混ざりきらないカフェオレ色
夏葉はあまり寝ない。夜の十一時くらいに寝て、朝四時に起きる生活を、もう四年くらい続けている。
しぃんと静まり返った台所に立って、つるつるの群青色の小粒のタイルを撫でる。色褪せた箇所の水縹色になった所を見て、これは中一の頃はちゃんと群青だったななんて思い出す。
蛇口からゆっくりと粒になる水滴や、それがタイルに落ちて奏でる水音。褪せたタイル。こちこちとやかましい大きな柱時計(小さい頃に中に入り込んでよく夏葉は怒られた)。時間の流れが目に見える箇所が、夏葉のお気に入りの場所であることは間違いなかった。
「寒いな」
と朝特有の掠れた声で呟くと、朝食と、妹に持たせる分の弁当を作り始める。
もうずっと、四年も続けているから夏葉の料理は堂に入ったもので、ゆるゆると作っていても五時を少し過ぎたあたりで終わる。弁当作りをはじめたての頃は悪戦苦闘をしたものだなとひっそり笑って夏葉はやかんに火をかけた。
夏葉の祖母の頃からある(らしい)南部鉄器のやかん。やかんと呼んでいるけれど鉄瓶と呼ぶらしい。用途は変わらないからと、夏葉は祖母にたしなめられる度に言い訳をしてきた。
しゅんしゅんと小さな声をあげながら南部鉄器のやかんはうなる。
その間にインスタントコーヒーを適当にマグカップに入れる。それとクリーミングパウダーと砂糖をどっさり。
マグカップは夏葉が一等気に入っているもので、元素記号が散りばめられている。特に化学が好きだったわけではないのだけれど、両親から一番最後に貰ったものがこのマグカップというだけで、夏葉は四年間毎日使っている。少し、プリントが剥げてきてはいるけれど使わない理由にはならなかった。
やかんから雑にお湯を注ぐとカップの中でインスタントコーヒーとクリーミングパウダーが程よく溶け合う。少し溶けきらずに残っていても、きちんとした亜麻色にならなくても、夏葉は気にせずに口に含む。橋本夏葉という女は、詰まるところそういう女であった。
「おねえちゃん、おはよう」
夏葉とよく似た掠れた声で、妹の依織が二階から降りてくる。眠そうにはしているけれど、きちんとセーラー服を纏っている。
依織は夏葉と四つ離れている。
四つも離れている妹とおなじ学校に通うのはなんだかむず痒いなと夏葉は少し思っていた。中高大一貫の女子校。依織の着ているセーラー服は夏葉のお下がりで、現行のものとは少しデザインが違う。もっとも、夏葉のものも母親のお下がりであったので夏葉も、依織もさして気にはしていなかった。濃紺のつるつるとした生地に白くて細いラインが三本。白いタイをゆるやかに纏めて着る。現行のものはタイが濃紺なので、白いタイをしているものは多分、母親の代からのお下がりの子だけだ。
ちなみに高等部からはブレザーへ移行する。
「おはよう。今日は朝練?」
「そう」
そう答える依織の部活動はバスケットボール部だ。だからなのか依織は入学してから腰まであった髪の毛をばっさりと切った。
髪の毛を切ったのは夏葉だった。
ばつり、ばつり、と腰ほどまである長い髪を寸断していく、その作業は妹のこれまでを否定するようで、心が張り裂けそうで、夏葉は妹に悟られないようにひっそりと泣いた。妹の長いまっすぐな髪は両親の自慢であったから。
中学一年生、自分がその歳に何があったのかを思い返すと今でも声が詰まる。妹が髪の毛を切ったくらいの年齢の頃から、夏葉は家事全般を担い始めた。
まるで取り返しのつかない失敗をした人を見るような憐れんだ目で周りの人間から見られていたことを、夏葉は忘れることが出来ない。
「お姉ちゃん」
「なに?」
いや、なんでもないや。そう言って依織は目を伏せた。
こげ茶の、木目が美しい一枚板の天板のダイニングテーブルの上に二人の影が伸びた。影絵みたいな影はきっと紺を煮詰めると出てくるような青みがかった黒で、夏葉にはタイルみたいに光って見えた。ぼんやりとした暗いブルー。妹のセーラーカラーみたいだという至極どうでもいい感想がうすらぼんやりと夏葉の頭を占有した。それはまるで梅雨時の曇り空のような光が差し込まない厚い雲みたいだった。
「朝練、遅れちゃうから行くね。お姉ちゃんもそろそろ用意しなよ。カフェラテ、ぬるいでしょ。もう」
そう言ってカタンと椅子を揺らして依織が立つ。バスケットボールの練習で転んだと言っていた膝の青タンがこんにちはと挨拶してくる。
この際青タンでいいから妹を今日も一日よろしくお願いします、と夏葉は心の中で祈る。
「──お姉ちゃん」
「なに?」
「たまには…たまにはゆっくり寝なよ。朝ごはんも、お弁当も、無くたってどうにかなるんだから」
「どうしたの、急に」
「見てらんないからだよ。馬鹿。嫌いだよそんなお姉ちゃんなんか」
じゃあね! と言い捨てると依織はバタンと玄関のドアを乱暴に閉めて行ってしまった。成長の痕跡を見せてくれたようで少しの寂しさと一緒に夏葉は笑う。
「ねえ、お父さんお母さん、大きくなったでしょ」
居間の仏壇に語りかけながら、夏葉はぬるくなったカフェオレを啜った。カップの底に溜まったクリーミングパウダーの主張がいやに激しくて不快だった。いつものことではあったけれど、何故だか今日は不愉快だと思ったのだ。




