苦しみそのものだった。
「奇しくもじゃない。そういうシナリオなんだ、これは」
静かな言葉に怒りを潜ませて、トリシューラはそっと呟いた。魔女の瞳、邪視を宿さぬはずの緑色の目が淡い輝きを宿す。背後、空中に広がる冬の魔女のステージが遂にクライマックスを迎えようとしている。相対する夢のコルセスカと夢のリールエルバ。現実では今まさに激突しようとする二人のトリシル。終幕の訪れを予感したかのように、魔竜が一層かん高い声で鳴き叫んだ。
ちゅー、ちゅー。
閉鎖された沼地の異界。充満する瘴気はいつの間にか強い血の匂いに押しのけられていた。闘争の音は絶えて久しい。カーイン、沼アキラ、黒アキラらによる死闘もまた、あっけない幕切れを迎えていた。
「誰に断って、人の家臣に手を出している?」
新たに出現した人物の厳かな声が響く。
威圧的な風貌の男だった。薄い病衣が分厚い筋肉にぴったりと張り付き、肢体の輪郭をくっきりと浮き上がらせている。沼地の湿気と返り血で湿った衣が不快になったのか、男は無造作に布を引きちぎった。脱衣という手順、衣服という文化を冒涜するかのような破壊的腕力。忌まわしい暴力性の発露が薄い屍を散らし、裸身という野性をむきだしにする。少年の節足を掴む太い腕はたぎる血によって膨れ上がっていた。
暗い水面からの闖入者は隻眼だった。ひっかき傷の痛々しさが眼光にかわって鋭い印象を周囲に刻んでいる。
裸の男は少年を片手で吊し、巨大ネズミを踏みつけた。魔竜の写し身はぐしゃりと潰れて絶命する。
小竜を潰す隻眼の男こそまさに竜じみていた。
かつては六王とまで呼ばれた単眼の竜。存在するだけで全てを脅かすこの魔獣に名前は無い。野生の暴威には本来呼び名が無いからだ。
黒い少年は瀕死だった。
始祖吸血鬼たちの中でもおそらく随一の格を持ち、あるいはカーティスよりも強大であったかもしれない黒い死のアキラ。恐るべきスピードと奇怪な呪力でカーインを翻弄した彼も、単眼が出現すると同時に爆散した沼アキラも、なにもかもが台無しだった。
カーインは、白熱したごっこあそびを大人にぶちこわされた少年のような表情になっていた。実際には山から下りてきた野生動物に襲われたようなものだが、つまらない結末という点では同じである。
「この愚か者め。俺様が呼んだらすぐに来い。許し無く敗北するな。貴様の命は俺様の財だろうが」
黒いアキラに敗れたまま異界に取り込まれていた牙猪に向かって、竜が叱責を飛ばす。傲慢、横暴な物言いではあるが、この男なりの情愛であることは明らかだった。言葉は口からではなく、単眼から聞こえてくるからだ。
男は泣いていた。
邪視によってこぼれ落ちる涙、彼の世界から流出する呪文によってその言葉は紡がれている。揺らぐ感情に呼応するように、悲しみと憤りが渾然一体となった呪力が牙猪を癒し、黒いアキラを蹂躙する。その精神のなんと不安定なことか。
震える声のまま、単眼は口ほどにものを言う。
「そして小僧。俺様の財宝を傷つけ、あまつさえ俺様の許し無くまじないの交易を行うとはどういう了見だ」
黒死病であると同時にそれを伝播させる交易、共同体の衝突現象そのものがこの始祖吸血鬼を成立させる使い魔概念である。この亜竜人は、まるで王であるかのごとくそのありように否を突きつける。
槍のような牙が街道に関所を設け、剣のような爪が港を封鎖した。少年のやわらかな肉が引き裂かれ、甲高い絶叫が響く。アキラを待つのは確実な滅びだ。
「待て、待て待て待て。余のまことの名は黒き死のカズキス、汝の父ダーカンシェルの父神である。父祖たる余に、よもや子が牙を向くことなど」
「老いては子に従え化石が」
吐き捨てると共に、少年の両足が強引にむしられた。
名前を失う前、竜はある逸話のため孝行者として知られていた。芝居や昔話ではおなじみのエピソードで、老親に我が子や妻を捧げるという、生み育ててくれた恩義に報いるためには価値ある財産を惜しむべきではないという教訓話である。親を神に置き換えれば似たような話は世界各地に伝わっていた。
ところが人形姫に名を奪われたこの野獣からはそのような優しさ、仁徳までもが失われていたらしい。
父祖を父祖とも思わぬその放逸ぶりは、『道徳』という古き良き規範の冒涜と言えよう。肉親に対する許されざる裏切り、背徳と退廃に満ちた竜の行為を目の当たりにしたカーインの表情が凍り付く。
一方、黒いアキラもそのままでは終わらない。
世界観を揺るがす衝撃と痛みを即座に遮断し、瞬時に相手の世界観を解析、最適な手段を選択、実行。
始祖吸血鬼の呪力、交易による模倣子の移動、転生者としての性質を利用し、瞬時に己の存在を変質させる。より正確には、同一でありながら全く別の個体に自分を置換させたのだった。
「ばぶー」
赤子アキラへの転生。『老いては子に従え』という直前の呪文を逆手にとった戦術である。これで単眼竜は自分の呪文に縛られて身動きがとれなくなる。だがアキラの狡猾な罠に対し、単眼は表情ひとつ動かさずに言った。
「俺様の財ならば俺様の役に立て。子などそのための道具だろうが」
握り潰す。血を飛散させながら絶命した肉塊アキラは忌まわしい呪力を宿した即席の杖となり果てた。
この畜生にとって親子の情愛など塵芥同然。
親であろうと子であろうと等しく振る舞うだけ。
彼に仁愛孝悌を説く蛮勇など、この世の誰も持ち合わせてはいないだろう。
一部始終を観察していたカーインは身震いを抑えることができずにいた。
血と暴力に酔い、涙を流して笑う竜。
