2.思い立って、決闘
お久しぶりです。次でラストの予定です。
長くなってしまい、すみません。
どんなに泣きはらしても必ず朝はやってきて、人々はまた新しい一日を始めなければならない。
「お腹すいた……」
アキラが伯爵令嬢ダリアの体に入って二日目の朝、彼はそんな間の抜けた言葉とともに起き上がった。
泣き疲れてそのまま眠ったベッドはシーツに大きな皺が寄っており、昨夜の彼の苦悩の後を残している。
投げ捨てられたドレスは部屋を埋め尽くしたままで、夜が明けても事態が何にも変わっちゃいない事を示していた。
しかしアキラは晴れ晴れとした気分だった。
ダリアの過ごしてきた日々が彼女の心の声と一緒に流れる、まるで映画のような夢を見たからである。
苛烈な気性を持ちながらもただ一人の女の子の記憶。
アキラとはまるで違う生活や考え方を見ることで彼女と自分は明確に違うと認識できたのだ。
昨夜見た夢が彼に自己の確立を促したのである。
アキラはふと、ユリウスの体に入った姉は何処に行ったんだろうと考えた。
昨夜、泣きすがったアキラに付き合って、彼が眠りに落ちるまで側にいてくれた事は間違いなかった。
その後自室(ユリウスの自室なので厳密には姉の自室ではないが)に引き上げたのか、はたまたメソメソ泣いてる自分をよそにもう行動を開始しているのか。
また姉さんに頼ってしまった……。
幾分か冷静さを取り戻した今となっては自分の行動に後悔と恥ずかしさがこみ上げてくる。
日本でまだ彼がアキラだった頃、こんな風に姉に縋って泣いたことがある。
アキラが姉を頼って上京してきた時の事だ。
アキラの両親はアキラが7歳の頃に離婚した。
男の人には女の子が付いていないと、という意味不明な理由で姉が父に、アキラが母に引き取られ、2人はそのままアキラが中学三年になるまで音信不通だった。
母には経済力がなく仕事を転々とする癖があり、親戚もいなかった為、母子の生活は困窮していた。
家計を支えるため高校に行かず働いてくれと言われたアキラは、次第に深夜出歩くようになりよくない遊びを繰り返すようになった。
常にトップだった成績は下がり、成績優秀者が取れる学費免除の望みもなくなった。
自分でもこんな生活は止めるべきだとわかっていた。でも止められない。
受験勉強が大変だよ、なんて苦笑いするクラスメイト達を嫉ましくもぼんやりと眺めるしかできない日々。
そんな中、中学三年の夏休みに転機が訪れた。
母の恋人がしょっちゅう自宅に入り浸っていたせいで、アキラはバッグに少量の荷物を持って友達の家をハシゴして生活していた。
次は先輩の家に転がり込もうかなと考えていた時、ふと父の存在を思い出したのだ。
父はアキラの現状を知らない。
プライドの高い母がアキラに父と連絡を取ることを許さなかったためである。
父親なのにアキラが今どうしているか知らず、この歳になるまで放っておくなんて無責任と言える。
沸々と湧いてきた怒りに任せて、なけなしの所持金で東京行きの夜行バスのチケットを買った。
修学旅行の書類のため戸籍を確認した時に(もちろんアキラは参加できなかったが、全員提出するように教師がうるさかったため取りに行ったのだ)、父の住所は知っていた。
急に会いに行ったらどんな顔をするだろう?
金をせびろうか。それとも一発殴ってやろうか。
そうして怒りに胸を膨らませたアキラがたどり着いたアパートは、笑えるくらい寂れていた。
そこにいたのはすでに成人した姉が1人。
父はすでに他界していた。
アキラの気持ちは萎んだ。
ドアを開けた姉はアキラを上から下まで見て、どうぞとそのまま中にすすめた。
姉は深夜に訪れたアキラに何も聞かず、手早くナポリタンを作って出してくれた。
食後に一服しようとタバコを出した所で頭に拳骨を食らったが、それ以外は生き別れていた弟をついさっきまで一緒にいたように、アキラがちょっとコンビニへ行って帰ってきただけみたいに扱ったのだった。
ぼんやり2人でテレビを見ているうちにアキラの目頭が熱くなっていく。
耐えきれず涙と一緒にポツリと零した。
姉ちゃん、俺、高校行きたい。
勉強がしたい。
姉がゆっくり振り返った。
行きなよ。
…でも、金がないんだよ。母さんは働けってうるさいし。
アキラは自分が何を言い出すのか気付いて自分自身に慄いた。
七年しか一緒に暮らしていない姉に、自分の将来を丸投げするつもりだ。
しかし言葉は止まらない。
俺、勉強なら自信あるんだ!本当だよ!
今はこんなんだけど中2までは本当に成績良かったんだ!
きっといい成績を取って、いい会社に入って姉ちゃんに恩返しする!
何だってする!
だから…!
