「心の器があふれるとき―10」
執筆遅れがちで番外編はさんだりして申し訳ないです。
本編にもどります。
夕方暗くなった頃に歩が帰って来た。彼はリビングに入るなり悲鳴のような声を上げた。
「なんでこんなに散らかしてるんだよ~!」
その声で渚が起き出してきて大泣きし、家の中は一気にパニック状態になった。
「信じられない! 俺、ちゃんと片付けて行ったよな? なんで? おもちゃとか、取り込んだ洗濯物とか、このお菓子も! バラ撒いたのって、誰?」
歩は目を吊り上げて勇介を睨み付けた。
「すまん……あーちゃん」
穴があったら入りたい心境だ。自慢じゃないが勇介は片付けが大の苦手だった。目の前がスッキリしていればそれで良いというタイプなので、デスクやクローゼットの中はいつもギュウギュウのぐちゃぐちゃなのだ。
狂ったように片付けを始めた歩は、殺気立っていてとても近寄れない。
(そういえば、オレの部屋も、なんかいつもきれいになってるよな)
歩が気をつかって、ついでに掃除してくれているのだろうと思っていたが、なんか違うかもと思い直す。もしかしたら彼は汚くしていられない性分なのかもしれない。だから、物置のような勇介の部屋が気に入らないのだろう。
だがしかし! 彼がここまで潔癖だとは。
勇介はぐずる渚を抱えてルーフバルコニーに避難した。
すっかり暗くなった空には綺麗な月が出ている。広めのバルコニーに、渚がおもちゃの自動車でずるずると移動する音が響いた。
遥か彼方でサイレンが鳴っている。この音は救急車ではなく消防車だ。S大病院に居たころは、サイレンの音なんて気にした事もなかった。
かつての職場の事を思い出すと、必然的に献金疑惑が頭の中を支配してくる。
(SK製薬が……いや、父さんが本当にそんなことをしたのだろうか?)
父が死んだ今、本人の口からソレを聞く事は出来ない。ため息を吐いた時、そっと背中に触れられた。
振り向くといつの間にか渚を抱いた歩が居た。暗くて彼の表情は見えなかったが、どうやら家の中を散らかした事は許してくれたみたいだ。
「悪かったね。学校行ってきて疲れてるのに、掃除させちゃって」
「ううん、そんなのは、もういいです。それより……」
歩は俯いて、躊躇いがちに口を開いた。
「勇さん、今日、誰か来た?」
「え……?」
「ティーカップ、二つあったから」
「ああ、職場の人がね……それがなにか?」
歩は「いえ、なんでもないです」とかぶりを振り、渚を抱えて部屋に入った。リビングの灯りでチラリと見えた横顔は、なんとなく険しい。よそよそしい彼の言葉遣いにも、何だか胸の中がざわりとした。
夕食の席でも今日の歩は言葉少なだった。久しぶりに学校に行って疲れたのだと本人は言うが、そうは見えない。何か悩みがありそうに思えて、勇介は渚の世話を焼く彼をじっと目で追っていた。
渚を寝かしつけてリビングに戻ってきた歩に、おずおずと声を掛けてみる。
「学校、楽しい?」
歩は「は?」というように首をかしげた。イジメにあっているのかどうか気になって訊いてみたいのだが、どういう風に話題を持ってゆけばよいのかわからない。いつもなら、彼の方から何かしら反応してくれるのだが、今日はやっぱりどこか元気が無かった。
『人の事を聞き出すには、まず自分から』と、どこかの誰かが言っていた事を思い出して、勇介は自分の事を話した。
「ボクも新しい職場に移ってまだ日が浅いから、なかなか溶け込めなくて。あーちゃんはどうかな、と思ってさ。友達、できた?」
歩は勇介の座っているソファの背もたれに腰を乗せるようにして後ろ向きに寄りかかった。わざとそうしているのかわからないが、背中合わせのような状態では、ホンネを語る彼の瞳は見えない。
「俺は……友達なんて別に。面倒臭いっつーか。人とつるんでる時間、無ぇし」
ああ、そうか……
今の歩は主婦と学生の両立のようなものだ。彼の性格からして、家事の手抜きは出来ないタイプだから、削るとすれば人付き合いの時間なのだろう。
「渚の事は、ボクも出来る限り面倒見るからさ。家事だって、少しは……」
そう言いかけて先ほどの惨憺たる光景を思い出した。たった一日子守りをしただけで、家の中をひっ散らかしてしまうのだから、いかにも言葉に説得力が無い。黙り込んでいると歩が口を開いた。
