「心の器があふれるとき―11」
【前回のラストシーン】
「・・・勇さんには勇さんの人生があるじゃん。――あなたの人生に、俺と渚は要らないでしょう?」
突然涙を見せた歩は・・・
「え……」
言いたいことはわかったが、それがいきなり結婚とは、なんとも飛躍しすぎて勇介は戸惑う。じっと顔を見ていると、歩は悲鳴のような声で言った。
「もう、嫌なんだよ! そういうの!」
歩の瞳から湧きだすように、大粒の涙が後から後から溢れ出す。
「父さんと母さんが死んでから、ずっと姉ちゃんと二人だった。でも、北詰さんが家族になってくれて、それで渚が生まれて……
なのに、せっかく家族になれたのに、姉ちゃんと北詰さんが……。誰も居なくなっちゃって、俺だけが、ひとりで……。だから……」
蒼白な顔の歩は、ワナワナと唇を震わせている。暑くもないのに、彼の額に汗が吹き出してきた。
「あーちゃん? 大丈夫か?」
歩は涙を流しながら視線をせわしなく彷徨わせている。何だか危険な感じがして、近寄りがたい空気が充満する。彼は苦しげな表情をしたかと思うと、自分の胸を鷲掴みにしながら言葉を吐いた。
「どうせ、おれはひとりになるんだから。だから、……どうせ失うなら、最初から優しくされたりしないほうがいいんだ! そのほうが、よっぽども親切なんだよ!」
歩は胸を押さえたかと思うと、懸命に浅い呼吸を繰り返した。様子がおかしい。
「あーちゃん、ちょっとしゃべらないで!」
歩はガクガクと頷いて、震える手で自分のポケットからハンカチを取り出した。自身の鼻と口を覆って深呼吸を繰り返している。慣れた仕草だった。
――過呼吸の発作。
おそらく何度も経験しているのだろう。
この時ようやくよそよそしかった彼の態度の意味を知った。何度も失ったからこそ、怖いのだ。家族が居なくなって、ひとりになるのを、彼は誰よりも恐れている。いつも笑顔で元気にしていたから、全く気付かなかった。家族としても、医師としても自分は失格だ。
人は悲しい事や辛い事があると、混乱をきたすことがある。通常はそれをうまくやり過ごしたり、紛らわせたりしながら、自分の心に折り合いをつけて生きてゆく。でも、それは決して消えてしまうわけではない。心の器の奥底に溜まってゆく。そして、その器が一杯になり溢れ出した時、人の心は……。
(あーちゃんの心は、壊れかけていたんだ)
それは脆いガラスの器。無数のヒビが入っていて中身は常にいっぱいいっぱいの状態で、ちょっと衝撃を与えれば中身はこぼれて器も粉々になる、そんな危険な心の器。
たとえ勇介が結婚したとしても、一度結んだ縁はなくなるわけじゃない。普通はそう思うだろう。けれど、歩は違う。どんな理由であれ、今のこの状態が変わることを、彼は何より恐れている。あまりにも多くの不幸な体験が、歩の中に深い傷を作っている。それは、今この瞬間にもドクドクと血を流しているのだ。思い返せば、渚を慈しむ裏に、彼の深い孤独が見えるようだった。両親を失ったときのまま、永遠に十二歳の少年が、膝を抱えて泣いている。
歩は病に侵されている。
残念ながらオペでは治らない、いくら縫ってもすぐに開いて、とめどない血を流し続ける心の病。
治療法はただ一つ。
嗚咽を漏らす歩を、勇介は力いっぱい抱きしめた。彼の華奢な体が腕の中で暴れる。
「やめろよ!」
歩はありったけの力で勇介の胸を押しやろうとする。
「あーちゃん、話を聞いてくれ」
勇介は歩を抱きしめたままなんとか落ち着かせようと声をかける。歩はますます暴れた。
「聞きたくない。俺がバカだった。優しくされて有頂天になって。三人で家族だなんてさ。むりじゃん。だって、勇さんには勇さんの家族ができるんだから! 俺や渚なんて、すぐに居場所がなくなるんだよ。そうでしょ?」
二人を見捨てるなんて、そんなことあるはずがないのに。
歩の言葉は傷の深さが言わせるもの。そうとわかっていても、さすがにこちらも傷つく。
「あーちゃん……」
つい、抱きしめる腕が緩んでしまう。歩は勇介の胸を強く押して距離をとった。
「出て行くよ」
涙でぬれた目を向け、歩はきっぱりと言う。
「ダメだ!」
勇介はとっさに声を荒げていた。歩の目が大きく見開かれる。その目に怒りが湧き上がってくると、歩の顔が紅潮した。
「なんでだよ! 俺の勝手だ。ここにいるのも、出て行くのも。そうだろ?」
顎を上げ、挑むように見上げてくる歩を、勇介はじっと見下ろす。
(出ていく? 二人がこの家からいなくなる……?)