姉の眉が寄せられるのがわかった。
拒絶されるのが怖くてアキラが更に言葉を重ねようとするのを白い手が制した。
アキラ、お姉ちゃんは今年から働いてる。
父さんの残してくれたものもある。
アキラは何も心配することはないの。
いい会社に入って恩返ししてくれるつもりなら、高校とは言わず大学まで行きなさい。
姉ちゃんも短大まで行ったんだから。
ここで一緒に暮らそうアキラ。
その夜は八年ぶりに姉と枕を並べて眠った。
姉の言葉がまだ信じられないアキラは、次から次へと家事の手伝いを申し出て、姉はそれにいちいち返事したのだった。
電気を落とした室内は暗かったけど、多分どちらも泣いていた。
自分はあの時より色んなことができるようになったつもりでいた。
しかし、結果は未熟。まだ到底理想に及ばない。
そう思い知らされてしまった。
姉に恩返しをするにはきっとまだまだ足りないのだ。
「このままじゃ、終われねえよな…!」
ひとまず自分に出来ることからこなしていかなければ。
状況が状況なのだ。
悩んでグズグズする暇はない。
気合いを入れて立ち上がると、ベッド脇の呼び鈴からメイドを呼び出し、遅い朝食の支度を命じた。
メイドが食事を運んで来るまでの間、片付けますというメイドの言葉を振り切って自らドレスをクローゼットに仕舞う。
自分が散らかしたものは自分で片付けるという当たり前の行動をする事で、アキラの気持ちは少し上向いた。
朝食を食べて身なりを整えたら、まずは彼女に謝りに行かなければならない。
彼女―――メイドのリールには昨日、勢いのまま本当のことを打ち明けてしまい、酷く傷付けてしまった。
リールがひたむきにむけてくる、”お嬢様を見る目”に耐えられなくて、自分はアキラだとお前のお嬢様じゃないのだと告げたとき、ぽかんと口をあけた彼女はアキラの言葉を冗談だと流そうとして、お嬢様はそんな冗談を言う人ではないということに気づき、血の気を失った。
あんなにダリアを慕っていた彼女に何と言って許しを乞おうか。
いや、許して貰えるなんて希望的観測だ。
ただアキラがこのダリアの体で過ごすに当たって、伝えずにはいられない言葉がある。
自身の決意を固める為にも、彼女と会って話をする必要があった。
「お嬢様、ここはお嬢様がいらっしゃるような場所ではございません!」
もう何度目かの制止の言葉にアキラはうんざりと振り返った。
今日は体調が優れないため、使用人部屋で休んでいるリールの元に向かう途中、様々な従僕達が入れ替わり立ち替わりアキラの進路を塞ぐのだ。
その顔はどれも必死の形相であり、手のつけられない悪役令嬢、逆鱗姫とうたわれるダリアにプライベートな部分に踏み込まれたくないという気持ちがありありと見て取れる。
いい加減、リールと話をするだけというアキラの言葉を信じてはくれないだろうか。
「こういう時、ダリアならどうしてたんだっけなあ…」
「お嬢様、どうか思いとどまり下さい…!」
「あ、思いついた、めっちゃ嫌な手段だけど思いついた。でも、うーん…」
「リールは今朝は本当に体調が優れない様子なんです!けっして仮病なんかじゃありません!御用なら私どもがお聞きしますから…どうか!」
言い募ったメイドに、アキラはこまって眉をしかめる。
どうやら今思いついた手段以外で彼女をひける術はないようだ。
「ーーお下がりなさい」
「!?」
「私を誰だと思っているの?この伯爵家、ノヴァの長女ダリアよ。私が自分の屋敷で行けぬ場所があるというの?」
メイドの顔は恐怖に慄いた。
アキラは効果覿面な様子に、内心ため息をつく。
「私の行いに口を出す暇があるなら、今すぐリールの部屋に案内した方が建設的だと思わないこと?」
「申し訳ございませんでした…」
縮こまったメイドが可哀想で、アキラは今すぐ発言を撤回したくなった。
弱い者イジメをしてしまった自分を何とも情けなく思いながらも、メイドの後に続いてリールの部屋に急いだ。
「リール…いるんでしょう?私よ、シェリーよ。体調が悪いのはわかっているわ、でも少しだけでも出て来れないかしら?ーーお嬢様がお見えになっているの」
案内してきたメイドがドアに向かって呼びかけても、中からは返事がなかった。
ただお嬢様が来ているという言葉に、物が割れる音が聞こえる。
「どいて」
「で、ですが…」
「大丈夫だから」
シェリーの肩をそっと押して、アキラは場所を交換すると、そのままドア越しに呼びかけた。
「リール、そこにいるのね?」
「……」
「このままでいいから聞いて頂戴、私、貴女に謝りに来たの」
「昨晩は本当にごめんなさい。悪かったと思ってるわ」
突然の謝罪の言葉に隣で成り行きをはらはらと見守っていたシェリーが弾かれたように顔をあげた。
アキラは、令嬢らしい口調に気をつけながらゆっくりと呼びかけ続ける。
女言葉に、若干背中が痒くなるのを堪えながら。
「貴女の大切なお嬢様ではなくなってしまった事、本当にごめんなさい。でも、こうなってしまったものは仕方が無いのよ。私達が望んだことではないし、こんな事、神様以外にできっこないわ」
