第2話:減点の外にあるもの——評価できない感情
ペン先が紙の上を滑る。
規則正しい音が、静かな執務室に心地よく響いていた。乱れのない筆跡、一定の速度——いつも通り、そう言えるはずだった。
だが、ほんのわずかにだけ線が揺れる。
(……無関係ですわね)
思考に混じったノイズは即座に切り捨てる。判断に不要な要素を残しておく理由はない。
——本質を見誤る。
あの言葉が、ふと脳裏をよぎる。
(……あり得ませんわ)
否定は一瞬だった。
ヴィオレッタ・フォン・アストレイアの判断は、常に合理に基づく。誤りなど——あるはずがない。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「入りなさい」
現れたのはミレイユだった。丁寧な一礼、無駄のない所作。普段であれば減点の余地はない。
——だが。
(……一つ、提出が遅い。二つ、報告の順序が最適ではない。三つ、処理能力に対して負荷が過剰)
視線を向けた瞬間、評価は終わっている。
だが同時に違和感も残る。
(この三点が同時に発生するのは不自然)
書類を受け取り、目を通す。——正確だ。誤りはない。
だからこそ分かる。
(問題は質ではなく、時間)
「ミレイユ」
「……はい」
「現在、いくつ業務を抱えていますの?」
一瞬、彼女の指先が強張った。
「……五件、でございます」
「本来は三件ですわね」
「……はい」
視線が落ちる。理解している顔。叱責を待つ沈黙。
だがヴィオレッタの思考は別の方向へ進んでいた。
(この者は自発的に限界を超える選択をしない)
ならば——
(外部要因)
「誰の指示ですの?」
空気が止まる。
ミレイユは言葉を詰まらせた。否定も肯定もしない。
(庇っていますわね)
結論は出た。
評価を更新する。無能ではない。むしろ——過剰に他者を優先する性質。欠点であり、同時に運用次第では有用。
ヴィオレッタはペンを置いた。
「業務配分を変更します。本日より三件に戻し、残りは再配分します」
「ですが、それでは——」
「問題ありません」
言葉を遮る。迷いはない。
「能力を発揮できない状態は、組織として損失です」
それだけで十分だった。
だが、もう一つだけ加える。
「それと。“責任を被る”行為は評価しません」
ミレイユの肩がわずかに震える。
「美徳ではなく、非効率です」
静かに言い切る。
このままではいずれ潰れる。それは損失だ。
「……申し訳、ございません」
再び頭が下がる。
だが先ほどとは違い、ほんのわずかに力が戻っている。
(理解はしている)
「下がりなさい」
「……はい」
扉が閉まる直前、かすかな声が落ちた。
「……ありがとうございます」
微かだが、確かに届いた。
再び静寂。
ペンを取る。だが、先ほどの一言が思考に残る。
(……評価基準には含まれませんわね)
感情は不確定要素。指標として扱うには不適切。
——それでも。
紙の上に、わずかな歪みが生じる。
(……排除しきれませんわね)
説明のつかない要素が思考の隅に残る。それを“保留”として扱うしかないことに、ほんのわずかな違和感を覚えながら。
その“保留”という判断自体が、これまでの自分には存在しなかったものであることに。
まだ、気づいていなかった。
数日後——入学を控えた頃。
屋敷には外部からの訪問者が増えていた。仕立て屋、学園関係者、そして出入りの商人。彼らの会話の端々に、自分の名が混ざる。
(……もう流れていますのね)
縁談の一件だけではない。使用人の件も、形を変えて広がっている。
貴族社会において、情報は閉じない。流れ、歪み、そして評価へと変わる。
(……都合の良いことですわね)
評価は操作できる。少なくとも方向性は。
ヴィオレッタは窓の外へ視線を向けた。
入学は目前。
——観察される場へ、自ら赴くことになる。
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