がらんとした味気のないリビングと、渚を抱いて離れてゆく歩の頼りなげな背中、そんなイメージが勇介の脳裏に浮かんだ。
「ダメだ! 出ていくなんて、ダメだ!」
今、歩をひとりにしてはいけない。いや、ひとりにすることなんかできない。彼を、彼と渚を失うことなど、勇介自身が耐えられないのだと気づく。疲れて帰宅したとき、二人の笑顔にどれだけ癒されているか。この当たり前の日常を、どれほど愛しく思っているのか。
――どうすれば歩に伝えられるのだろう。
歩は胸をあえがせて荒い呼吸をしながらも、勇介をまっすぐに見て言い放つ。
「勇さんなんて、大嫌いだ!」
――大嫌い
言った瞬間に、彼の双眸からまた大粒の涙が転がり落ちた。
「そっか、キライか……」
勇介はため息混じりにつぶやいた。
――どうすれば伝わる?
今、歩の瞳には力がこもっていた。
でも……
怒りに震えながらもポロポロと涙をこぼしている歩は、まるで傷ついた野良猫のようだ。大嫌いと言っておきながら……
(じゃあ、どうしてキミはそんなに悲しい顔をするの?)
――わかっている。
歩の考えることが、今はもう、手に取るようにわかる。
「また、ボクのためにそうやって自分に嘘をつくんだね。あーちゃんの悪いところだ」
歩は肩で息をしながら、呆然とした顔で勇介を見ている。
勇介は一歩踏み出した。歩が一歩下がる。
「あーちゃんがキライでも、ボクはキミと渚が大好きだ。キミたち二人が必要なんだ。これからもずっと。……だって、大事な家族だから」
「勇さん……」
勇介が手を伸ばす。歩はもう下がらなかった。そのままそっと抱き寄せる。歩がいつも渚にするように、トントンと背中を叩きつづけていると、やがて発作もおさまり、彼は大人しくなった。
「あーちゃんは心配性だね。ボクの結婚なんて遥か彼方の先の話だよ」
「嘘だ。だって、勇さんのお母さんはそれを望んでる」
「あ……」
ベッドの下に隠した大量の見合い写真。歩はそれも見たのだ。
(なんてこった……)
勇介は小さく息を吐くと言った。
「母は母だよ。あっちが勝手にやってることだ。とにかく、ボクは今すぐ結婚する気はないし、結婚したいと思う相手もいない。これは嘘じゃない」
いいながら、ちらりと黒崎の顔が脳裏をよぎった。
「でも……」と歩はくぐもった声で鼻を鳴らす。
歩がそんな事を考えていたなんて、思ってもみなかったが、言われてみれば自分は適齢期だ。歩の心配も頷ける。だが、先のことは誰にもわからないのだ。
ただひとつだけ、たった今、勇介自身にもハッキリしたことがある。それは、今を壊したくないという思いは同じだ、ということ。
くしゃくしゃの茶髪を撫でながら、自分の心に問いかける。
――この少年の心が癒えるまで、支えてやれるのか?
治療法はただ一つ。愛情をもって見守る事。そばに居て、不安を取り除いてやる事。それだけ。
――期限は無い。
もしかしたら、一生かかるかもしれない。彼がもし治らなければ、この先自分自身のことに構っている余裕もなくなるかもしれない。
それでも……?
不安げに震える歩の背中をもう一度ぎゅっと抱き寄せると、答えが自然と口をついて出た。
「ボクはどこへも行かないよ」
歩はぐったりと勇介の胸に顔をうずめている。
(この子の全部を受け止めてあげなくては。たとえ、一生かかったとしても……)
「同情……ですか?」
胸元で歩が呟いた。
――同情? そうなのか?
自分でもわからない。でも……。
勇介は大きく息を吸い込むと、背中にまわしていた手を歩の両肩に置いた。彼の目を真っ直ぐに見つめながら力をこめて言う。
「いつもそばに居る。それが、家族でしょう?」
驚いたような顔で歩が見上げている。
躊躇っている場合ではない。キチンと言葉にしないと、とりかえしがつかなくなる。家族の意味を教えてくれたこの少年に、今、伝えなくてはならない。義務でもなく責任でもなく、ただそばに居るということの大切さを。
勇介は歩の目をじっと見ながら言った。
「約束するよ。あーちゃんが高校を卒業して、大学生になって、社会人になって……
ちゃんとした大人になるまで、キミがボクを必要としなくなるまで、キミの為にボクはずっとそばに居るから」
カーテンの隙間からほの白い月が見ていた。
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リアルファミリー2、お読みくださいましてありがとうございました。
作者からのお知らせがございますので、次話をご参照ください。




