第17話 「なっさけないことを!」
異形が、両の手を頭上にかかげた。
顔だった部位が、天を仰ぎ、言葉を発する。うなり声でありながら、抑揚があり、幾度も幾度も訴えかけるような音。
(――詠唱!?)
ニースは、すかさず裂いたスカートを手で払った。
あらわになった脚、そこに巻いた革の留め具から、単装銃を抜き放つ。
異形に狙いをつけようとして、しかし――
「――何をもたついておる!」
相方が叱咤する声に、銃士は歯噛みする。
数瞬のためらいが、彼女の手から好機をこぼれさせてしまっていた。
見る見るまに、異形の周囲へ周囲の空気が集まっていく。風が逆巻き、渦をなし、吹き上がる。突風は、天井の小窓を突き破るや、屋根そのものへ狂暴に吹きつけた。
軽い破裂音と共に、大穴が開き、砕けた木材がばらばらと落ちる。穴からのぞく空は、いまにも降り出しそうな曇天。その空から、風が吹き込んでくる――否、呼び込んでいる。大気から風を集めた異形は、手を突き出した。
そのかざした先に、身構えたまま動けないニースがいる。
異形が咆哮する。風が吹き荒れる。
頬を裂かんとする鋭さに、思わず銃士は目をつむった。
しかし。
羽ばたきの音が、彼女の前に割って入った。再びの叱咤が響く。
「ほうけるでない!」
はっとして、ニースは目を開けた。
荒れ狂う風に黒髪を乱しつつ、凛として立つ魔女の背が、目の前にあった。両の腕を胸の前で交差させ、指はそれぞれ何かの印を結んでいる。突風が、見えざる巨大な鉄槌となって、幾度も打ちつけてくる。そのたびに、鴉羽根が大きく羽ばたいた。
魔女の前に、淡く光る傘のような光が広がっている。
その光が防壁となって、襲いかかる超常の風を防いでいるのだ。
「スピネ……」
「まったく。あべこべではないか」
柳眉をひそめつつ、魔女は吐き捨てた。
「あるじを護るが、しもべの役目であろう」
「ご、ごめん――」
「詫び言はよい。なぜ撃たぬ」
再三の叱咤に、ニースは銃を構え直す。
だが、引き金にかけた指は、かぶりをふるがごとく震えた。
「――撃てない」
「たわけておるのかや!?」
「あの人は、犠牲者だもの」
空いた方の手で、銃士は自身の顔の半分を覆った。
「会いたい人がいて。待っている人も、きっといる」
少女が歯の隙間から絞り出した声は、うめきまじりだった。
男が涙していた花嫁は、あるいは彼の家族だったのではないか。
「それが分かったいま、わたしの銃で、あの人は撃てないよ」
ニースの目が潤む。
涙のにじんだ声は、がんぜない子供のそれだった。
「なっさけないことを! それでもわれの猟犬か!」
スピネが嘆いた、その時。
吹き荒れていた風が、突如やんだ。
異形が、からだをかきむしりつつ、身もだえしている。刺青が明滅するたびに、次々と角度を変えて異形の表皮を走っていく。
逆巻く風がまとわりつき、呼び出したはずの術者を切り裂き始めた。苦悶の叫びが発せられ、刺青が檻のごとく、その身を包んでいく。
「――やはり、魔に食われておるか」
「食わ、れる?」
「当然の末路よな」
軽く息をはずませつつ、魔女が自らの手の甲で首筋をぬぐってみせる。
そこで、ニースはようやく気付いた。
普段、にくらしいほど澄まし顔のスピネが、べったりと汗をかいているのを。
「過ぎた魔の力は、身を亡ぼす。あの刺青が、魔の力をもたらす楔であるなら――いずれ魂と肉体をうがつは、当然であろう」
「……助からない、ってこと?」
「助からぬ。助けられぬ。あのありさまを見ても、どう救えると?」
魔女は、頭の鴉羽根をばさばさとせわしなくさせつつ、言葉を続けた。
「われの魔法ではあれの風を防ぐことはできる。力の壁を押しつけ、すりつぶすこともできよう。だが、よりすみやかな最期を与えられるものが、そなたの内にある」
スピネはニースの右手に目をやった。
銃を固く握りしめたままの、その手を。
「合理の産物ゆえ、銃は魔に効く」
「……でも」
「あやまたず撃ち抜けば、苦しませることはなかろう」
「……だって」
「撃つべき場所は示すゆえ、そこを狙うがよい」
「……スピネ」
「仕方がなかろう! 苦しまずに死なせることなど、われにはできぬ!」
魔女は、はげしくかぶりを振りながら、言った。
鴉の羽根が大きく広がり、何度も何度もばたつかせている。
「あのようなおぞましい外道の産物、やすらかに死なせてやれる光景が浮かべられるか? できぬ。思い描くことなど、できぬ。いとわしさで塵になるまで押しつぶすことしか、頭に浮かばぬ!」
ニースは、噴水のほとりで聞かされた言葉を思い出していた。
『思い描いたことを、この世に結実させる』
『なんでもはできぬ。思い描けることだけ』
彼女が、得意げに講義した魔法の本質。
『そう、できるわけがない――と、思う』
『ゆえに、魔法はそうそう誰にも使えぬ』
――できるわけがない。
そう思ったら、もう魔法はそのように使えない。
だから、そう。スピネには、もうできないのだ。
いまこの時、いまこの場では。
ニースの目の前で、魔女は床にへたり込んだ。
「そなたの銃でしか、慈悲ある最期は与えられぬ……」
彼女の肩が小さく震えていた。
うつむいた顔、そのすぐ下の床に、しずくが数滴落ちる。
銃士は、右手をかかげ、銃を構えた。
うごめく異形に、狙いを付ける。
異形の顔だった部位が、こちらを向いた。みずからの風の刃で切り裂かれ、流れ出た血が眼に溜まってから、頬を伝う。その形相に――結婚式を見守っていた、さびしそうな顔が重なる。
ぎり、と歯ぎしりをしてから、ニースは声を絞り出した。
「スピネ。ひとつ、お願い」
「……なにかや」
「わたしだけじゃ、引き金をひけない。だから、お願い」
息を吐きつつ、ニースは懇願した。
「わたしに命じて。使い魔なら、命じて従えられる。そうでしょ」
「……そなた――」
魔女が、再び立ち上がる。その体を、わなわなと震わせながら。
「――そんなおねだり顔が見たくて、猟犬としたのではない!」
スピネの鴉羽根が、ひときわ大きく羽ばたいてみせる。振り返って叫んだ顔は、頬に涙の跡を引きながらも、まなざしは苛烈だった。
彼女の顔に、彼女の声に、彼女の目に。
ニースが、息を呑んだ刹那。
銃声が――大きくひとつ、その場に轟いた。




