4-64 愛の切っ先
答えは愛だ。
だが、それはシナモリアキラには重すぎる。
試されているのは王としての資質。
強いられた道は二つ、暴君か暗君か。
アンドロイドの魔女トリシューラの思考時間は短い。隔離された被害者であるリールエルバとシナモリアキラに対する攻撃はトリシューラを加害者、弾圧者、虐殺者に貶め、王としての権威を揺るがせる。
『隔離された者』に対して行われてきた、歴史上のありとあらゆる迫害。
その再演を強制する舞台に、トリシューラはいつの間にか立たされていた。
この致命的難題を提示された瞬間、トリシューラは『やられた』といういかにもそれっぽいリアクションをとりながらも幾通りかの有力な選択肢を構築し、最も高い評価点が付けられた道を選び取ろうとして――
――本当に、それでいいの?
彼女の在り方を根底から揺るがす迷いによって行動を妨げられた。
たとえばの話。
「我々は慈愛をもって病める者たちに救済を与えている」と主張したとする。
病院を戦場とし、トリシューラが呪術医であるからこそ成立する大義名分。医師であるトリシューラがやっているのは攻撃では無く治療行為であると喧伝し、攻撃の正当化を図るのだ。
あるいは、苦痛を終わらせるための終末的処置として与える死ならばどうか。存在を零落させなければ消滅させることすら困難な宿命的重病人、始祖吸血鬼。迫害ともとられかねない呪文の使用はやむを得ないものだった。
言い訳など幾らでも付け足せるが、苦しい抗弁ではある。
「こうして戦闘行為を行っている事実、アキラくんという弱者を私が思う存分いじめてきた過去は覆せない。いまさら露骨なアピールをしても迫害を誤魔化すためのピンクウォッシュとしか受け取ってもらえないかも――」
少なくとも敵は確実にそこを突いてくる。そうなれば最後にはリールエルバとの呪文戦になるだろう。つまり『呪文の座』に所属していた魔女のフィールドに引きずり込まれてしまう。この戦術の肝はそこだ。
相手に本領を発揮させることなく自分の得意分野を相手に押しつける。これこそ勝負のセオリーであり、ここまでのリールエルバの動きは正攻法と言っていい。
であればトリシューラの為すべき選択は、呪文でなく杖でごり押しすること。暴君や迫害者としての汚名をあえて引き受け、有無を言わせず力で叩きのめす。
勝利する暴君か敗北する暗君かの二者択一ならば、トリシューラが選ぶのは暴君の道しかない。
しかし、だからこそ。
「トリシューラ、状況はわかりましたが、このまま手をこまねいている気はないのでしょう? 居直りか断固たる否定か、あなたはどちらを――」
戦場のただ中で、シナモリアキラの群を蹴散らしながらミルーニャが叫ぶ。トリシューラは感情の無い声で応じた。
「メートリアン。私はもう決断してる」
「なら、早く声明を」
「けど、この決断は誰のもの?」
錬金術師は絶句した。目の前にいる鋼鉄の魔女が、驚くほど脆い少女に見えたからだ。人工魔女特有の不安定さというよりも、未熟な若者としての頼りなさ。
驚くべきことに、トリシューラは怯えていた。
一切の感情が消失した表情のまま、アンドロイドは言った。
「善なる殺人、望まれた暴力、正しく肯定されるべき力の行使。アキラくんはその息苦しさを何より恐れた」
介錯、安楽死、嘱託殺人。
そこに心があることを耐え難いとしたシナモリアキラは感情を切り離し、戦いの高揚と殺人鬼の悪性に救いを見い出した。欲望のままに振る舞う女神志願の魔女を肯定し、その手足となることを誓った。
シナモリアキラは喜ぶだろう。
個人的欲望に根ざした悪しき王としての暴虐を。
シナモリアキラは唾を吐くだろう。
正しいがゆえに選択の余地のない良心的な判断を。
トリシューラが選んであげなくてはならない。預けられた彼の意思を、彼の願いを、彼に代わって。シナモリアキラを介錯する。シナモリアキラを蹂躙する。彼が望む悪しき魔女として――ああ、でも。
そもそも彼が最初に邪悪を願ったのは、どうしてなんだっけ?
「アキラくんがいないまま、彼に向かって振るわれる私の悪性を、いったい誰が赦してくれるの?」
すぐ傍にいたミルーニャは、一瞬だけ思考を停止させた後、即座に激怒しようとして失敗した。理由は二つ。ひとつめは、『トリシューラ』が実は想像より遙かに脆かったのかもしれないことに思い至ったから。ふたつめは、仮想使い魔である呪文喰らいに捕食されていた始祖の呪力が急激に膨れ上がったからだ。
ミヒトネッセは十字架を背負っていた。否、良く見ればそれは剥き出しの凶器だ。持ち手である環を起点に、四方に向けて身の丈ほどもある鋼鉄の刃が伸びている。対吸血鬼用武器としてドラトリアで用いられている斬撃墓標にも見えるし、彼女の好きな手裏剣を巨大化したものにも見える。
持ち手を握って無造作に振るうとコウモリの群が千々に裂けて霧散する。戦場を駆けめぐる人形の顔は、十代後半の少女にも三十代ほどの男にも見えた。
人形は独り言をつぶやいていた。動いている口はひとつだが、聞こえてくる声は複数。重なり合う異なる声をかぶせ合うように一人きりで会話をしている。
「情勢はカーティスに傾いている、悲しいな」「布石はほぼ置き終えた。あとはタイミングの見極めが肝心だ」「きぐるみの魔女はどうするんでしょうね」「暴君である自分に怯えてるのね、可愛いじゃない?」「ご託はいいからさっさと殺そうぜおら撃たせろやらせろ俺を出せほらほらほらほら」