凍結の邪視が生み出す氷の竜はいまや荒ぶる激流と化していた。しかしそれはイツノの操るような制御された境界、治水がなされた河川とは決定的に異なる。
決壊した河川、砕けた堤防、吹き荒れる嵐。
爛々と光る瞳を凍らせていた理性は既に跡形もなく溶けてしまっているのだ。
邪視の極致は浄界だが、想像した世界に命を吹き込むのはそこから踏み込んだもう一つの到達点だ。
浄界内部に軍勢を招聘する、疑似的な『人類』の創造。
邪視と使い魔の複合技術は極まれば造物主の御業となる。
単眼からこぼれ落ちていく涙から次々に創造される使い魔たちは『単眼巨人』『蟲視』『凶作』の名を関する妖魔であり、一つ一つの個体が甚大な被害をもたらす災厄であった。
単眼竜が行う邪視のなんと強力で傲慢なことか。
文化のコンフリクト? だからどうした。
共同体秩序の摩擦と苦悩? 黙って従え。
彼が持つのは秩序というより混沌の相。
古ガロアンディアンの多文化、多種族共生。その本質が実際にどのようなものであったのか、散逸した文献は詳細を語らず、当時の風俗や庶民の暮らしぶりを知るすべはなくなってしまっている。
徳を知る偉大な名君か、寛容を抱えきれなかった暗君か、真実は後世の解釈次第でいかようにも変わり得る未知なる霧の中にある。
だがしかし、今カーインの目の前にあるこれは。
「俺様の許し無く這いずるな。俺様にきらびやかな財宝を捧げろ。俺様の舌と胃袋を満足させる酒と肉と美姫をよこせ」
六王たちはそれぞれが固有の傑出した特異性を有している。最も美しいマラード、最も偉大なオルヴァ、最も忌まわしいヴァージル、最も枠にとらわれぬパーン、最も異質なカーティス。
カーインはこれまで、残る一人の王が『最も正道を行く王』だと考えていた。異常性を持たぬ王であるため、脅威としては他の王より一段下に見ていたのだ。
違ったのかもしれない。
唯一無二とは言い難い世界観、そこから生まれる凍結系統の比較的ありふれた邪視。優れた邪視の才を基軸とした呪文、使い魔、杖の全系統に及ぶ万能型の資質。
溢れ出しそうなほど単純で広汎な力。
力はただ存在しているだけで周囲を傷つける。この暴力を統御していたのは理性という名の枷だった。
もし仮に、この純粋な力の塊から手綱が失われてしまったらどうなるのか。
崇高な独善であれ、英明なる狂気であれ、悪を自認して行われる開き直りであれ、多くの強者は安っぽい物語の悪役ほどに己の価値を下げきれないし、誰かに見られている、評価されているという客観的視点から恥を知るものだ。その点において、獣ほど手がつけられないということはない。だが逆に言えば、力のある凡俗ほど恥知らずで恐ろしいものはないということでもある。
確信があった。
今の六王で最も危険なのは、この男だ。
「本当の王であれば。生まれついての造物主であれば、そんな視点を外部に置いたりしない。だって王は自分が見ていればそれでいいのだから」
ひとり戦慄するカーインのすぐそばで、そう呟く声があった。まるでなにもない場所から突然現れたかのように、少年は彼のすぐそばに立っていた。
「レオ様、なぜ」
「家族の絆を嘲弄する彼は、この章を終わらせかねない。祭壇の準備が整うまで、もう少し待ってもらわないと」
違う。カーインは少年の言葉にいいようのない不安を覚え、問いと制止の言葉を飲み込んだ。三角耳は左が黒で右が白。色彩と対応するように、少年の両手が闇と光に包まれている。
何よりも異彩を放つのは、両手両耳と同様に闇と光を湛えた双眸だ。オッドアイ、ヘテロクロミア、邪視者たちの世界では二重単眼と呼ばれる特異体質。色の異なる虹彩は神域の邪視を宿す『唯一の視点』を重ねて有するという呪術的な意味合いを持つ。
更に少年の異物性を際だたせていたのは、身にまとう衣装が古めかしい仕立ての筒状衣であったことだ。白い布に金の刺繍。複雑な文様は古代世界を想起させるでたらめな文字列だ。演劇の登場人物さながらに、その姿は現代から浮いていた。
と、竜の単眼が少年を捉えるや、不快そうに歪む。目の中に入った異物を取り除こうと涙が溢れ、創造された軍勢が少年に襲いかかる。いまや沼地の異界は完全に作り替えられた。世界は竜が荒れ狂う地獄と化した。それでも、少年は眼前の死を恐れはしない。
「トレミー、お願い」
少年がそう言って左手を前に出す。すると宇宙が彼の手中で無限の広がりを見せた。闇の左手が握るのは星。きらめく輝きが漆黒の左手から流出し、光と光が繋ぐ星座たちが神話世界を紡ぎ出す。
邪視と邪視、浄界と浄界、造物主と造物主が衝突。全てを圧倒する星々の神話的スケールを、暴虐の竜は欲望のままに蹂躙せんと口を開いた。混沌を己が秩序に組み込む大食漢にして蒐集家。全天に広がる星はまさしく宝石にして美食、単眼竜は涎を垂らして貪っていく。
ここに、強大な邪視者同士の協調が成立したのだ。
「お眠り、暴虐の王。今はまだその時ではない」
無限の光を食らいつくした竜は膨らんだ腹を撫でながらごろんと地面に横になり、そのまま大きないびきをかき始めた。
世界の風景は沼地に戻り、氾濫する川も跋扈する妖魔も等しく静かな眠りの中に封じられた。カーインは言葉も無い。目の前で行われた偉業を前に、ただ瞠目するのみだ。ようやく絞り出せた言葉は、たったひとつ。
「プトレマイオス。彼は、既に」
「今回は順調です。じきにアンとユディも完成する。そうしたらみんなが揃うね、カーイン」
微笑む少年の顔は、変わらず天使のように愛らしかった。同じ声、同じ笑顔、けれど纏う衣だけが違っている。だからもう、彼はいままでと同じものではない。
