第33話 「お芝居の主人公じゃない」
雲の隙間から満月が顔を出し、思い出の広場を照らしている。
銀の月光が降り注ぐ中、ニースは、ただ目の前の怪異に注意を向けていた。
ぬばたまの黒い羽毛。見上げるほどの巨躯。鉤爪は竜もかくやだ。
だが、いまは翼を広げて、ぐったりと石畳の上に伏している。
大鴉が呼吸をしているのを確認し、ニースは、ほっと安堵した。
おそるおそる近づき、倒れた大鴉の頭のすぐそばに身をかがめる。
少女は、そっと声をかけた。
「スピネ。聞こえる、スピネ? わたしだよ」
会いに来て、どうするのか。皆目見当もつかない。
ややあって、彼女はそっと両手を伸ばし、大鴉の頭をかき抱いた。
頬をすりよせて、ささやく。
「スピネ、帰ろう。一緒に帰ろうよ。このままじゃ、また街歩きなんてできない」
そう声をかけながら、少女の目にじわと涙が浮かんだ。
(このままじゃ、またわたしが駄々をこねてるみたい)
使い魔とあるじの絆といっても、ニースには何も感じられなかった。
自分が銃士だからだろうか。
魔法使いになれるわけがない、出来損ない扱いだからか。
自分なりに頑張ってきたすべてを否定されるようで、少女は唇をかんだ。
腰の留めてある銃に、ふと注意が向く。倉庫から持ち出してきた単装銃は、普段使いのものではない。より威力のある小銃弾を装填して、撃てる代物だ。
いまなら――抜いて、狙いを定め、引き金を引くだけ。
一秒もあれば、じゅうぶんすぎる。
怪異に、安らかなとどめを刺すのならば――
「――ちがう、ちがう! 何を考えてるんだ、わたし!」
頭によぎった考えを振り払おうと、ニースがぶんぶんとかぶりを振った矢先。
大鴉が、むくりと身体を起こした。巨躯がうごめき、隆起する。
「わ、わわわわ!」
たまらずニースが大鴉にしがみつく。
懐に少女を入れたまま、それはいらだたしげに鳴き声をあげた。
「ァアアア! ァアアアア!」
ニースの耳朶に、大音声がびりびりと飛び込んできた。
くらくらしながらも、少女はしかし、懸命に怪異の羽毛を掴んだ。
ずし、ずし、と鉤爪を踏み鳴らし、怪異が翼をばさばさと広げる。
回る視界と、身体に伝わる衝撃から、ニースは察した。
(……このまま飛ばれでもしたら、やばい!)
自分が落っこちておしまいか、大鴉がこの場から逃げ出しておしまいだ。
その前に、なんとかしてスピネを元に戻さなくてはいけない。
(でも、本当に。いったいどうすればいいの?)
問いが堂々巡りしかけた時、大鴉がずしんずしんと跳ねた。
少女の身体も翻弄され、右へ左へと揺さぶられる。
不意に、ニースの右手が羽毛の隙間に滑り込んだ。
指先に触れた感触は、動物のあたたかい肉感ではない。
それは、奔流だった。
ぬめるような感触の奔流が、羽毛のすぐ下で渦巻いている。
思わず悲鳴をあげて手を離そうとして、しかし。
少女はまなじりをつりあげると、逆に手を押し込んだ。
ずぶり、と手が呑まれていく。手のひらと腕に触れる感触は、間違いなく泥水の奔流だった。こんなところにそんなものがあるはずないのに、確かに感じられる。
『魔力の大河は、異なる世界にある』『この世ならぬ力、つまり魔力よ』
もしも、これがスピネの語ってくれた「魔力の河」なのだとしたら。
奔流の向こうにこそ、彼女がいるのではないだろうか。
大鴉の姿はかりそめのもので、魔力のただ中から引っ張り上げられたら――
「――よしッ」
覚悟を決めて、ニースは自分の右手を深く差し込んだ。
そのまま、肩口までずぶりと飲み込まれる。
奔流の勢いはすさまじく、そして身を切るように冷たい。
たちまちに腕を苦痛が襲う中、ニースはぎりと歯をかみしめながら、探った。
ふと、指にやわらかな感触をおぼえた。再度、差し込んだ腕を動かして、懸命に探る。自分の手が――間違いなく、少女らしき手をとった。
うごめく巨躯に必死に左手でしがみつきつつ、右手に力をこめる。ややあって、ぬるりとした感触と共に、自分の手が濁流を抜けた。
握った手が、見覚えのあるたおやかな白い手を握っている。
(やった!)
快哉を叫んだのもつかの間、ニースの顔はひきつった。
抜き出したはずの白い手。濁流がまるで汗のように噴き、集まり、流れをなし、渦巻き猛っているのだ。引き上げたはずの手も、たちまちに自ら噴き出す濁流に呑まれて、再び怪異の中へと消えていく。
『やはり、魔に食われておるか』
いつかのスピネの言葉を思い出す。
これが、そうなのか。魔の大河に呑まれているわけではない。
みずからが魔の奔流を生み出し、とらわれてしまっているのか。
大鴉が、大きく身を震わせた。鳴きわめきながら、地団太を踏みならす。
たまらず、不安定な体勢のニースは吹き飛ばされ、広場の石畳の上を転がった。あちこちを打ち、痛みが全身を襲う。口の中を切って、血の味が広がった。
(けれども、これぐらい、なんだって言うのよ)
ニースには、まざまざと見えるようだった。
濁流の中、わずかな手がかりにすがって、途方にくれるスピネの姿が。
(わたしはお芝居の主人公じゃない。女神さまの助けなんてあるわけない)
「だからって――あきらめてやるもんか」
少女はうめきながら、立ち上がった。
口中にたまった血をぺっと吐き出し、大鴉をにらみつける。
あの姿は、スピネであって、スピネじゃない。おそらくは魔の力が、この世界に現れる時の影みたいなものだろう。
ニースは、腰の留め具に手をやった。
単装銃を抜いて、構える。狙いは、あやまたず――
銃声が、轟く。
放たれた銃弾は、大鴉の嘴をかすめた。
怪異がのけぞり、体勢を崩す。
その隙を狙って、少女は地面を蹴った。
突進する勢い、体当たりする勢いで、懐へ飛び込む。
(救い上げるんじゃない。引っ張り上げるんじゃない)
少女は大きく息を吸い、衝撃に備えた。
(わたしが、スピネのいる場所まで、たどり着くんだ)
奔流の先。この世ならぬ常世。魔の世界。
思い描け。思い描け。思い描け。
そこに至るのだと、そこへ行けるのだと。
なぜならもう、門は開いた状態なのだから。
少女が、黒い羽毛へと身を投じる。
瞳を琥珀にきらめかせて、まっすぐに前を向き、一切のひるみを見せない顔で。
ごぽん、という底知れない音と共に、その姿は怪異に溶けて消えた。