「勇さんは、いいんだよ。今のままで。元々俺ら、居候なんだし……。勇さんは勇さんの付き合いがあるわけだから、そっちを優先してください」
『居候』とは何事かと、腹が立ってきた。『家族』だという認識は、自分だけが抱いていたのかと、いきなり突き放された感じがする。まるで一瞬にして厚い壁が出来てしまったようだった。すぐ近くに居るのに、歩の体温が感じられない。
「家族……なんだからさ、二人で面倒を見るのが当然でしょう?」
何とか歩の顔を見ようと、のけ反るようにして首をめぐらせた。歩は難しい顔をしていたかと思うと、突然歪んだような笑みを向けた。
「本当に、そう思ってるの?」
「え……?」
瞳を見開いた勇介に、歩は今まで一度も見せたことがない冷ややかな目を向けて言った。
「家族になれるって、勇さん、本気で思ってるの? 他人なのに。勇さんだって、心のどこかで無理だと思ってるんでしょう?」
勇介は言葉を失って、ただ歩の顔を見ているだけだった。綺麗な彼の顔は人形のようだ。
「何言ってるんだよ、あーちゃん。そりゃ、今まで別々の暮らしをしていたんだから、そうすんなりと上手くいくとは思わないけど、お互い少しずつでも分かり合えれば、そのうちきっと……」
「もう、そういうの、やめようよ」
歩は言うなり、和室のほうへ行こうとする。勇介はとっさに彼の手首をつかんだ。
「どういう意味?」
歩は表情の無い顔でつかまれた手首を見下ろすと言った。
「バカみたい。……俺らのことなんか、そんなふうに気にしなくてもいいのに。……てゆうか、ウザいし」
――おいおい。
勇介は歩の言葉にあっけに取られていた。まったく歩らしくない。
「おれ、もう寝るわ」
そう言って、歩は勇介につかまれた手首を振りほどこうとする。なんでこんな発言をするのかわからないが、このまま行かせるわけにはいかないと感じた。
「学校のこととか、干渉されるのが嫌だったのかな? それなら謝るよ」
歩の手首を強く握ったまま、勇介はソファから立ち上がった。歩がビクっとしたように体を硬くしたのがわかった。勇介はなるべく穏やかな声で言う。
「ちょっと、気になったもんだから。ほら、あーちゃんの学校って進学校でしょ? あまり休むと勉強についていけなくなったら大変だしさ。そうなると進路にも響くだろ?」
歩は口を引き結んでうつむいた。勇介はつかんでいた手を離すと、ソファを回り込んで歩の正面に立った。
「せっかくいい高校に入ったのに、万が一留年でもしちゃったらとか、杏子さんだってきっと、同じように心配するかなって……」
歩はハッとしたような表情になったかと思うと、いきなり両手で顔を覆った。
「あ……ごめん」
とっさに杏子の名前を出してしまったことを勇介は後悔した。
歩は顔を覆ったまま動かない。どうしてよいのかわからずにいると、くぐもった声が両手の隙間からこぼれた。
「お願いだからやめて。優しくするのは、もう。お願い……」
囁くように呟いた彼の言葉に涙が混ざり始めて、ギョッとした。歩は顔を隠したまま呻くように言葉を吐く。
「もう構わないで。今は良くても、どうせ俺たち、この先、本当の家族になんか、なれないんだから」
顔を上げた歩は涙でぐしょぐしょだった。一緒に暮らし始めて以来、初めて見せる涙。
「どうして? なんで、そんなこと言うの?」
本当に、心からそう思っているのかどうか知りたくて、ウソのつけない彼の瞳を覗き込む。歩はイヤイヤするように目を伏せて言った。
「……この先、勇さんには勇さんの家族が出来るんだ。そうなったとき、俺と渚はきっと邪魔になる」
勇介はポカンとしたまま突っ立っていた。
(どういうことだ?)
歩は鼻をすすりながら言う。
「今日、女の人、来てたよね? 恋人なんでしょ?」
「違うよ」
勇介は慌てて否定する。歩は自分の口元に指先をもっていった。
「ココ、口紅ついてた」
「え?」
勇介はハッとして口元を拭う。
「もうついて無いよ。でもね、そんなのはいいんだ。別に、勇さんが自宅で女性と何をしてようと、俺はそんなのかまわない。でもね……」
言いながら、ポロリと歩の目から涙が転がり落ちる。
「でもね、俺、一緒に暮らすとき、そんなのゼンゼン考えてなかったけど、でも……勇さんには勇さんの人生があるじゃん。勇さんが結婚したら、あなたの人生に、俺と渚は要らないでしょう?」