「私、大切にするわ。貴女が慕うダリアではないけれど、伯爵令嬢に相応しい人間になってみせる。いつ、本物が戻ってきてもいいように」
「だから貴女も自分を大切にしてほしいの。貴女はダリアが最も信頼していたメイドだから」
ゴマスリでもお為ごかしでもない、体に残るダリアの記憶では間違いなくそうだったのだ。
父親である伯爵よりも、他の誰よりも彼女ほどダリアを好いていた人間はいない。
アキラは語りかけながら、日本で死んだ自分にはダリアを想うリール程、思ってくれる相手がいただろうかと考えた。
唯一惜しんでくれそうな姉はアキラと共にこの世界に来てしまったから、きっと誰もいない。
皆から恐れられ嫌われるダリアの半生のうち、リールに会えたことは彼女の宝物だっただろう。
その時、開かずの扉が勢い良く開かれた。
中から顔を出したリールは涙の跡を拭うこともせず、アキラを睨みあげる。
色を失ってもなお美しい彼女の唇がわなないて、いきおいよく言葉を吐いた。
「お前が……」
「リール?」
「お前がお嬢様を語るな!!!!」
それだけ叫ぶと大きな音をたてて再びドアは閉ざされた。
「り、リール!?どうしちゃったの??あんなにお嬢様大好きだった貴女が、そんな言葉使いするなんて…!」
「いいのよ。それより…シェリーさんだったかしら、リールの様子をよく見てあげてね?ご飯もちゃんと食べさせて…また、ダリアの所に元気な姿を見せられるように」
「は、はいぃぃ!かしこまりました!」
優しいダリアの言葉にこれは天変地異の前触れかとシェリーは混乱する。
シェリーには、ゆったりとスカートを翻して去っていくお嬢様の背中が普段のお嬢様とは違う人――――繊細な心を持つ少年のように見えた。
広い伯爵邸内の食堂で、アキラは今では弟になった姉を見つけた。
一夜ぶりに会う姉は男の体にもすっかり慣れたもので、白を基調とした服を着崩している。
突然異世界に放り込まれた人間とは思えないくらいピンピンしており、朝っぱらから肉を頬張る姿は逞しいとしか言いようがない。
「おはよーアキ…じゃなかった。ダリア姉さん!ご飯一緒にどう?」
「……おはようユリウス。朝食はもう頂きました。起き抜けにお肉を頂くなんて、随分元気でいらっしゃるわね?」
「お!言うねえ!皮肉が言えるようになったんなら大分回復したみたいだね?ずっと落ち込まれてたらどうしようかと思ったわ」
「貴方がいるのだからへこんでもいられません!ユリウスは少しデリカシーを学んで欲しいわ」
「ダリア姉さんが繊細過ぎるんだよ」
ユリウスはさっと手を振って給仕を務めるメイド達を下がらせた。
これから二人で聞かれたくない会話をする為だったが、貴族然とした振る舞いが自然に出た事に彼自身驚いた顔をしている。
ユリウスが十五年の人生で身に付けた事は体が覚えているようだった。
ダリアの前にティーカップが置かれると、メイド達は一礼して音もなく立ち去っていった。
二人っきりの食堂はしばし、無言の静寂に包まれた。
お互いの様子を探るような沈黙の後、アキラが十分立ち直ったと確信したユリウスは、おもむろに口を開く。
「昨日色々あって考えたんだけど…」
「姉さん、俺も姉さんに相談したいことが…まあいいや。先どうぞ」
「うん、伯爵様に、ご登場願おうかと思うんだ」
姉の言った言葉が意外で、アキラは一瞬反応かできなかった。
伯爵様、というからにはこの家のご当主のことだろう。
「……姉さん?確かにダリアはイジメの加害者だけど、彼女の父親に罰してもらうのはちょっと違うような…」
「ああ違うの。そうじゃなくてね。罰してもらうのは、男達の方だよ」
「意味がわからない」
アキラは美しいダリアの顔を困惑で歪める。
姉は片手を上げて、まあ話を聞いてよと弟をなだめた。
「昨日私、約束があるって出かけてたでしょ。何処に行ってたと思う?超高級クラブだよ。そこにあつまったやんごとなき男性陣がね、言ったんだよ。マリアちゃんを虐めたダリアを許さない。衆目の面前で罰すべきだと」
「……!?」
「陰険だよね。正面からじゃ敵わないから、絶対に逃げられない状況を整えて攻撃する気だよ。それも大の男が揃いもそろって、さ」
アキラの目の前の、麗しい少年の顔が嫌悪で歪められ、中にいる姉が激しく怒っている事に気づいた。
「…でも、ダリアはされるだけの事をしたよ。それに裏から手を回して状況を整えるのは有効な手段だ」
「いちいち学級会開いていじめっ子裁判?16〜17歳くらいの男がやるには幼稚に過ぎない?直接対決する勇気がありませんて、言ってるようなもんだよ」
吐き捨てて、壁にかかった絵を睨みつける。
アキラには姉が何故ここまで憤っているのかわからなかった。
確かにアキラとて自分がしていない事で吊るし上げ食らいたくないなとは思うものの、ダリアの体に入った今は仕方ない事のように思えるのだ。
「それにユリウスが学級会に呼ばれたってことは、ユリウスもダリアを断罪する気だったんだろう?」
「わたしはぁ!それがいっちばん!気にくわないの!!!!!たった1人の兄弟を!そんな風に扱おうとするなんて!」