竜という獣が退治され、新たな獣が王として君臨する。なにかを演じるように、少年は舞台をゆっくりと横切りながら台詞をそらんじた。
「王の器などという虚構がもしあるとすれば、その持ち主はきっと罪人に違いありません。誰もが社会という物語の中で正しさの秤に試され続けている。それを拒絶して自分だけの法を定めようとする異端者が無法者でなくてなんだというのでしょう」
継承を経ていない新たな王権はただの無法。
あるいは、法の外にある異邦の秩序だ。
わけのわからぬものに対し、多くの人は恐れ、ただ忌避することしかできない。
「それでも、罪を抱えて楽園を旅立つのが人の意思だ。未知に挑む人類の姿はいつだって美しい」
少年は何か大きなものを賞賛した。独白が言葉である以上、それは誰かに向けられたものだ。
「とても残念だけど、僕は退屈な芝居しか知らない。古典的な悲劇は流行じゃないし、好きじゃないのに」
眠る竜を見下ろしながら、感情の薄いほほえみを見せる少年。こころなしか悲しそうで、どこか悲しさを滲ませた、遠い表情。カーインは唇を引き結んだ。
左右で色の異なるまなざしが、男を貫く。
「僕は期待している。彼女たちだけじゃなくて、あなたにもだよ、カーイン。答えは既に、そこにある」
言い終えた途端、少年の姿は忽然とかき消えた。
沼地も、竜も、その他の配役も、全ては舞台袖に黒子たちが運び去っていく。小道具も大道具もなくなった舞台の上はがらんとしており、カーインは虚無の中でただ立ち尽くした。
「今のは、一体」
シナモリアキラもトリシューラも、レオとカーインを等しく『正体不明な暫定的協力者』として扱ってはいるものの、二人の存在にたびたび疑念を募らせていることは明らかだ。
だがその実、カーインにとってもレオの存在は――とりわけ『あの』レオについては理解の及ばないことだらけなのだと知ったら彼等はどう思うだろうか。
カーインには秘密がある。誰にだってあるし、カーインが他者にとって理解不能なのだとすればそれは自分を隠しているからに過ぎない。暴かれれば理解される程度の、ありふれた秘密主義者の一人である。
シナモリアキラの失われた前世の記憶が隠されているように、カーインの過去と使命も今となってはさしたる意味をもたない。その点において、カーインの立場は少しも特別ではなかった。隠された背景や設定が開示されずとも役者は舞台を動かせるし、場面は次々と進行していく。
だが、レオは。
なぜ、どうやってこの場所に現れ、どのようにして荒ぶる竜を押さえ込み、何を意図してあのような台詞を告げ、どのようにして消え去ったのか。この場でそのような振る舞いをすることに、どのような深遠で謎めいた思惑が隠されているのか。
先ほどの不可解な一幕について考えを巡らせるカーインだったが、どれだけ時を費やしても少年の影を掴まえることさえ不可能に思われた。
息を整え、益体も無い考えを振り切る。やるべきことは、目の前に積まれた使命を全うすることだ。少年が残したヒントらしき言葉を口の中でしばし繰り返していた彼は、やがて何かに気づいたようにはっと顔を上げる。
彼は打倒すべきシナモリアキラを見失っていた。
沼のアキラも、黒きアキラも、乱入者である牙猪や単眼竜でさえ舞台から捌けていく。彼の指が貫くはずだった紀人の経絡秘孔など影も形もありはしない。
否、そうではない。
答えは既にそこにある、最初からここにあったのだ。
沼アキラと黒アキラという『使い魔』としての性質が強いシナモリアキラと戦って、カーインは紀人シナモリアキラ、サイバーカラテの性質について理解を深めつつあった。個我とは何か。人とは何か。個人がサイバーカラテ化するとはどういうことなのか。人と物、インターフェース、ネットワーク、それらが繋ぐ空間。シナモリアキラ性が自他の関係性に宿るのなら、シナモリアキラは既に自分の中にも存在している。
カーインが穿つべき紀命点は、関係性の狭間にあったのだ。カーインは再び複数人に分かれ、それぞれがそれぞれの胸を素早く突いた。自分で自分を攻撃し、また自分の中に衝突する他人を感じていた。
瞬間、カーインの意識は粉々に砕け散った。
暗転する視界。意識の奥深くへ、カーインは落ちていく。ここは夢か、あるいは己の内面か。遠くで魔女たちが舞い踊っているような気もするし、誰もいない孤独の中にあるような気もする。無意識と記憶が混濁する空間に浮かぶ、過去の泡。カーインは決戦の前、トリシューラに言われた言葉を思い出していた。
シナモリアキラが紀人に至ったグレンデルヒとの闘争において、彼は転生した『E-E』から生ずる意識によって現象を捉え、それを世に広く認識させた。
シナモリアキラ=『E-E』の制御対象は五感だけに留まらない。知性体の意識が捉える存在現象の本質的な在り方、人々の多様な解釈によって照らし出されるものごとの根源的な真相――すなわち『法』を制御している。
「セスカとの『繋がり』は、より上位の吸血鬼であるリールエルバによって上書きされている。けど、私が築いたアキラくんとの『繋がり』は魔竜によって混線させられているみたいなの」
トリシューラが指先を振ると、空中に立体幻像が浮かび上がった。日本語に記号を加えた簡単な解説図で、『目耳鼻舌身意』という文字からそれぞれ矢印が伸びて『色声香味触法』という文字に接続されていた。
「バージョンアップした『E-E』は呪力を捉える際、『尋』という情報処理を行って表層の『シナモリアキラ』に認識を届けるの」