様々な声が重なり合うも、その表情は常に一定。戦士の冷静さで敵と相対し、あくまでも淡々と刃を振るう。機械的な戦いぶりは人形そのものといったふうで、舞踊のごとき華麗さと敵への嘲笑はどこかに置き去りにされていた。
「ゼド様!」「大将、そっち行ったぜ」「旦那、こっちは任せて下さいよ」「盗賊王が来てくれたぞ、てめえら気合い入れろや!」
探索者たちからかけられる声は、ミヒトネッセが演じるゼドに対してのものだ。彼女の術は完璧に機能しており、戦場における『盗賊団』の士気は高い。
ミヒトネッセの眼前に巨大なネズミが立ちはだかる。
七つの首を持つ、小山のごとき竜の威容だ。
振り下ろされた前足を横っ飛びに躱すと、砕けた大地が隆起してあたりに散らばる。攪拌された瘴気が渦を巻き、そこから大量のコウモリたちが実体化して襲来。
ミヒトネッセは回避行動をとらない。そのまま突っ込むと、横合いから放たれた呪文がコウモリたちを吹き飛ばして道を作った。ゼドの配下たちからの援護だ。
巨大な十字刃を振りかぶり、投擲。回転する斬撃がネズミの肌を下から引き裂き、黒い血肉をこぼしながら上に抜けていく。傷口に片手を突き入れ、『旋風』の呪術を発動。流動する大気が魔竜の内部からかき回す。
落下してきた武器を掴むと、ミヒトネッセは風のように魔竜の脇を抜けて背後へと駆けていく。それを見咎めた尻尾の大蛇が牙を剥き、新たな戦いが始まった。
苦痛に呻く首の一つに、追い打ちをかけるような上空からの砲撃。グレンデルヒとゼド、二大英雄の共演に地上の探索者たちが歓声を上げる。
怒り狂った大ネズミが深く息を吸い込む動きを見せた。たちまち探索者たちが慌てふためき、おのおの防御呪術を発動して守りを固める。もう幾度目になるかもわからない、恐るべき破壊力の吐息が放たれようとしているのだ。
そして七つの口から同時に瘴気が放たれた。大波となって押し寄せる高密度の呪い。そんな未分化の大災害である波濤の前に立ちはだかる者がいた。
橙色に近い黄金の鎧を身にまとい、四対八枚の燃える翼を広げた炎の天使。
アルマ・アーニスタが片腕を突き出すと、虚空に透明な障壁が出現。壁はどこまでも拡大し、迫り来る黒霧を丸ごとせき止めて見せた。彼女の背後にいた探索者たちの表情が希望に照らされる。
二人の英雄に続き、英雄コルセスカの仲間であるアルマが活躍したことで、場に勢いが生まれていた。『上』はこの魔竜などに負けない、この流れに乗れば勝てる。六王や始祖吸血鬼がどれほどのものか、こちらには英雄がついているのだ。
コルセスカがアイスリンクで舞い踊る映像と涼やかな音楽が流れることで、その雰囲気はいっそう強固なものとなっていく。彼女が『SNA333』に快勝を続けていることが探索者たちの心を奮い立たせているのだ。
更に二人の名も無き探索者が始祖を倒した事実が広まると、我も我もと後に続こうとする者が現れ始めた。大蛇の追撃を躱しつつ、戦場のあちこちを飛び回るミヒトネッセ。彼女はそうした動きを肌で感じ、微細な変化を読みとりながら、タイミングを見計らって『配下』に接触してはこう触れ回った。
「始祖に勝てる方法がある。奴らの戦い方を見ていたか?」「そう、『噴水の君』の側近だったあの二人ですよ」「言理の妖精ちゃんで貶めちゃお。ダッサい渾名とか募集中♪」「なんと卑劣な手段だろう、悲しいことだ」「俺様がやれっつったらやるんだよオラさっさと吐け唱えろケツ叩かれねえと動けねえのかカス信徒ども」
伝播する『有効な対策』。始祖にレッテルを貼り、その誇りをはぎ取った上で集団で攻め立てる。子供じみた渾名、いじめそのものの罵倒。
扱うものの心が幼いほどに呪文は原始的・呪術的な性質を強めていく。子供であるほど親和性が高い妖精は、無垢な悪意を強烈に反映した。
「言理の妖精語りて曰く――この呪文は、差別と迫害に極めて適している」
ミヒトネッセの小さなつぶやきは、かつて黒百合宮で敗れたこの妖精が子供たちに弄ばれた事実を知ってのものか、否か。いずれにせよ、リールエルバはその事実を正しく認識していたに違いない。
出し抜けに、人形が小さな呪術を紡いだ。
『炸撃』――火線が上空へと昇っていき、パチパチと弾けて花火と散る。
合図を受けたツインテールの美少女呪文使いが巨大な呪文竜を解放し、それは真っ直ぐに大きなネズミに向かって行く――と見えたが、直前で軌道がずれてあさっての方向へと飛んでいく。
呪文竜が巨大な顎を開き、食らいついた先は戦場を覆う外壁の上。
炸裂した呪力が物質世界に死と破壊を具現化させる。
目も眩む閃光と衝撃、熱波と黒煙が壁を焼き、敵勢力にはなんら損害を与えぬまま莫大な呪力が無駄に浪費されていった。
誰もが制御ミスと思い溜息を吐く。
そんな中、ミヒトネッセだけは爆発の直前、壁の上に三角耳の姫君と背後に付き従う球体連結の異形が現れていたことを確認していた。
「偶然の流れ弾。戦場とは無慈悲なものだ」
人形の喉を震わせて、男の声が低く響く。
吹き荒れる呪いの嵐。
戦場の熱に浮かされるように、悪意の蔓延が始まった。
さながらそれは、流行病のように。
時間は刻一刻と過ぎていく。
何もしなければ、事態は当然のように悪化するだけだ。
魔竜の一撃を受け止めながら、アルマがグレンデルヒに向かって叫んだ。
「ちょっと、何休んでるの?!」