言って姉は勢いよくティーカップを置いた。
中身が入っていないティーカップは液体が溢れることはなかったが、ユリウスの体ではそのまま握り潰しそうに見える。
一瞬ぽかんと口を開けたアキラは、姉のまっすぐで、けれど理想論的な考え方にしだいに苦笑を漏らした。
貴族でしかも腹違いなのだ。
ダリアの記憶を探ってもユリウスと彼女が仲良くしていた事はない。
兄弟は味方にならなればならない、なんて理屈は綺麗事過ぎるだろう。
それでも姉さんがユリウスだったならダリアの味方についただろう。
そんな風に憤れるのが姉らしく、また、そんな姉だからアキラは救われたのだ。
「あいつらちょーしにのりやがってさー!もうマリアちゃん親衛隊って感じ?色んな理由をつけていたけれど、私から言わせれば点数稼ぎだよ。マリアちゃんを救って好感度を上げて、ついでにちょっとした騎士願望を充したいんだ!」
「姉さん落ち着いて。伯爵様は、駄目だよ」
「なんで!?」
鼻息荒い少年に、アキラは落ち着かせるためにわざとゆっくり口を開く。
「事が大きくなりすぎるから。幸いにも全員が成人前。この問題は子供の喧嘩で済ませるべきだ。伯爵様が出てきたら話が違ってくる」
「…私、虐めはすぐに大人が介入すべき派なんだけど」
「ダリアの虐めには介入しなかった大人を頼るの?」
「……」
アキラはティーカップを持ち上げるとゆっくり唇をつけた。
琥珀色の水面に、睫毛を伏せた麗しい令嬢の面差しが映っている。
アキラはその顔を見つめて心の中で語りかけた。
ダリア、俺が君の体を借りる変わりに、君の作った負債を精算しよう。
君は気に入らないかもしれないが、もしこの体に君が戻る日があるならば、なるべく悲しみは少ない方がいい筈だから。
カップを置くとアキラは姉に優雅に微笑んで見せた。
「あちらが水面下で動くなら、こちらも裏で手筈を整えよう。断罪、回避だ。双方の納得できる落とし所を探る。勿論こっちが多めに償う必要があるね。なんたってダリアは逆鱗姫だったんだから」
本日はルクソール子爵家にて、ピアノの演奏会に参加される予定です、とメイドが告げた。
断ることのできない集まりだと聞かされて、2人は渋々支度を整え、ルクソール邸へと向かう。
アキラの言葉に一度は落ち着いたものの、腑に落ちない顔をした姉は、男物の服についた飾りを始終片手でいじっている。
アキラもアキラで、ダリアの豪奢なドレスに体を押し込められて忍耐を強いられている。
無言の道中、馬車に揺られて辿り着いたルクソール邸だったが、館に入った瞬間、2人は引き返したくてたまらなくなった。
件の令嬢、マリアと、彼女の取り巻きの1人、ルドルフがいたのである。
グランドピアノの後ろで密やかに語り合う2人は、ダリアとユリウスが登場した事に気付かない様でお互いの手を握りあっている。
人目もはばからぬ恋人達の様子に演奏会に参加する人々の目は鋭冷たい。
あちこちで、またクランプトン家のご令嬢が身分も弁えず媚を売っているだの、淑女にあるまじき、はしたない振る舞いだの陰口が囁かれていた。
クランプトン家のご令嬢とは、ダリアのイジメの被害者であるマリアの事である。
はしたない振る舞いはルドルフも行なっているのに、彼に向けて陰口が囁かれないのはどうにも腹がたつとユリウスは思う。
よく見ればマリアは、衆目を集める形で対面する事に逃げ腰になっているのがわかる。
明らかに引き止めているはルドルフの方だった。
演奏会が始まる前の挨拶に訪れる人々をかわして、ユリウスである姉は、ダリアである弟に手招きをする。
敵情視察しよう、と言って借り物の少年の体を好奇心でいっぱいにしている姉。
止めても聞かないだろうと判断したアキラは、重いドレスを纏ったダリアの体を動かして姉に続く。
ユリウスとダリアは、はしたない行為をするマリアとルドルフの会話を聞くために、はしたなくもピアノの隣に置かれている大きな花瓶の影に隠れた。
ピアノの向こう側の会話に意識を集中させると、ルドルフの気障ったらしい声と、マリアの押さえた声が聞こえてきた。
「マリア、今日の君の装いも素敵だね…でも、僕の贈ったドレスは着てはくれないのかい?」
「ルドルフ様…私には勿体なくてとても着られませんわ。縫い付けられている飾り一つ取っても、男爵家の人間には身に余る素晴らしさですもの。管理のために新しく専門の方を雇わないといけないくらい」
「ああマリア、貴婦人はそんな事は気にしなくていいんだよ。値段の問題じゃない、贈ったものは僕の心なんだ。君はいつもの無邪気な笑顔で受け取ってくれたらそれでいいんだ」
ユリウスの記憶を思い返して姉は舌打ちをした。
確かマリアの生家であるクランプトン家は財政難にあるはずだった。
マリアの父はそれを立て直そうと、美しく生まれた娘を玉の輿に乗せようとけしかけているらしい。
それは貴族として当たり前の話なのだろうが、当主の策は効き過ぎた。
そこらへんの、まだ婚約者の決まっていないような小さな家の貴族で、かつ金持ちを引っ掛けるつもりが、寄ってくるのは金はあれど既に婚約者の決まっているような高位の者ばかりだった。