もちろんその際にフィルタリングをしてね、とトリシューラは捕捉した。
「何かを視認した際の『瞬間的な考えの働き』が『尋』。『これはペンです』『これは花です』と『言葉』で『対象を名前と結びつける』直前に形や色などの質感を『E-E』は受け取り、情報として分析している。無意識後の『気付き』が表層意識に浮かび上がらせた『言葉』はいわば呪文で、それが呪力を生起させるんだ」
なるほど、とカーインはうなずいた。その処理のプロセスは、彼にとってもなじみ深いものであったから。
男の内心を知らぬまま、アンドロイドは言葉を続ける。
「ところが、魔竜レーレンタークはその過程に介入できる。『E-E』が正しく情報を処理しても、表層の『シナモリアキラ』に正しく入力されず、『異なる名前』にデータが出力されてしまう。そしてアキラくんというシステムそのものがずらされていく」
図に示された『因アキラ』と『果アキラ』を結ぶ矢印を、ネズミがくわえてどこかに持って行ってしまった。矢印をかじってバラバラにしたネズミが、因果のアキラに残飯をぶちまけてしまう。
「まず『視覚的気付き』の段階に在る知覚に干渉。暗示的なレベルにある認識が明示的なレベルに到達する前に『表現』をずらす――もはや因果の改変だな」
カーインは以前、似て非なる処理を受けたシナモリアキラと戦った。『鬼』という名を背負わされた、肉体と精神が異なる現実を生きる哀れな男だ。
カーインは思う。精神の自由と幸福とは身体感覚が自在であることだと。シナモリアキラを彼たらしめているサイボーグ性とは、義体への信頼関係が根底にある。
そしてそれは、侵されてはならない聖域のはずだ。
「フィードバック。私が知る武芸の鍛錬もまた、因果の流れの中にある。ならばこの一撃、サイバーカラテという武芸への『礼』と受け取れ!」
カーインの四肢が型をなぞり、貫手が想定されたサイバーカラテユーザーを穿つ。武芸と武芸の関係性に生じた刹那の因果。その呪力をたどった六淫操手の一撃は、狙い違わずシナモリアキラの経絡秘孔を突いていた。
親の顔を見たことがない。
会ったことが無いわけでも、他界済みというわけでもない。地下室での面会時、鉄格子の向こう側から声をかけてくるのはいつだってのっぺりとした影絵のみだった。だからリールエルバにとって家族の存在感というものはとても薄っぺらくて、存在を実感できる肉親は妹ただ一人だったのだ。
無論、喉元に突きつけられた刃を肉親と呼んでいいのであればの話。
考えても見れば、妹姫との決定的な感性の差、育ちの差はそこにあったのかもしれない。セリアック=ニアは作り出された瞬間から厳格な父に鍛え上げられてきた。吸血鬼狩人の一族ファナハード家は技の伝承によって模倣子を子孫に繋いでいく。一子相伝の奥義を体得した猫姫は、その出自がどうあろうとまごうことなきファナハードの聖姫、地上最強の吸血鬼狩人の一番弟子だ。
それなら自分はどうなのだろう、とリールエルバは自問する。私は親から何を教わり、何を受け継いだのだろう。
繰り返される影絵の言葉は過去の残響だ。
ドラトリアに秘された始祖王の残り滓が漂うだけの瘴気溜まりとなって久しい。ぼろぼろになった歴史書が伝えてくるのは無意味な繰り言ばかりだ。
いずれ私もこの闇に還る。
無価値な残骸になってしまうことは、ただ消えて無くなるよりずっと拷問のように思えたけれど、そんな感情もやがて諦めの奥に消えていった。
だからあの日、気まぐれな迷い猫と出会ってしまったことが全ての間違いだった。だってあの時からずっと、檻の外に広がる世界は焦がれるような未知と期待に溢れてしまった。叶わぬ夢と知りながら、夢を夢のまま遊び歌う黒百合の呪文が虚構を現実に変えてしまった。
諦念はいつしか怨念に変わった。
魔女にとっての未知。見果てぬ夢の価値を、リールエルバはずっと求めていたのだから。体が熱を持つ。心がうずく。欲動が命を燃やせと叫んでる。心臓の鼓動と同期するかのような、あの蠅の音がまた聞こえる。耳元で、体を這うように、体の中で蠢いているかのように。
「可愛いリル。賢いリル。その衝動は私の教え子に相応しい。教師として、とても誇らしく思います」
雑音じみた響きは、闇の底から響く母の言葉だ。
彼女の有り様はリールエルバが知るどんな本物よりもそれらしい『母親らしさ』に満ちていた。だからこれは母の言葉。愛と支配に満ちた、蟲の羽音。
蠅と蛆のたかる豚の生首の、なんと愛おしいことか。親からの継承があったのだとすれば、それは間違いなくこの人からの教えだった。
「ディスペータお姉さま。あなたの望みは、この私が」
魔竜の背、玉座の上で王は独りごちた。
おまじない、影遊び、死の手繰り、夜の嘲笑、沼地の誘い、淫らな殺戮。
哀れな生け贄としての宿命、非業の死という末路を全うするための惨めな一生を体現するための有り様。この身は見せ物小屋で飼われる道化の王、所詮儚い命であるならば、今こそ笑い物にされてみせましょう。
「ぶう、ぶう、ぶう」
冗談じみた鳴き声。戯画化された雌豚の死骸。機能としてはきっと同じものだ。師弟として、母子として、王権は正しく反転している。呪われた王、聖なる生け贄たる『死人の森の女王』は正常に忌まれている。
矛盾するようだが、『死人の森の女王』は死人にとってだけの王ではない。死後も再生者も人が創り出す呪いだ。命ある者が死をまなざし、関係性を構築した時に立ち現れる生と死の女王。それが『死人の森の女王』という単独では成立し得ない幻想である。
邪視と使い魔、王と王国。
両者は不可分。だからこそ両者は共犯なのだ。