アルマは情勢を鑑みて防戦に徹するしか無いと判断していた。『松明の騎士団』関係者という立場を考えた時、アルマが攻撃に荷担することは『弾圧者』『迫害者』という属性を強化してしまいかねない。今できることはただ盾となり、魔竜を押さえ込むことだけ、
そんな状況下では動きを止めたグレンデルヒに苛立つのも無理は無かった。当の英雄はというと、なにやら空中に立体幻像の窓を広げてニュースなどを見ている。すると、突然グレンデルヒがアルマに叫び返した。
「まずいぞ。『上』の強硬派が第四階層の『門』付近に部隊を展開している――主戦力は病院修道会か。浄化と治療、人道支援の名目で武力介入するつもりだ」
黄金の兜の下で、アルマの表情が強ばった。守護の九槍キロン亡き今、アルセミット病院修道会を率いているのは現在の第九位だ。不吉な予感と共に竜の息吹がアルマを追いつめる。闇をせき止める巨大な『氷盾』に、ぴしりと亀裂が入った。
一方、主戦場からやや離れた位置で激戦の風景を眺める者がいた。
積み上げられたシナモリアキラ犬の山に、肌も露わな女が腰掛けている。濡れそぼった赤毛はタコ足のように伸びて裸の胸を隠しており、大きなヒレ耳と下半身が魚という特徴を持った海の民――いわゆる『人魚』だった。
人魚は手で巻き貝をいじりながら、呪文で構築した投網で大量のシナモリアキラ犬を捕獲している。彼女は首輪に『捌』と刻まれた犬耳のシナモリアキラを水の泡に閉じ込めると、退屈そうに口を開いた。
「ガロアンディアンが瘴気の封じ込めに失敗した場合、第五階層は『下』の勢力下に置かれるわ。『死人の森』と『ガロアンディアン』という壁が失われた上に、魔竜という宗教的な討伐対象の出現。この地はまた戦場になる」
それを受けて、近くで顔が半球状に抉れた男が声を発する。音は彼が手に持つ魔導書から聞こえてくる。表紙に貼りついた男の顔が喋っていた。
「問題は『上』の体質です。巨大企業は魔竜という魅力的な強敵の出現をこれ幸いと各国の英雄人材と呪力を消費して戦いをできるだけ長引かせようとするはず――槍神教と複合企業体による談合、戦力の逐次投入。そして複合企業体は次の英雄を収獲するために他国に拠点を移し、世界槍には非効率的な死体の山が積み上がる。九英雄・九槍時代のような馬鹿げた英雄消費ゲームが延々と続く」
うんざりしたように肩をすくめる探索者たち。彼らの心中にあるのは権力への警戒だ。彼らはゼドを信奉する探索者たちとも気質が異なる。『所属』を嫌い、『帰属』を厭う。その結果として第五階層に行き着き、ツールとしてのガロアンディアンに身を寄せた。
中級から下級のシナモリアキラたちは積み上がる同類の屍に警戒して二人に近付こうとはしない。そこが死地だということがシナモリアキラの原始的な知能でも理解可能であったからだ。
人魚の如き女と魔導書男の呪力は明らかに探索者たちの中でも図抜けていた。
しかし降りかかる火の粉を払いはしても積極的に事態の解決に乗りだそうとはしていない。むしろ、
「さて、誰が玉座に手をかけるか」
と高見の見物を決め込んでいる。彼らは王への忠誠も国家への愛着も持たない自由な強者だ。ゆえに彼らは大勢が決するまでは様子見を続けるだろう。あえて危険な運命の荒波に身を投げ出す意味も動機も持ち合わせていないからだ。
実力者ふたりの視線は魔竜と英雄たちの決戦から、別の戦場へと逸れていく。
そこでは額に『拾』の焼き印を押された男が一方的にルバーブ=乱髪に殴られ、呪われ、投げ飛ばされていた。
このシナモリアキラは身に付けた不潔な囚人服といい手入れのされていない髪や伸び放題の髭といい見るからにみすぼらしく、ただ打ち倒されるだけの無様な様子は周囲の探索者から侮蔑の視線を誘っていた。
余りにも弱く惨めなため、シナモリアキラがルバーブ相手にあとどのくらい持ち堪えられるかの賭けが発生している。探索者たちは戦場の嵐がぽつんと凪いだ安全地帯で酒を飲み、屋台料理を喰らっていた。
『拾弐』のネームプレートを白いエプロンに付けたキツネ顔のシナモリアキラは腰を低くしながら背中のコウモリ羽をぱたぱた動かして給仕を行っていた。彼が戦場のど真ん中に『創造』した屋台は不思議と攻撃の標的とはならず、探索者たちは知らず知らずのうちにそこに引き寄せられていく。
第五階層ではありふれた屋台。当然、厚生労働シューラの認可は下りておらず、衛生管理もされていない。しかし戦いに疲れ、瘴気が伴う悪臭に鼻を痛めつけられた探索者たちは屋台から立ち上る料理の香りに抗えなかった。
店員シナモリアキラのつぶらな瞳と無害そうな顔立ちもあって、屋台はたいそう繁盛していた。シナモリアキラは素手で自らの腹から肉を引き千切り、包丁で背中や肩の肉を削ぎ落とす。時には骨ごと切り離して鍋に突っ込んでいく。
シナモリアキラ料理のレシピは様々。串焼き、火で炙った骨付き肉、小さく刻んで煮込んだシナモリアキラ肉――ハーブや生姜、ココナツミルクやスパイスをふんだんに用いたカレースープは冬空の下、屋台の照明に照らされて白い湯気を立ち上らせている。
探索者たちとて無警戒ではない。生体防護呪術を事前に使用し、免疫系は呪的に強化済みだ。第五階層ではこのくらいの用心は常識だった。
そして、『上』にはこのような常識もある。
殺せ、奪え、勝ち取れ。
英雄は怪物を倒し、血肉を喰らって力とする。『生命吸収』は呪術の常道であり、吸血鬼も敗北すればその理に飲み込まれるのみ。シナモリアキラがカッサリオを喰らって力としたように、我々もシナモリアキラを喰らって力にするのだ!