これではトラブルは起これど玉の輿なんて夢のまた夢。よくて妾だ。
ちょっとした小金持を引っ掛けるには、マリアは美し過ぎたのだ。
ルドルフは親の決めた許嫁と別れる気配もなければ、マリアを手放す気もないようだった。
ルドルフは相手の状況も考えずに、管理も大変なドレスを贈って、傾いているクランプトン家の財政を、更に痛めている。
なんともまあ自分本意の贈り物だ。
高位の者から贈られたものなら、断る事もできず、質草にも出来ないだろう。
姉は、一緒に盗み聞きしている弟に、ユリウスの記憶に残るクランプトン家の事情を解説する。
「優しい君は、もしや殿下の事を気にしているのだろうか。殿下に、僕との事で思い煩ってほしくはないと」
自分は婚約者と別れない癖に、ルドルフはそんな悋気めいた事を口にしてマリアの反応を伺っている。
マリアはそれをするっとかわした。
「お優しいのはルドルフ様の方です。私のようなものにそこまでして下さるなんて…私、困ってしまいますわ」
ルドルフの爽やかな笑い声が響く。
「それはいいね。マリア、僕は君の困った顔が大好きなんだ」
「もう……」
姉は、今度は後ろの2人に聞こえる程大きく舌打ちをした。
「…誰だ!」
自分への嘲笑に鋭く反応したルドルフが、ダリアとユリウスのいる後方に振り返った。
ユリウスの細面に図太い笑顔を貼り付けて、姉はいけしゃあしゃあと名乗りをあげる。
「これはこれはご挨拶が遅れて申し訳ありません、ルドルフ様。お二人があまりに親密そうに語らわれていらっしゃったので声をかける機会を逸してしまいました。ユリウスです。先日は会にお招き下さり有難うございました」
不敵に笑う姉の後ろで弟は見つかったバツの悪さに、こそこそと立ち上がる。
しかし、マリアとルドルフが眉を顰めたのは慇懃無礼な挨拶をするユリウスではなく、アキラの入っているダリアの顔を見た時だった。
アキラは一瞬、俺何かしたっけ?と考えて、今の自分はダリアだったと思い当たった。
目の前の2人にとっては仇敵に違いない。
さっきの舌打ちも、絶対ダリアがやったと思われている事だろう。
「あ、あのーえーっと…」
「姉君もおいででしたか。さすがはルクソール家の演奏会。お二方とも会を楽しまれますよう」
ルドルフはそれだけ言いすてると、ダリアが何か言い出す前にマリアの腰を取って席に向かった。
マリアは抵抗する事もなく従順に従いながら、首だけ振り返ってお辞儀をする。
少女の顔には、これでまたダリアに虐められる材料が増えてしまったと書かれていた。
「尻尾巻いて逃げちゃって、おー意気地なしだこと!」
「姉さん…」
ふいにダリアの体に入ったアキラが、姉であるユリウスの服の裾を引っ張った。
振り返った先で目に入ったのは、紅潮した頬を手の甲で押さえた美少女。
まるで恋する乙女のツラをしているが、中身は弟である。
情けない顔で弟は零した。
「どうしよう姉さん……」
「どうしたのアキラ?」
「マリアちゃん、めっちゃ好み…」
「OH……」
確かにマリアは可愛かった。
往年のヘップバーンを柔らかくして、桃色のカツラを被せたような、美しさと可愛さが同居した気品ある顔立ちだった。
しかし、しかしである。
今しがたルドルフとのやり取りを見たばかりなのに、それでも好きになっちゃうものだろうか。
お前もか弟よ!これだから男ってやつは!
マリアの男を吸い寄せる吸引力を見せつけられて姉は胡乱げな顔になる。
マリアの方を目で追っていた弟は、はっと何かに気づいて振り返った。
「ていうか姉さん!どうしてマリアちゃんの家のこと、そんなに詳しいんだ!?まさかユリウスはマリアちゃんと…?」
「いやーユリウス君も普通に取り巻きの1人だったと思うよ。でも、多分他の人よりは心を許されていたんじゃないかな。少し前にお互いのことを話したお茶会の記憶があるから」
ユリウスは、花街で育った生い立ちを、マリアは父の企みと自分の置かれている状況について語り合った記憶がある。
自分は、周りの殿方を振り回したくてやっている訳ではない、おうちのためだとはいえ、罪悪感で胸が潰れそうだと訴えるマリア。
少年は彼が持つ最大限の優しさで彼女を励ましていた。
ユリウスにとってその事は大切な思い出であったようで、思い出すと胸が切なくなる。
…そのお茶会でマリアを守らなくてはと発奮したユリウスがダリアに詰め寄り、2人して階段から転げ落ちて、今に至る訳だが。
結果は間抜けでも、ユリウスの気持ちは真剣だった。
少年少女の可愛い恋ではないか。
そこまで考えて、姉は気づいた。
あれ、ユリウス君て、マリアちゃんの家の玉の輿の条件にぴったりじゃね?
花街育ちという生い立ちから未だに婚約者がおらず、金のある貴族で、若くして才能を認められているとか、超優良物件じゃないか。
うわー騙される所だった!今めっちゃ2人に同情してた!
そうだよ、マリアちゃんに言いよる中で条件当てはまるのユリウス君だけじゃん!
狙われてる!狙われてるよユリウス君!
同情させて取り込むつもりだったんだよ!
可愛い顔してなんてしたたかなんだマリアちゃん!!