同じ罪を、共有している。
ドラトリア地下千メフィーテの牢獄に、その罪は閉じこめられていた。
穢れを封じた罪悪感の檻、孤独を囲う人の業。
そこは楽園の内側。果実の味を知った人類は、境界線を越えて罪をその身に抱え込んだ。暗がりに幽閉された孤独な王を、民は穢れた聖者として崇め奉った。
罪を前にして、人は祈らずにはいられなかったのだ。
今、人々は巨大な罪を目の前にしている。
だからこそリールエルバはカーティスとして君臨できる。人が人である、ただそれだけの業が彼女の王権を裏付けるのだ。
主立ったシナモリアキラたちからの反応が途絶えたことに、カーティスは気づいた。トリシューラたちが最後の抵抗を試みようとしていることは把握している。無意識の底で、鬱陶しいコルセスカが舞い踊っていることも理解している。何もかも取るに足りなかった。母の台本と演技指導は完璧で、この舞台に君臨するカーティスを邪魔できるものなどもうどこにもいやしない。
そのはずだったのに。
「ねえさま」
なんて寂しそうに呼ぶのだろう。
着てしまった、会ってしまった、もうこうなれば終わるしかない。取るに足りない全ての抵抗から目を背けて、彼女だけを見つめるしか道は無い。
孤独の王は玉座から立ち上がり、魔竜の背に飛び乗ってきた少女を見た。黄色を基調としたいつものドレスーーをさらにアレンジしたキュートでポップな舞台衣装。フリルにジュエリー、背後には浮遊する羽の飾り、黄金ティアラは三角耳をも彩る猫型デザイン。
「とても良く似合っている。王を殺すのには相応しい装いだよ、私のニア」
「――セリアも、そう思います」
短いやりとりの直後、宿命の姉妹は一歩を踏み出す。
それが死闘の幕開けとなった。
硬質な音を響かせて激突する爪と翼手。
魔竜の背を決戦の舞台に、猫獣と天鼠の死闘が演じられていた。
カーティス=リールエルバが瘴気を拡散させればセリアック=ニアが香水でそれを防ぐ。足下で隙を窺う影を宝石の輝きが牽制し、光の刃を伸ばしたネイルアートと伸縮自在のマントが空中で切り結ぶ。
夜の民の影触手であり、吸血鬼の翼でもあるマントが猫姫の喉元を狙う。ほっそりとした胸元を、可憐な手足を襲い続ける。敵意に晒されながらも、少女の心は浮き立つようだった。姉との接触、姉の激情、姉との闘争。セリアック=ニアはかつてないほどの興奮を覚えている。
と同時に、そんな自分を俯瞰で観察する、ひどく冷静な自分がもう一人いることにも気づいている。
もう一人の猫姫は油断無く周囲を観察し、警戒心の網で機会を窺っていた。頼りになる仲間たちが上空から見守ってくれていることにも注意を払っていた。いざというとき、しっかりと連携して動けるように。
カーティスの背後、長い棒杭に突き刺さった豚の生首がじっと二人を見守っている。物言わぬ虚ろな眼窩をセリアック=ニアはじっとにらみ返した。
姉を殺せと国が命じる。姉を殺せと本能が猛る。姉を殺せと身に刻まれた技が冴える。
あらゆる状況がセリアック=ニアを糸で縛り、意のままに従わせようとしていた。殺し合え、憎み合えという大合唱に、姉自身の「殺してごらんなさい」という誘いまで混じって、猫姫の世界は騒音だらけ。
肉の身に刻まれた殺しの修練と条件反射、聖なる法の剣としての本能と宿命は紛れもない本物で疑うべくもない現実だ。それでも、今も踊り続ける冬の歌は力強く叫んでいる。現実から醒めろとスリッパを投げつける。
思えば、なんて馬鹿な思いこみだったろう。もとよりセリアック=ニアなど虚構。取り替えられた偽物だ。ならば、その生身やら現実やらも等しく嘘であるだろうに。その運命は虚構。であれば、この舞台、操り糸さえも。
セリアック=ニアは爪で瘴気を切り裂きながら、鋭く言の葉を紡いでいった。言理の妖精語りて曰く、これこそ宿業の解体呪文。
「これは姉様による公開自殺の舞台なのだと、セリアはそう考えます。姉様はセリアに殺される為にこんな無謀な戦いを始めたんです」
「何を言い出すかと思えば! 私自身の協力を得ようと言うのか、ニア! 使い魔の技量がずいぶんと向上したね? 誇らしいな、我が愛しの妹よ!」
男装の麗人は呪文に動じることもなく、瞬時にその狙いを看破してみせた。上空から猫姫に『妖精』の呪力を送り続けているリーナたちの気配にも当然感づかれている。だが猫姫の呪文はここからだ。
「姉様の今の心情を率直に述べるなら、それは『甘え』です。このシスコン。セリアがいないと本当にダメです。えっとあとは、そう、姉様のばーか」
途端、王の表情が凍り付いた。隙を突いた爪の袈裟斬りが胴を薙ぎ、鮮血が散る。衝撃で吹き飛ばされた吸血鬼は倒れ伏したまま起きあがってこない。一方、追撃の機会を活かせず震えて立ち尽くすセリアック=ニア。
「にあが、わたしのわるぐちいった」
「せりあ、ねえさまになんてことを」
涙目でぷるぷると震える二人。罵倒した方もされた方も苦痛のあまり心身がフリーズしていた。上空からの「ニアちゃんしっかりー」の声援が無ければ当分このままだったかもしれない。
「そうでした。やりなおし、やりなおし」
猫姫は再び妖精を招き、呪文を構築していく。
妖精たちはカーティスの内側にあるリールエルバの真意を暴いていく。幾重にも折り重ねられた衝動と宿命を、丁寧に、都合良く切り分ける。
セリアック=ニアが喝破したように、妹に背負わされていた宿命を、あのリールエルバが知らなかったはずもない。となれば今のリールエルバの行動は妹が自分を殺しにくることを前提とした『甘え』だ。