興奮、激情、加虐の欲望。
根源的な生の欲動が食欲として呼び起こされる。
「『虜』のまじないは狂い姫の得意技だというのに、可哀相に」
楽しそうに飲み食いする探索者たちを人魚は憐れみ、愚行を止めるでもなくただ事の成り行きを見守る。やがて破綻は目に見える形となって現れ始めた。
地に伏した囚人服のシナモリアキラを見下ろすルバーブは勝利に浸るでも無く墓標を『創造』することで相手を封じ込めようとしていたが、ふと眉根を寄せた。ずっと我慢していた何かが限界に達したとでもいうような、衝動的な動き。荒々しく頭髪を掻き毟ったのだ。
痒い。
意識した瞬間、ずっしりとした男の体躯の至る所から瘴気が吹き上がる。
目視が困難なほど小さな何かが彼の服に、髪に、更には股間にまで密かに侵入し、ずっと機会を窺っていたのだ。穢れに蝕まれたルバーブの全身に発疹が生じ、まじないじみた進行速度で男の肌を真っ赤に染め上げていく。
しかと大地を踏みしめていた足がもつれ、唸り声をあげて頭部を押さえる。顔に刻まれた皺が激痛を示す。強烈な頭痛と発熱がルバーブを追い詰めていた。
気付けば、彼の世界は寒々とした荒野に変貌してた。
彼方には貨物列車。押し込まれているのは傷病兵、それとコンテナに詰め込まれた白い服の虜囚たち。老若男女さまざまな人々が連行され、『労働』とか『自由』とかが刻まれた正門を通されて収容所に運ばれていく。
社会から隔離された浮浪者、独居老人、スラムの住人、反体制派の人狼種などが職業斡旋の名目で強制労働に服していく――とある王の願いを叶えるべく、都市の美観を損なうとして美しい世界から遠ざけられた醜いものたち。
ルバーブに向けられる虚ろな瞳。
気付けば彼は傷病兵や脛に傷のある看守たちを率いて収容所への強制連行を指揮していた。それは病の苦痛が生んだ幻覚、精神的錯乱か。はたまた、彼の業が招いた悪行の再演であるのか。
踏みつけにされたシナモリアキラの頭部が、次第に変貌していく。
霊長類から節足動物に。
首の上に乗っているのは頭ほどの大きさの巨大昆虫。
小さい頭部から繋がる細い胴体には三対の歩脚、膨らんだ腹部は半透明で内側に吸い取った血が透けている。
管状の鋭い吻針を持った極小の吸血昆虫の名を、シラミといった。
人だけが持つ『衣服』という文化。
十万年以上前、人々が布を纏いはじめた頃。彼らは既に自分たちの生きる場所を『自然』から『人工物』へ移す事を定め、その節足を繊維にへばりつかせた。
衣類の縫い目に棲むという生態のみならず、ファッションミームそれ自体に呪的な寄生を行うシラミ型吸血鬼は、文化と融合した種族的半不死を達成している。
第『拾』の始祖吸血鬼、『紅戦熱』の名が苦痛に呻くルバーブの耳に流れ込む。きぐるみの魔女トリシューラにとって最悪の敵となるこの吸血鬼は、陣営のセキュリティホールからまんまと侵入を果たして見せた。
剃毛して全裸になり、流水の呪術などで身体を洗えば対処は可能かもしれないが――『毛』という呪物に対して信仰にも近い聖性を見出す大地の民にとって、剃毛とは魂を裂かれるほどの苦痛である。
ルバーブと相対するのにこれほど適した始祖もいない。
チフス・アキラが病による蝕みと弾圧者としての罪の暴露を同時進行で行う一方で、屋台を開いている店員シナモリアキラの仕込みが完了していた。
呪いという形態を取るため、潜伏期間を大幅に短縮して始祖が念じた瞬間に症状が発生する。突発的に現れた病状は発熱、悪寒、頭痛といった苦痛から嘔吐、下痢、肝機能障害まで多岐に渡った。
顔面の穴という穴から瘴気が溢れ、七孔噴血した後にのたうち回って倒れ伏す探索者たち。屋台料理が地面に溢れ、調理済みの肉が屍と共にごろりと転がる。
得体の知れない熱に浮かされていたとはいえ、呪術的防護による備えをしていた探索者たちをいとも容易く死に至らしめたものは何か。
言うまでも無く、始祖吸血鬼の『外破』だ。
本性を露わにした呪詛は免疫系を攪乱するデコイを放ち、生体の防御機構をほぼ完全にすり抜けていた。免疫系を操作した上で血管を攻撃させ破壊、内臓機能に致命傷を負わせるという恐るべき呪的侵入。発症したが最後、大抵の人間は全身から血を噴きだして死に至る。
凄まじい殺傷力と呪的防御への貫通力を持つこの病の感染力はさほどでもない。ゆえにこの始祖は『虜』の呪術で食欲を煽り、衛生管理から目を逸らさせることで自己を捕食させるという戦術を選んだのだった。
店員アキラのくりくりした大きい目、キツネっぽい愛嬌のある顔が歪み、歯を剥き出しにした笑みとなる。うって変わった印象は、ぎょっとするような馬面だ。
背中のコウモリ羽がはばたくたび、吹き上がった瘴気から小さなコウモリたちが発生する。フルーツコウモリ、あるいはオオコウモリと呼ばれるこれらの生物は、超音波の反響定位ではなく発達した視覚に頼って飛行する大型種である。果実を好み、空飛ぶキツネとも呼ばれる彼らは大型ゆえに食用に適するとして昔から狩猟の対象となってきた。
第十二位は最弱の始祖。これはつまり被害者としての性質が最も強いということを意味する。被捕食者の極致たるフルーツコウモリの始祖こそ、猫の国においてエボラ出血熱の名で恐れられる死の化身。重症急性呼吸器症候群の呪力までもを内包する強大な始祖吸血鬼は、あくまでも弱者のまま感染を拡大させていく。
人類が誇る『食文化』への寄生。
根源的欲求のひとつ『食欲』と強く結びついた不滅の始祖。それがこのシナモリアキラである。
勝者に狩られ、食われてしまう弱者。
同時に進行する破滅的な病。
どちらか一方では無く、両面から攻めることで『どう転んでも勝てるように盤面を動かす』という盤石の攻め手であった。
衛生管理の不備――行政が役割を果たせていないと、最悪の場合このような結果を生む。病や不衛生というのは、為政者が戦わなければならない大敵のひとつ。王を名乗る者はこの戦場から逃げ出すことはできない。
だが悪化する事態を前にして機械女王は躊躇いを抱えたまま動けずにいた。