「弟よ…女の子は守って貰うだけの花じゃあないんだよ…」
「突然どうしたんだよ姉さん」
遠い目をした姉に、アキラは疑問を顔いっぱいに示した。
「そ、それよりも演奏会、始まるからさ!マリアちゃんの近くに座ろう!な!」
「えーお姉ちゃんはやめた方がいいと思うなールドルフも近くにいるんだよ」
「いいからいいから!今なら俺は女の子だし、変な顔されないよ!」
「いや、されるって。アキラー、あんた今の体誰に入ってるか忘れてるでしょー」
すっかりマリアに魅了されたアキラは、ダリアの金髪頭を揺らしながら大股で部屋を横切っていった。
その姿に今は何を言っても無駄だと姉は諦めたのだった。
演奏会は、それはそれは気まずいムードで行われた。
当然である。
マリアを正面切って虐めていたダリアが、彼女の隣に座ってニコニコ顔なのだから。
ダリアが時折、ちらっちらっと隣のマリアを伺う度に、見つめられたマリアは肩を震わせる。
主催者であるルクソール家の者が移動させようとしても断り、ダリアの体の弟は、マリアの左隣を陣取り続けた。
他の参加者達は今度はどんな小粋な言葉でマリアを詰るのだろうとワクワクしており、とても演奏に聞き入る雰囲気ではない。
最前列に座る一行の不穏さに、ピアノの音も空々しく響いた。
マリアの右隣のルドルフは、席を移動することも出来ず苛立ちが募り、その様子にマリアがさらに怯える。
恋するアキラは、一目惚れした彼女の顔を見つめるのに必死でこの雰囲気に気づいていない。
ああ恋は人を馬鹿にする。
アキラの左隣の姉は、ユリウスの体でぶっ叩いたらもっと馬鹿になっちゃうだろうかと真剣に悩んだ。
前半の演目が終わり、小休止の為に設けられた歓談の時間になると、ルドルフはすぐさまマリアの手を取って立ち上がった。
彼はよほど鬱憤が募ったのか、今度は逃げださずにダリアの前に立つと、吐き捨てるように言った。
「今度は何を企んでいるんだ。ダリア嬢。演奏の間中、僕らを見つめているなんて不躾だとは思わないのか?とても演奏を楽しめる気持ちにはなれなかったよ」
ルドルフの言葉に、主催者側の従僕達が慌てて取り繕おうとする。
恋する馬鹿なアキラは、ダリアの美少女顔で脳みそが溶けたような事を言った。
「あ、えっと、その…マリアちゃん可愛いなーって思って…見てたの、バレてた?ごめんね、びっくりしちゃったかな?」
「え?あ、あの…ダリア様…??」
宿敵にいきなり褒められて、マリアは困惑する。
姉は変態ぽい弟の言葉にもう何もかもがめんど臭くなって、我関せずと明後日の方を見ていた。
いつの間にか4人の周りには人垣ができており、このやり取りの顛末を見守っている。
用意された飲食に手をつける参加者は誰もいなかった。
「おやおや、ダリア嬢はいつから美を解するようになったんだい?以前は目をとめようともしなかっただろうに」
「いや、可愛いなーって、さっき気づいてさ…うへへ」
悪意のカケラもない、それどころか知性のカケラもなさそうなデレデレとした返事に、ルドルフは苛立った。
「…マリアが可愛いから見つめていたというのか?それだけではないだろう?いつもの君なら悪行のひとつやふたつ、企んでいる筈だ。本心では何を考えているのやら」
「ルドルフ様、私は平気ですから、もうおやめになって下さい。ダリア様に失礼ですわ」
「マリア、君は本当に優し…」
諌めようとするマリアと、険しい顔を瞬時に切り替えて甘い笑みを浮かべるルドルフの会話を遮って、ダリアが声をあげた。
「あああっ!」
「な、何だ!」
「今気づいた!マリアちゃん可愛い!声も可愛い!!最高!!!」
「ダリア嬢、貴女は本当にどうしてしまったんだ!頭でもぶつけたんじゃないのか!!」
階段から転がり落ちているので、ルドルフの言葉は正解に近い。
「いつもの木で鼻をくくった態度はどうした!逆鱗姫だろう!?嫌味の一つも言ってみろ!!」
「とんでもない!そんな事しないよ!これからもう絶対そんな事しない!」
「そんな言葉が信じられると思うか!?貴女は面と向かって人を傷付けるのが趣味だろう!そんなへにゃへにゃした顔で言われて信用すると思っているのか!」
「今までのことは悪かったなって思ってるよ!多分!!」
多分、本当のダリアは悪かったなんて爪の先程も思っちゃいない気がするけど、アキラがダリアの体に入っているうちは、イジメなんてとんでもない。
ふわっとしたあやふやな謝罪にルドルフは眉間に皺を寄せる。
「多分…?ははあ、趣向を変えたんだな?面と向かって、ではなく、こちらの警戒を解かせて、それから罠にかけるつもりなんだろう?今度は何をしでかす?その美しい顔の下には汚らしい心が潜んでいることを皆知っている!今白状するなら恥をかかずに済むぞ?」
「えええー…そこまで言う〜?どう言えばおさまるのこの人…」
突然大きく舌打ちがなった。
渦中の人物の1人であるのに今まで会話に参加していなかったユリウス少年だった。
少年は秀麗な面を怒りに染めてゆるりと立ち上がると、ルドルフに真っ直ぐ発言した。
「ルドルフ様、姉上の無作法は謝りましょう。ですが、そのように詰られるのは看過できません。まさか姉上がマリア嬢の顔を見つめ続けたというだけでそのようにおっしゃるのですか」
「…ユリウス殿には関係ないでしょう」
「関係ない?目の前で血を分けた兄弟を詰られて、立ち上がらない者は臆病者でしょう。私は腰抜けではないのでね」
口調は怒りに震えていても、ユリウスの中性的な容姿では脅しにもならないらしい。
子猫が毛を逆立てたようなものだ。
ルドルフは突然怒りを露わにしたユリウスに戸惑うものの、たかが歳下の癇癪だと理解して鼻で笑った。
その顔には、格好つけるのにも相手を選べよと書かれている。