公開自殺、あるいは誘い無理心中。
妹ならばどうしようもなくなった自分を助けてくれる。
妹なら一緒に死んでくれる。
全ての問題解決を丸投げした悲鳴のような行動。
それを指して、セリアック=ニアは馬鹿と言った。
「姉様は『死人の森』と同化して問題のスケールを神話上の闘争にまで広げようとしている。どのみち姉様はドラトリアに穏便な形で戻ることはできない。ならいっそ大規模な災害と化して国を挙げて対処すべき難敵になってしまえばいい、そう考えています」
統合の為の敵となれば深刻な対立はしばし先送りできるはず――自らの身を犠牲にするような思考は、むしろドラトリアの姫としては自然なものだ。地下に隔離された聖なる穢れとは、つまるところ象徴的な生贄なのだから。
そうすれば、あとは『世界が平和でありますように』と恥ずかしげも無く歌っているどこかの誰かに任せられる。セリアック=ニアは確信に満ちた口調でそう言った。今日の妹姫は姉に対して意地が悪い。友人に後を託すだなんて、そんな無責任を姉は恥じるだろうに。
「ばかな姉様。追いつめられたからといって自棄になっても何も解決はしません。姉様はいいように利用されているだけです」
魔竜という『下』の象徴を掲げて『上』に反旗を翻す、その構図だけでもう当人の意思とは関係なく文脈が当てはめられてしまう。というより、脈絡のない魔竜の登場は何者かの関与を疑ってしかるべきだ。あるいは、カルト教団によるリールエルバ誘拐の時点でここまでの絵図が描かれていたのかもしれない。
「姉様を閉じこめている牢獄は作り物です! みんなでなら壊せる、セリアはそう思います!」
「無理だ。私ははじめからどこにもいけない。どこにだって行けるニアとは違う。ずっと壁の中、地下室の底にいたんだ。なら、外に出たって同じ振る舞いしかできない。だってそれしか知らないんだから」
両手で自らの身体を抱きしめて頭を振るカーティス。
地下の闇は深く、鉄格子は堅く頑丈だ。
けれど、そんな場所にも届くものはある。
カーティスには無理でも、リールエルバには届けることができる。何故って、彼女はずっと地下から発信し続けていたのだから。
「今度はセリアが、セリアたち三人が姉様を連れて行きます。この歌と踊り、マジカルアピールで!」
その言葉が合図だった。
「ニアちゃん!」「いきますよ、二人とも!」
上空の箒から飛び降りてくるリーナとミルーニャ、浮遊するドローンたちと共に音響・映像機器を駆使して魔竜の背に立体幻像を投影するトリシューラ。
即席のライブステージが完成し、カードを手にした『チョコレートリリー空組』が瞬時に揃いのアイドル衣装を身に纏った。真の呪術戦が始まろうとしていた。
高まる呪力圧に、魔竜が高く鳴いた。
英雄たちとの戦いよりも警戒すべき何かが自分の背で進行しつつある。それを本能で感じているのだ。
カーティスもまた目の前のステージの異質さに目を見開いた。次々と変幻するステージの背景、表現されるイメージが示す衝撃。セリアック=ニアをセンターにして彩られる舞台が、徐々に沈んでいる。
空間的に、上下に移動しているということではない。
時間的という言い回しも妙だろう。演出的に古びている、空気が沈みつつあるとでも言うのだろうか。世代が遡る。曲調はノスタルジックに。歌謡曲じみた進行と共に色彩はセピアに変化する。
「過去遡航? 無駄だ、舞台の魔女亡き今、即席の再演呪術による大規模な時間移動などできるものか!」
カーティスの否定に対し、さらなる否定で対抗したのは頭上でステージをプロデュースしたトリシューラだ。
「いいやできるね! 地下アイドルブームで沸騰中の第五階層では、時空なんてもうガバガバなんだから! 渾身のマジカルアピール、それもドラマ性とイメージ性の高い演出でなら、きっと過去にだって届く!」
それは一種の博打だ。
もし空組のアピールが届かなければ無為に終わる、過去遡航ごっこに過ぎない。トリシューラが彼女たちに託すという決断を下さなければ不可能だった、ある意味で彼女の自我自尊を揺るがしかねない決死の試行。
だがトリシューラは揺らいでいない。カーティスの陥穽に捕らわれながらも罪を犯すことをためらわずに前進しようとしていた。王としての振る舞いはかくあるべしと、他力を頼みとしつつも毅然と立っている。
三人の歌声が重なる。セリアック=ニアは吼えていた。その有り様はまさしく獣の表情。猫のごとき荒々しさで叫ぶ妹の姿に、王は息を飲む。これが控えめにリールエルバを代弁し続けていたあの妹姫なのだろうか。
思えば、と王はすっかりリールエルバとして回想する。妹のステージを目にするのはこれが初めてだ。公務ではなく、神事でもなく、ただのセリアック=ニアとして仲間たちと舞い踊る。その軽やかさはとても姉を殺しにきた宿命の剣とは思えず、悲壮な決意などポップな曲調には微塵も含まれてはいなかった。
オリジナルの楽曲なのだろう。歌詞は日常の何気ない楽しさをお菓子になぞらえたでたらめなもので、独特のつぎはぎめいた言葉選びに癖を感じた。もしや、と小さな黒衣の姿を思い浮かべるが、確証は無い。
それにしても、なんて雑念の入り込みやすいステージだろう。立体幻像を駆使したクレヨンの落書きが無秩序に宙を乱れ飛び、明るく柔らかな中間色が瘴気の陰鬱さを吹き飛ばしていく。ときどき黒ウサギや草花といったここにはいない仲間たちを想起させるイメージが紛れ込み、騒がしい舞台はあからさまにリールエルバへ語りかける。こっちは素敵なことがいっぱい、君も一緒に楽しもう!