「魔女の陰謀を許すな! 医師を名乗る涜神者どもを殺せ!」
そして、きぐるみの魔女が手をこまねいているうちに彼女に更なる敵意が牙を剥いた。甲高い弾劾の声が上がる。
『伍』と刻まれた鉄の箱に槍が突き立てられた。首から下を人工呼吸器で覆ったシナモリアキラに、斜め移動する象牙の僧正が呪詛を浴びせかけている。
象牙で作られた人工僧正――すなわち司教区を監督可能なほど高性能な人形の神働術師――は槍神教のとある分派の教えに従って病人とその治療者を否定する。
「神の意思に背いてはならない! 忌まわしき魔女の知恵、不自然な杖に頼るなど言語道断である。人は二本の足で立ち、天命を全うするが定め。さあ、医師を尽く殺し、魔女を貼り付けにし、忌まわしい杖の全てを破壊するのだ!」
聖別された象牙の人工僧正は問題無いとした上で、分派なので地上の槍神教とも直接の関係は無いという予防線を張ったこの人形に外聞を気にする発想は無い。
非難や嫌悪の視線を意に介さず鉄の箱を破壊し、始祖吸血鬼が周囲に広げた世界を蹂躙する。吸血鬼の浄界では患者たちが鉄の箱で呼吸を助けられることによって命を繋いでいたが、僧正は片端から機械を打ち壊していく。
「寄進せよ! 寄進せよ! 神に祈り、全ての財を教会に預ければ神の国で安らぎを得られるであろう! 病死万歳! 金じゃ、金を寄越せ! 護符と聖水を特別価格で売ってやるぞ!」
病院の設備を破壊し、医師や看護師を殺し、患者を死に追いやる。
槍神の名の下に行われる公然たる虐殺。
しかし入念な切断処理によって批判の矛先が『上』に向かうことは一切無かった。目撃していた探索者たちも全世界に配信中の念写映像を見ていた人々も、誰ひとりとして義国圏の槍神教とこの槍神教分派を結びつけようとは思わない。ただ『第五階層に突如出現した宗教の凶行』として受け止めるのみである。
僧正は麻痺などの後遺症が残った者が呪具による歩行補助を受けることを否定し、ワクチン接種や医師による治療を神への冒涜と盛んに喧伝する。
そして厄介なのは信仰だけではない。
高みの見物を決め込んでいた人魚の目の前で、捕縛していた犬耳アキラが瘴気を解放する。面倒そうな表情になった人魚は泡になってその場から消失。
名を上げようと機会を窺っていた他の探索者たちは犬耳アキラの正体を狂犬病と推測し、既にアストラルネットから狂犬病ワクチン呪文を端末にダウンロード済だった。先進国では当然のように普及しているワクチン呪文を犬耳アキラとシナモリアキラ犬たちに放とうとする探索者たちの前に、新たな人影が立ちはだかる。
「ウチのコになんてことするザマス!」
鋭角の眼鏡に厚化粧、戯画化された特徴を有する、フィクションなどでお馴染みの厄介な飼い主像が具現化していた。あまりに創作的だが意外と実在する厄介飼い主概念は、類例を積み上げるたび概念強度を増すと同時に空想度を上げていく。人の理性が『創作実話であって欲しい』と願ってしまうからだ。
「安全な選択はワクチン接種をしないこと。犬たちの健康を守るのは私たち飼い主なのです」「ワクチンを接種しない犬が健康であるという証言が、ネット上に数万件以上あります。これ以上言葉が必要ですか?」「犬は強力な防衛機能を持って生まれてきます。有毒物質の注射によってではなく、自然な免疫力を育むのです」「医師よりワクチンに詳しくなりましょう。拝金主義の製薬会社の言いなりになっている無責任な医師を正面から論破できるのは私たちだけなのです」
次々に現れる幻想愛犬家たちの首には首輪と鎖。
「犬畜生風情にワクチンとはけしからん!」などと鼻息を荒くする壮年男性までもが首輪をつけられており、鎖を握るのは始祖吸血鬼たる犬耳アキラ――否、真の力を解放した犬頭のアキラだった。
始祖吸血鬼たちは単純な『病の擬人化』とは限らない。
夜の民である吸血鬼は呪文と使い魔に適性を持つ。それは彼らが眷族を増やして感染するからと思われており、その認識は実際正しいが、完全ではない。
災厄全体が有する呪力、病が及ぼす社会的な影響、人と病、思想と信仰、技術と政策、その他広範な『共同体が内包する呪い』――吸血鬼の『使い魔』性とはそのようなものである。
人を介して増える。招かれねば入れない。境界たる川を渡れない。隔離による封じ込め。吸血鬼が持つ幾つかの特徴は、彼らが共同体に強く依存する種族であることに由来している。今の彼らは第五階層に根ざした存在であり、ガロアンディアンの住人でもあるのだ。
つまり彼らが発生させた問題はガロアンディアンの失態となる。事実上のバイオテロであったとしても、瘴気が第五階層外部に広がり真の意味でパンデミックが起きた時、トリシューラは確実に女王失格の烙印を押されることとなるだろう。
最悪の脚本、俗悪な演出、露悪的な舞台。品の無い役者の演技が観客の眉を顰めさせる中、とびきりの役者が遅れて姿を現す。
浅黒い肌にさらさらの黒髪。邪悪さと残忍さの入り交じった笑みが浮かぶ顔の左側に白い蝶の刺青。血が染み込んだ黒いシャツに円錐形の白いスカートといういでたちの少年が、牙猪の頭部を鷲掴みにして引き摺りながら戦場を歩いていた。
「そこな同胞よ。竜相隻眼の男を見てはおらぬか?」
高めの声にはどこか老成した響きがある。呼びかけに反応したのは無尽蔵に増え続ける『玖』の始祖『斑悪気』と死闘を演じていた水着姿のカーインだ。
六人に増えたカーインは始祖に追い詰められていた二人組の探索者を颯爽と救い出した後、蚊の王たるマラリア・アキラと戦っていた。
当人らの体感時間でおよそ一年にも渡る戦いの末、この始祖だけが持つ第二段階の外破により『沼』としての性質が明かされることとなり、稲妻と共に複製され続けるスワンプマン型のシナモリアキラと死闘もまた体感で半年にも達しようとしていた矢先のこと。新たなシナモリアキラの登場は、沼男にとってすら予想外だったのか愕然とした表情で硬直していた。