ルドルフの隣で青ざめるマリアを見て、彼女の前で情け深い所を見せたいのだろうと。
「おお、そのようにお怒りになるとは思いませんでした。歳の下の者に言われてしまうとは。ユリウス殿、お許し頂けませんか?」
「歳が上だの下だのは関係ない。そして許しを願うなら、姉上に」
ユリウスの言葉にルドルフは吹き出しそうになった。
姉を断罪する計画に乗った少年が何を馬鹿な事を。
第一マリアを虐め続けた女に下げる頭などない。
嘲笑を唇にのせたルドルフと毛を逆立てて怒るユリウスの間に静寂が落ちる。
やがてユリウスが口を開いた。
「無作法者はそちらのようですね」
「しからば、何とする」
「これを」
ユリウスは手袋を片方脱ぎとると、ルドルフの胸に投げつけた。
それは決闘を望む行為。
観衆が息を飲む中、騎士ぶった行為で怒りを示すユリウスに、ルドルフは今度は耐えきれずに笑い出した。
「いいとも!正義感などしまっておけばいいものを!マリアの前で恥ずかしい姿を晒したいと見える!君がそのつもりならお相手しようじゃあないか!!」
「ルドルフ様!ユリウス様!困ります!我が家の演奏会で刃傷沙汰などと…!」
主催者であるルクソールは、蒼白になって止めに入った。
「申し訳ございませんルクソール子爵。しかし、私も貴族の1人。申し込まれた決闘に逃げ出すわけには参りません」
「ですが…!」
「なぁに、ごっこ、ですよ!決闘ごっこ!もしくは騎士道ごっこでしょうか?模造刀を使えば余程の事態にはなりませんよ!可愛い少年に剣の指南をしてやるようなものです。どうぞ演奏会のちょっとした余興だとお考え下さい!」
「そんな…」
憐れ会の主催者は、自分よりも高位の家のルドルフに逆らえず、丸め込まれて決闘の場を提供する事になってしまった。
ルクソールは悪くない。強いて言うならば組み合わせというものを考えずに、ルドルフとマリアとノヴァ家の姉弟を同時に会に呼んでしまった事である。
動きやすいように服の飾りを外し、決闘の準備をするユリウスに、今はダリアであるアキラが駆け寄った。
「ね、ね、姉さん!!どうすんだよ決闘なんて!やめろよ危ないだろ!?」
「しーっ!アキラ、私はユリウス!あんたの姉じゃなくて弟!!」
「…っ!いいから、帰ろう?今ならどっちも怪我する前に引き返せる」
懇願する美少女顔の弟を、姉は微笑ましく思う。
生来から優しいアキラは、姉だけでなくルドルフも心配している。
「心配しないでアキラ。大事にはならないから。ユリウス君は10年に1人の剣の才能の持ち主なんだし、ルドルフはまだ、これをお遊びだと思っている」
「そりゃ真剣じゃなくて模造刀使うし、本当の決闘とは違うんだろうけど…それでも相手は体格が一回り違う歳上なんだぞ?あの顔見たか?きっと前々からユリウスが気に入らなかったんだ。大恥かかせるに決まってる」
あらためてアキラはユリウスの体を上から下まで眺めた。
やはり細い。体が出来上がっていない少年特有の体つきだ。
比べてルドルフは、体格が勝るのは勿論のこと、模造刀を握る姿に年季が感じられる。
それでも少年の体を持つ姉は、不敵な笑みを崩さない。
「私の中のユリウス君情報では、ルドルフは勝負ごとには滅法強い。ただし、お遊びだとおもっているうちは油断するタイプらしいんだ。あいつが生意気な年下を揶揄っている所をついて、叩きのめす」
ユリウスの両目に剣呑な光が宿る。
「あいつ、ダリアが意地悪するように誘導しようとしていた。ダリアが悪女でないと困るんだ。自分が騎士役、できなくなっちゃうから」
「私、マリアちゃんの取り巻きの中で一等あいつが嫌いだ」
「まさか姉さん…!」
「ユリウス様!ダリア様!!」
泣きそうに悲痛な声はマリアのものだった。
今にも倒れそうなくらい顔を青白くさせた彼女は、ノヴァ家の姉弟に駆け寄ると膝をついて頭を垂れた。
「お願いします、こんな事、やめて下さい。お二人とも危ないことはなさらないで下さい」
「マリアちゃん…」
「マリア嬢、そう言われてもあちらもやる気なんですよ。会の主催者であるルクソール子爵に、了承すら取っておられる状況で止める事はできません」
ユリウスである姉は少女の言葉に心動かされた様子もなく準備体操を始める。
「ルドルフ様、ルクソール子爵様には私から申し上げます。私が、お願いして止めてもらったと。それならユリウス様の名誉も傷付かないでしょう」
「いや、付くね。女の子を盾に逃げ出したなんて噂されたくない」
「そんな、そんな事は…!」
「そんなに止めてほしいならルドルフ様にお願いしてみたら?」
マリアの優しさに感動している弟とは対照的に、姉は、悲劇のヒロインぶりたいだけでしょう、なんて意地悪な気持ちで考える。
「ルドルフ様には断られてしまいました…マリアは心配せずに見守っていてくれと…」
「じゃあ仕方ないねー見守っててね」
話を打ち切ったユリウスは、マリアの方を見ようともしない。
呆然とユリウスを見つめていたマリアだったが、桃色の髪をひるがえしてダリアの方を振り返った。
そして恥も外聞もなく、勢いよく頭をつける。
「ダリア様!いままでのご無礼、本当に申し訳ございませんでした。どうかお慈悲の心で私の願いを叶えて下さいませ…!弟様をお諌め下さい…!」
「マリアちゃん!?」
「え、ちょっ!?」
下位とは言え貴族の子女の振る舞いとは思えない、彼女にできる精一杯の懇願だった。
マリアの細い肩が目には見えない罪悪感に押しつぶされそうに揺れている。
「元はと言えば私の行いから起きてしまった事…ですが、どうしても、私は嫌なのです。私のよく知るお二人が決闘されるなんて…!」
「えっと、さ、元々の原因はマリアちゃんだったとしても、もう問題は男の沽券的なアレになっちゃってるからさ、そんな気にしなくていいっていうかさ、」