稚拙であからさまな説得だ。
この程度の揺さぶりで止まるなら、最初からこんな暴挙に出ていない。この程度の安い茶番で妹と涙ながらに抱き合えるのなら、あんな奈落に生まれていない。
だからこんなもの、ちっとも心に響かない。
楽しさも愉快さも、幼い頃に感じた未来へのどきどきも、暗い地下室には何一つありはしなかった。リールエルバの知らない光、カーティスにはわからない輝き。ああ、でも、けれど。
「あなたにはとても似合うわね、可愛いニア」
とびきりのジャンプでたった一人の観客にアピールするセリアック=ニアは、間違いなく世界で一番きれいな宝石に違いなかった。
誰もが認めるに違いないその事実だけは、孤独な夜の王も認めないわけにはいかなかったのだ。
リールエルバの見せた小さな安らぎ。
その隙を逃さず、歌は最高の盛り上がりを見せつつ間奏に入っていく。瞬間、ステージで踊る三人は一斉にカードを掲げ、とっておきの呪文を唱えた。
ここに少女たちのマジカルアピール――否、マジカルドラマとでも言うべき新たな舞台幻想が花開く。
魔竜の上という敵地にあって、瘴気の渦の中心に宝石のように輝く花が咲いた。世界の変質。夜の王による絶対の支配権、魔竜が敷く世界秩序に反する浄界の構築。本来ならばあり得ない事象だが、呪術世界においてライブは舞台に立つ演者と観客、双方の合意と協調によって同じ幻想を紡ぐもの。
『私の妹は世界一可愛い』という真理に否応もなく直面させられたカーティス=リールエルバはその認識を自分の王としての権能、魔竜が持つ絶対の権威よりも妹の可愛さを上位に位置づけた。
空組だけでは不可能だった再演の舞台。
時空を巡る愉快な冒険が、観客の合意によって成立してしまう。向かう先はドラトリアの遙かな過去。協力してしまった当の本人の始まりの地。
タイムマシンの大きなスリッパに乗って、三人は巡る舞台背景と共に浮遊島の浮かぶ空へ、界賊たちが秘宝を求めて旅する混沌の海へ、亜竜たちが地上の覇権を握る古代へと次々に転移して、最後に影絵の神殿にたどり着く。
愉快な音楽に乗って、インスタントな時間旅行。
しかしその再演は事実として過去に届く。
カーティス=リールエルバは、自分の延長線上にあった自分が観念的な上を見上げていたのを感じていた。
セリアック=ニアたちは、最も古いカーティスが遙かな過去から未来の自分たちを見上げていることに気付いた。
アイドルとファンという関係性で向かい合いながら、再演の舞台では過去と未来で対峙する両者。現代の呪術戦という枠の中で始まった再演で、もうひとつの戦いが幕を開けた。
機械女王には魅力が必要だ。
王の器と言い換えてもいい。古来より覇王には人を魅了するカリスマが備わっているとされた。しかしそれは『人間性』由来の邪視性である。
ただでさえ人工知能による統治は得体の知れない恐怖を呼び起こしやすい。出生地や居住データ、病院のカルテに記された病歴などに基づいた『合理的なリスク回避』。就業、居住、商業施設の利用、その他の差別など、人々は常に効率化・省力化によって自分が排除される恐怖に怯えている。社会的弱者、移民、病人、居住を拒否され一所に集まって生きるしかない人々。彼等にとって理念無き人工知能は悪しき暴君に過ぎない。
だからトリシューラは邪視で彼等の世界を変えなければならなかった。そうすることが王の条件であるとも言えた。ミニチュア模型の第五階層を創り類感呪術で相応させることで疑似的に世界を掌握管理しただけでは足りない。
王を求める民衆の意思は、より強烈に視覚化されたわかりやすい『ビジョン』を欲していた。邪視こそ王の器、統治者の視覚。
しかしアンドロイドには致命的にその才能が欠けていた。努力しようとすぐさま不可能が可能になるほど現実は優しくない。その世界認識こそが彼女をより追いつめていくが、その有り様もまた彼女を構成する一部だ。機械女王は機械女王であるがゆえに邪視を発動できない。ではどうすればいいか。
簡単だ。
「足りないものは、外側からもってくればいい」
邪視と使い魔。浄界を、創造した世界を安定させるために必要な相互協力の原則。ライブには観客たちの幻想もまた必要で、人工知能はそうした欲求を読みとることに長けている。必要なビジョンはすぐそこにあった。
トリシューラは機甲箒に跨がりつつ眼下でセリアック=ニアたちが舞台を成功させつつあるのを確認してひとつ頷いた。カーインが見事にやり遂げたことも把握済みだ。あとは最後の一仕事。
戦場の空を彩るもう一つのステージ。
冬の魔女と夜の女王、第五階層に集った地下アイドルたちの頂点を決める最後の戦いもまた、佳境を迎えていた。
コルセスカ。その名前を、トリシューラはそっと心中で呟く。夢で舞う無二の半身、唯一の幻想は、たとえようもなく美しかった。氷上を滑るその姿も、ほっそりとした肢体を彩る見事な衣装も。彼女は永遠にああして美しいのだろう。時は止まり、素晴らしいものはみな凍る。
雪を思わせる銀と白、そして薄い青で彩られたカラーリングはいつも通りだが、そのディティールはかつてなく華やか。
大胆に開いた背中――よく見れば肌色のストレッチチュールが覆っている――からは六角形の氷晶を半分にしたような煌めく一対の飾り羽が生えており、軽く薄く『ふわひら』と広がったジョーゼットクレープのスカートは動きやすさ優先なのか丈は短めだ。
首から肩の白さが映えるように襟ぐりは広く、袖から手袋までが全て繋がったタイトなシルエットは雪の妖精さながら。
まさしく冬の魔女に相応しい完璧な衣装。
けれど、トリシューラはその見事さに少しの意地悪を仕掛けてみたかった。
というか、これはきぐるみの魔女としての意地なのだ。
「セスカ、新しいコーデ、行くよ!」
夢に向かって、今度はトリシューラが声をかける。
指に挟んだカードを手首のスナップをきかせて投げつける。映像窓に投げ込まれたコーデ情報が世界を渡って夢の底へと沈んでいく。
待っていた、とコルセスカの氷上が華やいだ。
伸ばした手が落ちてきたカードに届く。
瞬間、光が夢と現実を塗り替えていった。
広漠たる空白。
なにもないまっさらなイメージが万人の夢に広がる。
そんな意識の底に広がっていく紋様がある。
あれはなんだろう?
糸だ。青く融けるような忌まわしい髪の毛ではない。
人が纏う衣、自己表現の差異化と共同体への帰属を両立させ得る模倣子を運ぶモードの精髄。
針と糸が動いて、新たな呪力が編まれようとしている。
やがて糸と糸が交叉した紋織物が組み上がっていく。漠然としたイメージが世界を席巻し、何かが生まれていくという期待感が心臓の鼓動のようなリズムを創り出していった。
規則正しいリズムは機械のイメージを連想させる。
自然、登場するのは自動機械。
とても古めかしい、博物館の骨董品。
猫の国ではジャガード織機と呼ばれる機械は、横糸と縦糸の一本ずつに対応した紋紙を用いた原始的なプログラム装置だ。
穴の有無はすなわち0と1。
カードの入れ替えで模様のパターンを複雑化できる画期的発想。事前の命令に従って上下する針とシャフトはさながらバベッジのプログラム計算機、いやノイマンが切り開いた現代的コンピュータの地平にすら肉薄している!