今までその気配すら感じさせなかった少年の、闇のような瞳がカーインの心の奥深くまで覗き込んでくる。視線に込められた瘴気。邪視の原始的な形態とは、病人に見られただけで感染するのではないかという恐怖であった。
瞳の中心に、『弐』という文字が浮かぶ。
刹那、死病の邪視経由の感染と発症が因果を圧縮。水着カーインの全身に黒い斑点が浮かび上がったかと思うと一瞬にして絶命させた。六人のうち一人が黒い塵となって風に溶けていく。
「ふむ、これも外れか。余の裔とかいう竜人と遊んでみたかったのだがな。まあ良い、お主ならこの牙猪よりは退屈しのぎになりそうだ」
少年の姿をしたシナモリアキラは牙猪を無造作に放り投げる。
皮膚のあちこちに出血斑が生じ、症状の甚だしい腕は壊死を起こしている。黒痣だらけの見るも無惨な姿に、残ったカーインたちの全身の毛がよだつ。
「『弱者として負けつつ病として勝者を侵し、総合的に優位に立て』となにやら面倒なことをカーティスの奴は言っておったがな――『竜相持ち』やカーティスの器と同じ臭いがするお主であれば普通に戦っても良かろうて」
そう言うと少年は軽やかに跳んだ。
カーインらの視界から一瞬にしてその姿を消失させた次の瞬間、上空から圧縮された瘴気の弾丸が雨霰と降り注ぐ。
信じがたいほど爆発的な跳躍と呪力だった。その体格からは考えられないほどの脚力で上空に飛び跳ねた少年が、大気中の塵を蹴って加速しながら真下へと疾走してくる。轟音と共に大地が陥没し、撒き散らされる瓦礫と一緒にカーインたちが吹き飛ばされていく。巻き添えで沼男のシナモリアキラ数人が即死した。
「生憎と余は生まれた時から強者であり、敗北を知らぬ。蹂躙しか分からぬ。よってこの勝負、一方的に余が遊ぶことになるが、構わぬか?」
仲間である沼のアキラでさえ恐怖に顔を引き攣らせて距離を置いていた。この少年は既にシナモリアキラの枠を超えている。これは敵味方の区別無くただ思うがままに力を振るう動く災害そのものだ。
身構えたカーインたちに少年の動きは捉えきれない。呪力以前の身体能力の差だった。風で膨れあがったスカートが翻り、少年の足が露わとなる。
発達した両足は生物を模した呪物製の義肢だった。超古代文明が生物模倣技術の粋を凝らした跳躍特化義足。神代の巨大昆虫たちから採取された弾性タンパク質レジリンは極めて優れたエネルギー効率を持ち、羽のように軽い少年のウェイトも相まって高い機動力で敵を撹乱しながら瘴気をばらまける。ありとあらゆる方向から放たれる邪視と瘴弾がカーインを、沼アキラを、巻き添えを食らった探索者たちを徹底的に叩きのめす。
「カーイン、道を作れ!」
沼アキラが叫ぶと、真紅の長衣を纏ったカーインがかっと目を見開き、浮遊する火の玉を四方八方に散らせた。炎と炎が線で結ばれ、内と外が隔絶される。少年が火のカーインを敵と見定めて襲いかかったが、その前に立ちはだかったのは落雷と共に増殖したシナモリアキラ。死の視線で絶命しながら沼男が大地に手で触れると、そこから世界の風景が書き換えられていく。
始祖吸血鬼が創りだした浄界は、どこまでも広がる湿地帯と汚泥のごとき底無し沼で構成される曇天の世界だった。カーイン、沼男、少年だけが戦場から切り離されて浄界内部に閉じ込められる。
沼アキラは両腕に稲妻を纏わせ、新たな自己を複製しながらカーインたちに共闘を呼びかけた。
「こいつは既に俺という枷を外している。リールエルバの制御下に無いこの始祖は危険だ。悪いが嫌でも手を貸して貰う」
「またしても水入りとは、つくづく運が無い」
「諦めろ。それにこいつはカッサリオよりお前好みだろうよ」
沼アキラたちとカーインたちは構えを取り、恐るべき難敵と対峙すべく互いの死角を補い合い、絶命の邪視を数人がかりの瘴気でどうにか凌ぐ。
少年始祖の背後で空間が歪曲し、広大な宇宙と十字に連なる惑星の配列がカーインたちの目に映る。特殊な星辰配置と共に世界に長い冬が訪れ、最古の始祖が一角『凶作』の胎内から産み落とされる純粋な呪い。
其は歴史の特異点。
リールエルバと同格であることを示すかのようにもう一体の魔竜が浄界内部に顕現し、少年はその上に騎乗する。ネズミに乗った異形の節足を持つ少年、比類無き始祖の王は力を合わせて自らに立ち向かう二種の強者を見てかすかに微笑んだ。
異なる来歴、異なる個性、不意に戦場でぶつかり合い、奇妙な共闘や好敵手まがいのごっこ遊びを演じてみせる二人。
全力の闘争の中、互いの呼吸を合わせていくうちに、彼らが有する武芸の摸倣子は接触、互いにフィードバックを重ねて混淆していく。
噛み合う要素は混ざり合い、受け入れ難い要素は衝突する。
それは極小の異文化摩擦であり、異文化交流でもあった。
沼アキラとカーインたちは知らなかった。
非同質的な二者の共闘・交流。
それこそがこの始祖に力を与えていることに。
少年が有する『共同体に依存する災厄』としての顔。
それは『交易』であり、『共同体と共同体の接触』であり、『異文化の混淆と衝突』であり、換言すれば『病が拡大する原因そのもの』であった。
隔離が持てあますのも道理である。封じ込め切れない人の移動、摸倣子の拡散現象が形となったこの始祖は黒死病を司ってはいるものの、同時により根源的な『呪力』の申し子である。
「さあ力比べといこうではないか。お主らの技で余を楽しませよ」
心底から楽しそうな始祖王の心に嘘は無い。
激突する力と技、交錯する呪力と世界。
だが、しつらえられた舞台と戦いに至るまでの流れが完全に偶発的なものであったかと言えば、それは否である。
不意の乱入からのやむを得ぬ共闘――そう見えた展開もまた、ある種のパターン、約束事。魔竜には通らぬ理だが、リールエルバがそうした演出を意図し、手足たるシナモリアキラたちに演技指導をすることは不可能ではない。
敵と味方が手を組めば、戦場における加害者と被害者の構図は反転する。
絶対的な災厄としてのシナモリアキラが自分とは異なるシナモリアキラを攻撃するという構図もまた、リールエルバの両面からの攻撃、その一環であった。
