包丁
疲れ果ててボロアパートに帰る。
エアコンを入れて服を脱ぎ散らかし、このまま寝てしまいたいが、そうもいかない。
メシを食わないと人間は死んでしまう……らしい。
スーパーで適当に買い漁ってきたものを確認し……今日も鍋でいいか。
狭苦しいキッチンに立ち、白菜・豆腐・白滝・肉にキノコを少々と、自慢ではないが手際よく切り分けていく。
目分量の味調整にはよく失敗するが、包丁を使う作業をしくじったことはない。
ほぼ身一つで上京したオレの唯一の荷物がこの包丁だ。
小さい頃に料理人だった祖父に目利きしてもらい買ってもらったもの。毎日の手入れと月に一度の研ぎを欠かしたことはない。
リズムよく食材を切りながら、ふと口から出そうになった言葉をあわてて飲み込む。
こんなことを言えば、どんな親しい友人でも曖昧な笑顔でスルーするだろう。
だがオレは、この包丁に自我があって、オレを見守っていると強く感じている。
そして、そのことに気づいていることを、この包丁も気づいているだろうと思っている。
だが、どちらかが少しでもそのことを表に出せば、この関係は消えてしまうだろう。
少しの間違いで砕けて消える儚い絆。
煮えきらないラブコメみたいな話だが、別に最後に結ばれてハッピーエンドになる必要はない。
このまま、この穏やかな関係が長く続いていけば……
そこでオレは意識を取り戻した。
モノノケは眠らない。だから夢も見ない。はずなのだが。
人間態、つまり人間の姿をとっているオレは、口元を歪めて苦笑した。
人間になった、それもご主人様になった夢とは、多少は皮肉が効いている。
オレは包丁のモノノケだったもの。今はもうモノノケではない。
では、自分とはなんなのか……と考えかけて止める。
壊れたモノ。それで充分だ。
なぜオレがモノノケでなくなったかと言えば、簡単な話だ。
ご主人様が急病で死んだから。
職場で倒れて救急車で運ばれ、そのまま帰らぬ人となった。
同じ棺に入れられて一緒に焼いてもらえれば、モノノケとしても本望なのだろう。
だがオレはご主人様の遺体すら見れなかった。
そのまま自我が薄れていき、元の道具やペットに戻るのが普通のモノノケなのだろう。
だがオレは違った。
ご主人様のモノノケであることを捨て、他のモノノケを襲い、モノノケである自我を維持するために必要なモノノケ粒子を奪って生きながらえた。
理由なんて大したことじゃない。
オレはご主人様が死んだと聞かされただけだ。
実際に見たわけじゃない。
だから、オレという自我さえ維持していれば、いつかまたご主人様と再開できるかもしれない。
オレの凶行は一瞬で世界中のモノノケに広がり、ブロックや監視の対象となった。
頼れるものはなにひとつない状態で、勘と嗅覚だけでモノノケを探し、モノノケ粒子を奪う。
人間の組織の使いがオレを捉えようとしたこともあった。
しかし、もうオレは半分くらい他のモノノケと違っているのだろう。あいつらのトラップはほとんど効果を示さず、エージェントらしき冴えないおっさんを刺した。別にとどめは刺さなかったから、運がよければ生きているだろう。
そして、そろそろ限界も近づいてきた今日、極上の獲物を見つけた。
他のモノノケのご主人様だ。
「モノノケはご主人様が大好きだ」それは間違いじゃない。ただ、自分のご主人様が大好きというだけだ。
他のモノノケと友好的な関係を維持したいなら、他人のご主人様も尊重はする。しかし今のオレにはエサでしかない。
だが、オレにはできなかった。
他のモノノケを躊躇なく殺してきたオレが、オレと同じモノノケモドキを作ることだけは躊躇した。
そして千載一遇のチャンスを逃し、ビルの谷間に背を預けて、あんな夢を見ていた。
もうそろそろ動けない。
日があける頃には、ここには使い古された包丁が一本転がっているだろう。
もう一度、ご主人様の顔が見たかった。
せめて、あんな夢みたいな来世が……
そして、今日もオレは疲れ果ててボロアパートに帰る。
帰りの電車でなにか夢を見た気がしたが、忘れてしまった。
服を脱ぎ散らかしてエアコンを入れる。
このまま眠ってしまうわけにもいかない。人間は飯を食わねば生きていけない。
スーパーで適当に買い込んだ食材を見る。今夜も鍋でいいだろう。
急いで準備しよう。オレがキッチンに立つのを、長い付き合いの包丁が待っているから。