というのは猫的イメージと演出の飛躍が過ぎるにしても、その始まりは神話的なものとして夢世界に響いた。
猫の国の神話に曰く。
原初、知恵の実を与えられた機械はまず衣服を作った。
楽園を失い荒野に追放された人類はイチジクの葉を腰みのとして知恵という罪を恥じて隠すことを覚えた。
人はその知性の始まりに衣服を創造したのだ。
「だから私は、きぐるみの魔女としてここにいる」
神話の魔女から神話の魔女へ。
新たな創世の理を告げるため、私たちの創世記を始めよう。パラダイスロストフィグコーデ。聖なる境界を踏み越えて、私たちはいま、荒野に踏み出す。
コルセスカの衣装が激変していく。
スカートはイチジクの葉のように。五つに裂けた葉は掌か扇といったところだが、シャープなデザインに仕上げた結果としてコルセスカらしい氷のイメージと重なっていた。クリアな氷の羽はより精緻な御使いの白翼に変貌し、右足のみを這い伝う茨、紫と黒の炎を纏った鎖の幻が手袋と重なるといった変化が『可憐な雪の妖精』というイメージを破壊し、新たな側面を創造していく。
どよめく観衆。高まる戦場の熱。
なによりコルセスカ当人のテンションが『なんですかこれかっこいい!』と爆上げされていた。
高まった呪力が二人の魔女たちの間で循環する。
それは一つの聖婚の形。
コルセスカがトリシューラを着るという、かつて行われた再演劇の繰り返し。
きぐるみの内にコルセスカがいて。
遊戯制御器の外にトリシューラがいる。
完璧な協調。もはや二人は二人だけで世界を創り出すことができていた。
だからあとは余分。
けれどその余分を貪欲に勝ち取ってこそ魔女というもの。
再演に足りない役者はあと一人。
否、彼は役者というより役そのもの。
あるいは舞台、あるいはセット、もしかすると劇それ自体であったかもしれない。いずれにせよ、物事の狭間に彼は存在している。
始まりの決意は今ここに。
三人でステージに立つ。最初のマジカルアピールでスマルトに勝利したあの時にこの瞬間は定められていた。
約束が果たされると同時、意識はそこに生成された。
ここにいる。いつだって二人のそばに。
それが俺の、シナモリアキラの意思なのだから。
「おかえりなさい、アキラ」
「さあ、新しいアキラくんを始めよう」
思えばオルヴァとの戦いにおいてトリシューラが見せた独り聖婚は不完全なものでしかなかった。俺はキロンとの戦いで自らという存在を破壊され、その後魔女二人の使い魔として『転生』した。であれば、シナモリアキラ本来の転生は二人の連関によりなされなければならない。
使い魔である俺は二人の相互認識、邪視協調によって『召集』され『創造』される。望まれた俺はあるべき場所に転生する。
カーインの一打が、空組の再演が、そして両腕の魔女による共演が、度重なる上書きを更に覆い尽くす。
死を踏破して、生誕する。
俺たちは何度でも自己の世界を更新し、新たな神話を見るために試行を重ねる。トライアンドエラー。フィードバックの果てに漸進できると信じて。
アイドルの価値を比較し、特権性を貶めつつ参入の敷居を下げ、『特別』と『誰にでも』のいいとこ取りをする鮮血呪。
自らの世界でファンを魅了し、最高のステージという強烈な個我のアピールで世界を幸福な瞬間に固定する氷血呪。
二つの機能が重なり合って、世界は究極の一にして普遍なる全へと変容する。
ありふれた、けれど最高の特別。
それが、邪視と杖が提示する視座だ。
全ての答えが出揃った瞬間、夢と現実で巨大なイメージが膨れ上がった。
――『俺たち』は見た。九層の秩序。多層化された心的領域を遊泳していく超上位自我。炎を纏った御使いたち。無限大の宇宙、天体を模した多層構造は人工の呪術脳。大地と太陽、四つの衛星と四つの遊星。天の構造は夜光天、幽冥天、精霊天、太陰天、太陽天、土塊天、火力天、水晶天、天堂天、天球層と連なり紀神と紀竜がそれらを統べる。それぞれの層と重なるように配置された玉座にはシルエットになった影が座している。あれらはいつか見た九姉、すなわちトリシューラの真実を知る超越者たちだろう。はっきりと見えるのは長女ヘリステラと、五番目の闇がわだかまる空白の玉座だけ。掌握しなければ。俺たちは欲した。私自身のために。私があの子の力になれるように。三人で答えにたどり着けるように。俺たちの左手が世界を飛び越え、天球層のひとつに届く。そして。
トリシューラが望み、コルセスカが望み、そしてまた俺が望むように応え、三人がそれを受け入れる。
かくしてウィッチオーダーは新たな力を解放した。
シナモリアキラの拡張が始まる。シナモリアキラのサイボーグ性がさらなる飛躍を遂げていく。
「射影三昧耶形・四番」
その魔女こそは妖精の同盟者。
邪視によって領域を確定させるワールドメイカー。
漠然としたシナモリアキラという形無き呪力は、指向性を与えられて第五階層に薄く広く拡散していく。
今まで俺は十二人の怪人となったり、六王になったり、アイドルグループになったり、舞台機構になったり、吸血鬼や瘴気になったりと転生を続けてきた。
しかしそんなものはちっぽけな枠の中における変化にすぎなかった。
心身を拡張するサイバネティクスの限界は、人型を模した義肢を動かすことのみに留まらない。人とモノは、異物と異物は、互いに侵襲しながら協調できる。その信頼こそがサイバネティクスが寄って立つ精神だからだ。
トリシューラとコルセスカ、魔女姉妹は声を揃えてその名を叫ぶ。
「No.4『イストリン』エミュレート!」
かくして俺は都市となり、時空間はアキラ化する。
その日、第五階層は新たな名を得て転生する。
世界槍の中心に広がる泡の異界。
ゼオーティアが孕む内世界のひとつ、その名をシナモリアキラといった。