沼アキラはカーインと轡を並べながら不敵な笑みを見せた。
好敵手との共闘――内心の見えないロウ・カーインだが、彼がこの手の展開をそう嫌ってはいないことにシナモリアキラは気付いていたのである。
リーナとの戦いを経て、ミルーニャがけしかけた呪文喰らいによって捕食された『陸』のシナモリアキラ。彼は半透明の仮想使い魔内部で耐性を獲得し、自己複製によって存在を増殖させていった。シナモリアキラ顔が肉腫となってぼこぼこと膨らみ、呪文喰らいを内側から食い破る。
『白死息』の宣名が高らかに響き、病的に白い肌と長い白髪を備えた美貌の妖人が生誕する。赤眼が輝くと同時、『窒息』の呪いがミルーニャを襲う。呪文詠唱を妨害する致命的呪術で反撃と呼吸を同時に封じ、滑るような足運びからのブリキ義肢による呪的発勁。
咄嗟に身体の前で腕を交叉させたミルーニャのガードごしに衝撃が抜けて、小柄な錬金術師は腕と胸骨を粉砕させながら吹き飛ばされていった。激昂したリーナの『空圧』がカリエス・アキラを襲うが、始祖の周囲は完全なる無風状態と化し衝撃破を通さない。男は凪を支配しあまねく全ての生命を窒息させる死の具現だ。
ごほごほと咳き込み、喀血するその仕草は『病人』の記号的表現。
いつの間にか白い男は薄手の病衣を身に纏い、ブリキのコップを手にしてうがいをしていた。一見して戦場では意味のない行動のように見えるが、覇気の無い仕草には死を予感させる儚さがあり、彼の存在に避けられぬ人生の終わりという文脈を付与していた。結核・労咳はある種の寿命と見なされることすらあったのだ。
諦めと無力感が世界に染み渡る。
機能不全のまま動けないトリシューラは、目の前でリーナとミルーニャが打ちのめされていくのをただ見ていることしかできない。
上空に浮かんだ窓の向こう、きらきら煌めく夢の世界ではコルセスカが世俗の穢れなど置き去りにして舞い踊っている。強固な世界を心に抱く冬の魔女の歩みについていけず、遅れて足踏みしたままの機械人形はがらくたの中で膝を抱えた。
トリシューラの瞳には創り出すべき世界が映っていない。
ビジョン無き王の意思はどこにも届かず、邪視と浄界を持てない女神の創世は楽園を頽廃させていく。朽ち果てたがらくたの王国で、トリシューラは子供じみた夢さえも見失っていた。
白き死が身動きのとれないミルーニャに襲いかかる。
あらゆる風と呪文を封殺する始祖に対し、言理飛翔を含めたあらゆる抵抗の手段を失ったリーナはそれでも抗おうとしていた。傷付いたミルーニャの前に立ちはだかり、その身を盾にするように両手を広げる。
戦場には苦痛と絶望が溢れている。
死には抗えない。他者とはわかり合えない。過ちは償えない。
衝突は避けられない。愚かさは捨てられない。現実からは逃げられない。
子供じみた王様ごっこはこれで終わり。
身の程を知ったなら、お家に帰って誰かの糸に身を任せていればそれでいい。
暗転した舞台の上、スポットライトがトリシューラを照らす。
膝を抱えた魔女の身体が震え、闇の彼方から目を逸らそうと必死で目を閉じるが、それでも聞こえてくる破滅の足音に怯えるだけの時間。
別にいいじゃない、末妹選定なんて適当で。
誰かの諦観が今更のようにトリシューラの足を引く。
舞台の背景で一枚の絵がスライドしていく。
大きなネズミが夜を呼び、広がる闇が世界を閉ざしていった。
魔竜の存在は人々が持つ幻想のことごとくを否定し、夢から醒ましてしまう。
同化か排除かの二択さえ拒絶する異邦の神。
異界の理を前にした時、言葉と理想はその意味を失い、人はただ立ち尽くすことしかできない。進むべき道すらわからない無限の夜闇に置かれたときに、松明も祈るべき神も持たない剥き出しの心は寒さに凍えてしまう。
なんて寒いのだろう。それにここはとても寂しい。
女王は裸だ。機械の身体は冷たさを知らず、けれど心は怯えに震える。
創世はいまだなされず、原初状態の恐怖が王の器を試す。
混沌とは闇。虚飾無き世界本来の姿にトリシューラは怯えていた。
彼女の心を反映するように、舞台が次々と崩壊していく。
広がる奈落。役者としての出番が終われば舞台袖に捌けるしかない。
落ちていくことに不安と共に幾ばくかの安堵を得て、トリシューラは闇に身を委ねようとした。落下と共にわずかに視線が上を向く。空には変わらず氷上で舞うコルセスカがいて、伸び伸びと希望を歌っている。
ああ、けれど。
それでも私は夢を諦めないと、彼女はずっと叫んでいる。
子供じみた嘘の世界で、鋼鉄のスリッパに乗って空を飛ぶ、荒唐無稽な竜退治。
夢から醒めろと言うのなら、大人になったふりで世界をきっと騙してみせる。
歌が、まなざしが世界を貫く。
新たな世界を創り出す魔女のマジカルアピールが、異なる世界と世界をひとつに繋いで次なる光景を見せていく。
滑走しながら竜との戦いをイメージした振り付けをこなし、技術点を考慮しない呪術行使で氷の槍を振るってこれもまた自作した氷のネズミと一騎打ち。
戦いの果て、ネズミの王は窓の向こう、現実側に逃げていく。
暴れるネズミの王は現実世界の人々を追い詰め、苦しみに満ちた呪いを振りまいていく。勇敢にネズミの王と戦っていたがとうとう窮地に陥り、闇に落ちていこうとする機械女王。あわやというところでコルセスカは近くに落ちていた鉄のスリッパをひっつかみ、えいやと投げつけた。
窓がぱりんと割れて、夢から現実へと投げつけられたスリッパ。
次元を貫いて飛んできた鉄の塊が、瘴気の守りを貫いて勢い良く魔竜レーレンタークに直撃する。
瞬間、世界を覆っていた瘴気の闇がさっと払われていく。
コルセスカが歌う。
現実から醒めろと夢から叫ぶ。
その瞬間、世界に目覚めが訪れた。
制止した時間と諦観の舞台が崩壊し、戦場のあちこちで光が立ち上る。
カリエス・アキラはあまりの眩しさに顔を手で覆い、強い光の発生源から遠ざかろうと後退る。穢れを退ける光とは何なのか?