「そうであったとしてもです…!こんな事はあってはならない…!お願いしますダリア様!もう二度とダリア様のご不快にならぬよう務めますから…!」
桃色の頭頂部を見つめながら姉弟は言葉を失った。
演技ならば大袈裟過ぎるし、人を手の平で転がすというマリアの噂とはかけ離れている。
まるで自分の行いをわかっていても止められず、罰を受ける事に怯える憐れな少女だ。
もしかして、この女の子は。
立ち直ったのはユリウスが先だった。
彼はマリアを立ち上がらせると、大きく息を吸って細い肩をつかみ、彼女の瞳を覗き込む。
「マリアちゃん、もうこんなことは止めよう」
「ユリウス様?」
こんな事という言葉に思い当たる節がないマリアは目を瞬く。
「決闘を止めるよう懇願する事をやめろと言ってるんじゃない。そもそもの原因である君の振る舞いを止めるんだ」
「振る舞い?」
「あっちこっちをフラフラと火をつけて回る事。貴女はいつまでもこんなことを続けてちゃいけないんだ。こんなことは、貴女のためにならない」
いつもは思春期特有のぶっきらぼうさで自分に接して来るユリウス少年が、急に大人の顔をしている事にマリアは首をかしげる。
「……何をおっしゃっていますの?」
以前にユリウスから同じような事を言われたことがある。
色んな男に愛想を振りまくのを止めろ、と。
しかしそれは幼い恋の悋気のカケラのようなもので、根底には自分だけを見て欲しいという気持ちがあった。
こんな風に他人を思って、諭すような言葉ではなかった。
「君は君自身と、周りが思ってる程悪女じゃない。だから、無理をしないで」
姉は、今は少年の体になった自身の手から、この気持ちが伝われとばかりにマリアの肩を強く掴む。
「あのね、悪女っていうのはもっと、自分の起こした事に無責任じゃなければいけないんだよ。例え目の前で自分のために、男2人が争おうとしても、内心は仕方ないわよねって思っているのが悪女だ。でも貴女は今、本当に後悔している。貴女が芯から悪女ではない証拠だ。そんなんじゃいつか自分が起こした火が燃え移って、貴女自身を燃やし尽くしてしまうよ」
しばらくの沈黙の後、マリアの大きな瞳がきゅうっと細まった。
「……知ったふうな口をきかないで下さいますか?私は、こういう私でいることを必要とされているのです。ユリウス様のように、恵まれた方には想像もつかないでしょうけど」
生乾きの傷を無理矢理引っかかれた猫のような声だった。
自分の隠している心を指摘され、同情された事に自尊心を傷つけられている声だった。
「でも真実だ。君は、今の君を演じる事に疲弊している」
無情にもユリウスが告げると、マリアが手を振り払い、距離をとった。
「私、無理なんかしてないわ!私は、自分の居場所がほしかっただけ!大切にされたいから、大切にしていただけ!そうしていただけよ!それの何が悪いの!?殿下も、他の皆様も喜んでくれたし、マリアの優しさを望んでいらっしゃったわ!後悔なんて!」
険悪な2人の様子に周囲が注目しだしていた。
「……ああ、”優しく慈悲深きマリア”は殿下たちにスポイルされた結果でもあるのか」
空気を読むのが上手い人は、周りに望まれた役割を演じてしまうことがある。
本人の意思とは裏腹に。
ユリウスは1人納得いった風に頷くと、憤るマリアを放置して模造刀のチェックに移った。
その傍らで叫んでしまった事を恥じたマリアがまごつく。
中庭からユリウスに声がかかる。
決闘ごっこの舞台として用意されたその中央に、ルドルフが悠然と佇んでいた。
ユリウスは再びマリアの名を呼んだ。
「マリア」
「…なんでしょう」
「そんな風に振舞わなくたって、君は愛される。愛してくれる人が現れる」
「………うそよ!」
「本当だよ。少なくとも私は感情を露わにした今の君の方が好きだ。見ておいで。私は絶対勝つから。私が勝ったらあいつにちゃんと言うんだよ。ゴテゴテしたドレスよりも、腹の足しになるようなもんを寄越せってね」
マリアの涙で張り付いた髪を耳にかけてやり、ユリウスはウインク一つ残して颯爽と中庭に降りたったのだった。
言葉もなく見送るマリアの隣でダリアがぼそりと呟いた。
「いい所、全部姉さんに持ってかれた…」
中庭のテーブルは片付けられ、十分な広さを持ったそこに少年と青年が向かい合って立っていた。
ユリウス達が押し問答をしている間にルドルフが観衆に向かって何か言い含めてあったのだろう。
決闘という雰囲気はなく、観衆は微笑ましい者を見守るような長閑さがあった。
しっかり準備したユリウスとは違い、ルドルフはだらだらした飾りのついた服のまま。
黄色い声をあげるお嬢さん達の集団に手を振ってみせる余裕すらある。
まさに見世物。まさに決闘ごっこ。
観衆が望んでいるのは麗しい容姿を持つ2人が青春の汗を流す事であり、最後は歳上のルドルフが勝つことであった。
マリアとダリアは成り行きから隣に並んで立っていた。
どちらも緊張でおかしくなりそうな顔色をしている。
今にも2人の間に飛び出して行きそうなマリアに、ダリアが声をかける。
「マリアちゃん、姉さん…じゃなかった。弟を心配してくれてありがとう。でも止めても無駄だよ」
「ダリア様…?」
「あの人、勝つつもりだ」
まさか、とマリアは思う。
体格も経験も違うのに。
でも、もしユリウスが勝てば、それはどんなに胸がすくことだろう。
自ら泥沼にハマっていく自分に、救いの光が投げかけられるような。
マリアの視線を一身に受けるユリウスの瞳には、どんな逆境にも抗おうとする炎が宿っていた。
勝負は瞬く間に決着がついた。
なぜならば姉、ことユリウスが初手目潰しという、騎士道にあるまじき技でルドルフを叩きのめしたからである。