問いの答えはリーナとリールエルバの目の前にあった。
いつの間にか端末内部から実体化していたカード。
『チョコレートリリー空組』として活動を共にしてきたコーデの数々は、戦場の中であっても夢を失わなければアイドルとしての輝きを取り戻す。
少女たちが愛用したブランド、独自に工夫したジュエリーアクセ、夢のような思い出の数々は、形となって彼女たちの心を奮い立たせる。
「アイドルと、コーデの繋がり――」
トリシューラがぽつりと呟く。
きぐるみの魔女が目の当たりにしているのは、人とモノの関係性から生み出される『使い魔』の呪力だ。三本足の民がモノに執着を込めるように、モノもまた人の心に働きかけることがある。
関係性の矢印は一方向にのみ伸びるわけではない。
使うものと使われるもの。
ならばシナモリアキラとトリシューラの関係も、きっと。
機械女王が迷いに対する答えを得たのと同時に、リーナとミルーニャのカードが光のラインで結ばれ、そこから伸びた光が三角形の最後の点を形作った。
すなわち空組最後のひとり、セリアック=ニアを呼び寄せたのである。
時間も空間も夢も現実も、あらゆる条理を飛び越えて猫姫が友人たちの窮地に駆けつける。光の向こうから飛び込んできた少女の爪が虚空を切断し、ぐらりと白い影が揺れて倒れ伏した。
瞬く間の決着。カリエス・アキラに勝利したセリアック=ニアは二人の友人に向き直ると、淡く微笑んだ。
少女は満身創痍だった。黄色いドレスは煤だらけであちこちが焼け焦げており、背後に控えているナーグストールは損壊していない箇所を探す方が難しいほど全身が砕けている。とてつもない大呪詛からセリアック=ニアを庇ったかのようなありさまで、ナーグストールの背中にはびっしりと死の命令が張り付いている。
「セリアは、ここで終わってもいいと思っていました」
出し抜けに猫姫が語り出す。
傷だらけの彼女が肉体を未だに維持していられるのは、『沙羅双樹』と呼ばれる呪術で存在を保っているからだ。使いすぎれば紀元槍の枝からも記憶されなくなるという禁呪のひとつ。戦いの果てに消滅する覚悟でいた彼女はしかし今、その呪術を解除しようとしていた。
猫姫の肉体が、光の粒子となって空へと昇っていく。
「でもあの歌が聞こえて、現実から醒めろと言われて、セリアは思い出しました。セリアと姉様の世界は、もう独りぼっちじゃなかったって」
全ての光が解けたあと、地面にちょこんと残っていたのは、小さな猫姫。
手の平サイズのセリアック=ニアはどうにか身体を起こしたミルーニャと、そんな彼女を治療するリーナをまっすぐ見ながらこう言った。
「リーナ、ミルーニャ。お願いです、セリアと一緒に姉様を助けて下さい」
小さな猫姫はぺこりとお辞儀すると、友人たちに向かって願いを口にした。
答えなんて、最初から決まっていた。
だからそれはセリアック=ニアにとって身が弾むほど軽やかだった。少女は嬉しさの余り大きく跳躍してリーナとミルーニャの方へと飛び込んでいく。
きっとそれはドラトリアの聖姫としてのあるべき姿ではなかったけれど。
『チョコレートリリー』のセリアック=ニアとして、『空組』のメンバーとしては当たり前の光景だったのだろう。
二人のそばで笑顔を浮かべる小さな猫姫を見ながら、トリシューラは世界の色が変わっていくのを感じていた。
強いられた選択肢なんてものに怯えて、何を深刻な顔をしていたのだろう。
遙か頭上で揺れる仮想の刃、女王の器を試すダモクレスの剣を見上げた。
トリシューラは右手にメスを持ち、左手首を引き裂いた。
機械にあるまじき鮮血が溢れ出すと、それは魔女の意思に従って形を為していく。右手が傷口から引き抜いたのは、鮮血の剣。
「善とか悪とか罪とか赦しとか、私まで何に呪われているんだか」
落ちてきた幻想の剣を、鮮血の刃で一閃、打ち砕く。
陳腐化した試練など一顧だにせず、トリシューラはしかと前を見据えた。
古臭い価値観を貶めて、異なる価値を提示すること。
それこそが鮮血のトリシューラが己に課した役割であったはず。
邪悪と暴虐の魔女。それは『現在まで』の価値観でアンドロイドの魔女を推し量った時に現れる偏見に他ならない。
死も諦めも彼女には似合わない。
不死の女神が見据えるべきは、変転する価値の地平、その遙か彼方にある。
「古臭い芝居になんて、いつまでも付き合ってられないよ」
世界は次なる解釈を求めている。再演には独自のアレンジが必要だ。
機械女王は鮮血の刃を振るい、切っ先を遙か先の魔竜に向けた。
コルセスカは既に大半の『SNA333』を撃破している。
トリシューラもいつまでも出遅れてはいられなかった。
この心に赦しなど不要。
傍若無人な女神には、踏み出す勇気さえあればいい。
「見せてあげるねアキラくん。女神の愛が、どれだけ重いか!」




